ちゅむちゃさぬ(愛しくて)
ぱーぱー。わなーうれーがうらじなりぼー、
ゆんぬかてぃいきちゃくなゆんげーらち、
いっちゃーますわーしちゃんちょーやー。
がしが、うどぅてぃみーぼー、
がんやあらじやーち、わかゆーたんちょーやー、うれー。
わなー、ゆんぬぬちゅむちゃさぬなーじだー。
ぱーぱー。どーかわーきねーむーゆるぴちゅんちゃー、
みーまぶーてぃたばーりよー。
ぱーぱー。またゆんぬかてぃいきゅーくとぅ、
まっちうぁーちたばーり。
ばあちゃん。ばあちゃんがいなくなったら、
与論に行きたいと思うかどうか、少し不安だった。
でも戻ってみると、
そうじゃないなぁって分かったんだよ。
ぼくは、与論が愛しくて仕方がないよ。
ばあちゃん。ぼくの家族や想う人たちをどうぞ見守ってください。
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コメント
こんばんは・・・初めまして。通称ロイと申します。あることがきっかけで、貴殿のブログをサーフィンしてみました。
その中で、まず、お祖母様とお父様が既に他界された事を知りとても心が痛みました。そして、貴殿が喜山先生のご子息であることも分かりました。衷心より深く、お二人のご冥福をお祈り申し上げます。
そして、このページの写真を見て、遠い遠い昔のような情景がたちまちフラッシュバックしてきたこと・・・おぼろげにここへたどり着く細道の記憶をたぐり寄せながら読ませて頂いています。
貴殿の父親がまだ、若く独身の頃、一時、与論島で勤務されていた頃が最後の記憶となりますが、お祖母様(お名前を失念致しました。ご容赦を)には、いろいろとお世話になりながらも、遂にその当時以来、面談しお礼を申し述べる機会も有りませんでした。
東隣に喜山茂隆家、西隣に喜山輝三(?)家・・・ここのお祖母様にも同様に大変、お気にかけて頂きました。3~4人の達者のお子様達がおいでになったことを記憶に留めておりますが・・・
申し遅れましたが、小生は、喜山茂隆様との関係で、一時、良くそちらへお世話になっていたことがございます。 現在は、恐らく、当時の縁を偲ぶ跡形も無いのではないかと推察しますが・・・
そして、西南隣に喜山スエ(子?)、長男の勝さん、家千代先生(今は故人?)の宅がございましたね。その家の前を通って貴殿の写真の浜辺へと辿る。
夜、昼とも良く足繁く通った記憶が相馬燈のようにグルグルと回帰してきます。 その写真が一番、強烈な遙かな方の過去史への道標として印象に残ります。いろいろな想い出がありますから・・・
たしか、お父様の妹さんがチヨコ先生(幼稚園?)だったはずですよね・・・後に山下先生と結婚されたとの(不確ですが・・・) その頃の宇和寺は・・・絶えず、うぐみ(ご存じ?)の伝承が絶えず、常に、夕刻になると背筋を凍らせながら過ごした事を覚えております。
とりとめも無いことを書きました。 貴殿の、たゆまぬ故郷への慈愛に満ちた心と魂の軌跡を読ませていただきました。
健筆にて与論島の万象を留め遍く、知らしめて頂くことを期待致します。
あらためて、お祖母様とお父様への哀悼の意を深くお捧げする次第です。
投稿: ロイ | 2008/01/25 23:26
ロイさま。
はじめまして。コメントありがとうございます。
たくさんの懐かしい名前です。一部、ぼくでは追いつかないので、母に聞きました。父も教師をしておりましたが、ぼくの方は、西隣の家のほうで、当時は、父哲男と祖母カナの家族で住んでいました。ぼくは、「3~4人の達者のお子様達」の一人だと思います。
宇和寺は、そうですか。うぐみの伝承がよく言われたのですね。ええ、ぼくも知っています。怖くて、夜、フバマに行くのが肝試しのテーマにあがるのですが、そんなこと、一度もできませんでした。
挙げていただいた名前を見るにつけ、泉下にある人も多くなり、そう思うと寂しさがこみ上げてきます。でも、こうして思い出すことも供養かもしれません。いい機会をありがとうございます。
投稿: 喜山 | 2008/01/26 10:21