「沖縄と奄美は、日本ではない」
斎藤 潤
光文社
2005/07/15
756円
沖縄と奄美は、日本ではない。少なくとも、文化的には、
ぼくは、そう確信している――――。
この惹句を目にしてぼくはどきっとした。
「沖縄と奄美は、日本ではない」。
これは30年前の言辞のようで、はっとしたのだ。
でも『沖縄・奄美《島旅》紀行』は高度経済成長期の本ではない。
2005年の作品だ。
つまり、「日本ではない」はどのように可能なのか、
関心をそそられるのだ。というより、現在、
この言辞は成り立たないと思ってきたから、
目を引いたのだと思う。
同じ表現を借りるなら、ぼくは90年代に、
「沖縄と奄美は、日本とは少し違う」
と定式化したことがあった。
都市化が進み標準語が共有され、もはや日本(大和)に
明快な差異を持つ場所ではなくなっていること、
ただ、残る差異は欠如としてあるのではなく過剰としてあること。
その二つの意味を込めた。
そこから見たとき、21世紀になってのこのフレーズに
びっくりしたのである。
そして、「沖縄」だけではなく「沖縄と奄美」としたところに、
作者への信頼感が増し、この本を買うことになった。
作者の斉藤潤は、何を「日本ではない」ことの根拠にしているのか。
それが、『沖縄・奄美《島旅》紀行』の入口だ。
斉藤の「確信」はどこから来ているのか。
実は、そのことはすぐに語られている。
そして、感謝もしている。
南島が、日本国の一部であることを。日本文化と異なる
もう一つの文化が、同じ国内に根づいているとは、
なんと素晴らしいことだろう。
ぼくの認識とは立ち位置が違うということらしい。
ぼくは、南島が日本とは異なることを起点にして、
それがさして違いのないものになったと捉えたのに対して、
斉藤は、南島は日本のなかにあるものという前提から出発して、
そこから違いを見出している。
その違い。
同一性の前提から出発して見出された差異性であるがゆえに、
その違いが次第に拡大していくかのようだ。
この立ち位置は、けれど、単に視点の違い
ということだけではないように思える。
「少し違う」とぼくは90年代に考えたけれど、
斉藤が書く場所はそれからさらに進んで、
21世紀に捉えた「違う」なのだ。
いま、南島はどう捉えられているのか。
たとえば、それは与那国島の古老の言葉がよく言い表している。
「昔は嫌な島でしたよ。那覇へ行った時、恥ずかしくて
与那国島出身だって言えなかったもの。こんな小さな島
に生まれたことがとても悲しくてね~。でも、今は楽し
いですよ。一番いい島。いろんな人が、向こうから与那
国を訪ねてきてくれるしね」
この感じ方の変化に、島が「欠如」と見做された段階から
「過剰」と見做される段階への転移が明快に表現されている。
島はかつて秘匿すべきことだったのに、
いまやそれは「一番いい島」なのだ。
欠如としての南島から過剰としての南島へ。
それが、かつての「違う」とは180度、
位相を異にする変化だ。
この変化は、貧困と圧制の象徴にもなりうるサトウキビ畑を
「シュガーロード」(小浜島)と呼び代えることにも現われているだろう。
ここはどういう世界なのか。
大神島で斉藤はこのように書く。
港までもどり、標高七五メートルある島の最高所遠見台
を目指した。集落はこぎれいだったが、ひた寄せる緑が人
為をじわじわ圧倒し自然に戻りつつある印象を受ける。
集落のはずれから遠見台にかけては、すっかり整備され
ていた。急斜面には階段や木道がとりつけられて、悪天候
でも滑られずに登れそう。歩きやすくはなったけれど、大
地の感触を確かめられないのが、島から隔離されているよ
うでさびしい。
山頂の聖なる岩は登頂禁止が明示されたかわりに、脇に
八畳ほどの展望台ができていた。
島はまず、「すっかり整備」されることで都市化される。
都市化されることで、島と都市の住民は、共通の感性基盤を
持てるようになった。
しかしそれ以前の光景を知る斉藤は、「大地の感触を確かめ
られないのが、島から隔離されているようでさびしい」とも思う。
ここにいう「隔離」の感覚は、「すっかり整備」が必然的にもたらす
ものの内実を指している。
では、島は「すっかり整備」され尽くしているのかといえば、
そうではなく、欠如が過剰へ転化するシンボルである
「山頂の聖なる岩」は、「登頂禁止が明示」される。
それで島の聖性は辛うじて保たれる。
しかし、それはその「脇に八畳ほどの展望台」を抱え、
いつ侵犯されても可笑しくないもろい構造のなかに
置かれることになるのだ。
都市化に歯止めをかけることが、
南島の「違う」を保つ根拠になっているようにみえる。
そして歯止めを保つことが「違う」倫理にもなっている。
だから、このガイドでは、「祭りと神事」への接し方が
アドバイスとして載るのである。
しかし、実をいえば自然も黙ってはいない。
「集落はこぎれいだったが、ひた寄せる緑が
人為をじわじわ圧倒し自然に戻りつつある印象を受ける」と、
自然も揺り戻しをかけるのである。
自然はまだダイナミズムを失っていないのだ。
さて、奄美・沖縄の25の島を紹介するこの本自体は、
「欠如」と「過剰」の転換を象徴するように明るい。
そしてこの明るさは、過剰な南島を描くに無くてはならないトーンだ。
ぼくたちは、21世紀の南島の姿をここから受け取っているのだ。
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