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2005/12/31

「沖縄と奄美は、日本ではない」

shimatabi
沖縄・奄美《島旅》紀行

斎藤 潤

光文社
2005/07/15
756円


 沖縄と奄美は、日本ではない。少なくとも、文化的には、
 ぼくは、そう確信している――――。

この惹句を目にしてぼくはどきっとした。

「沖縄と奄美は、日本ではない」。
これは30年前の言辞のようで、はっとしたのだ。
でも『沖縄・奄美《島旅》紀行』は高度経済成長期の本ではない。
2005年の作品だ。

つまり、「日本ではない」はどのように可能なのか、
関心をそそられるのだ。というより、現在、
この言辞は成り立たないと思ってきたから、
目を引いたのだと思う。

同じ表現を借りるなら、ぼくは90年代に、

「沖縄と奄美は、日本とは少し違う」

と定式化したことがあった。

都市化が進み標準語が共有され、もはや日本(大和)に
明快な差異を持つ場所ではなくなっていること、
ただ、残る差異は欠如としてあるのではなく過剰としてあること。
その二つの意味を込めた。

そこから見たとき、21世紀になってのこのフレーズに
びっくりしたのである。

そして、「沖縄」だけではなく「沖縄と奄美」としたところに、
作者への信頼感が増し、この本を買うことになった。

作者の斉藤潤は、何を「日本ではない」ことの根拠にしているのか。
それが、『沖縄・奄美《島旅》紀行』の入口だ。

斉藤の「確信」はどこから来ているのか。
実は、そのことはすぐに語られている。

 そして、感謝もしている。
 南島が、日本国の一部であることを。日本文化と異なる
 もう一つの文化が、同じ国内に根づいているとは、
 なんと素晴らしいことだろう。

ぼくの認識とは立ち位置が違うということらしい。
ぼくは、南島が日本とは異なることを起点にして、
それがさして違いのないものになったと捉えたのに対して、
斉藤は、南島は日本のなかにあるものという前提から出発して、
そこから違いを見出している。

その違い。

同一性の前提から出発して見出された差異性であるがゆえに、
その違いが次第に拡大していくかのようだ。

この立ち位置は、けれど、単に視点の違い
ということだけではないように思える。

「少し違う」とぼくは90年代に考えたけれど、
斉藤が書く場所はそれからさらに進んで、
21世紀に捉えた「違う」なのだ。

いま、南島はどう捉えられているのか。
たとえば、それは与那国島の古老の言葉がよく言い表している。

 「昔は嫌な島でしたよ。那覇へ行った時、恥ずかしくて
 与那国島出身だって言えなかったもの。こんな小さな島
 に生まれたことがとても悲しくてね~。でも、今は楽し
 いですよ。一番いい島。いろんな人が、向こうから与那
 国を訪ねてきてくれるしね」

この感じ方の変化に、島が「欠如」と見做された段階から
「過剰」と見做される段階への転移が明快に表現されている。

島はかつて秘匿すべきことだったのに、
いまやそれは「一番いい島」なのだ。

欠如としての南島から過剰としての南島へ。
それが、かつての「違う」とは180度、
位相を異にする変化だ。

この変化は、貧困と圧制の象徴にもなりうるサトウキビ畑を
「シュガーロード」(小浜島)と呼び代えることにも現われているだろう。

ここはどういう世界なのか。

大神島で斉藤はこのように書く。

  港までもどり、標高七五メートルある島の最高所遠見台
 を目指した。集落はこぎれいだったが、ひた寄せる緑が人
 為をじわじわ圧倒し自然に戻りつつある印象を受ける。
  集落のはずれから遠見台にかけては、すっかり整備され
 ていた。急斜面には階段や木道がとりつけられて、悪天候
 でも滑られずに登れそう。歩きやすくはなったけれど、大
 地の感触を確かめられないのが、島から隔離されているよ
 うでさびしい。
  山頂の聖なる岩は登頂禁止が明示されたかわりに、脇に
 八畳ほどの展望台ができていた。

島はまず、「すっかり整備」されることで都市化される。
都市化されることで、島と都市の住民は、共通の感性基盤を
持てるようになった。

しかしそれ以前の光景を知る斉藤は、「大地の感触を確かめ
られないのが、島から隔離されているようでさびしい」とも思う。
ここにいう「隔離」の感覚は、「すっかり整備」が必然的にもたらす
ものの内実を指している。

では、島は「すっかり整備」され尽くしているのかといえば、
そうではなく、欠如が過剰へ転化するシンボルである
「山頂の聖なる岩」は、「登頂禁止が明示」される。

それで島の聖性は辛うじて保たれる。
しかし、それはその「脇に八畳ほどの展望台」を抱え、
いつ侵犯されても可笑しくないもろい構造のなかに
置かれることになるのだ。

都市化に歯止めをかけることが、
南島の「違う」を保つ根拠になっているようにみえる。

そして歯止めを保つことが「違う」倫理にもなっている。
だから、このガイドでは、「祭りと神事」への接し方が
アドバイスとして載るのである。

しかし、実をいえば自然も黙ってはいない。
「集落はこぎれいだったが、ひた寄せる緑が
人為をじわじわ圧倒し自然に戻りつつある印象を受ける」と、
自然も揺り戻しをかけるのである。

自然はまだダイナミズムを失っていないのだ。

さて、奄美・沖縄の25の島を紹介するこの本自体は、
「欠如」と「過剰」の転換を象徴するように明るい。

そしてこの明るさは、過剰な南島を描くに無くてはならないトーンだ。

ぼくたちは、21世紀の南島の姿をここから受け取っているのだ。

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2005/12/30

『「死の棘」日記』は柔らかい (3)

島尾敏雄の『「死の棘」日記』は、
本文もさることながら、冒頭に附された「刊行に寄せて」も痛切だ。

そこには、夫人の文章が載せられている。

  春夏秋冬の季節の移ろいと共に、歳月も移ろい重なり、
 夫島尾敏雄が黄泉の国へ、忽然と旅立ちましてから、早
 十八年の年月が重なりました。
  夫に先立たれ残された妻の私は、惜別後は心にはもと
 より、身には常に裾長の黒い喪服を纏っております。そ
 して朝に夕べに祭壇の前に正座して、「御許へ召しませ」
 と、祈りを捧げる度に涙を流す悲愁の身でありながらも、
 尚未亡人として此の現し世に、その後十八年も生き存え
 て参りました。夫亡き後も存えるとは、空しき生に思え
 てなりません。

  然れど此の度新潮社より、『「死の棘」日記』刊行の
 運びとなり、私は生きて在ればこその感懐を深く致しま
 した。執筆者島尾敏雄亡き後に、生前書き残したものが
 刊行されるという幸福を、亡夫の霊と共に享受できます
 ことを、此の上なく幸せに思います。

長い引用だけれど、これを読むと文体の格調に唸ってしまう。
実際、ミホ夫人の文章は、島尾敏雄夫人と言わずに、
島尾ミホの作品といって掛け値ないと思えるのだ。

島尾ミホの『海辺の生と死』を読んだ時、
与論島出身者として誤解を怖れずに言えば、
奄美にこのような知性が育ったことが
信じられない思いだった。

島尾敏雄との絆が育てた表現力もあるのだろうが、
島尾敏雄とミホの出会いが、運命的なものを抱えてい
と思わずにいられない。


ところで、島尾敏雄が先立ったことを嘆くミホ夫人が、
どうして日記の公開に及んだのか。

ぼくたちは必然的に関心を抱いてしまう。
当然、日記に先立つ「刊行に寄せて」は、そのことに触れている。

  亡夫が生前、毎晩机に向って、己と対峙しつつ書き綴
 った心懐の秘め事の証ともいえる「日記」を、遺された
 妻が公開致しますことに、私は思案にくれて決め兼ねま
 した。殊に私達家族にとりましての、最も苦渋に満ちた
 日夜の記述の公開には、かなりの強い逡巡が先立ちまし
 た。

  然し島尾文学の解明と御理解に幾分なりとも役立ち、
 又島尾文学に心をお寄せ下さる方々への報恩にもなりま
 すならばと、夫婦共々の羞恥は忍んでも発表に思いを定
 めました。

自然なこととして逡巡があったことが書かれている。
この手のことは、関係者が泉下の人となって初めて
実現されるはずだから。

けれどミホ夫人は出版に頷く。
夫の文学の解明、理解への寄与と、
夫の文学に心を寄せる方への報恩。
それが羞恥を忍んでも公開する理由だという。

ぼくは同様のことを、島尾と同じく没後18年経って、
故人のアンソロジーが、やはり夫人の手によって
世に送り出されたケースを見たことがある。

ジョン・レノン・アンソロジーだ。

このときも、ある意味で早すぎるアンソロジーが
実現したのは、ジョンにとって最も身近だった
ヨーコが頷いたという背景があった。

ヨーコは、自分の知っているプライベートなジョンの魅力を
勇気をもってぼくたちに差し出してくれたのだ。

ミホとヨーコは、彼女たちしか知らないプライベートを
差し出すその勇気において共通している。

もうひとつ共通しているのは、
二人ともが故人の名を借りずとも、
自立しうる作家の力量を持っていることだ。
二人は、あるいは、夫人としてというより、
芸術家として作品を差し出したのかもしれない。

ともあれ、『「死の棘」日記』は、島尾ミホの
ギフトとしてぼくたちの前に差し出されていることを
知る必要があると思う。

それなくして、ぼくたちは
島尾敏雄の日記を読むことは叶わないのだから。

その贈り物を届ける精神によっても、
『「死の棘」日記』の表情はやわらかい。


本の帯には、丁寧な著書の紹介がある。
そこを見て愕然としたのは、島尾夫妻の娘である
マヤさんが平成14年に亡くなっていることだ。

マヤさんが亡くなってしまった。

ぼくはその人を知らない。
けれど、『「死の棘」日記』でも、夫妻の修羅場を
「カテイノジジョウ」と読んで、
そうならないことを願う女の子として登場してくる。

その痛ましさを思うとき、
亡くなったという事実はぼくたちにも重く届けられる。


ぼくは作品から受け取るやわらかな調べを大切に
生きてゆこうと思う。

そして『「死の棘」日記』のおかげで、
ぼくはやっと『死の棘』を読み通せる気がしている。

shinotogenikki
「死の棘」日記
島尾敏雄

新潮社
2005/04/01
2,310円

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2005/12/29

『「死の棘」日記』は柔らかい (2)

人を救うとはその人と徹底的に付き合うことだ、
というのは、詩人鮎川信夫の言葉だったろうか。

島尾敏雄の『「死の棘」日記』は、
その言葉を思い出させる。

人を救うとはどういうことなのか。
神ではないぼくたちにできるのは、徹底的に付き合うことだ。
でも、そこにこそ人の力がある、というような。

『「死の棘」日記』は、
精神を病んだ妻を看病する敏雄の日記なのだけれど、
病者の妻と健常者の敏雄の物語かといえば、
必ずしもそうではない。

徹底的に付き合うということはそうではないことを
この日記は教えてくれる。

妻が発作を起こし、献身的にその病態に敏雄が付き合う
というのは、この本のメインの表情だ。

けれど、それだけではなく、もうひとつ、
もう自分のような者は生きていけないとばかりに、
敏雄が自殺を企てようとする。

すると、妻ははっと正気になり、敏雄の暴走を止め、
気持ちを鎮めようと躍起になるのだ。

この瞬間を捉えれば、病態を演じるのは敏雄で、
健常者を演じるのが妻ミホなのである。

 四月三日 雨
  昨夜、今朝方ミホ頗ル調子ヨカッタガ(コノママ
 奄美大島ニ行ケソウ)朝食の直前印鑑証明ノ件デ反
 応起リ、怒リハジメ、ボクハ鉄路ノ方ニ逃ゲ、ミホ
 追イカケテ来テ、一サワギスル。終日メランコリー、
 躁状態。夕方誓文書イテオサマル。夕食ミホつくる。
 カツ丼鈴木君ニモッテ行ク不在。夜小林君来ル。奥
 サンノ出産ハマダ、十一時過ぎ帰ル。ミホやさしい
 声で島謡などうたう。ミホ腕の中で眠りにつく。

まだ、回復の兆しも見当たらない状況のときの日記だけれど、
ここにも、二人の関係の密接さを感じることができる。
ミホの発作(ここでは、「反応」と呼ばれている)と、
呼応するような敏雄のリアクション。

どちらが病態でどちらが健常者なのか、
明瞭な線が引けるわけではない。
それは相互変換している。
それだけ徹底的に付き合っているのだ。

この日の日記は、島尾がほっとしている個所で、
表記はカタカナからひらがなに変わっていると思う。

「ミホ腕の中で眠りにつく」。

島尾はこのとき、ミホがいとおしかったに違いない。

なぜミホが病態に陥ったのか、解説している日もある。

 ミホは周囲の人々から大切にされ、成長期に競争、
 嫉妬ということを知らずに育ち、憎悪の訓練がな
 かった、珍しい性格で、今それを知り、許すか
 (?愛するか)憎むかどちらかに決めねばならぬ
 ジレンマと混乱に陥っている。

ここに無垢なミホ像が浮かび上がるのだが、
現在のミホ夫人も、「発病するまでストレスを
感じたことはなく、幼子のようでした」と、
島尾の解説に呼応している。

無垢な生い立ちが病態を生んだ。
けれど、この無垢な魂であるがゆえ、
島尾は付き合い切ることができたのかもしれない。

こうした繰り返しを経た後、
発作が小康を得て、妻の故郷の奄美大島への移住が
実現するのだけれど、ここに治癒があるとしたら、
それはどのように訪れるものかが伝わってくる。

それは、互いが互いの鏡となること。
言い換えれば、徹底的に付き合うこと、
ではないだろうか。

少なくとも、敏雄が徹底して妻ミホの発作に付き合った結果、
小康が訪れていることは間違いないと思える。

真剣に向き合った者同士の関係の凄さを知らされる。
というより、関係とは本来、このようなものかもしれないと、
思わせてくれる。

ミホ夫人は日経新聞の記事中でこう語る。

 お互いに死ぬことを覚悟して以来、私と島尾の愛は
 強く深い。島尾は自分がそばにいないとミホはダメ
 になると思っていたのでしょう。

羨ましい言葉だと思う。

これも、『「死の棘」日記』から届けられるやわらかさの感触だ。

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2005/12/27

『「死の棘」日記』は柔らかい (1)

島尾敏雄の『「死の棘」日記』は柔らかい。

実は発行の三月にこの本を買ったのだけれど、
読めずに置いておいた。

『死の棘』も途中までしか読んでいない。
小栗康平監督の映画『死の棘』は観た。

森田芳光監督の『家族ゲーム』のように、
松坂慶子のミホと岸辺一徳の敏雄が並列に座る場面が
強烈に印象に残っている。

要するに、ぼくの視力はこの作品に向き合うまでに強くは
ないだろうと、そう思っていたのだ。

ところが日経新聞が十二月に
『「死の棘」日記』を特集してくれた。

そして意外にも夫婦の修羅場ではなく、
友人との交流をテーマに取り上げられていたのだ。

それなら、ぼくも読めるかもしれないと
紐解いてみたのだけれど、
日経新聞の記事は当っていた。

ことが起こってひと月も経たない二十七日。
日中、くんずほつれつの二人。けれど。

 くらくなってから屋根の瓦替え、二畳のネダが
 折れているのを直して貰い、又玄関の戸の
 戸車を直してもらう。ミホも元気(亡霊を追い
 出せ! という二人の合言葉)夕食はウィス
 キーの小瓶を青木さんとのみ、すき焼、その
 最中、雨の中吉本隆明と奥島健男が訪ねて
 来た。ミホ喜ぶ、生まれ変わったおとうさん、
 それでユウェ(祝)のつもり(青木さんとのすき
 焼きも祝のつもり)だといって買出しに出かける。

不謹慎な連想かもしれないけれど、
この場面はビートルズ末期、仲たがいを嘆いた
ジョージ・ハリスンがビリー・プレストンを招いて、
みんなが行儀よくなったエピソードを思い起こさせる。

外の風が酸素を運んでくれる。そういう状況だ。
こうした友情の場面は、日経新聞の紹介の通り、
作品にほっとひと息、風穴を開けるようにやってくる。

引用した奥野、吉本との友情は特に印象深い。
感銘を受けるのはこういう場面だ。

 奥野が吉本に今一番興味のある作家は? 武田泰淳?
 ときくと吉本、ぼくを指さす。

戦後の作家として吉本は島尾敏雄を高く評価していた。
その彼が島尾を指さす。島尾はこれだけしか記していない。
しかし、これがどれだけ島尾を励ましたか、
想像に難くないと思う。

二人は、いくたびかの対談の機会を経たあと、
『「死の棘」日記』の日々から十数年を経て、
このときのことを話題にした「平和の中の主戦場」という、
これもまた印象的な対談を行なうのだ。

批評家は冷たく作家を評価し、作家は冷たく批評家を見放す。
そういう関係ではないのだということを知る。

それはこういう場面にも伺い知れる。

 二人(奥野と吉本-引用者注)が太宰治、
 中野重治、島尾という風に。吉本、島尾サンハ
 批評等ニ怒ラクチャイケナイ、怒ッテ下サイ。

例によって日記の島尾はそれ以上のことを書いていない。
どうにもこうにもならない一日の終わりに、括弧書きで
注釈のように「吉本隆明より手紙」と書いた日もある。

批評家が作家を支える。
そうした場面のあることを島尾の日記は教えてくれる。

妻ミホの退院を待って奄美大島に帰る十月十七日に、
横浜港にそうそうたる顔ぶれの文学者が揃う場面もある。
けれど、そこにしても島尾は淡々と固有名を記すのみだ。

日経新聞の記事によれば、「島尾さんは謙虚で懐が深かった。
人を思想では色分けしない。だから誰からも愛された」と
吉本のコメントを記している。

闘い終わった後の愛情ある言葉。
こういう評価は、批評を全作家に対し、
ひとしなみに行なっているときには言えない事柄だろう。

『「死の棘」日記』は、こんな思いやりのあるエピソードを
届けてくれるあたたかい作品だ。

shinotogenikki
「死の棘」日記
島尾敏雄

新潮社
2005/04/01
2,310円

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2005/12/23

トゥンガモーキャー

思えば、トゥンガモーキャーは一番、
楽しみなイベントだった。

子どもの頃、旧の八月十五日の夜は徘徊した。
ギャング集団よろしく兄弟同士、友達同士で
満月に照らされた夜道を歩く。

お目当ては、人の家の庭先。

庭先のお餅。

そのお餅をどうするのかといえば、
盗む、のである。

間違えないでほしい。窃盗、ではない。

いや現象的にはそうに違いないのだけれど、
それは公認された盗みだった。

それはそれは楽しかった。

この夜ばかりは、島を徘徊できて、
しかも、お餅や団子をとって食べられるのである。
楽しくないはずがなかった。

隣のヤカがいたずらで置いた泥ダンゴを
弟が間違えて口にしたこともあった。

与論の満月は明るく、真昼間のように、
砂糖きびやガジュマルの影もよくみえた。

ぼくは小学生だったから、そうは遠出できなかった。
それに、年を重ねるごとに、
お供えの餅を取るという意味合いは薄れて、
お菓子が置いてあって、しかも盗むというより、
行くと歓迎されたりして、スリルが無くなっていった。

いまは、トゥンガモーキャー、やっていますか?

『ヨロン今昔』の2号には、このイベントが、
「トゥンガ・ムッチャー」として紹介されている。
ぼくのいたアガサ(茶花)では、トゥンガモーキャーと
言ったはずだけど、トゥンガ・ムッチャーとも言うと、
初めて知った。トゥンガ・ヌスドゥとも言うらしい。

やれやれ。広い与論である。

トゥンガモーキャーのわくわく、永遠なれ。
と、願います。

konzyaku2 

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2005/12/14

ポエティック・アイランド

与論島ほど詩的な場所を知らない。
そう思ってきました。

どうしてこう何十年も変らず、
島を思えば、胸が締めつけられるように、
いてもたってもいられない気持ちになるのか。

詩的な島。

今にも沈みそうな島影。
船で与論を臨むと目に入るのが、波間に浮かぶ島の姿。
いにしえに「カイフタ」と呼ばれ、
現代には「木の葉みたいな」と歌われた、
今にも海に消え入りそうなはかなげな姿。

小さい頃、台風で大雨が降ると、
このまま島が沈むんじゃないかと心配でした。

島と海が織りなす色鮮やかなグラデーション。
飛行機の窓からの眺めれば、
小さな島とそれを囲むリーフの二重の境界がつくる、
島とラグーンと外海の鮮やかな色彩の推移に言葉を失います。

満点の銀河とともに泳ぐ島。
無数の星空を仰ぎ見ます。すると、与論から流れ星や無数の星を
眺めるというのではなく、与論島もその星たちの一員になって
宇宙を飛んでいるような感覚に襲われます。

海から陸へのゆるやかな流れ。
標高100mにも満たない与論島に山はない。
海からゆけば紺碧の海からリーフを越えるとエメラルドグリーン
に変わり、次第に透明度を増して白砂にあがるでしょう。
陸をゆけば、植物や樹木の緑、赤土、という段階があるだけで
大きな変化はやってこない。

海から陸まで、ゆるやかにつながっていて、明確な区切りがない。
そこにはっきりとした境界線は引けない。
どこからが浜辺? どこからが海? どこからが与論? 

畢竟、与論とは境界を消す力の謂い。

yoronsea





[ photo (c)Yuria Suzuki ]

ある時間だけ浮かび上がる砂浜。
百合が浜は干潮時だけに浮かび上がる真っ白なアイランド。
与論のなかの与論島。

琉球の身体性。
言葉と音楽として表出される身体性は琉球。
それぞれは孤立した島だけれど、
ゆるやかで濃密なつながりが確かに存在している。

触れることがそのまま優しさであるような関係。
声をかけるということがそのまま優しさであること。
それを素直に受け取ってもらえると思えること。
互いがそう信じあっていること。
そんな理想的な人と人の関係を見せてくれたこと。

そして、距離。
東京から与論へ行くたびに、お金持ちを錯覚する旅費。
場所によっては海外旅行より高く、地図で見ても遠い。
でも、本当に遠いのは時間です。
時間と空間の距離。

この距離をまたぎ越せるのは?
風と黒潮と愛情と念。

竜宮を思わせる珊瑚礁。
いまは再生させるべきものになっているけれど。
いつかきっと。

オオゴマダラのたゆたい。
オオゴマダラが舞えば、時間はゆるやかに流れ、
神々しい気配を生みます。

ガジュマルのたたずまい。
神を宿したような堂々たる姿。
守護神の名にふさわしい。

すべてを溶解する南島の熱気。
ひざしは、「日差し」ではなく「陽射し」。
陽射しのもと、すべては溶解する。
何事も何者も溶かしてしまうあのむせるような熱気。

ああ、こう列記してみても、
謎が解けた気がしないのです。

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2005/12/11

ハミゴー遊びは歌垣の

『ヨロン今昔』第2号の特集は「ハミゴー遊び」。

ハミゴー遊びは、
与論における歌垣の総本山とみなせばいいと思います。
与論では、戦前まで古代の歌垣が健在でした。

与論の歌垣は月夜の浜辺が舞台なのは言うまでもないけれど、
その中心といえば、
ハミゴーが格好の舞台を提供していたのでしょう。

そこが特別なのは、ハミゴーの下方に、
西向棚(イームッケエダナ)という南の海に大口を開いた
洞窟があるからです。

その洞窟は、狭い道をたどり、細い穴をくぐって
ようやく辿りつける場所です。

ぼくも20年前に行ったことがあります。
帰りがけ、白砂の丘陵をのぼったとき、
白砂に溶けいるように、どくろが佇んでいたのを覚えています。
そんなことがあっても、それが不自然ではない雰囲気でした。

その容易ならざる往路と沖縄を臨む洞窟が、
異空間の雰囲気を漂わせて、
歌垣の世界にすぐに入っていけただろうと想像できます。

おまけに舞台はそこだけではなく、
さらに干潮時だけ入ることができる低い場所に
もうひとつの洞窟が控えているのです。

湖水のように海水を湛えて、
透明な水面がきらきら輝く神秘的な空間。
しかも、そこは干潮時にしかいることができない。
隔絶された場所でロマンティックな気分に浸るには
絶好の場所だったことでしょう。

ハミゴーはそんな三重の空間を擁した歌垣の舞台でした。


『ヨロン今昔』は、戦後、復活の試みはあったけれど、
それが実現することもなかった史実も伝えています。

ここは苦笑するところ。

それはそうでしょう。
若い男女の風俗は、世につれうつろうもの。
それは、その後、ダンスホールやディスコ、クラブに
拡散していっているでしょう。

今は昔のハミゴー遊びです。

ただ、いまもハミゴーとその洞窟は、
その場にいけば、歌垣の記憶の雰囲気を感じさせてくれるに
違いありません。

古代の時間にすぐに遡行できる。
それは与論島の尽きない魅力のひとつに思えます。

hamigo





□ ハミゴー 1985年

iimukkeedana





□ 西向棚(いーむっけえだな) 1985年

cave





□もうひとつの洞窟 1985年

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2005/12/03

供利の一本松

待ちに待った『ヨロン今昔』が、3号まで届きました。
さっそく創刊号から開きました。

創刊号。開けて目に飛び込んできたのは、供利の一本松です。

供利の一本松!

たった一本だけど、
何を頼にともせずにすっくと立っている姿がりりしく、
遠目からもよく見えた松の木。懐かしい。

その、供利の一本松が紹介されていました。

町指定の文化財になっていて、
与論島最古の自生松と言われていること、
琉球赤松であること、
船舶が近海を航行する際の目印にもなり、
そして一本松を舞台にした神話もあることを、
知ることができました。

やはり、タダモノではなかったんですね。

神話は、島産みではなく、
人間と神の交信を描いたもので、
神話の時間尺度からみれば、比較的新しいものだと言えますが、
それにしても、こうした物語を残す力のある樹木だったことに、
改めて感心します。

いま、あの堂々たる一本松を見ることは叶わなくなりました。
けれど、そこには供利の一本松とは違って、
カラーの写真で、一本松の子の写真が添えられています。

供利の一本松は生き続けていることを知って、
嬉しくなりました。

『ヨロン今昔』さん、ありがとう。

yoronkonzyaku01

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2005/12/01

とおとぅがなし

与論でいちばん大切な言葉は、
文句なく「とおとぅがなし」だと思う。
多くの人がそう言うように。

とおとぅがなし。

ありがとうございます、を意味する言葉。
ありがとう、なら、「とおとぅ」と言う。

「とおとぅ、どうか」(ありがとう、ほんとに)は、
頻繁に交わされる言葉だ。


「とおとぅ」は、「とうとぶ」から来て、
「かなし」は、敬愛を示す。

だから、与論の「ありがとうございます」、「ありがとう」は、
祈りに淵源を持っているのだ。

先祖に手を合わせるとき、「あー、とおとぅがなし」と
祝詞は始まるから、祈りと感謝とはいつの間にか結びつくような
身体感覚がぼくにもある。


今年、百五歳で他界したぱーぱー(祖母)は、
朝に夕に「とおとぅがなし」と祈ることを絶やさない方だった。

彼女はどうして、そんなことができたのだろう。
どうして、親戚や他人の幸せを祈ることに
徹することができたのだろう。

それを実現するのに彼女の抱えた諦念の大きさを思うと、
自分には到底できないとがっかりする。

でも、気を取り直そう。
できることはあるはずだから。

たとえば、ちょっとした不安がきざすとき、
与論や大切な人との距離の隔たりが辛いとき、
そこに常の自分ではない囚われがやってくる。

そんなとき、祈るように「とおとぅがなし」と口にする。
とにかく口にする。

そこには、感謝の念も宿っているのだから。

ぼくは信心深い人間ではないから、
それで感謝の情に包まれる、
というわけにはいかないのだけれど、
でも、囚われが、和らぐ気はしてくる。

「とおとぅがなし」を軸に据えていく。
すると、自他へギフトする気持ちと隣り合わせになれる。
そういうことだろうか。

ぱーぱー(祖母)もそう考えていたろうか。
それはわからない。でも彼女の言動は、
他者へのギフトに満ちていたのは確かだ。

ぱーぱー(祖母)は、名を「カナ」と言った。
ぼくはいつも、そこに字を当てるとしたら「愛」だなと
思うくらいだった。


ぼくにはぱーぱー(祖母)の偉大さを引き継ぐ器量はないけれど、
「とおとぅがなし」を軸に据えるのを、
彼女から受け取ることはできる。
そう思うと、少し励まされる。

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