『ウンタマギルー』のけだるさ
最近また高嶺剛監督の1989年の映画『ウンタマギルー』を思い出すことが多くなった。
それは、「欠如」ではなく「過剰」を根拠に沖縄・琉球弧を描いた初めての作品として、記憶に残っている。そして映画『ウンタマギルー』が、沖縄・琉球弧の表現に対して切り拓いた地平は、現在にも届く射程を持っていると思える。
当時の文章を手がかりに、映画『ウンタマギルー』の意義を振り返ってみよう。
『ウンタマギルー』は、おおよそ次のような筋をもつ。 舞台は復帰直前、1969年の沖縄。ギルーは西原親方の 精糖工場で砂糖きび絞りの仕事をしているが、親方が大切 に育てているマレー(=M豚)を「毛遊び」に誘い情交して しまう。そのうえ、ふとしたことからマレーが実は豚の化身 であることを知ってしまったため、親方に命を狙われる羽目 になり、ギルーは人々が聖なる森といって近寄らない運玉森 に逃げ込む。そこで木の妖精であるキジムナーに、以前息子を助けてもら
った返礼に心霊手術を受け、超能力を身につける。ギルーは
空中移動や物体浮遊の術で盗みを働き、沖縄独立党や貧し
い人々に施す義賊となるのだが、あるとき時代劇「ウンタマ
ギルー」の芝居に自ら出演し、術を公開している最中に西原
親方の槍を額に受け、貫通させてしまい、どこかへと去って
いく。この筋から直接は出てこないことだが、この映画にはこころ
を動かされるものがあった。それはまず言葉になるよりも、
少年の日の記憶を二、三、蘇らせた。すべてが揺らめいて見える強い陽射しを避けて、ガジュマル
の木陰に座り込み、原っぱのすすきを眺めながら、風だけを
感じていたこと。砂糖きびの収穫作業に一息いれて、畑の隅
でお茶を啜ったり、煙草をくゆらせていた大人たちの姿。
そして全開の窓に面した茶の間に庭を向いて横になり、
目を閉じて静かに扇を仰いでいる祖母の姿。こんなシーン
が次々に思い出された。これは、何といおうか、すこぶる
南方的な感覚かもしれない、“けだるさ”の感じだ。場面としてなら『ウンタマギルー』の中でもすぐに幾つか拾
いあげることができる。例えばそれは、昼食後の仕事の休
憩時間に、水車の横でギルーがうたた寝するところや、露
天散髪屋で、テルリンが陽射しを避けて椅子に腰掛けくつ
ろいでいたり、彼の仲間がひがな将棋をして過ごしたりして
いるシーンだ。そういうより「けだるさ」は終始画面の中に、強烈な陽射し
とそれを受けとめる登場人物のしぐさや自然の原色の隅々
に滲透していると言ったほうがいいかもしれない。けれど
も、この映画で「けだるさ」を最も体現しているのはマレー
だろう。口を利かない豊満な美女マレーは精糖工場の脇
で、ものうげに宙を見つめながら水パイプで「淫豚草」を吸
っているのが常であり。また豚でいるときは、柵の中の真
っ赤な敷物に四足を投げ出して、いかにもけだるそうに横
たわっているのだ。「けだるさ」は高嶺にとって大切にされ
ているテーマだと言える。高嶺は、ある雑誌のアンケートで「沖縄の風土について
語るうえでポインととなる『キーワード』を三つ挙げてくだ
さい」という質問に、こう答えている。1.チルダイ(けだるさ)
2.マブイ(たましい)
3.たゆたい高嶺はとてもいいキーワードを挙げてくれている。この、
3つのキーワードを使って映画を説明すれば、『ウンタマ
ギルー』は、「チルダイ」が支配し、「マブイ」の「たゆた
う」世界である。強烈な陽射しのもとで、体がだるくぼんやりした感覚に
捉われると、いつしか意識の輪郭もゆらいでくるが、その
「けだるさ」の雰囲気の中でマブイ(魂、精神)は、遊離し
ていくのである。そしてこのマブイは、マレーという集合と
交感の場所をもっている。なぜ“聖なるけだるさ”なのかといえば、マブイの遊離、
浮遊、憑依の関係に、人間と神も含めた他の存在との
間の垣根がなく、すべてが融即する地霊的な中心(=
マレー)を持っているからである。「けだるさ」は現在の南島の日常世界においても、ありふ
れた感覚であるといえようが、地霊的な「聖なるけだるさ」
や魂のさまよいは、南島においても全く日常からは消え
さり、あるいは異常の世界に封じ込めてしまった関係世界
でしかない。これを十全に映像で実現しようとすれば、
どこかで具体的な時間と空間を脱出する契機がなければ
ならなかったのだと言える。
<「南島の現在形」(1992年)から引用>
足りないことという「欠如」を根拠にするのが、それまでの沖縄・
琉球弧論の常の在り方だったとすれば、高嶺の作品はいっぱいある
という「過剰」を根拠に、沖縄・琉球弧を描いてみせた。
そこに示された「過剰」さが、ここにいう「けだるさ」なのだけれど、
この根拠は普遍的であり、画期的だったと思う。
以来、「過剰」を根拠に沖縄・琉球弧を描く通路が開かれたのだから。
いま観ても、ぼくたちはそこにリゾートにも民俗にも回収されない
沖縄・琉球弧像の根拠を確認することができるだろう。
(画像は、映画『ウンタンマギルー』のパンフレットから)
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