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2005/10/30

与論島のどこでもドア

与論島にこそインターネットはふさわしい。
インターネットは世界につながるどこでもドアだ。

どこにとっても誰にとっても
インターネットはどこでもドアなのだけれど、
地の利がなく、行政区分としても素直な自己表現を阻まれている。
そんな立場に置かれた与論にとって、それは切実だ。

地の利が不利にならず、行政区分の中でものを言わないとすれば、
世界に向って直接、自己表現するしかない。

だから、ADSLやほどなく訪れる光ファイバーの普及は
福音に近い出来事に思えてきた。
それに尽力する方たちに敬意を払いたい。


そこでぼくたちは本来的な問いの前に立つ。
どこでもドアをつくることから、
どこでもドアを活かすことへ。

与論島のどこでもドアをどのように活かすのか。
それはとても肝になること。

認知は購買を保証しないけれど、
理解は購買を促進する。
そして、理解はコミュニケーションによって得られるから。


でもいまはその手前に立ち止まろう。
この、どこでもドアは、それを活かそうとするなら、
どこでもドアに合ったコミュニケーション・リテラシーを持とう。


原則はシンプルに挙げられる。

・インターネットは、意見交換ではなく事実共有に向いている
・インターネットは、ネガティブではなくポジティブな話題に
 向いている。
・インターネットは、アナログを出口にして初めて生きる。

与論島を「好き」という人のネットワークをつくるとき、
与論のポジティブな事実を共有するといいのだ。

そしてもうひとつ、インターネットという仕組み自体が持つ
ネガティブな側面に対応する力にもなる。

残念なことに、
インターネットは匿名性と個別性(一対一につながる)
という回路を通じて、対面では吐露できない、
小心さと卑屈さと独りよがりの心情を解放する場を
提供してしまった。

それに対抗していけるのは、
インターネットからリアルの世界へ、
匿名に頼らずにリアリティを保てるふつうの感覚だ。

会おうという進言の前にただの人に戻るクレーマー。
レスポンスを妄想成長の糧にしてしまうストーカー。

どちらもどこか仮想でしか生息できないキャラクターを
リアルと履き違えてしまう状態で生まれている。
こんな病態に美しい与論島は負けないようにしよう。
純粋な相互扶助がありうると教えてくれていた与論島だから。


与論島が、ポジティブを伸ばしネガティブに賢明に対する
コミュニケーション・リテラシーをもって、
どこでもドアに臨むことができたら、最強アイランドだ。

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2005/10/13

幸せの絶頂

8月、ぱーぱーの百か日の翌朝。
あんまーとあんにゃーと与論の話をしていると、
宇和寺の家を、やすひでうじゃが訪ねてくれた。

のどかな朝。
やすひでうじゃも話の輪に加わり、しばし歓談。

ひと息つくと、うじゃは、唐突にあんまー(お袋)に、
「あんたは今、幸せの絶頂だからぼくが邪魔したらいけないね」、と。

「幸せの絶頂?」

「あんたは、自分の息子と久しぶりに会って話してるでしょう。
そういうときが一番、幸せでしょう」

うじゃとあんまーは同級生だ。

うじゃは続けて話してくれた。

「ぼくもそうなのよ。タビから子どもたちが帰ってくるでしょう。
それまでは、心配してることがいっぱいあって、
あれも言おうこれも言おうと思ってるんだけど、
実際、会うと、それがどっかにいっちゃって。

もう、ただニコニコしてるわけよ。
あんたも分かるでしょう?」


なるほど。それで、幸せの絶頂。


「幸せの絶頂」とは、
愛する人がそばにいて、
日ごろの雑念や心配が飛んでしまうこと
と、みつけたり。

うじゃはいつもの笑顔を絶やさずに、
原付で帰るのでした。

いい朝といい言葉を、
とおとぅがなし。うじゃがなし。

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2005/10/08

与論という絶対

zinseinookurimonoまさに人生の贈り物のように、
森瑶子の『人生の贈り物』を読みました。

これを読むと、
与論を愛し与論に居を定めることになった
女流作家の作品を
ぼくがこれまで読むことが無かった理由も、

それでもそれとは別にある接点を見つけることができた
気がしました。


まずもって、ぼくはこの作家の持っている派手さに縁遠い。
嫌いだというのではなく、およそ縁を感じることもなさそうです。
縁遠く感じる分だけ、ぼくは作家の与論への寄与への関心にも
かかわらず、その作品を手に取り損ねていたのでしょう。

それと、もうひとつ。
何というか、対象への触れ方にも隔たりを感じます。

 あまりに美しいものを見ると、私は必ず悲しくなってしまう。
 最初の印象はそれだった。美しいものは私を悲しくさせる。
 多分それは、男でいえば、ずっと先の別れを内包しているから
 だと思う。悲しくなるのは、自分が必ずやそれを手に入れる
 だろうこと、そしていつかそれを失うことを予感しているからだ。
      (『人生の贈り物』「ベネチアン・グラス」より)

たとえば、こういう述懐に対しては、
作家の強烈な希求を思いこそすれ、共感には遠くなってしまいます。

ずっと続くことを穏やかに予感させる美しいものとの出会いも
あるだろうと、ぼくは思うからです。


そうやってはじめは、森さんの感じ方に驚きながら読み進めました。
けれども次第に違和感は薄れていって、
共感と呼べばいいのか、接点を感じるのでした。

この作家の作品を手にする機会は、
彼女の生前、ぼくには訪れませんでした。
そのことに理由はある。

そう思うものの、それだけではない。
この作家と共通点もある。
そうも思えてきたのです。

それは、この本の後半、「ヨロンの海と同じ色のガラスの魚」
で、はっきりしました。

 贈り物にはもうひとつのパターンがあるのを忘れていた。
 自分のために手に入れて、大事にしているコレクションを、
 ふと思いついて、「これをあの方に差し上げよう」という
 贈り方だ。
(『人生の贈り物』「ヨロンの海と同じ色のガラスの魚」より)

本には、他の章と同様に、彼女が美しいと感じたものの写真が
添えられているのすが、この章も例外ではありません。

そこには、魚を浮き彫りにした小さな、
それはきれいな青い色の瓶があります。
そして彼女は、それを「ヨロンの海と同じ色」と表現するのです。

美しいものは悲しくさせる。
そういう感想にぼくの心はあまり動きませんが、
美しいものを「ヨロンの海と同じ色」と表現することには
絶対的に同意してしまいます。

そうそう、と。
ああ、ここだけは同じことを感じているのかもしれない、と。

与論の島の海は美しい。
そう言っているのではありません。
いえ、そうに違いはないのですが、それだけではないのです。
森さんは、与論の海に絶対を見ているのです。

そうではないでしょうか?
彼女に美しいと思わせ、悲しい予感すら抱かせ、
我が物にせずにいられないと思わせる。
そのひとつに、与論の海もあったはずですが、
それは、そこに彼女が絶対を見ているからこそなのです。


ここで接点は生まれます。
ぼくも与論島には絶対を見てきました。
その海にも自然にも、人と人のつながりにも。

それは故郷に対するひいきの気持ちも含まれるでしょう。
それを認めます。
けれど、一方で、違う、絶対に違う、
ここは他の場所とは違う。
ここは、なんといっても「絶対」を感じさせてくれるから。

そう、ずっとずっと感じつづけてきたからです。

それはぼくだけの感覚ではなく、
与論を愛する多くの人にとってもあると確信しています。
幸運なことに、最近も、
与論に絶対を見た風景に出会うことができました。

そんな与論に絶対を見た人として、ぼくは森さんに共感を覚えます。
それが、よき香りとともにこの作品から届けられる大切な贈り物でした。

与論に絶対を見る方には、機会があればお勧めしたい一冊。


思えば明日はジョン・レノンの誕生日。
略歴を見ると、森瑶子さんはジョンと同い年。
誕生日もひと月と離れていない。

いまはジョンのいない世界であると同時に、
森瑶子のいない与論でもあるのですね。

けれど、ジョンの曲がぼくたちの中で生きているように、
森さんが与論に絶対を見た視線も、ぼくたちの中で生きている。
そうではないでしょうか。

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2005/10/04

喪失よりも深い再生で

I lost my Yoron twice
ぼくは与論を二度、失っている。

一度目は、幼少の頃、父の転勤で。
二度目は、小学5年の時、父の転勤で。

一度目のことは覚えていない。
二度目のことは、先日、出し抜けに記憶が蘇ってきた。

江ヶ島桟橋から天馬船に揺られて与論島を離れた。
飛行機であっという間に去るのではなく、
接岸された船からスムーズに離れていくのではなく、
小さな天馬船はゆっくりと、
岸壁の親戚や友達を小さくしていった。
鈍感なぼくが、哀しいという感情を知った時だった。

でもぼくの哀しみはありふれている。
誰もが引越しをし、誰もが故郷を離れてきた。
故郷を去ることが経済的な豊かさを得ることでありえた。
だから、特別なことではない。

それなら、三十年の喪失感はどこからやってくるのだろう。
諦めの悪さ?
与論から離れるようにしか生きてこれなかったから?
それとも、ゆんぬんちゅ自身が
ゆんぬを忘れようとした時期があったから?

そのどれでなくても、どれであっても、
与論が切なさの源泉であることに変りはなかった。
いつでも。どこにいても。


だから、これは後生変わらぬ想いと肝に据えて、
ぼくはぼくの与論島を描こう。
与論を取り戻すというのではなく、
与論を活かし更新することによって。

喪失よりも深い再生で。

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2005/10/03

もしも与論島が沖縄県であったとすれば

(もともと別の場所に掲載していた記事だけれど、
やはりこの場がふさわしいので再掲します。
初出 2005/04/26)

yoronzima与論島―琉球の原風景が残る島

高橋 誠一、竹 盛窪

ナカニシヤ出版
2005/03
1,995円


 もしも与論島が沖縄県であったとすれば

「与論島 琉球の原風景が残る島」は、
この問いで最も切実になっている。
高橋はどのような意味でこの問いを発しているのか。

与論島は「第一級のリゾート観光地という名に恥じない」
美しい自然を持っている。

  ところが実は、与論島の魅力は、これにとどまらない。本書で最も
 強調したいことであるが、与論島には琉球の原風景が残されているの
 である。

この本の最大の主張は、この、与論島には琉球の原風景が残っている、
というものだ。そしてこの最大の主張をした後で、「もしも」の問い
はやってくる。

沖縄の魅力にとらわれてしまった人は、本島だけでなく離島に足を伸ばす
ことになる。石垣島、西表島、はては与那国島などを経験しながら、
「次は、この島」とめぼしをつける時に、奄美以下、与論は、
沖縄県の地図の県外になることで、選択肢から外れてしまう。

奄美も琉球、なかでも与論島は特に、琉球色が強いのに、と。
そこで、冒頭の問いはやってくる。

「もしも与論島が沖縄県であったとすれば」もっと与論島に訪れる人
が増えるのではないか、というように。

高橋はこの問いの無防備さに自覚がないわけではなく、
「もっとも、与論島=沖縄県という高橋の発言は、酔ったうえでの、
しかもあくまで余所者としての無責任な言葉であって、
もちろんのこと慎重に考える必要がある」と、
問いの軽さに注意を向けている。

それを充分に知っても、この問いは、与論島にとって切実でありうる。
それは、1609年に薩摩藩によって琉球から分断されたとき、
戦後の日本復帰のとき、そして最近では、沖永良部との町村合併のとき、
その問いは、少なからず、改めて、与論島の自意識に上ってきたはずだ。

もちろん歴史に仮定はない。この問いは無効な問いだ。
けれど、問いかけが胸に迫ってくるなら、一度、立ち止まってみたい。

「もしも与論島が沖縄県であったとすれば」

ぼくが答えるなら、こうなる。

観光地として集客はいくぶんしやすくなっただろう。
行政区分としても、自分を名乗りやすかっただろう。
そしてその分の歴史的な負荷は、現在あるのとは異なる色彩を
帯びただろう。

それだけは言えると思う。

ただ、仮定の世界の中にまどろむことはできない。
ぼくたちはやはり、この問いの向こう側へ行こう。

高橋は、「琉球の原風景が残る」ことに与論島の価値を見出した。
そしてその根拠を、方格地割の街の構成ではなく、網目状の構成に求めている。

これを立証するために野口才蔵の「南島与論島の文化」
(著者発行、非売品)の労作に力を借りた、シニグ祭で表面化する
サアクラの分析は、とても面白く、啓蒙される。

シニグ祭に、与論島の血縁、地縁集団がどのように居住域を拡張
していったかが、捉えられているからだ。

ぼくはここから、推論の域を出ないにしても、与論島にどのように
人が住み着いていったのかを部分的にイメージできる気がしてきた。

与論島の魅力を引き出そうとする高橋の労には愛情があり、
ぼくたちはそれを素直に受け取ることができる。

この受け取りの後に、どのように、ぼくたちは与論島を語ることが
できるか。ぼくにはそういう問いが残った。

いまはこう思う。与論島を、鹿児島県に依らないのはもちろん、
沖縄県にも依らず、日本にも依らず、語り始めることだ。

その先に、どんな触手をどこに伸ばすかは分らないにしても、
与論島をそれ自体から語り始めること。

いつか、その歩を打ち出したい

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