『「死の棘」日記』は柔らかい (3)
島尾敏雄の『「死の棘」日記』は、
本文もさることながら、冒頭に附された「刊行に寄せて」も痛切だ。
そこには、夫人の文章が載せられている。
春夏秋冬の季節の移ろいと共に、歳月も移ろい重なり、
夫島尾敏雄が黄泉の国へ、忽然と旅立ちましてから、早
十八年の年月が重なりました。
夫に先立たれ残された妻の私は、惜別後は心にはもと
より、身には常に裾長の黒い喪服を纏っております。そ
して朝に夕べに祭壇の前に正座して、「御許へ召しませ」
と、祈りを捧げる度に涙を流す悲愁の身でありながらも、
尚未亡人として此の現し世に、その後十八年も生き存え
て参りました。夫亡き後も存えるとは、空しき生に思え
てなりません。
然れど此の度新潮社より、『「死の棘」日記』刊行の
運びとなり、私は生きて在ればこその感懐を深く致しま
した。執筆者島尾敏雄亡き後に、生前書き残したものが
刊行されるという幸福を、亡夫の霊と共に享受できます
ことを、此の上なく幸せに思います。
長い引用だけれど、これを読むと文体の格調に唸ってしまう。
実際、ミホ夫人の文章は、島尾敏雄夫人と言わずに、
島尾ミホの作品といって掛け値ないと思えるのだ。
島尾ミホの『海辺の生と死』を読んだ時、
与論島出身者として誤解を怖れずに言えば、
奄美にこのような知性が育ったことが
信じられない思いだった。
島尾敏雄との絆が育てた表現力もあるのだろうが、
島尾敏雄とミホの出会いが、運命的なものを抱えてい
と思わずにいられない。
ところで、島尾敏雄が先立ったことを嘆くミホ夫人が、
どうして日記の公開に及んだのか。
ぼくたちは必然的に関心を抱いてしまう。
当然、日記に先立つ「刊行に寄せて」は、そのことに触れている。
亡夫が生前、毎晩机に向って、己と対峙しつつ書き綴
った心懐の秘め事の証ともいえる「日記」を、遺された
妻が公開致しますことに、私は思案にくれて決め兼ねま
した。殊に私達家族にとりましての、最も苦渋に満ちた
日夜の記述の公開には、かなりの強い逡巡が先立ちまし
た。
然し島尾文学の解明と御理解に幾分なりとも役立ち、
又島尾文学に心をお寄せ下さる方々への報恩にもなりま
すならばと、夫婦共々の羞恥は忍んでも発表に思いを定
めました。
自然なこととして逡巡があったことが書かれている。
この手のことは、関係者が泉下の人となって初めて
実現されるはずだから。
けれどミホ夫人は出版に頷く。
夫の文学の解明、理解への寄与と、
夫の文学に心を寄せる方への報恩。
それが羞恥を忍んでも公開する理由だという。
ぼくは同様のことを、島尾と同じく没後18年経って、
故人のアンソロジーが、やはり夫人の手によって
世に送り出されたケースを見たことがある。
このときも、ある意味で早すぎるアンソロジーが
実現したのは、ジョンにとって最も身近だった
ヨーコが頷いたという背景があった。
ヨーコは、自分の知っているプライベートなジョンの魅力を
勇気をもってぼくたちに差し出してくれたのだ。
ミホとヨーコは、彼女たちしか知らないプライベートを
差し出すその勇気において共通している。
もうひとつ共通しているのは、
二人ともが故人の名を借りずとも、
自立しうる作家の力量を持っていることだ。
二人は、あるいは、夫人としてというより、
芸術家として作品を差し出したのかもしれない。
ともあれ、『「死の棘」日記』は、島尾ミホの
ギフトとしてぼくたちの前に差し出されていることを
知る必要があると思う。
それなくして、ぼくたちは
島尾敏雄の日記を読むことは叶わないのだから。
その贈り物を届ける精神によっても、
『「死の棘」日記』の表情はやわらかい。
本の帯には、丁寧な著書の紹介がある。
そこを見て愕然としたのは、島尾夫妻の娘である
マヤさんが平成14年に亡くなっていることだ。
マヤさんが亡くなってしまった。
ぼくはその人を知らない。
けれど、『「死の棘」日記』でも、夫妻の修羅場を
「カテイノジジョウ」と読んで、
そうならないことを願う女の子として登場してくる。
その痛ましさを思うとき、
亡くなったという事実はぼくたちにも重く届けられる。
ぼくは作品から受け取るやわらかな調べを大切に
生きてゆこうと思う。
そして『「死の棘」日記』のおかげで、
ぼくはやっと『死の棘』を読み通せる気がしている。
「死の棘」日記
島尾敏雄
新潮社
2005/04/01
2,310円
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