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2005/11/23

たとえ、何十年かかったとしても

webcom先日、出版した本が縁で、
広告代理店の方と面談する機会がありました。

『ウェブコミ!』という本で、
企業ウェブサイトが顧客とコミュニケーションする方法を
書いた内容だから、当然、面談も、あるクライアントの
Webサイト戦略をめぐることだったのだけれど、
開口一番、彼が切り出したのは別の話題でした。

「与論島生まれと知って、ぜひお話したくて」

本のプロフィールにぼくがそう書いてあるので、
それに目を留めてくれたということなのだけれど、
もしかしてビジネスの話ではないのか、
と少し不安になりながら、
「はい、与論出身です」と答えたのです。

「実は昔、与論の子が家に来たことがあって」

そこからのエピソードはとても興味深いものでした。
昭和35年、与論の人に親戚のあった自分の父親が、
面倒見がよい人だったんだけど、あるきっかけがあって、
親戚筋の与論の人の娘さんを、
東京の中学校に迎えたというのです。

広告代理店の方は当時、高校生。
来た娘さんは小学校を卒業したばかり。

娘さんは、東京で、洗濯機、自転車、テレビと、
見るもの見るもの全部に驚いたそうです。

テレビ、島に何台かある。
自転車、2台くらい展示されているだけ。
洗濯機、ない。

東京では豚肉が毎日、食卓に出る。
与論では、正月に一頭、潰してご馳走として食べるだけ。

昭和35年、1960年といえば、
日本は高度経済成長へと走り始めたころ。
与論はといえば、原始・古代の雰囲気を色濃く残しながら、
近代を受け容れていく途中です。

 1960年 タクシーが走り始める。
 1961年 プロパンガスが使われるようになった。
 1963年 町制施行。学校給食、開始。
 1964年 水道使用開始。
    『南島与論島の文化』(野口才蔵)から引用

少女の目に東京はまるで別世界と映ったことは想像に難くありません。

「ぼくも子どもでしたから苗字は忘れてしまいました。
名前に『ちゃん』をつけて呼んでいました。
いかにも南の島から来たという感じで、色が黒くて、
心の純粋な子でした」

「ただ、その子はしばらく経つとホームシックになってしまって、
壁が白かったんだけど、
そこに友達の名前を書き出すようになってしまって。
また縁があればいらっしゃいということにして、
三ヶ月くらいで与論に帰ったんです」

ぼくの生前の話だけれど、
ぼくの時代でも一種のカルチャー・ショックは免れがたかったから、
親近感と同情を覚えずにはいられません。

人は縁によってつながったり離れていったりしているのですね。
ささやかな縁が、その45年後、
ちょっとした別の縁で思い出されることがある。

人と人のつながりの不思議さに胸を打たれます。


45年の後に思い出しつながる縁があるなら、
人が生きている間には、
いつ人生を左右する縁が訪れてもおかしくないと思えます。

ぼくたちの間にあるつながりに目を凝らせば、
濃い縁が見えてくることもあるでしょう。
たとえ、何十年かかったとしても。

そしてそれが深い縁と知ることがあるなら、
いくつになって知ったとしてもそれは倖せと言える気がします。
たとえ、何十年かかったとしても。

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