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2005/11/12

『ウンタマギルー』のけだるさ

UNTAMAGIRU2

最近また高嶺剛監督の1989年の映画『ウンタマギルー』を思い出すことが多くなった。

それは、「欠如」ではなく「過剰」を根拠に沖縄・琉球弧を描いた初めての作品として、記憶に残っている。そして映画『ウンタマギルー』が、沖縄・琉球弧の表現に対して切り拓いた地平は、現在にも届く射程を持っていると思える。

当時の文章を手がかりに、映画『ウンタマギルー』の意義を振り返ってみよう。

『ウンタマギルー』は、おおよそ次のような筋をもつ。 舞台は復帰直前、1969年の沖縄。ギルーは西原親方の 精糖工場で砂糖きび絞りの仕事をしているが、親方が大切 に育てているマレー(=M豚)を「毛遊び」に誘い情交して しまう。そのうえ、ふとしたことからマレーが実は豚の化身 であることを知ってしまったため、親方に命を狙われる羽目 になり、ギルーは人々が聖なる森といって近寄らない運玉森 に逃げ込む。

そこで木の妖精であるキジムナーに、以前息子を助けてもら
った返礼に心霊手術を受け、超能力を身につける。ギルーは
空中移動や物体浮遊の術で盗みを働き、沖縄独立党や貧し
い人々に施す義賊となるのだが、あるとき時代劇「ウンタマ
ギルー」の芝居に自ら出演し、術を公開している最中に西原
親方の槍を額に受け、貫通させてしまい、どこかへと去って
いく。

この筋から直接は出てこないことだが、この映画にはこころ
を動かされるものがあった。それはまず言葉になるよりも、
少年の日の記憶を二、三、蘇らせた。

すべてが揺らめいて見える強い陽射しを避けて、ガジュマル
の木陰に座り込み、原っぱのすすきを眺めながら、風だけを
感じていたこと。砂糖きびの収穫作業に一息いれて、畑の隅
でお茶を啜ったり、煙草をくゆらせていた大人たちの姿。
そして全開の窓に面した茶の間に庭を向いて横になり、
目を閉じて静かに扇を仰いでいる祖母の姿。こんなシーン
が次々に思い出された。これは、何といおうか、すこぶる
南方的な感覚かもしれない、“けだるさ”の感じだ。

場面としてなら『ウンタマギルー』の中でもすぐに幾つか拾
いあげることができる。例えばそれは、昼食後の仕事の休
憩時間に、水車の横でギルーがうたた寝するところや、露
天散髪屋で、テルリンが陽射しを避けて椅子に腰掛けくつ
ろいでいたり、彼の仲間がひがな将棋をして過ごしたりして
いるシーンだ。

そういうより「けだるさ」は終始画面の中に、強烈な陽射し
とそれを受けとめる登場人物のしぐさや自然の原色の隅々
に滲透していると言ったほうがいいかもしれない。けれど
も、この映画で「けだるさ」を最も体現しているのはマレー
だろう。口を利かない豊満な美女マレーは精糖工場の脇
で、ものうげに宙を見つめながら水パイプで「淫豚草」を吸
っているのが常であり。また豚でいるときは、柵の中の真
っ赤な敷物に四足を投げ出して、いかにもけだるそうに横
たわっているのだ。「けだるさ」は高嶺にとって大切にされ
ているテーマだと言える。

高嶺は、ある雑誌のアンケートで「沖縄の風土について
語るうえでポインととなる『キーワード』を三つ挙げてくだ
さい」という質問に、こう答えている。

 1.チルダイ(けだるさ)
 2.マブイ(たましい)
 3.たゆたい

高嶺はとてもいいキーワードを挙げてくれている。この、
3つのキーワードを使って映画を説明すれば、『ウンタマ
ギルー』は、「チルダイ」が支配し、「マブイ」の「たゆた
う」世界である。

強烈な陽射しのもとで、体がだるくぼんやりした感覚に
捉われると、いつしか意識の輪郭もゆらいでくるが、その
「けだるさ」の雰囲気の中でマブイ(魂、精神)は、遊離し
ていくのである。そしてこのマブイは、マレーという集合と
交感の場所をもっている。

なぜ“聖なるけだるさ”なのかといえば、マブイの遊離、
浮遊、憑依の関係に、人間と神も含めた他の存在との
間の垣根がなく、すべてが融即する地霊的な中心(=
マレー)を持っているからである。

「けだるさ」は現在の南島の日常世界においても、ありふ
れた感覚であるといえようが、地霊的な「聖なるけだるさ」
や魂のさまよいは、南島においても全く日常からは消え
さり、あるいは異常の世界に封じ込めてしまった関係世界
でしかない。これを十全に映像で実現しようとすれば、
どこかで具体的な時間と空間を脱出する契機がなければ
ならなかったのだと言える。
   <「南島の現在形」(1992年)から引用>

足りないことという「欠如」を根拠にするのが、それまでの沖縄・
琉球弧論の常の在り方だったとすれば、高嶺の作品はいっぱいある
という「過剰」を根拠に、沖縄・琉球弧を描いてみせた。

そこに示された「過剰」さが、ここにいう「けだるさ」なのだけれど、
この根拠は普遍的であり、画期的だったと思う。
以来、「過剰」を根拠に沖縄・琉球弧を描く通路が開かれたのだから。

いま観ても、ぼくたちはそこにリゾートにも民俗にも回収されない
沖縄・琉球弧像の根拠を確認することができるだろう。

1

(画像は、映画『ウンタンマギルー』のパンフレットから)

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