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2005/05/29

元ちとせの南の風

先週の木曜に新橋で飲んだ帰り、
JRの駅前で、懐かしい曲が聞こえてきた。

安里屋ユンタだ。

若い男性が三線を手にマイク越しに歌っていた。
ぼくが気づいたのは、歌だけでなく、その横で、
歌に合わせて琉球舞踊を舞うおじさんいたからだった。

11時過ぎていたけれど、思わず足を止めて聞いてみた。
思いがけない時間に思いがけない場所だったせいか、
懐かしい気持ちになった。

女が、マッサージいかがですか?と声をかけてきた。
ふいに見ると、おじさんは投げ銭をしてタクシーに乗り込んでいる。
乗り込んだというより、運転手さんだった。
ぼくはこれも何かの縁と、投げ銭をして、そのタクシーに乗り込んだ。

「あの青年はまだ素人だよ」と言ったおじさんは奄美大島の出身だった。
ぼくが与論出身と告げると、
「そうねぇ」と言ってあれこれ話してくれた。

宇検村出身であること、練馬区の区長は奄美出身だったこと、
それから、親戚の美人の娘さんの自慢話などなど。

父親ほどの年齢のおじさんの話が
奄美の歌のことが多かったせいか、ぼくは元ちとせの歌を思い出した。

元ちとせは、その歌唱によって奄美の歌をポップにしたと思う。
それは、いままでできなかったことだ。

琉球歌をポップにしたのは、80年代のりんけんバンドだ。
それまでにも、たとえば喜納昌吉の、
「ハイサイおじさん」があったけれど、
それは琉球歌謡の地方色豊かな曲という
以上の意味を持ちにくかった。

りんけんバンドが、三線と太鼓を基本に、琉球の言葉と音階を
ベースにしながら、「ありがとう」や「なんくる」を歌ったとき、
地方色のアピールではなく、都市に響くポップになっていた。
それは、はじめての達成だったと思う。

その達成の上に、ぼくたちはいまや百花繚乱の沖縄からの
都市音楽を耳にしている。

そんなポップの水準へ、奄美から道をつけたのが元ちとせだった。
奄美の民謡の裏声を使いながら、
それが常の、あの哀切な響きとならずに、癒す響きを持ったことで、
元ちとせのアルバム『ハイヌミカゼ』はポップになった。

hainumikaze


ハイヌミカゼ


元ちとせ

2002年


 あなたに見えますか?私の姿
 あなたに聞こえますか?私の声

 地図に隠された 道をたどり
 ここまで来てよ そこにいるから

 どんなに離れても
 遠くにいても
 きっとわかるから
 きっと会えるから
      (「ハイヌミカゼ」上田 現)

彼女の歌詞ではないけれど、「ハイヌミカゼ」は、
第二次世界大戦に遡り、加計呂麻島に陣を張った隊長の
島尾敏雄が、特攻に出撃する時間が近づいた晩に、
海沿いの道を伝って、島の娘ミホに逢いに向かった道すがらを思わせる。

アルバム全体に流れるメロディや詞は、
奄美に固有のものとは言えないけれど、
元ちとせの歌唱に載せると、寂しさと優しさの交じった
奄美らしい情感を湛えているように聞こえてくる。

元ちとせの「南の風(ハイヌミカゼ)」は、
日本に暖かな風を運んだのだけれど、
それだけではなく、ひょっとしたらそれ以上に、
奄美自身の孤独と孤立にあたたかな風を運んだのではないだろうか。

少なくとも、ぼくにはそんな風に聞こえた。
それは歌唱としてはいままで奄美に吹いたことのない風だった。

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2005/05/27

ゆんぬ・与論・ヨロン

与論島のことを島人は、ゆんぬと呼んできた。
今もそうだ。
与論の人のことを、島人はゆんぬんちゅと呼ぶ。

ゆんぬは、島人の世界、方言や民俗が生きてきた世界だ。
それは減衰の一途を辿った世界でもあり、
ゆんぬはやっと生き延びている。

与論は、与論島が島の外の世界に向けた公共の顔
として名づけられたものだ。

それは、琉球王朝の一部としての与論であり、
薩摩藩の支配以降、薩摩藩の一部たることを強いられた。
そして近代以降、鹿児島県の一部を構成することを強いられた。
それが与論だ。

与論島は与論になって、少しこわばり、弱小感を味わった。

けれど、それだけではなかった。
宮崎についで新婚旅行のメッカとなった与論は、
観光を勢いづかせようとヨロンと自らを称した。

それを機に、いつしか与論島は南の島のヨロンになる。
沖縄とカップリングで呼ばれたヨロンは、
単独で、ヨロンと称されるようになると、
行政区域を離れて、南の島として浮かび始める。

それはプーケットやハワイなどと変らない、
どこかにある南の島という響きを持ち始めた。
ただの南の島としてのヨロンだ。

与論島はヨロンになって、軽く明るくなった。

与論島は、こうして、ゆんぬ、与論、ヨロンの
三重の層を生きてきた。

ところでここへきて、島人もゆんぬを見つめだしている。

三層の与論島をほぐして、それぞれがのびのび生きるといい。

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2005/05/22

珊瑚礁ことはじめ2

今日の日経新聞に珊瑚礁の記事が載っていた。

珊瑚礁の白化現象は、地球の温暖化の物差しとなる。
ただ、白化した珊瑚も水温上昇が収まり、4~5年が経つと、
再生することも多い。

このとき、再生する珊瑚は褐虫藻なしで生き延びるけれど、その間、
何を食べているのか、分かっていない。

なんと、そのことすら分かっていないのか。びっくりだ。

98年のときに白化現象で失われた珊瑚は、
東京都の35倍の面積の珊瑚だという。

そのなかの一部に与論の珊瑚も入るのだろう。
ぼく個人のわがままでいえば、浅瀬でも珊瑚が生い茂って
亜熱帯魚がそこかしこを遊ぶように泳いでいた
あの海をもう一度、見たいと思う。

そのために何ができるだろう。

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2005/05/15

珊瑚礁ことはじめ

昨晩、NHKの「サイエンスZERO」で、
さんご礁の特集をやっていた。
全部は見れなかったけれど、とてもタメになった。

珊瑚は、褐虫藻(かっちゅうそう)という藻と共生している。
褐虫藻は、光合成をして酸素をつくり、珊瑚に供給しているのだ。
ところが98年のエルニーニョ現象で海水の温度が上がったため、
共生できなくなり、褐虫藻は珊瑚から出ざるをえなくなった。

これが、珊瑚礁の白化現象。

そこで、植林で山の森林を再生させるように、
着床棚?を人工的に設置して、珊瑚の再生を促す試みが始まっている。

また、慶良間諸島での珊瑚の産卵が、
沖縄本島にも流れていることが分ってきた。

そんなことが学べた。

与論島も白化現象は免れていない。
観光が廃れて、海の透明度は戻ってきているけれど、
珊瑚は死骸のまま海底に横たわったままだ。

以前は浅瀬にも珊瑚が茂り、
亜熱帯魚たちが悠々と泳いでいる姿をすぐそこに見ることができた。
そんな海をもう一度、見てみたい。

そのための人工的な努力が始まっていることを知って嬉しかった。

それから、慶良間諸島から珊瑚の卵が本島へ流れる映像も面白い。
島は孤立し独自の世界を持つと同時に、
つながっていることがよくわかった。

人もまた、海流に乗って流れ着いたのに違いない。

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2005/05/14

悪口にとどまる

communicationプロカウンセラーのコミュニケーション術

東山 紘久

創元社
2005/03
1,470円

「伝わらないと腹が立つ。受け入れられないとさびしくなる。
合わせすぎるとみなしくなる。とかく人間関係はむずかしい」

夏目漱石の「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」という
小説の一説を現在版に変奏して東山は言う。

そしてこの現在の人間関係の悩みに応えようとしたのが、
『プロカウンセラーのコミュニケーション術』だ。

この本は、耳が痛い。

 清濁併せ呑んでも、それで自分が汚れてしまっては、
 汚濁にまみれることになります。

 まず、自分の話から「が」を抜いて話すくせをつけてください。
 「あなたのご意見はごもっとだと思いますが・・・・」の「が」
 です。「が」を含んだ文章は、婉曲表現の一種なので、一見
 相手の考えを尊重しているようですが、じつは自分の主張のみを
 伝えているのです。

 欠点の欠点たる特徴の第一は、他人なら容易に気づくのに、
 自分はそれに気づかないことです。自分の欠点というのは、
 気づいてもなかなか直せません。ですから他人の欠点を指摘
 することで、自分の欠点が軽くなるような錯覚を覚えるのです。

 どうして不登校になったのかを原因を考えるのではなく、今、
 子どもが不登校になっていることがもたらす、今日的意味を
 考えるのです。不登校が、子ども自身、クライエント、配偶者
 や家にもたらしている意味です。このとき重要なことは、
 否定的な意味だけでなく、肯定的な意味も考えるということです。

自分が恥かしくなる記述がいたるところにあるのだけれど、
この本では「人格の陶冶」がキーワードのひとつになっている。

人格の陶冶、人格を鍛えて磨くという意味だと思う。
久しぶりに見た言葉に、はっとさせられることしばしだった。

また、洞察を深めてくれる言葉もある。

 たとえば、「この人はひどい人です」と言った場合です。
 女性が男性に対してこの表現を使うときは、具体的な内容
 「ひどい言動」が相手に見られる場合が多いのですが、
 男性が言った場合はトータルで感じているのです。

男女にまつわるこの違いにはうなってしまう。たしかに、
女性は具体的なことを修正すると、それですっきり済むのに、
男性は、いやぼくは、「そういうことじゃない」などと内心
うそぶいたりしてきたからだ。

 家庭で欠点を指摘される度合いと、長所を称賛される度合いとでは、
 比較にならないほど前者が多いはずです。家族間においては、
 欠点指摘度数と長所称賛度数の比率がその家族の否定指数と
 肯定指数になります。欠点指摘が長所称賛の一〇倍あれば、
 あなたの家族の否定指数は一〇倍となります。あなたの家庭では、
 家族がお互いを肯定するより、一〇倍も否定的に見ていることに
 なります。お互いがお互いを否定的にしか見ないとすると、
 家族の雰囲気はどこか否定的になっています。

これはポジティブとネガティブをめぐるあらゆる場面に適応できる。

ポジティブ度数とネガティブ度数。人でも商品でも「評価」を
当てはめると、ふつう、

(ポジティブ):(ネガティブ)=2:8 ~ 3:7

だから、2<(ネガティブ指数)≦4 が、通常の値になる。

ある組織に対してその組織自体の評価を成員に行ったとき、
ネガティブ指数が、3や4であれば、ふつうの組織。
5以上になれば課題とすべきことを多く抱えた組織。
1や2であれば優れた組織。

そういうリトマス紙にもなりうる。

こんな気づきを経ながら、ぼくにはやはり「人格の陶冶」という
言葉がずっと刺さってくるのをどうしようもなかった。
陶冶が必要な人格であるのは火を見るより明らかだから。

けれども、ぼくは次の一節には躓かざるをえない。

 個人から世界まで、人間の問題を解決するには、
 人格の器を大きくする以外にはない。

ぼくにこの言葉は正し過ぎるものと映ってしまう。
これでは、社会全体が孕む矛盾の問題に触手を伸ばすことが
できないと思うからだ。

「信用のある人の三条件は、口が固いこと、
他人の悪口を言わないこと、約束を守ること、です」
というのも耳が痛い一節だ。

ぼくは人格を陶冶していかなければならない。
でも、いやそうではなく、そうするためにも、
ぼくはぼくの身を去らない毒舌を認めて、
それを抱えていくことが要るのだと思う。

変な言い方だし自慢できることでもないけれど、
悪口を言うことにとどまるしかない。

あるいは、社会の構造が掴みにくくなった裏返しに
「人格の陶冶」は目指すべきテーマ性を
強化しているのかもしれない。

ただ、この点に躓くものの、一読終えた後には、
心落ち着く気分を味わえた。

「コミュニケーション術」というからには、
対人的な対話の技術があるのだろうと想像していた。
もちろんそうした記述なのだけれど、
どちらかと言えば、内面の対話に軸足を置いていた。

このところ、ビジネスは対人関係のなかに真を見出す営みで、
文学は内面に真を見出す営みではないかと仮説してきた。

それはビジネス書を読むと、成功した人々の元気な英知に
共通してそれを感じるからなのだけれど、
関係に億劫が先立つぼくには、
立派さを見上げるより他ない感慨がやってくるのだ。

今回、耳が痛いに違いはないけれど、
気後れではなく、向かうべきものの姿を自分の内に見据えることが
できるという点で、落ち着いていられた。

それはありがたいことだった。

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生き切るということは

ぱーぱー(祖母)の他界から二週間が経つ。

いまは、ぱーぱーはもういないという思いと、
遺骨として与論島にいるという思いとが交互にやってくる。

ただ、あれをしてほしかったこれをしてほしかった、
あれをしてあげたかったこれをしてあげたかった、
という悔しさはほとんどない。

思えば、これが最後の年祝いになるだろうと
ぱらじ(親戚)が与論島に大勢集まったのは、
一九七二年、ぱーぱーの数え七十三のときだった。

そのとき飼っていたうゎんか(豚)を一頭、
つぶしたのを覚えている。

ぼくは入口の石垣の門のところで、
首筋から血を流して横たわる黒豚を眺めた。
毛を剃りやすいようにと、お湯もかけられていた。
消えてゆく生命から目が離せなかった。

血を抜いた後、真ん中から割かれて出てきた内臓や肉はきれいだった。
母が、昔は膀胱の入口を結んでバレーボールをしたと話していた。
小学生のときのその場面は忘れられない映像だ。

それから祖母は、三十数年も生きた。
それ以降、九十代になってからだろうか、
足を骨折して鹿児島市の病院に入院し、
治ったと思ったら今度はもう片方の足を骨折し、
再び鹿児島市の病院に入院するようなこともあった。

その時、治療に使われた金属は、
火葬のあと、遺骨と一緒に残された。
ぱーぱーの晩年を助けたふたつの大きな金属だった。

治療の時、息子のいる鹿児島に住まないかという申し出を
かたくなに断り、九十代のぱーぱーはリハビリをして再び、
与論島に戻ることができた。

ぱーぱーは、与論島に一人で暮していたのだ。

晩年は、両親やをぅばんか(叔母)たちが代わる代わるに
様子を見に行ったり面倒を看に行ったりした。

そんな波乱とケアの時間もあったけれど、
ぱーぱーは、病床に伏せるわけでもなく、
亡くなる前の年でも、傍を置いてある杖を、
「取って」とひとこと言えば済むのにそうしないで、
自分の足で五分をかけて取りに行く気丈さを失っていなかった。

二十一世紀に入ってからは、耳も遠くなった。
ある夏、名前を告げれば分ってくれるけど、しばらく経つと、
ぼくのことを誰か分らなくなることがあったときはショックだった。
それでもその翌年の夏に会うと、
こんどははっきり分ってくれることもあった。

調子の周期が長くなっていたのだろうか。をぅばんか(叔母)は、
「ああやってこの世のことを少しずつ忘れていって
行きやすくしているんだね」と話していたけれど、
とても理に適った説明のように思えた。

ぱーぱーは惜しむことなく与え続けて、ぼくたちは甘えつくした。

ぼくがしてあげられたことは本当に何もないのだけれど、
ぱーぱーの他界から、ぼくが学んだ気がするのは、
生き切るということは自他に悔いを残さないことである、
ということだ。

猫背のぼくに、背筋を伸ばしなさいという声が、
どこからか聞こえてくる気がしている。

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2005/05/12

うじゃうじゃアマン

彼らは夜なるとカサコソ出没する。
ぱーぱーぬやー(祖母の家)を囲む石垣の間から彼らは出てくる。
夜は彼らのカソコソでにぎやかになるのだ。

彼らは意外に大きい。手のひらサイズだ。
はさみもあなどれない。くれぐれも挟まれないように。
彼らは陽射しが苦手だ。とくに南島の昼間の陽射しをくらえば、
命の保証がない。

だから、夜な夜なカサコソなのだ。

ぼくたちとの接点は、
申し訳ないことに魚の餌だった。亜熱帯魚たちの。
彼らの尾をひねって切って、千切って釣り針にかけるのだ。
子どもの頃、それは割りと平気にできたのに、
いまは抵抗があるありさまだけれど。

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アマン(やどかり)はとても身近な存在だった。

一晩で、バケツ一杯、軽々と採れた。

アマンはどこにでもいる。石垣のあるジャングルの暗がりに入れば、真昼間でもカサコソと音がする。足を止めて眺めれば、アマンがここあそこに目に入ってくる。

吉本隆明の『共同幻想論』には、沖永良部島で女の左手にある
ヤドカリをデザインした入墨のことを聞くと、
先祖はアマムから生まれてきたから、
その子孫である自分たちもアマムの模様をいれずみした
という小原一夫の論文を紹介しているけれど、
その話は、むべなるかな、である。

与論島に上陸した先祖たちが、アマンに迎えられたと想像するのは
そう無理のないことだと思えてくる。

そのくらい、アマンは普遍的な存在だ。

アマン、奄美、アマミキヨ、天孫氏、海部などなど。
アマという音は、南島の人は誰なのかについて、
悩ましい題材を提供もしてきたけれど、
まあそれがどうあれ、アマンはいまも元気だ。

アマンはきっと与論島の人口より多い、与論の主なのだ。

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2005/05/10

たゆたうオオゴマダラ

ジャングルめいた木々の間を歩いてみる。
ジャングルと言っても、ぱーぱーぬやー(祖母の家)から、
少し歩けばすぐにそんな環境にはなるのだ。

うっそうとしたなかを道を作るように歩きながら、
何か、気配のようなものを感じて立ち止まったことがあった。

次の瞬間。

気づくと、そこかしこから、大きな蝶がひらひら舞いだした。
五、六羽はいたろうか、ぼくのまわりで一斉で飛び出してきたのだ。

その舞い方はゆるゆるしていた。

あまりにゆるいので、飛ぶ軌跡もアップダウンを
繰り返しているように見えるし、
いつでも採っていいと言っているようにすら見えてきた。

時間がゆっくり進み出して、なんというか、
非現実的な感覚のなかに囚われていきそうになる。

神様がいるんじゃないか、と、そんな雰囲気だった。

オオゴマダラはたゆたうように飛ぶ。
あの大きさと飛びっぷりは、気品すら感じさせる。

悠久の化身のようなオオゴマダラよ、永遠なれ。
オオゴマダラも、与論に来たと思わせてくれるもののひとつだから。

と、思った。2002年夏の幸運だった。

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2005/05/08

南島のない日本地図

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この立体地図は小学5年のときにつくった。

5年のときの先生は、鹿児島の大学を卒業したての新任の方だった。島人ばかりだった先生の中で新風を吹き込むように、先生には元気があった。

その先生が、クラブ活動で与論島の立体地図の作り方を教えてくれた。

その面白さを味を占めて、夏休みに日本地図に挑んでみた。
建材店から大きめの板を買って、
9万分の1くらいだろうか、日本地図をもとにした。

たしか彫刻刀を使って、等高線に沿って厚紙を切った。
切った厚紙を、等高線の低い方から重ねて、
そしてその上から色を塗った。
低地は緑、高地にいくにしたがって茶色。

母に、「どうせできないんだから止めなさい」とはじめに
言われたのをよく覚えている(苦笑)。


ぼくは夢中だったと思う。
庭の蜜柑の木の木陰や、縁側に陣取って黙々と切った貼ったをした。
海を青に塗り、最後はニスを塗って完了。
できあがったときは嬉しかった。


夏休みが明けて、友達に手伝ってもらって、学校に持っていった。
なにしろ、横1メートル、縦1メートル強のものだったから。

学校では、くだんの先生にほめられた。
でも、宿題をしてこなかった同級生と比較されたのが
とても嫌だったのを思い出す。

以来、31年間、ぱーぱーのやー(祖母の家)の玄関には、
この日本地図が誇らしげに飾られてあった。ぼくも誇らしかった。


暇長者が学生の特権。
得体の知れない憎悪と過敏神経のぼくの眼に、
この地図は島にいたときとは違ったものに見えた。

それは、日本地図とあるのに、
そこには奄美以下、沖縄の琉球弧がすっぽりと抜けていた。


本当なら、広々とした太平洋のスペースに
別枠で描かれているはずのものだ。

ぼくは愕然とした。
別に野郎事大な意味づけをしようとは思わない。

でも、そこに南島が描かれておらず、
作っている本人はそこに矛盾を感じず、
周囲もほめることはしても、
そのことに何かを言う者はいなかった。

そのことにぼくは引きつけられた。

日本地図を描くのに、自分のことを勘定に入れない。
あるいは、与論も奄美も沖縄も、日本地図には関係がない。

でも、ことは地図だけのことに限らない。
歴史においても同様だ。

歴史を語るのに自らのことは勘定に入れない。

それは、与論島の地図と歴史に前提となってきた心性ではないのか。
繰り返せば、そのことに格段の意味づけをしようとは思わない。

ただ、ぼくの南島論は、この事実が起点になることだけは
はっきりしている。南島のない日本地図、だ。

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2005/05/07

与論島慕情

与論の歌と言えば、この曲を挙げないわけにいかない。

琉球民謡のオリジナルというわけではなく、
観光ブームに乗った、ハワイアン的なイントロに始まり、
どこかブルーライト・ヨコハマの後継のような響きの歌謡曲
なのだけれど、この歌は忘れられない。

与論島に帰る立場になってから聞いた曲だと思う。


「与論島慕情」

 青い海原、きらめく珊瑚
 ハイビスカスの花も咲く
 夢にまで見た与論島
 夢にまで見た与論島

 沖の漁り火、夜釣りの船か
 大島通いの定期船
 離れ小島の与論島
 離れ小島の与論島

 蛇皮と太鼓で一夜は明ける
 与論献捧、大盃で
 熱い情けの与論島
 熱い情けの与論島

 百合が浜辺で拾った恋は
 アダン葉陰で咲いていた
 帰りともない与論島
 帰りともない与論島


鹿児島から19時間をかけて船に乗り、与論が近くなると
決まってこの曲は流れた。

学生や恋人たちの熱気で船はむんむんしていた。
着岸近くになると、「帰ってきた」と観光客である彼らが
言うのにはびっくりした。

「夢にまで見た与論島」
「離れ小島の与論島」
「熱い情けの与論島」
「帰りともない与論島」

出身者でありながら、どの言葉もうなずかないわけにいかなかった。
こちらのセンチメンタルな感情に、
この曲のロマンティックな響きが重なるのをどうしようもなかった。

この曲の甘くとろけるような雰囲気を
与論島という舞台が用意していたなら、
ヨロンも捨てたものではない。

いま、タビンチュ(観光客)は「与論島慕情」を耳にすることは
あるんだろうか。

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2005/05/06

ハイビスカスとオランウータン

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与論島ではそこかしこにハイビスカスが咲いている。

歩けば当たるというくらい、ハイビスカスは目の端にあった。印象だけで言えば、年から年中、咲いていた。

そしてぼくにとっては、ハイビスカスといえばオランウータンの好物、である。

少年の頃、与論島は観光ブームのただなかにあった。南の最果てというイメージもあった。

そこで、というわけでもないだろうが、
近所のホテルには、オランウータンがいたのだ。
本当である。たしか、テナガザルもいた。

1970年代のはじめの頃。
南の島の演出のためだったのだろうか。
やれやれ、である。

が、子どもには、無料動物園だった。

しかも檻から距離がなく、間近に見れる動物園だ。

学校の帰り、無料動物園に寄るのはちょっとした
楽しみになっていた。

そのとき、歩けば当たるハイビスカスをちぎって
その花を上げたところ、美味しそうにほうばるのだ。
オランウータンは。

嬉しくなって、ハイビスカスをちぎっては手渡していた。

そこで、

 ハイビスカス=オランウータンの好物

という図式ができあがった。


ある日のこと、いつものように学校帰りに寄って、
ハイビスカスをあげようとしたら、鞄を奪われた。
なにしろ相当な腕力だ。

一瞬、綱引き体勢になったがあっという間だった。

子どもの手から簡単に奪うと、中を漁りはじめた。
鞄の中には、給食のあまりのコッペパンが入っていたのだが、
それをとってオランウータンは美味しそうに食べたのだ。

しばらくすると、ホテルの人がやってきて、
オランウータンから鞄を取り戻してくれた。

いま思えば、腕を引っ張られずによかったと思うのだが、
かなりな接近遭遇体験だった。

あのオランウータンはその後、どんな運命を辿ったのだろう。
ハイビスカスを見ると、そのことを思い出す。

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2005/05/05

ぱーぱーぬやー(祖母の家)

parparnuyar

ぱーぱーぬやー(祖母の家)は、脇道に入った奥の方、うっそうと木々が茂るなかに忽然と現われた。

そのたたずまいが、脇道から入った瞬間に、時間を幾重にも遡るようにあって、太古の雰囲気を醸していた。

石垣の門に榕樹(がじゅまる)がかぶさり、
守り神のように根をはっていた。

昔はこの榕樹(がじゅまる)の根のまわりでしこたま遊んだ。
夏が近くなれば、無数のがじゃん(蚊)も一緒だったけれど、
ばしばし叩きながら、根のまわりに戯れた。

榕樹(がじゅまる)の前では親父がよくキャッチボールをしてくれた。

やー(家)のまわりの石垣からは、
夜になるとこれまた無数にあまん(やどかり)がカサコソと
音を立てて現われた。

島には先祖があまん(やどかり)だと言う民話も残っているが、
それがとてもリアルに感じられたのだ。

やー(家)では、やどぅまーぶい(ヤモリ)が
チーチーと泣き声を挙げていた。
それを聞くと、ぼくは帰ってきた実感がやってくるのだった。

柱には文字通り、柱の傷が残っており、
21世紀になってもトイレは汲み取り式で、
台所は、足を踏み入れると、食器棚が昔も今もガタガタ震えていた。

そして何より、そこにはぱーぱー(祖母)と過ごした匂いがあった。

この写真は去年の夏、7時半に、
南の島の遅い朝に写した。
まだ朝陽の届ききっていない弱い光の中にある。

そのとき、よもやこの、ぱーぱーぬやー(祖母の家)を見るのが
最期になるとは思ってもみなかった。

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2005/05/03

ぱーぱー(祖母)を送る

ぱーぱーのそばにいると、
自分がありのままで許されている肯定感を身体中に感じた。
彼女の振る舞いと言葉の肯定力があまりに無類なものだから、
ぼくたちはぱーぱーを慕い続けてきたのだと思う。

ぱーぱーは長生きしたので、
彼女が受け容れてきただろう土葬と洗骨にはならずに、
時代の変化の洗礼を浴びるように火葬になった。

とぅぶれー(葬儀)では、ぷーくにん(担ぎ係り)を
努めることができた。ぱーぱーの重みを両手に感じながら、
送ることができてありがたかった。

もう、あの無類の肯定感に甘えることはできなくなった。
ぱーぱーが長生きだったから、
ぼくたちはゆったり甘えてきてしまったのだ。
いい加減、肯定感を自分のものとして受け取らなければならない。
ぼくにとっては、それがぱーぱーの死を受け容れることだ。

ぼくに黄金時代があるとしたら、
それは間違いなく、彼女と過ごすことのあった少年期の日々。
とても贅沢な時間。

とーとぅがなし、ぱーぱー。

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2005/05/01

ぱーぱー(祖母)がいるから

ぱーぱーは、みんなのアイドルだった。

ぱーぱーがいるから、与論島に行きたかった。

ぱーぱーは、嘆かわしいと思えるようなことでも、
ゆかてーやー(よかったね)と、そこによい所を見つけて
視点を切り換えることを忘れなかった。

世間の悪口は、えーぬん(そうだろうね)と聞き流した。

ぱーぱーは、自分の主張をすることはなかったけれど、
ぱーぱーは、みんなの言いたいことを聞き続けた。

彼女が聖人であるために、
ぼくたちが背負わずに済んできたことは何だろう。

ぱーぱーは、それを誰に問うことなく、
ただ、とーとぅ(ありがとう)と言い続けたまま、棺に入った。

ぱーぱーの冷たい肌をなでたこと、
ぱーぱーに化粧をほどこした叔母の横にいれたこと、
ぱーぱーの頭を持って枕を変えたこと、
ぱーぱーを抱きかかえて棺に入れたこと、

できることはそれくらい。

さようなら、ぱーぱー。
偉大な人。

とーとぅがなし。

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