ドゥダンミン
去年の夏、竹下先生の本『ドゥダンミン』をいただきました。
これは、非売品だからふつうは手に入りません。
ぼくが、一冊手元に持っている光栄に浴することができたのは、
父が竹下先生と親しく、お願いを聞いていただけたからです。
実際、竹下先生と父は、囲碁友達なのでした。
小学生の頃は二人の対局をよく眺めました。
といってもぼくに囲碁は分かりません。
白と黒が陣地を取り合っているのは分かりますが、
碁盤の目はどこにも置ける可能性があり、
どうしてそこに置くのかが皆目、見当つかずにいました。
ただ、相手が碁石を置いて、対戦相手が置くまでのあの間合いや、
碁石を置く時、人差し指と中指に挟んで、
パチンと置く、あの音の潔い響きには、惹かれました。
だから、竹下先生も、失礼ながら顔より指を覚えていると
いうくらいなのです。
勝負が決まったところで、碁石を片づけ始めるのですが、
先生と父は、そこでやっと会話をしていました。
そしてしばらく経てば、まて、パチン、が始まります。
そういえば、ぼくは小さい頃、
竹下先生を「パッチン先生」と呼んでいました。
♪ ♪ ♪
その竹下先生の『ドゥダンミン』。
「ドゥダンミン」というリズム感のいい音の言葉を竹下先生は、「ひとりよがりの考え」と解説しています。
でも、これは謙遜が入っているから、
「私の考え」という本だとぼくは受け止めます。
竹下先生の「私の考え」から浮かび上がってくるのは、昭和期のをぅいがのゆんぬんちゅ(男性の与論人)像です。
たとえば一編の冒険譚のように読める漁の話。
3~4個入りの水中電灯で夜の魚をするのをデントウア
イキという。
男は海が好きだった。中学生の頃親の目を盗んで海に行
った。髪の毛が茶色になるまで日がな一日海に浮いていて
も飽きなかった。モリで魚を突く漁が主だった。1・2級
上の先輩や同級生と連れ立って海にいくのは何より楽しみ
だった。中でも西田秀吉兄は達人でいつもずば抜けて大漁
をしていた。秀吉兄は、息も長く続くし、珊瑚の穴を丹念
に見回り、感もするどかった。
「デントーアイキ(電灯漁)」
どうすれば大人の男性になれるのか。
ここには、その明快な解答があって、デントーアイキの漁が
できることなのです。
漁を終えて帰る男性の顔はいつも誇らし気なはずです。
真っ黒に日焼けしてしまった身体に、
亜熱帯魚を束にして帰る姿。
そこには、男のゆんぬんちゅ像がありますが、
『ドゥダンミン』は、その姿を活き活きと伝えてくれます。
♪ ♪ ♪
与論に関する大事な議論もあります。
砂が寄り集まってできる浜。あっちよりこっちよりする
浜ということで、寄りの浜、すなわち与論語で「ユリ浜」、
または「ユリヌ浜」と呼ばれた。近年「百合が浜」と表示
してある。「ユリ」に植物の「百合」をあてて「百合が浜」
としたと思う。私がそう話したら、五十歳代のある識者が、
「海の中に百合の花がぱっと咲いたような浜だから「百合
が浜」と命名されたという説があると、得意げに反論して
きた。それはまた珍説、突拍子もない話だ、そこまで毒さ
れたのか、とドゥダンミン男は思った。
砂が寄る、波が寄る 魚が寄る、人が寄る、観光客が寄
る、だから「より浜」なのだと宣伝しないのか。それがオ
リジナルで観光客受けもするとドゥダンミンする。
(「ユリヌ浜か 百合が浜か」)
百合が浜は、「ユリヌ浜」。
砂が寄り集まってできる浜という理解はとても的確だと思う。
不定に浮きがある砂の浜は、それだけロマンティックな存在感
を持っています。
「ユリヌ浜」は、与論島のシンボル的な存在でしょう。
ぼくは、もう少し言ってみたくなります。
「ユリヌ浜」は、その存在の仕方や名称が、
与論島のシンボルだと思いますが、
それだけでなく、与論島そのものでもないかなと。
与論島の「ユンヌ」も、「ユリヌ」に気脈を通じています。
それは、同じ、砂が寄せてできた島なのです。
そう捉えれば、「ユリヌ浜」は、シンボルというだけでなく、
アイデンティティなのかもしれません。
♪ ♪ ♪
この他にも、日本復帰や方言札、風葬、土葬、火葬など、
歴史に立ち会ってきた証言も含まれています。
近年でいえば、沖永良部との合併問題について、
合併に対する心配と否決の喜びとが語られます。
沖永良部との合併について、賛成か反対かの住民投票が
平成十五年十一月三十日にあった。投票資格者は、高校
一年生以上で三ヵ月以上在住する全住民。投票総数は
4084票。投票率は83.47%。賛成535票
(13%)、反対3549票(86%)、無効51票。
こうした事実の列記だけでも力強く迫ってくるものがありますが、
竹下先生はこう続けています。
男は、与論の良識万歳、与論魂万歳、独立自決の気概万歳
を心の中で叫び、興奮し、えも言われぬ「ほこらしゃ」を
おぼえた。これぞ与論魂、不屈の気概、たぎる与論の血潮
である。
先生の興奮が伝わってきます。
この結果は、自然だと思う。島はそのひとつひとつが
小さな宇宙なのだと理解しなければ、
地図で近いから括るという発想は通用しない。
♪ ♪ ♪
けれど竹下先生は、現状に満足しているわけではなく、
憂いも心配も抱えてます。
それを悩みの深さで言うのではなく、こうあってほしい
という望みとして取り出すなら、先生は与論島はまだ
描ききれてないと思っているのではないでしょうか。
こんな一節があります。
田中一村は、魚や伊勢海老をまるで生きているように描
いているが、あの絵筆で海中の光景を描いてもらえたらど
んなにすばらしいことだっただろう。海は陸の何倍も広く
て深い。海の中の風景を描く画家が出てきてほしいもので
ある。
(「タラソテラピー」)
ぼくはここまで来てやっと、竹下先生を引き継げるものが
あると感じてきます。
それはいまだ語り尽くされていない与論島の魅力を
言葉にすること、です。ぼくは、未来へ向けて、
「ゆんぬ・与論・ヨロン・よろん」の表情を豊かに書いていきたいのです。
『ドゥダンミン』を引き継ぐようにありたい、と。
『ドゥダンミン』からは、原始を豊かに保ちながらも近代化の
途路にあった与論を中心に、
時に那覇に住み、時に名瀬の海を泳ぎ、
言うなら、沖縄から奄美までの琉球弧の振幅を生きた
ゆんぬんちゅの男の生き様が見えてきます。
その姿はなんとも格好いい。
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