奄美の紹介文を更新する
奄美諸島は、二重構造の国家境界領域である。
琉球世界からも大和世界からも周辺地域として位置づけられている。
奄美諸島の考古資料は、評価不定の存在として宙に浮いている。
島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が
値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。
本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた。
しかしほんとうは沖縄といっしょにこの琉球弧の島々が、
日本の歴史に重要な刺激を運びこむ道筋であったことを、
もっと深く検討してみなければならないのではないかと思う。
明治維新は日本の近代的方向を決定した。
その重要な歴史の曲りかどで、薩摩藩が演じた役割が
どんなに大きなものであったかをわれわれ日本人はだれも疑わない。
しかし藩の経済を支えていたものが、
奄美が島々を挙げてゆがんだ砂糖島にさせられた
犠牲の上に立っていることを知る者は少ない
(もちろん琉球王国との密貿易の役割を考えた上で)。
信じられないことだが、このあとさきの歴史的研究に対して
奄美はいまだ処女地だということは、
やはり、いままで本土から奄美がどう扱われてきたかを
象徴的に示すものだと思う」(「奄美-日本の南島」)
と述べているが、
この島尾敏雄の指摘から四〇年近く経過しているにもかかわらず、
奄美諸島の考古学研究はいまだに端緒的研究段階に
置かれているのである。
(『ヤコウガイの考古学』高梨修)
島尾敏雄は、奄美最良の理解者かつ紹介者だ。
奄美を紹介するなら、島尾敏雄の文章を尋ねればいい。
ぼくはそう思ってきた。
ところで『ヤコウガイの考古学』は、
奄美の紹介文に、いままでにはなかった
新しい響きを加えているように思える。
それは、脱「付録」としての奄美の自己像更新というべきものだ。
この更新作業を進めているのは考古学である。
考古学は、高梨さんが再三指摘しているように、
資料の実態に根拠を置く。
言い換えれば、事実に基づく。
ところで、奄美というあいまいさを旨とする領域に、
確たるものを見いだそうとする者は、
時間をかければ済むわけではない、
大きな無力感にとらわれてきた。
それは、島尾敏雄も、時に身につまされた無力感だ。
なにしろ、奄美は過去を持たない。
過去を持たないから、確たるものを築こうにも手がない。
あいまいさを宗旨に彷徨うしかない。
奄美には、いつもそんな悲哀がつきまとった。
それだから、奄美が脱付録としての自己像を、
考古学による過去の事実によって更新しようとするとき、
そこには深い慰めがあると、ぼくは思う。
なぜなら、奄美に対して、
奄美よ奄美、お前に過去はあるのだ、
と、告げ知らせることになっているからだ。
それは、奄美の自己確立というか、
自己表現にとって、欠かせない。
その不可欠のものをもたらしていることに、
『ヤコウガイの考古学』の意義はあると思う。
高梨さんは、「あとがき」にこう書いている。
筆者には、島尾敏雄が奄美大島在住時代に耳にした
「琉球弧のざわめき」がヤコウガイ大量出土遺跡から
聴こえたのであるが、
果たしてそのざわめきは本書の読者に少しでも届いたであろうか。
ぼくも不十分な耳ながら、
高梨さんを介してヤコウガイの遺跡に立ち会うように、
そのざわめきをいくらか聞けたように思う。
奄美が自信を持つのはよいことだ。
というか、奄美は自信を持たなければならない。
そのための大切な歩みがいま、記されつつある。
現在進行形のこの成果を、ぼくの課題に引き寄せれば、
今後の奄美像が、
琉球王国としての沖縄像の縮小再生産に陥らぬよう、深呼吸しながら、
広くゆったりした琉球弧像に、
新しい奄美像をつなげていくことだと思っている。
いまは、高梨さんの労作に敬意を表したい気持ちだ。
※「境界領域の自任感覚」
「奄美諸島史の逆襲的問題提起」
「スセン當式土器から兼久式土器へ」
「兼久式土器出土層の下層」
「奄美諸島の土器編年」
「小湊フワガネク遺跡の豊か」
「浮上するヤコウガイ」
「基礎としての『贈与』」
「歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。」
「貝の道」
「喜界島・奄美大島勢力圏」
「脱付録としての奄美論」
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