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2005/11/28

無音のコミュニケーション

夜の9時半。地下鉄のホームに降りてびっくり。
ぼくが乗り込む位置はエスカレーターの脇で、
ホームの幅が短いので、
壁越しに待ち人は立つのだけれど、
そこにいた仕事帰りの女性たちが
こぞって携帯を見つめていました。

じっと眺めて文字を読んでいたり、
親指を動かして文字を打ったり。

今では珍しくないホームの風景ではあったでしょう。

やれやれと思いながら、間に入れてもらいました。
やれやれ、と思うのは、彼女たちに対してではなく、
自分もその風景の一部になったからでした。
ぼくもauで覚えたてのCmailを使ってみたのです。

ある人はこれから帰るメールを打っているのかもしれない。
ある人は、待ち合わせ場所に着く時間を知らせているのかもしれない。
仕事のメールを見ていることもあるでしょう。
恋人からのメッセージを読みふけっていることもあるでしょう。
ぼくもそのなかに混じって、メールを打ちました。

隣同士、誰も言葉を交わすことはありません。
それなら、ここには言葉はないのでしょうか?
いいえ、ないどころか、ここには無音のコミュニケーションが
あふれています。

その場にいない人と話をしたいとき、
以前なら、公衆電話という場所に立ち寄りました。
携帯電話の登場で、道すがら、話すことができるようになりました。
そして、道すがらも話せなかった人はホームで携帯メールを打ちます。

昔の社交場を井戸端会議と呼んだのにならえば、
場所はホーム、やりとりは会議ではなくせいぜい連絡だから、
「ホーム端連絡」です。

ホーム端連絡は、時間に追い詰められて辛うじて見出した
コミュニケーションの瞬間でもあれば、
手持ち無沙汰の間に、誰かとつながる意味ある瞬間
でもあるような気がしました。

ぼくもつながっている安心感のなかにあったからです。


与論のことは、いつも想ってきました。
つながっていたい、与論のためになることをしたい。
それはずっと去らない願いであり続けています。

もし、与論島が人で与論さんに連絡を取ることができるなら、
喜んでホーム端連絡をするでしょう。
今日も仕事に明け暮れた。与論のため、はまたお預け。
ごめん、と。

与論さんはメッセージを受け取ってくれるでしょうか。
受け取ったとしてどんな返事をくれるでしょう。


こんな連想を許してくれるなら、携帯メールも悪くない。

これまで不可思議に眺めてきた携帯メール族が
少し微笑ましい人たちに見えてくるようです。

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2005/11/26

与論島の人口からの眺望

町役場から町勢要覧をいただきました。

そこにある人口推移と夏に図書館でコピーしてもらった「与論
町誌」をもとに、与論島の人口推移をグラフ化してみました。
1690年から2004年の3世紀にわたる数値です。ただ、
途中データのない期間は、比例的な数値で代替させています。
18世紀と19世紀の約100年の直線的な推移がその期間で
す。その点は斟酌しなければなりませんが、近世から現在ま
での与論島の人口をおおよそ把握することができます。

yoron_population

与論の人口は6000人を割ったと聞きます。ただ、人口減
少はいまに始まった話ではありません。人口推移から見た時、
与論島は長く下降期にあります。人口の推移をライフサイク
ルに当てはめてみれば、与論は既に老いのプロセスに入って
いることになります。

老いることは幼年に戻ることだとすれば、与論の人口は今、
どこまで若返っていることになるでしょう。比例的な推移を
てがかりにすれば、今から125年前1880年、明治13
年頃になります。

この年、与論では地租改正が実施されています。その前後で
は、12年に風葬が禁止、14年には豊年踊りが中止されて
います。この出来事を眺めるだけで、遅れてやってくる近代
が否応なく島にも押し寄せた時期だったことが分かります。

このことを受けとめれば、現在は近代によって喪われたもの
を回復、復元する時期に当っていると言えるかもしれません。
風葬が復活するということではありません。島は今、火葬へ
と歩み始めていて、近代化の途路に依然としてあることは間
違いありません。

風葬が復活するということではなく、たとえば風葬が担って
いた農耕社会以前の魂(まぶい)がたゆたうあり方を、理解
するように受け取るという意味です。それは具体的には、方
言社会に戻すことでなくても方言を理解し、改めて口にする
というような現われ方をすることもあるでしょう。

近代与論が無闇に葬ってきたものの価値を現在の社会のなか
に蘇らせることだと思います。

そして、現在は近代以前を見つめる段階にあると言っても、
社会の段階は既に近代以降を見据えられる時期に来ています。
それはたとえば、近代以前の価値を抽出作業の担い手が必ず
しも与論の人(ゆんぬんちゅ)でなければならないことは無
くなったことに現われると思います。

魂(まぶい)がたゆたいは、祭儀の共同性の資格を問わなけ
れば、誰にとっても共有可能なものとして解放されるからで
す。それが現在の特徴であるとともに、可能性です。

そう捉えれば、人口減少は必ずしも島の衰退のみを意味する
わけではなく、与論島の新しい段階を示唆してくれると思え
ます。

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ソテツの虫かご

ソテツといえば、五右衛門風呂を沸かすのに、
ガジュマルの枝と一緒にくべる材料でした。

枯れたソテツの葉は、持続こそしないものの
勢いよく燃えるので、太い枝への火付けにはうってつけでした。

バチバチと音を立てて燃えるソテツに木をくべて、
炎を眺めていると、ぼーっとしてきます。
そのうち、顔が熱くなってはっとするのですが、
そうやって五右衛門風呂を沸かすの楽しいひと時でした。

それがぼくとソテツとの接点。


その昔、ソテツの実は食用だったと聞きます。
ソテツ地獄なる言葉があるのも聞いています。


でも、それだけではなく、
ソテツは虫かごでもあったんですね。

ソテツの虫かご!

高度経済成長以前の与論ではそれは
子どもの常識だったでしょう。
ぼくの時はもうそうではなくなっていました。

写真は、アンマーが今年の夏に拵えたもの。
ソテツが硬い針葉なのを活かして
交互に編んでつくってあります。

mushikago

外からも昆虫たちがよく見える
トンネルのような形。虫たちにしても、
自然の葉っぱの中に入っていると、
そう居心地悪くなさそうな気がして
きます。

なかなか茶目っ気のある生き物の
ような造形だなぁ、と。
そう思いませんか?

カンタンに作れるから、伝承されるといいなと思います。
目の端々に気づくほどソテツはいっぱいあるのだし。


もう一葉の写真は、ソテツの硬い針葉の表情がよく分かります。
元気な虫かごができそうな堂々たる葉並びと鋭い葉先です。
[ photo (c)Yuria Suzuki ]

sotetsu1

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2005/11/23

たとえ、何十年かかったとしても

webcom先日、出版した本が縁で、
広告代理店の方と面談する機会がありました。

『ウェブコミ!』という本で、
企業ウェブサイトが顧客とコミュニケーションする方法を
書いた内容だから、当然、面談も、あるクライアントの
Webサイト戦略をめぐることだったのだけれど、
開口一番、彼が切り出したのは別の話題でした。

「与論島生まれと知って、ぜひお話したくて」

本のプロフィールにぼくがそう書いてあるので、
それに目を留めてくれたということなのだけれど、
もしかしてビジネスの話ではないのか、
と少し不安になりながら、
「はい、与論出身です」と答えたのです。

「実は昔、与論の子が家に来たことがあって」

そこからのエピソードはとても興味深いものでした。
昭和35年、与論の人に親戚のあった自分の父親が、
面倒見がよい人だったんだけど、あるきっかけがあって、
親戚筋の与論の人の娘さんを、
東京の中学校に迎えたというのです。

広告代理店の方は当時、高校生。
来た娘さんは小学校を卒業したばかり。

娘さんは、東京で、洗濯機、自転車、テレビと、
見るもの見るもの全部に驚いたそうです。

テレビ、島に何台かある。
自転車、2台くらい展示されているだけ。
洗濯機、ない。

東京では豚肉が毎日、食卓に出る。
与論では、正月に一頭、潰してご馳走として食べるだけ。

昭和35年、1960年といえば、
日本は高度経済成長へと走り始めたころ。
与論はといえば、原始・古代の雰囲気を色濃く残しながら、
近代を受け容れていく途中です。

 1960年 タクシーが走り始める。
 1961年 プロパンガスが使われるようになった。
 1963年 町制施行。学校給食、開始。
 1964年 水道使用開始。
    『南島与論島の文化』(野口才蔵)から引用

少女の目に東京はまるで別世界と映ったことは想像に難くありません。

「ぼくも子どもでしたから苗字は忘れてしまいました。
名前に『ちゃん』をつけて呼んでいました。
いかにも南の島から来たという感じで、色が黒くて、
心の純粋な子でした」

「ただ、その子はしばらく経つとホームシックになってしまって、
壁が白かったんだけど、
そこに友達の名前を書き出すようになってしまって。
また縁があればいらっしゃいということにして、
三ヶ月くらいで与論に帰ったんです」

ぼくの生前の話だけれど、
ぼくの時代でも一種のカルチャー・ショックは免れがたかったから、
親近感と同情を覚えずにはいられません。

人は縁によってつながったり離れていったりしているのですね。
ささやかな縁が、その45年後、
ちょっとした別の縁で思い出されることがある。

人と人のつながりの不思議さに胸を打たれます。


45年の後に思い出しつながる縁があるなら、
人が生きている間には、
いつ人生を左右する縁が訪れてもおかしくないと思えます。

ぼくたちの間にあるつながりに目を凝らせば、
濃い縁が見えてくることもあるでしょう。
たとえ、何十年かかったとしても。

そしてそれが深い縁と知ることがあるなら、
いくつになって知ったとしてもそれは倖せと言える気がします。
たとえ、何十年かかったとしても。

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2005/11/19

わーなさき

滞在日が尽きて空港に向う時間になると、
ぱーぱーはそそくさと押入れに向かい、
のし袋を取り出すと、

「わーなさき」と言って渡してくれるのでした。

その中身にお札が入っているのを知りながら、いい年をして、
「とおとぅ、ぱーぱー」と頭を下げて受け取るのでした。
素直に受け取っていい雰囲気をぱーぱーはいつもで醸し出していました。


「わーなさき」は、「私の情け」。


「わーなさき」というのは、
ぱーぱーからもっとも頻繁にもらった言葉のひとつです。

遠慮するそぶりを見せると、
「ぬが、わーなさきでーる」(どうしたの、私の情けじゃないか)
と、遠慮自体を不本意そうに見せるのでした。

これは、ぱーぱーの愛情のなせる技だったでしょう。
でも、もっと敷衍すれば、与論の相互扶助を媒介する
最も純粋な言葉なのかもしれません。

「わーなさき」と言って、
ぼくは誰かに何かを渡してあげることができるでしょうか。
そうできるようになりたいものです。

与論島では、今日もどこかで誰かが誰かに
「わーなさき」と言っているのでしょう。

以前のような純粋で貧しい村落共同体ではなくなっても、
この言葉は適切に使えば、
ある時ある場面人と人をつなぐ輝きをみせるはずです。

それがある限り、与論は健在なのではないでしょうか。

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2005/11/13

『ウンタマギルー』以後。過剰の交換。

untamagiru

高嶺剛は、映画『ウンタマギルー』で、 ウンタマギルーの世界は、人物が変っても輪廻のように繰り返されてきたが、「日本復帰」によって、「聖なるけだるさ」は完全に絶たれてしまった、と言っているようにみえる。

「大状況」によって完全に喪失されたものは、沖縄の主権性ではなく、方言でもなく、民俗の宝庫でもなく、高嶺に言わせれば「聖なるけだるさ」であり、魂のたゆたう世界であり、それが絶たれてのちには日常のどこかで感じるけだるさだけが残り、魂の浮遊する世界は消えてしまったということなのだ。

『ウンタマギルー』のメインタイトルのでる冒頭のシーン
は、珊瑚礁の平原を、額に槍を貫通させたギルーが苦悩の
表情を浮かべながら彷徨い歩くのだが、これは「聖なるけ
だるさ」に触れることもできず、魂を浮遊させる術を無く
した、現在における沖縄・南島人の姿の暗喩になっている
と思える。
<「南島の現在形」(1992年)から引用>

これを書いたのは1992年。いま読むと、高嶺の描いた世界は、
1997年の宮崎駿監督の作品、『もののけ姫』にまっすぐにつ
ながっているのに気づく。

『もののけ姫』のラスト近く、デイダラボッチは人の手によって
死に追いやられる。デイダラボッチが倒れ、疾風が野原を駆け巡
る。その後にも野原は残るのだが、そこにはデイダラボッチが生
きていた頃には、あったものが無くなっている。それは聖なる森
の聖性だ。作品はそれを主張するわけではない。ただ、宮崎の作
品はそれを映像によって伝えていた。

高嶺は宮崎より早く、聖なるものが喪われるということを、喪わ
れる側の世界から描いた。その早さは、高嶺の喪失の落差と生々
しさの強度を教えるが、それなら、ぼくたちはいま、そこからど
のような場所に立っていると言えばいいだろう。

かつてオキナワは日本ではなかった。 とすれば、そのオキナワにあって日本に無いものは何か? それこそ、オキナワンチルダイ。“琉球の聖なる気だるさ” なのである。

この映画には、よくまとまったパンフレットがあり、これ
はその中に見つかる文言である。

ぼくは、人々が南島に結ぶ信憑像を「南島は、日本とは少
し違う」と書いた。高嶺は、『ウンタマギルー』を日本人
が見ればまるで外国のように描くのだが、だからといって
高嶺は「南島は、異国として日本とは違う」というのでは
ない。

「大和」が天皇を戴いているのと同様に、琉球王朝という
国家が存在していたという主張にはなっていない。また、
復帰前にもう一つの支配者をもって「アメリカ」であった
と言いたいわけでももちろんない。

つまり、彼の作品表現は、その「日本」ではなかった時代
の“神”をもって「沖縄」とするのではないし、まして南
島人は異民族であえると主張しているのではない。高嶺は
「南島はかつて日本ではなかった」と言うのみなのである。

ここでモチーフとなっているのは、国家としての相違や神
の違いや民族のちがいにより、両者を同等な存在として切
り離すことではなく、ある陸離たるイメージで、日本との
差異面を明確にするということ、そこに、ある断層を走ら
せることにある。

けれどもそれだけではない。高嶺は明言してないが、ここ
にはもうひとつの重要な差異線が引かれている。かれは、
「いまでこそ沖縄は日本の一地方として位置づけられてい
る」と書いているように、沖縄が日本の一地方に解体して
しまっていることを知っている。

現在では、沖縄を日本と異なるものとして定立するのは不
可能だという前提がここにはある。だから高嶺は、「南島
は、日本とは少し違う」という信憑像に、別の像を対峙さ
せたいわけではないのだ。かれは、「かつてオキナワは日
本ではなかった」と言うとおり、本当は現在の沖縄との差
異こそが、意識されているのだ。

従って、かれの沖縄・南島像の差異線は、日本(大和)と、
現在の沖縄とに、二重に引かれているのである。

そこでぼくたちは、映画『ウンタマギルー』から、あの、
「大和と沖縄・南島」という二項対立的な構図が終わって
いることを確認するのだ。

あの劣性、欠如、貧困の象徴を担ってきた「方言」は作品
を構成する言語として選択されていて、そこに羞恥や禁制
の意識はない。そしてそれだけでなく、その構図の外に出
る運動を、「方言」使用を根拠にしたり、それに象徴させ
た「誇り」や「克服」によってなしている響きは全く感じ
られない。

さらに、この映画においては、沖縄・南島は貧困、劣性、
欠如を担わされているのでもないければ、その告発がある
のでもない。「大和と沖縄・南島」の構図のなかにある南
島像から遠く離れることはこの映画の前提として大切にさ
れていることなのだ。

近代期南島の島人たちを煩わせてきた構造を、この作品は
終わらせているのである。

それなら、高嶺の表現する概念、文化としての沖縄は、ど
のようなものかといえば、それは“過剰なる沖縄・南島”
像というべきものだ。

しかし繰り返すが、かれはその「過剰さ」を作品表現を構
成する「方言」に託しているのではない。これまで見てき
たように高嶺は、現存する方言や音楽や舞踏の様式に自ら
の沖縄像についての信を置いていない。

あるいは、これまで欠如、貧困、劣性の象徴であったもの
が、それを支える根拠を崩壊してみると、ふと過剰なるも
のとして見出されたというのでもない。高嶺の表現はそう
なっていない。彼が提示するのは、実体的なものでも実像
的なものでもなく、「聖なるけだるさ」という感覚であり、
イメージであり、関係の構造なのだ。

その「聖なるけだるさ」こそは、南方的な過剰さを湛える
ものとして沖縄・南島のなかに見出した「沖縄そのもの」
なのだ。けれどその「けだるさ」とももにあった魂の彷徨
う世界は、現在では消滅してしまったものであり、作品表
現として実現するしかない。高嶺が「沖縄そのものを、映
画そのものに重ね合わせるようにして、映画でしか味わう
ことのできないパラダイスへの到達を願うのである」と言
うのは、そのようなことだ。

この“過剰さ”は不思議なあり方をしている。この「過剰
さ」によって、ぼくたちは圧倒され、その圏外に弾き出さ
れることはない。どうしてだろう。それは、もはやその
「過剰さ」が沖縄・南島に完全な姿ではないからではない。

ぼくたちはその「過剰さ」を、『ウンタマギルー』という
南方的な夢物語の「パラダイス」世界で享受することがで
きるし、それだけでなく、その像、イメージを共有するこ
とができるからだ。

その像、イメージを実感できないのは、ぼくたちが沖縄人
でないからではなく、「聖なるけだるさ」が充満し、魂の
浮遊する世界の関係の構造を失っているからだ。しかし、
人は誰もが望めば、その地で、「聖なるけだるさ」を思い
起こさせるような、けだるい感じを味わうことができる。

ここにおいて、大和の人間であろうと、沖縄・南島の人間
であろうと、その実感を得ることと、得られないこととは
同様の条件で手元にあるのだ。
<「南島の現在形」(1992年)から引用>

hyousi

この文章から13年後の世界にいるぼくたちは、ここに何を付け足すことができるだろうか。

80年代の後半に沖縄から届けられたいくつかの作品は、異質な方言世界や南方リゾートのような既成概念に依拠せずに作品そのものの力量によって市場に通用しうる水準を見せてくれた。

その背景には、人工的自然という条件によって共通化される
都市感性の獲得が必要条件としてあった。当時、那覇の市場を
「せんえんなー」(千円均一)と言って洋服や雑貨を売る老人がいたが、
彼はその「せんえんなー」という声によって、
均質な世界の到来を告げているかのようだった。

そして今、ビル群の間を縫うように那覇と首里を走る
モノレールが、「せんえんなー」の後を引き継ぐように
都市を横断する感性を表現している。

ぼくたちは、ここでもまた、「過剰なる沖縄・南島」
という根拠が生きているのを感じるだろう。

過剰なるものの提示によって、
それは他者と共有可能なものになる。

しかしもうひとつ、喪われた聖性によっても、
他者と共有可能な条件が開かれた。

「聖なるけだるさ」は、それが「聖なる」ままでは、
共有可能なものにはならない。沖縄・南島の民俗の内側でのみ、
聖性は保たれるからだ。

いま、沖縄・南島では本土からの移住が進展している。
そして移住者の存在が経済を活性化させていると、
時事は伝えている。

移住が可能であること。それには、まず、沖縄・南島に過剰なもの
を見いだしそれに惹かれるということ。
そしてそれが共有可能なものとして提示されることが必要だった。

そこで沖縄・南島の過剰と移住者の過剰が交換可能なものとなる。
こうして移住と受容は実現している。

これは、「聖なるけだるさ」のあと「けだるさ」の残る世界に現れる
新しい沖縄・南島の表情なのだ。

これが、映画『ウンタマギルー』のから得られる、
今日の沖縄・南島の姿への理解だ。

(画像は、映画『ウンタンマギルー』のパンフレットから)

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2005/11/12

『ウンタマギルー』のけだるさ

UNTAMAGIRU2

最近また高嶺剛監督の1989年の映画『ウンタマギルー』を思い出すことが多くなった。

それは、「欠如」ではなく「過剰」を根拠に沖縄・琉球弧を描いた初めての作品として、記憶に残っている。そして映画『ウンタマギルー』が、沖縄・琉球弧の表現に対して切り拓いた地平は、現在にも届く射程を持っていると思える。

当時の文章を手がかりに、映画『ウンタマギルー』の意義を振り返ってみよう。

『ウンタマギルー』は、おおよそ次のような筋をもつ。 舞台は復帰直前、1969年の沖縄。ギルーは西原親方の 精糖工場で砂糖きび絞りの仕事をしているが、親方が大切 に育てているマレー(=M豚)を「毛遊び」に誘い情交して しまう。そのうえ、ふとしたことからマレーが実は豚の化身 であることを知ってしまったため、親方に命を狙われる羽目 になり、ギルーは人々が聖なる森といって近寄らない運玉森 に逃げ込む。

そこで木の妖精であるキジムナーに、以前息子を助けてもら
った返礼に心霊手術を受け、超能力を身につける。ギルーは
空中移動や物体浮遊の術で盗みを働き、沖縄独立党や貧し
い人々に施す義賊となるのだが、あるとき時代劇「ウンタマ
ギルー」の芝居に自ら出演し、術を公開している最中に西原
親方の槍を額に受け、貫通させてしまい、どこかへと去って
いく。

この筋から直接は出てこないことだが、この映画にはこころ
を動かされるものがあった。それはまず言葉になるよりも、
少年の日の記憶を二、三、蘇らせた。

すべてが揺らめいて見える強い陽射しを避けて、ガジュマル
の木陰に座り込み、原っぱのすすきを眺めながら、風だけを
感じていたこと。砂糖きびの収穫作業に一息いれて、畑の隅
でお茶を啜ったり、煙草をくゆらせていた大人たちの姿。
そして全開の窓に面した茶の間に庭を向いて横になり、
目を閉じて静かに扇を仰いでいる祖母の姿。こんなシーン
が次々に思い出された。これは、何といおうか、すこぶる
南方的な感覚かもしれない、“けだるさ”の感じだ。

場面としてなら『ウンタマギルー』の中でもすぐに幾つか拾
いあげることができる。例えばそれは、昼食後の仕事の休
憩時間に、水車の横でギルーがうたた寝するところや、露
天散髪屋で、テルリンが陽射しを避けて椅子に腰掛けくつ
ろいでいたり、彼の仲間がひがな将棋をして過ごしたりして
いるシーンだ。

そういうより「けだるさ」は終始画面の中に、強烈な陽射し
とそれを受けとめる登場人物のしぐさや自然の原色の隅々
に滲透していると言ったほうがいいかもしれない。けれど
も、この映画で「けだるさ」を最も体現しているのはマレー
だろう。口を利かない豊満な美女マレーは精糖工場の脇
で、ものうげに宙を見つめながら水パイプで「淫豚草」を吸
っているのが常であり。また豚でいるときは、柵の中の真
っ赤な敷物に四足を投げ出して、いかにもけだるそうに横
たわっているのだ。「けだるさ」は高嶺にとって大切にされ
ているテーマだと言える。

高嶺は、ある雑誌のアンケートで「沖縄の風土について
語るうえでポインととなる『キーワード』を三つ挙げてくだ
さい」という質問に、こう答えている。

 1.チルダイ(けだるさ)
 2.マブイ(たましい)
 3.たゆたい

高嶺はとてもいいキーワードを挙げてくれている。この、
3つのキーワードを使って映画を説明すれば、『ウンタマ
ギルー』は、「チルダイ」が支配し、「マブイ」の「たゆた
う」世界である。

強烈な陽射しのもとで、体がだるくぼんやりした感覚に
捉われると、いつしか意識の輪郭もゆらいでくるが、その
「けだるさ」の雰囲気の中でマブイ(魂、精神)は、遊離し
ていくのである。そしてこのマブイは、マレーという集合と
交感の場所をもっている。

なぜ“聖なるけだるさ”なのかといえば、マブイの遊離、
浮遊、憑依の関係に、人間と神も含めた他の存在との
間の垣根がなく、すべてが融即する地霊的な中心(=
マレー)を持っているからである。

「けだるさ」は現在の南島の日常世界においても、ありふ
れた感覚であるといえようが、地霊的な「聖なるけだるさ」
や魂のさまよいは、南島においても全く日常からは消え
さり、あるいは異常の世界に封じ込めてしまった関係世界
でしかない。これを十全に映像で実現しようとすれば、
どこかで具体的な時間と空間を脱出する契機がなければ
ならなかったのだと言える。
   <「南島の現在形」(1992年)から引用>

足りないことという「欠如」を根拠にするのが、それまでの沖縄・
琉球弧論の常の在り方だったとすれば、高嶺の作品はいっぱいある
という「過剰」を根拠に、沖縄・琉球弧を描いてみせた。

そこに示された「過剰」さが、ここにいう「けだるさ」なのだけれど、
この根拠は普遍的であり、画期的だったと思う。
以来、「過剰」を根拠に沖縄・琉球弧を描く通路が開かれたのだから。

いま観ても、ぼくたちはそこにリゾートにも民俗にも回収されない
沖縄・琉球弧像の根拠を確認することができるだろう。

1

(画像は、映画『ウンタンマギルー』のパンフレットから)

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2005/11/11

与論島クオリア

遅ればせながら、「与論島クオリア」の志を記します。

与論島に住んだり、行ったりすると、
きっとある感覚に襲われます。

切なくとろけるような、えもいわれぬ感覚です。
ぼくは、与論島以外の場所でこんな感じに
囚われたことはありません。

いつも持て余してしまうほどのこの感じは何だろう。
それを言葉にしたくて、始めています。


ぼくが言葉にしたい与論島クオリアは、
いくつかの系列で整理できるでしょう。

与論島・琉球弧の来し方、今、行く末、自然、作品、人。

「来し方」はよく知られているわけではない。
与論の歴史は、日本にとってだけでなく
与論の人たちにとっても明らかではないから。

「今」、与論島がどうであり、
そして「行く末」に何を構想するのかということ。
それはとても切実なテーマです。

そしてなんといっても人を魅了してやまず、
ぼくも与論島クオリアの核にあると思う「自然」。
与論の豊かな自然を、ぼくたちは取り戻し、
さらに豊かに成長させていけるのかということ。

与論島・琉球弧はどのように描かれてきたのか。
どのように描かれているのか。
そしてどう描かれたがっているのか。
「作品」は、与論島・琉球弧をどう更新してくれているのか。

「人」。最後に残るのは人。
人間関係の理想を垣間見せてくれた与論島の人。

これらのテーマです。


出身者の贔屓目もあるでしょう。
ただ、それを言葉にしたいという衝迫は、
歳を重ねても去っていきません。

それどころか、それが何なのかを言葉にしなければ
うまく前へ進めないと思うほどです。

願わくば、小さな与論島の大きな自然のように、
ゆったりとした構えで進められますように。

初心として、記しておきます。

kasouba

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