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2005/08/17

『アイランド』の与論島

勧められて森瑤子の『アイランド』を読んだ。
勧められてというのは、森瑤子の与論島をテーマにした作品で
何がいいかを尋ねて答えてもらったのだ

森瑤子が与論島を好きだったということは知っていた。
彼女が作家だということも、与論島に住み、かつ骨を埋めたことも。

でも彼女の作品を読む機会はなかった。
与論島を出自にしてそれはどうしてだったろう。

思うに、何か、特別に向けられた好意、愛情に無限に恐縮して
しまって手が出せない。そんな感じなのだった。

この度、重い腰を上げて古本で買い、『アイランド』を読んでみた。
恐縮していた気持ちにまっすぐ当るように、
与論島は正面から舞台として、テーマとして選択されているのに驚く。
与論島はかつてこんな風に盲目的な愛情の視線を受けて
描かれたことはなかったのではないだろうか。

たとえば、こんなくだりだ。

 そしてはかれは、『与論島の生活と伝承』という題の古い書物を
 取り上げ、まず最後のページを開いた。一九八四年の発行とあ
 る。次に最初の方に戻り目次に眼を通し始めた。そしてドキリと
 して一点に視線が釘づけになった。
 『天ヌ飛ビ衣ヌパナシ』
 という項があった。天を飛ぶ衣、すなわち羽衣伝説のことでは
 なかろうか。

山田実のその本は、ぼくも1984年頃に買って読んだ。
ぼくは、羽衣伝説に釘づけになることはない。
けれど、この本を特別なものとして見る視線は共有している気がする。
ぼくは出身者だから当然なのだけれど、ここにあるのは、
島を発見した人の視線なのだ。

それを特別なことと感じないわけにいかない。


作品は、この与論島に羽衣伝説を素材に近未来に時制をとって
ファンタジーを描いてみせたものだ。

作品の中身にはここでは触れないでおこう。
それ自体は気恥ずかしさ催すものもある。
そしてそのことをことさらに言挙げしたくはない。
むしろ、森の愛情の視線を追っていきたい。

すると気づくのは、この作品で何度も繰り返される
与論島の魅力の根拠になっていることだ。

それは、「与論島には川がないから海がきれい」というものだ。
「川がないから海がきれい」。
これは生活排水が海へ流れ込まないことを言っているのだけれど、
ここには確かに島外のことを知っているからこその
気づきが含まれている。

ぼくたちははっとして、なるほど与論島の魅力はそこにあるのか
と思い至るだろう。それは、現在の与論島の海の状況如何に
かかわらず、言えることだ。

そしてぼくにできるのは、森の想いを受け取って、
与論島の魅力を考えることだと思う。

ぼくはこう言いたくなった。

たしかに与論島には川がない。
しかし、無いのは川だけでなく山もないのだ。

与論島には、川も山もない。

でも、与論城跡地はあり、そこからは島の半分が見渡せる。
そう思うかもしれない。けれど、ピャーヌパンタ(ピャーの丘)
の上の与論城跡は、たかだか百メートル弱の高度に過ぎず、
「山」と呼びうる独立性を持つものではない。

それはせいぜい百メートルに満たない丘、なのだ。
与論島には、川も山もないのだ。

それを魅力というなら、それは何だろう。

川は此岸と彼岸を隔てる。同じように、山も平地と山間を隔てる。
そこには世界の違いがある。

川も山もないということ、それはぼくの考えでは、
境界がないということだ。

境界がないということ、境界が引かれていないことは、
与論島の自然だけでなく精神性として、オリジナリティの底流を
形づくっていると思っている。

森の口ぶりを真似れば、与論島には、川も山もないから、
溶けいるようにそこにいることができるのだ。

ぼくはもっと、そのことを与論島の魅力の基底に描いてみたい。
いずれ、いや近いうちに。

そしてその応答を、ぼくの森瑤子への返礼としたい。
『アイランド』は、そう思わせてくれた。

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