カテゴリー「18.『ヤコウガイの考古学』を読む」の13件の記事

2007/10/17

奄美の紹介文を更新する

  奄美諸島は、二重構造の国家境界領域である。
  琉球世界からも大和世界からも周辺地域として位置づけられている。
  奄美諸島の考古資料は、評価不定の存在として宙に浮いている。

  島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が
  値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。
  本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた。
  しかしほんとうは沖縄といっしょにこの琉球弧の島々が、
  日本の歴史に重要な刺激を運びこむ道筋であったことを、
  もっと深く検討してみなければならないのではないかと思う。
  明治維新は日本の近代的方向を決定した。
  その重要な歴史の曲りかどで、薩摩藩が演じた役割が
  どんなに大きなものであったかをわれわれ日本人はだれも疑わない。
  しかし藩の経済を支えていたものが、
  奄美が島々を挙げてゆがんだ砂糖島にさせられた
  犠牲の上に立っていることを知る者は少ない
  (もちろん琉球王国との密貿易の役割を考えた上で)。
  信じられないことだが、このあとさきの歴史的研究に対して
  奄美はいまだ処女地だということは、
  やはり、いままで本土から奄美がどう扱われてきたかを
  象徴的に示すものだと思う」(「奄美-日本の南島」)

  と述べているが、
  この島尾敏雄の指摘から四〇年近く経過しているにもかかわらず、
  奄美諸島の考古学研究はいまだに端緒的研究段階に
  置かれているのである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

島尾敏雄は、奄美最良の理解者かつ紹介者だ。
奄美を紹介するなら、島尾敏雄の文章を尋ねればいい。
ぼくはそう思ってきた。

ところで『ヤコウガイの考古学』は、
奄美の紹介文に、いままでにはなかった
新しい響きを加えているように思える。

それは、脱「付録」としての奄美の自己像更新というべきものだ。
この更新作業を進めているのは考古学である。

考古学は、高梨さんが再三指摘しているように、
資料の実態に根拠を置く。
言い換えれば、事実に基づく。

ところで、奄美というあいまいさを旨とする領域に、
確たるものを見いだそうとする者は、
時間をかければ済むわけではない、
大きな無力感にとらわれてきた。

それは、島尾敏雄も、時に身につまされた無力感だ。

なにしろ、奄美は過去を持たない。
過去を持たないから、確たるものを築こうにも手がない。
あいまいさを宗旨に彷徨うしかない。
奄美には、いつもそんな悲哀がつきまとった。

それだから、奄美が脱付録としての自己像を、
考古学による過去の事実によって更新しようとするとき、
そこには深い慰めがあると、ぼくは思う。

なぜなら、奄美に対して、
奄美よ奄美、お前に過去はあるのだ、
と、告げ知らせることになっているからだ。

それは、奄美の自己確立というか、
自己表現にとって、欠かせない。
その不可欠のものをもたらしていることに、
『ヤコウガイの考古学』の意義はあると思う。

高梨さんは、「あとがき」にこう書いている。

  筆者には、島尾敏雄が奄美大島在住時代に耳にした
  「琉球弧のざわめき」がヤコウガイ大量出土遺跡から
  聴こえたのであるが、
  果たしてそのざわめきは本書の読者に少しでも届いたであろうか。

ぼくも不十分な耳ながら、
高梨さんを介してヤコウガイの遺跡に立ち会うように、
そのざわめきをいくらか聞けたように思う。

奄美が自信を持つのはよいことだ。
というか、奄美は自信を持たなければならない。
そのための大切な歩みがいま、記されつつある。


現在進行形のこの成果を、ぼくの課題に引き寄せれば、
今後の奄美像が、
琉球王国としての沖縄像の縮小再生産に陥らぬよう、深呼吸しながら、
広くゆったりした琉球弧像に、
新しい奄美像をつなげていくことだと思っている。

いまは、高梨さんの労作に敬意を表したい気持ちだ。

 ※「境界領域の自任感覚」
  「奄美諸島史の逆襲的問題提起」
  「スセン當式土器から兼久式土器へ」
  「兼久式土器出土層の下層」
  「奄美諸島の土器編年」
  「小湊フワガネク遺跡の豊か」
  「浮上するヤコウガイ」
  「基礎としての『贈与』」
  「歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。」
  「貝の道」
  「喜界島・奄美大島勢力圏」
  「脱付録としての奄美論」



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2007/10/16

脱付録としての奄美論

奄美は、国家中心からみれば、「辺境」に位置するが、
もうひとつ、そこには「境界」という側面がある。

そして、「境界」とはフロンティアである。
何のか? 国家との交流のフロンティアである。

  国家周辺地域は、静態としてとらえるならば「辺境(マージナル)」
  という理解になるが、動態として捉えるならば「境界(フロンティア)」
  という理解が生まれてくる。

  「辺境」と見なされているところも、
  交流の様態を見つめてみるならば「境界」という
  別の姿が見えてくるのである。
  琉球王国についても、機能的側面から考えるならば、
  中世国家の境界領域に誕生した巨大交易機構という見方もできる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

こう主張する高梨さんからはもうひとつの声が聞こえてくる。

  これまで琉球弧の考古学研究において、
  奄美諸島と沖縄諸島の考古資料はほとんど同一視され、
  奄美諸島の考古資料をめぐる評価は
  沖縄側の研究成果のなかに解消されてきた。
  しかし、貝塚時代後期以降の奄美諸島と沖縄諸島における
  考古資料の様相には相違が認められる事実を問題提起して、
  本章の前半で沖縄側から評価できない奄美諸島の考古資料、
  すなわち評価不定の考古資料について、
  ヤコウガイ大量出土遺跡・鉄器出土遺跡・カムィヤキ古窯跡群・
  城郭遺跡を取り上げ、それぞれの研究課題の確認を進めてきた。

  筆者は、奄美諸島と沖縄諸島の考古資料に認められる差異のなかに、
  奄美諸島史の実態が隠されているのではないかと孝えている。
  その差異は、地域的差異として片づける単純なる理解論では
  到底説明できない問題を多数かかえているはずである。
  そうした差異を読み解くための視角として、
  社会環境について「国家境界領域」、
  自然環境について「高島・低島」 の分析概念を用意して、
  本章の後半で奄美諸島史の知られざる姿について検討してきた。

奄美は沖縄と同一視されてきたが、そうではない。
奄美には奄美の姿があるのである。

奄美は沖縄の付録ではない。
それがここから聞こえてくるひとつの声だ。

付録。それは、奄美につきまとってきたアイデンティティの別称だった。
沖縄(琉球)の付録。大和(鹿児島)の付録。

しかし、考古学の成果が物語るところによれば、
奄美は付録ではない。

ぼくは、奄美による奄美の自己主張の胎動を感じる。
こと奄美については、こうした声の存在自体、
価値があるように響いてくる。

脱付録としての奄美論だ。



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2007/10/15

喜界島・奄美大島勢力圏

喜界島は南下する倭人勢力の拠点となった。
そう、『ヤコウガイの考古学』は仮説する。
そしてこの勢力による国家造山運動の萌芽のような動きは、
琉球王国形成に先立つものだった。

ここからは、大和との交流手として生きた
奄美の姿が垣間見えてくる。
それは、島津侵攻によって始まったのではなく、
古代にはじまっていたのだ。

喜界島は、奄美大島以南にゆるやかに連なる
琉球弧の入口に位置する。
そのポジションゆえ、
南下する倭人勢力の拠点となったのだ。

こうした位置がもたらした姿が明らかになるにつれ、
喜界島は、いま自己像を大いに更新しつつあるはずだ。


高梨さんの整理を引いておこう。

  2 喜界島・奄美大島勢力圏
  (前略)喜界島・奄美大島における当該段階の
  発掘調査成果には沖縄諸島であまり確認できない考古資料が
  集中分布する特徴的様相が認められ、
  そこからうかがわれる交流の様子は文献史学側の
  研究成果と整合的に理解することが可能になりはじめている。

  当該段階における喜界島・奄美大島・徳之島等の一部の
  島嶼社会は、単なる漁撈採集経済社会に止まるものでは決してなく、
  すでに階層社会が営まれていた様子を示していると考えられる。

  とくに古代後半段階から喜界島・奄美大島北部に
  形成されはじめる政治的勢力の存在は、
  後に国家形成にいたる沖縄本島の動態に
  先行するものとしてきわめて注目されるのである。

  『日本紀略』や『小右記』に記された十世紀終末の
  奄美島人による太宰府管内諸国の襲撃事件や『吾妻鏡』に
  記された十二世紀後半の阿多忠景の貴海島逐電事件等、
  古代終末段階にキカイガシマをめぐる動態が集中して
  認められる事実から、キカイガシマの拠点的機能を次第に
  喜界島が果たしはじめていたのかもしれない(永山二〇〇四)。

  徳之島におけるカムィヤキ古窯跡群の出現も、
  そうした動態が展開していた時期にまさしく相当する。
  カムィヤキ古窯跡群が出現する十二世紀代の直前段階には、
  すでに喜界島に倭人の拠点的遺跡(防御性集落)が
  出現していたと考えられるのであり、喜界島・奄美大島北部に
  形成されはじめた政治的勢力圏が当該地域の
  経済的権益を掌握していた可能性はきわめて高いと思われる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修)

Kikaiamami














そしてこれは、喜界島の自己像更新であるとともに、
琉球弧の自己像更新につながると思える。

谷川健一は、『甦る海上の道・日本と琉球』で、
琉球王国の建設は、
南下した倭人勢力によるものだという仮説を提示し、
同時に、そのとき奄美は先進地域として重要な役割を担っていたと
指摘していた。

 ※「蘇る海上の道」

というより、奄美の考古学の成果をもとに谷川は語っているわけで、
順序は逆、考古学成果のあとに谷川の仮説は来るものだ。

ところで、この谷川の仮説を引き継ぐと、
「喜界島・奄美大島勢力圏」は、琉球王国に先立つ、
倭人勢力の拠点だったことになる。

倭人勢力は、最初、喜界島を拠点におき、
ついで、沖縄本島を拠点に、国家を形成した。
こういう言い方も可能になる。

琉球王国も喜界島・奄美大島勢力も、
南下する倭人が実現したものだ。
自分の直観に過ぎないけれど、
こう仮説するのは納得しやすい。

琉球弧は内発的には国家を形成する必然性を
持ってなかったと、ぼくは考えてきたから。

だから、やはりそうか、と思う。



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2007/10/13

貝の道

琉球弧と九州のあいだで行われていた貝交易は、
「貝の道」と呼ばれてきたという。

『ヤコウガイの考古学』の整理を頼りに、
「貝の道」の変遷を辿ってみよう。

  1 弥生時代並行期
  本土地域で南海産大型貝類の利用がはじまる時期は、
  弥生時代前期後半にさかのぼる。
  稲作農耕を基盤とする農耕社会が全国に浸透しはじめていた時期、
  北九州地方を中心に南海産大型貝類を用いた貝製腕輪が
  突然に使用されはじめるのである。

農社会の成立と機をいつにして「貝の道」は始まる。

  そして弥生時代中期後半に国内でも銅器生産が開始されはじめ(中略)、
  弥生時代後期以降、北九州地方を中心とする貝製腕輪の使用は
  次第に衰退していくのである。

  材料となる月殻を供給した琉球弧側に目を転じてみよう。
  対外交流は、縄紋時代並行期まで緩やかに営まれていたが、
  弥生時代並行期からにわかに活発化しはじめた様子がうかがえる。

しかし、本土で銅器生産が開始されると、
貝製腕輪は次第に使用されなくなる。
銅製腕輪が使用されるためだが、しかし貝の魅力は衰えていない。
銅製腕輪は、貝製腕輪を模倣して作られていたのである。

また、

  奄美諸島・沖縄諸島の島嶼社会では、
  弥生文化はおそらく受容されていないと考えられる(攻略)。

  2 スセン當式土器段階(古墳時代並行期)
  幾内政権が誕生して、畿内地方から古墳文化が全国に波及していくなかで、
  一度は弥生時代に衰退した南海産大型貝類の貝製腕輪が
  ふたたび盛行しはじめて、新たなる展開を遂げていく。
  貝製腕輪は、古墳文化の波及に伴い、
  九州地方・瀬戸内地方・盤内地方・東海地方・中部地方・北陸地方等の
  列島各地で台頭していた首長たちに所有され、
  限られた社会階層だけに許された威信財としての性格が
  一層顕在化してくる。

一度は衰退した「貝の道」は、階層社会が成立するにつれ、
威信財として、再び活発になる。

  古墳時代における琉球弧の島嶼社会については、
  残念ながらほとんど不明に近い。
  ただし、当該段階の奄美諸島・沖縄諸島の遺跡からは、
  前段階のように九州地方の外来遣物があまり出土しなくなるので、
  貝殻供給システムには大きな変化が生じていると考えられる。

  3 兼久式土器段階(古墳時代終末~平安時代後期並行期)
  古墳時代の終末段階は、九州地方以外では貝製腕輪が
  ほとんど使用されなくなる。
  九州地方ではイモガイ製腕輪が盛行するが、
  北九州地方と南九州地方に偏向した集中分布が認められる。
  ゴホウラ製腕輪はほとんど消失して、
  オオツタノバ製腕輪が南九州地方でわずかに認められる。

貝製腕輪は、北九州に残るのみになり、他地域では流行らなくなる。

  またイモガイ螺頭部分の円盤を金属枠内にはめ込んだ馬具が、
  六世紀後半から北九州地方と関東地方を中心とする東日本で盛行する。
  当該段階におけるイモガイの盛行は七世紀前半までのことで、
  七世紀後半にはイモガイ製馬具もイモガイ製腕輪も終焉を迎えて、
  おおよそ消失してしまうのである。

  従前の研究成果では、いわゆる「貝の道」が機能していたのは
  当該段階までと理解されてきた。
  しかし、南海産大型貝類の遠隔地交易は新たなる展開を遂げていて、
  本土地域で月製腕輪の使用が終焉を迎えようとしていたころ、
  琉球弧からヤコウガイが運び出されはじめて、
  その後の島峡社会に大きな影響を与えるヤコウガイ交易が
  開始されていたのである。ただし、きわめて新しい研究成果であるため、
  本土地域側の様子がよく解らない。

「貝の道」は、7世紀で終焉したというのが従来の理解だったが、
実はそうではない。

ヤコウガイの交易が始まるのである。

  ヤコウガイ大量出土遺跡をはじめとする当該段階の
  奄美諸島の遺跡からは、多数の鉄器が出土していて、
  奄美諸島の島惧社会のなかにすでに鉄器が普及していた
  様子がうかがわれる。沖縄諸島には、こうした鉄器普及の様子は
  まだ認められない。ヤコウガイ交易を享えていた奄美諸島の島嶼社会は、
  鉄器保有の事実からも社会階層が発達していたと理解され、
  当時の列島を概観した際に、
  北海道地方における擦文時代と対比できる社会状況が準えられて
  いたのではないかと考えられる。
 
  すでに述べたように、奄美諸島ではふたたび
  弥生時代並行期の段階のように
  土師器をはじめとする外来遺物がしばしば出土するようになるので、
  琉球弧と本土地域の交流史は新たなる段階に
  突入している様子がうかがわれる。奄美諸島の在地土器は、
  台付蛮形土器からふたたび平底の整形土器(兼久式土器)に
  変化していて、沖縄諸島でもようやく深鉢形土器の
  平底化(アカジャンガー式土器)がはじまるようである。

  とくに奄美諸島の奄美大島や喜界島からは、
  土師甲須恵器が相当に高い頻度で出土するようになるので、
  文献史学側から指摘されているように、球弧の拠点地域として
  機能していた可能性が高い。ヤコウガイ交易の問題も含めて、
  やはり奄美諸島の実態が注意されるだろう。

奄美諸島が、ヤコウガイを軸にした「貝の道」の拠点になったと考えられる。

  4 類須恵器段階(平安時代後期~鎌倉時代並行期)
  奈良時代に開始された螺銅は、国内で独自に発達を遂げながら
  十二~十三世紀にもつとも盛行する。
  たとえば、十二世紀に成立した中尊寺金色堂(岩手県平泉町)は、
  確認できる螺鈿総数が二七〇八四個を数えるそうであるから、
  膨大なる数のヤコウガイ貝殻が東北地方まで運び込まれて、
  消費されていたことになる。

27084個、万単位である。膨大な量だ。

  もちろん当該段階におけるヤコウガイ貝殻の需要は、
  ほかにも存在したはずであるから、
  それだけのヤコウガイ貝殻を本土地域に恒常的に供給できる
  交易システムが必ず存在していたにちがいない。
  そうしたヤコウガイ交易と関係が考えられる動態として、
  まず十一世紀、奄美諸島の徳之島で突然開始された
  窯業生産が注目される。カムィヤキ古窯跡群と呼ばれる当該遺跡は、
  一〇基前後の窯で構成される支群が一二カ所も
  確認されている大規模遺跡である。

  カムィヤキ古窯跡群は、十一世紀から十四世紀まで稼動していたが、
  その生産品はトカラ諸島から先島諸島に主たる分布地域がかぎられるため、
  商品の大量生産という窯業生産の性格から、
  カムィヤキ古窯跡群における商品生産は琉球弧を対象としたものであると
  理解されている。カムィヤキ古窯跡群が出現するまで奄美諸島では
  土器(兼久式土器)が用いられていて、
  土器生産技術が内的に段階発展して窯業生産技術の
  発生にいたる様子は認められないので、
  外部世界から窯業生産の技術導入が行われたと見てまちがいない。

奄美大島と徳之島こそは、「貝の道」の拠点だったのではないか。

  そうしたカムィヤキ古窯跡群をめぐる技術系譜は、
  高麗の無釉陶器に求められると考えられていて、
  生産品の技術的共通要素から朝鮮半島南部の
  西海岸地域が関係地域として指摘されている。
  カムィヤキ古窯跡群が出現するまで、奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島に
  共通する考古資料は、わずかに開元通宝ぐらいしか認められない。
  カムィヤキ古窯跡群で大量生産された商品が
  島峡世界のすみずみまで流通して、
  いっしょに白磁・青磁・滑石製石鍋・鉄器等も運ばれて、
  はじめて奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島に
  共通した文化要素がもたらされるのである。

はじめてか、何回目か、琉球弧がモノとしての共通性を確認したのは、
奄美の生産物だったかもしれない。

  十五世紀初頭、沖縄本島に琉球王国が成立して、
  一〇〇〇年以上にわたり継続してきた琉球弧と本土地域における
  南海産大型貝類の遠隔地交易もひとまず終焉を迎えるが、
  ヤコウガイそのものは琉球王国で螺細等の原料として
  その後もますます需要が高まるのである。

「貝の道」は、千年にわたり続いてきた。
琉球弧の歴史を刻む意味ある歳月だ。

ぼくは、高梨さんの整理を読みながら、
柳田國男の「海上の道」が蘇ってくるようだった。

柳田の「海上の道」が真実だと言いたいのではない。
宝貝を求めて日本人は渡来したという壮大な仮説のうち、
「宝貝」を求めるという欲求にリアリティを感じることができなかったのだが、
それはありうることを知らされた。

「貝の道」は、琉球弧の、奄美の、存在の証かもしれない。



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2007/10/11

歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。

  第二に、ヤコウガイ交易をめぐる生態環境について、
  「高島・低島」という島峡分類に則しながら考えてみたい。
  遠隔地交易において、
  高島は島峡地域の拠点的機能を備えていることから、
  島峡社会の中心地として交流が展開していた場所であると
  理解されてくる。農耕が行われていない段階でも、
  高島の豊かな水文環境と深い山地は
  飲料水・木材・石材等と良港を提供してくれたのであり、
  海上交通の拠点となる重要条件が備えられていたのである。

  また高島に隣接している低島は、
  高島と経済的補完関係が形成されていたことにより、
  文化的共通性を生み出したと考えられる。
  琉球弧で認められる文化要素の多重的連続性には、
  そうした生態学的社会条件も深く関与していることが予測されるであろう。

  文献史料に見える多禰・夜久・奄美・度感・阿児奈波・球美・信覚等の
  島峡は、通説による比定を考えるかぎり、
  高島が主体を成している様子も指摘しておきたい。
  そして開元通宝の出土遺跡もほとんど高島で占められている。
  こうした一致は単なる偶然とは考えられず、
  琉球弧周辺海域の海上交通や遠隔地交易で高島が
  集中利用されていた拠点性を如実に物語るものであろう。

  古代並行期の奄美諸島が
  国家の境界地域に当たる事実を認識するならば、
  境界地域の高島である奄美大島と徳之島が中核地域として
  機能していた可能性が高いと考えられる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

ぼくは奄美大島と徳之島が担った歴史と培われた気質を思う。
と、同時に、そう同時に、与論島の宿命を思う。

与論島にとって、島津の琉球侵攻といい米軍の沖縄上陸といい、
歴史は洋上を通り過ぎる。
ぼくはそう考えて来たけれど、どうやらそれだけではない。
歴史は頭上も過ぎて行ったのだ。
高梨さんの言を借りれば、それは「低島」の宿命といっていいかもしれない。

断っておけば、ぼくはそれを安堵するのでも嘆くのでもない。
亜熱帯の自然だけでなく、
その位置と規模からときの政治勢力に見放されることで、
与論には「島人の原像」が息づいている。

そうも言えるはずである。
それをぼくは与論島の可能性と捉えるのだ。



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2007/10/09

基礎としての「贈与」

  そして「二面性」の分析で、
  交易の主要形態を贈与交易(gift trade)、
  管理交易(administer trade)、
  市場交易(market trade)に大別している。
  贈与交易は、集団双方が互酬関係において
  結び付けられているものである。
 (『ヤコウガイの考古学』高梨修

これは、ヤコウガイの交易が
管理交易である仮説を導く前段として、
高梨さんがカール・ポランニーの考えを
引いている個所なのだけれど、
ここで少し脱線してみたい。

  贈与交易は、集団双方が互酬関係において
  結び付けられているものである。

このくだりに少し触発された。

ポランニーは、経済形態を、
互酬、再分配、交換の三つに分類しているのだが、
この、互酬、再分配、交換は、
贈与によって基礎づけられるかもしれない。

 ○ ○ ○

「贈与」を時間と空間に分解してみる。
贈与は、純粋に捉えれば返礼を期待せずに、
与えることのみで終わる。
贈与は、返礼を受けて打ち消されると考えれば、
時間的には終わりがない。
いま、時間を t とおけば、(t=∞)になる。

また、贈与は、汝の隣人を愛せよという聖書の言葉に
なぞらえれば、隣人に施すものだから、
空間的な距離は零のところでなされる。
空間を s とおけば、(s=0)である。

したがって、経済形態を f(t,s) と置けば、
(贈与)=f(t=∞,s=0)であらわすことができる。

「互酬」はどうだろうか。
互酬は、贈与交易に見られるように、
ある空間距離にある相互が、贈与を行い、その後、
贈与を受けた側が返礼を行う形態であると捉えられる。

そこで、時間も空間もある値を持つことを示せばいい。

 (互酬)=f(t=h,s=m)


今度は、「再分配」である。
再分配も、贈与とその返礼に時間差と空間距離が生じる。
ただし、互酬と異なるのは、
空間距離が極大化している点だ。
再分配は、集権的な政治共同体の存在を背景に
できる経済形態だからだ。

そこで、再分配は次のように表すことができる。

 (再分配)=f(t=h,s=M), M>m


同じように「交換」を考えてみれば、
交換は、空間距離を持つが、時間の差異が無い。
贈与とその返礼が同時に行われる贈与をさして
交換と呼ぶことができる。

したがって、「交換」は次のように表すことができる。

 (交換)=f(t=0,s=m)


以上から、「贈与」を基礎にした「互酬」、「再分配」、「交換」は、

 (贈 与)=f(t=∞,s=0)

 (互 酬)=f(t=h,s=m)
 (再分配)=f(t=h,s=M)
 (交 換)=f(t=0,s=m)

とあらわすことができる。

ぼくたちはここで、「再分配」の特殊な形態
についても考えることができる。
アジア的な専制君主の場合、空間距離は無限大になる。
実際の距離は有限だが、専制君主下の民衆にとって、
君主との空間距離は大きいというより無限であるというのが
実感にかなっている。

そして、空間が無限大になると同時に、時間は零化される。
というのは、専制君主下において、返礼は発生せず、
民衆にとって、贈与そのものが返礼をも同時に意味するからだ。
専制君主の恵みに感謝して贈与すると言っても同じだからだ。
だから、「再分配」はここでは、「貢納」になっている。

そこでぼくたちは、
専制君主下の「再分配」である「貢納」について、

 (貢納)=f(t=0,s=∞)

とあらわすことができる。

 ○ ○ ○

ポランニーが、「互酬」、「再分配」、「交換」として
経済形態を整理したとき、
市場社会を相対化できる視点を得られたことの
意義は大きかったと思える。

と同時に、ぼくにとっては、
「互酬」に意義が与えられるようでうれしかった。
ここでいう「互酬」からは、与論島でよく知っている相互扶助の姿が、
生き生きと思い出されるからである。




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2007/10/08

浮上するヤコウガイ

そして、『ヤコウガイの考古学』のなかで白眉である
ヤコウガイへとテーマは移る。

ヤコウガイ。

  ヤコウガイ(Turbo [Lunatica] marmorata)
  リユウテンサザエ科に属する大型巻貝
  殻径・殻高はいずれも二〇㌢前後に達して、
  重量は二キログラムを超過する。
  殻表全体は暗緑色を呈し、赤茶色の斑点を有している。
  貝殻は分厚で頑丈であり、
  その内面は美しい真珠光沢を有している。
  生息地城はインド洋・太平洋の
  熱帯海域にかぎられるようであるが、
  確実な情報は意外に乏しい。
  岩礁などの堅い海底地形に生息して、
  砂泥質の海底地形には認められない。
  サンゴ礁地形における礁緑部分の外洋側に形成される
  礁斜面に好んで生息する。

  市場魚貝類図鑑
  微小貝データベース

高梨さんは、遺跡から土器が出土するだけでなく、
ヤコウガイが出土するのを目撃する。
しかも、その数は夥しい。

なぜ、これほどのヤコウガイが出てくるのか。
しかも、不思議なことに、大量に出土するのに、
そこには消費の形跡がない。

そこで考古学者は、これは、貝塚ではなく、
地産地消のための製造でもなく、
交易のための製造跡でないかと考える。

具体的に聞いてみよう。

  ヤコウガイ大量出土遺跡における最大の重要事実は、
  大量捕獲されているヤコウガイの消費が島喚地域で
  あまり認められないという点に求められる。
  つまり単一原材が大量確保されているにもかかわらず、 
  製品として消費されている様子が判然としないところである。

  筆者は、当該事実を最大根拠として、
  ヤコウガイが島峡地域の外側世界へ運び出されていたと推測する。
  ヤコウガイの搬出先は、史料や螺細の検討で確認したとおり、
  高いヤコウガイ需要がある本土地域を想定するのが
  もっとも妥当であると考えられる。

  ヤコウガイ大量出土遺跡で認められた貝殻集積や破片集積も、
  原材供給を果たすための集積行為であると考えるならば
  納得できるのではないか。

  日本国内におけるもっとも古いヤコウガイ消費は、
  正倉院宝物の国産品と考えられる螺銀製品に求められるので、
  八世紀代までしかさかのぼることができない。
  さらにヤコウガイ関係記事が認められる一連の史料の成立年代は
  ほとんど九世紀以後のものであることから、
  小湊フワガネタ遺跡群等の七世紀代における
  ヤコウガイ大量出土遺跡をただちに本土側のヤコウガイ需要に
  直結させることはできないが
  (永山二〇〇言、裳島二〇〇〇、田中二〇〇五)、
  少なくと150も土盛マツノト遺跡・和野長浜金久遺跡等の
  古代並行期後半段階のヤコウガイ大量出土遺跡は、
  大型のヤコウガイ製月匙はほとんど製作されなくなり
  ヤコウガイ貝殻の供給に対応するために
  営まれたものと考えられるので、
  本土側のヤコウガイ需要におおよそ対応する動静として
  理解されてくるのである。

  そうしたヤコウガイ大量出土遺跡は、
  交易物資であるヤコウガイの集中管理による
  所産ではないかと推測される。
  ここに奄美大島北部がヤコウガイ供給地として注目されてくる。
  さらに七世紀代にヤコウガイ大量出土遺跡が 
  突然出現する様子も、ヤコウガイ貝殻を大量集積して
  ヤコウガイ製貝匙の大量製作をはじめとする
  貝器製作に特化していた事実からするならば、
  古代国家の南島政策による対外交流を契機として、
  螺鍋原材以前の前段階としてのヤコウガイ交易が開始されていた
  可能性があると考えられる。

  ヤコウガイ大量出土遺跡が七世紀前後から
  突然盛行しはじめる様子は、本土側のヤコウガイ需要に
  おおよそ対応する動静として理解できそうである。
  ヤコウガイ大量出土遺跡は、交易物資であるヤコウガイの
  集中管理による所産ではないかと推測されるのである。
  ここに奄美大島北部がヤコウガイ供給地として注目されてくる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

大和の文献にしばしば登場するヤコウガイ製品は、
奄美産ではないのか。
古代の地域ブランドとして、
高梨さんは仮説し、指摘するのだ。

発掘現場を精査し、当時の生活をおもんぱかる。
厳密さとロマンティックが同居するような作業だ。
ぼくたちは、ここにある奄美の表情が
生き生きと浮かび上がるのを感じないだろうか。

そういえば高梨さんは、現場に立ち会った興奮を、
本の冒頭で語っていた。

  その二年後の一九九七(平成九)年、
  名瀬市小湊フワガネク遺跡群の緊急発掘調査が実施されて、
  偶然にも筆者自身がヤコウガイ貝殻の大量出土遺跡を
  発掘調査する機会に恵まれた。
  掘り下げればどこからでも幼児の頭ほどもある
  ヤコウガイの巨大貝殻がつぎつぎ顔をのぞかせた。
  ヤコウガイ貝殻が調査区域一面に出土している様子は、  
  異様な迫力が漂う幻想的な光景で生涯忘れられないが、
  土盛マツノト遺跡の発掘調査成果を学ばせていただき、
  解決しなければならない課題を確認していた筆者には、
  さながら実験室のような発掘調査を実施することができた。

ここからは、本書でも繰り返し発言されているように、

  これは単なる食糧残滓ではない。

そんな高梨さんの声が聞こえてくる。




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2007/10/07

小湊フワガネク遺跡の豊か

  一九九七(平成九)年の発掘調査
  (第一次調査・第二次調査)では、
  七世紀前後に位置づけられる遺跡が確認され、
  掘立柱建物跡(四軒)、
  貝匙製作跡(五カ所)等の遺構をはじめとして、
  兼久式土器(七六二八点)、鉄器(一八点)、
  ヤコウガイ貝殻(約三〇〇〇点)、ヤコウガイ製貝匙(九一点)、
  ヤコウガイ製有孔製品(四四点)、イモガイ製貝札(三〇点)、
  イモガイ製貝玉(二七〇三点)、
  礫(約一五〇〇点、石器を含んでいる)等の
  多数の出土遺物が発見されている。
  現段階で当該遺跡に関する中核を成す資料群である。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

小湊フワガネクは名瀬市にある。
転記に過ぎないが、出土品を箇条書きで抜き出してみる。

 掘立柱建物跡     4
 貝匙製作跡      5
 兼久式土器     7628
 鉄器           18
 ヤコウガイ貝殻  約3000
 ヤコウガイ製貝匙    91
 ヤコウガイ製有孔製品 44
 イモガイ製貝札     30
 イモガイ製貝玉   2703
 礫          約1500(石器を含む)

こう並べてみると、門外漢の目にも、
小湊フワガネク遺跡が、いにしえの奄美の生活光景を
豊かに伝えてくれるものだと映ってくる。

特に、兼久式土器、ヤコウガイ貝殻、イモガイ製貝玉の
物量には目を見張るものがある。

けれどここでは、数は少ないものの、
鉄器が出土されていることに高梨さんは注意を促している。

  すなわち琉球弧の鉄器使用開始時期は、
  ほとんど常識的事実として
  十二世紀前後に位置づけられてきたが、
  小湊フワガネタ遺跡群における発掘調査成果は
  その通説よりもいちじるしくさかのぼるからである。
  小湊フワガネク遺跡群にかぎらず、
  兼久式土器出土遺跡からは
  地中で腐りやすい鉄器が多数発見されている。
  しかも、並行時期となる沖縄諸島の貝塚時代後期の遺跡は、
  実施された発掘調査の絶対数の点で
  奄美諸島よりも圧倒的多数であるにもかかわらず、
  鉄器出土遺跡は僅少なのである。
  当該事実から、奄美諸島と沖縄諸島では鉄器の普及年代
  が相達していた様子もうかがえるのではないか。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

ぼくたちは鉄器を通じて、
奄美と沖縄の差異線が走ってゆくのを目撃している。

この楔が、奄美と沖縄の互いの個性を浮き彫りにするなら、
ぼくたちはそれを奄美の自己理解へとつなげてゆきたい。



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2007/10/06

奄美諸島の土器編年

スセン當式土器と兼久式土器の分類と編年の成果をもとに、
高梨さんは、奄美諸島の土器の編年を試みている。

ちなみに、「並行期」という言葉が出てくるが、
この言葉の使い方にも背景がある。
奄美とは互いの共通性を知らぬ者たちと言いたくなるほどに、
共有するものの共通認識を育ててきていないのだが、
時代区分もそのひとつであり、
高梨さんはそれで、本土のたとえば、
弥生時代に当たる歴史時間を指して、
「弥生時代並行期」と呼んでいるわけだ。

ぼくは、奄美と、本土、沖縄とのつながりとして成果を追ってみたい。


  ■縄紋時代晩期並行期
  弥生時代並行期の直前段階における土器様相は、
  沖縄諸島とよく共通した特徴が認められる。
  きわめて強い地域色を備えた土器群が盛行している。

  ■弥生時代並行期
  沖縄諸島に認められる尖底土器はほとんど認めらず、
  土器様相の相違がいちじるしくなる。
  九州地方における土器文化の影響が強く認められるようになる。

  ■スセン當式土器段階(古墳時代並行期)
  奄美諸島の土器変遷のなかで、もっとも判然としない段階である。
  発掘調査事例がいちじるしく僅少であるため、
  標本となる資料に恵まれず、土器様相がほとんど明らかではない。
  若干の資料にうかがわれる土器様相からは、
  前段階に引き続き九州地方における土器文化の影響が強く認められ、
  沖縄諸島の土器様相と相違がいちじるしい。
  既知の土器型式としては、
  いわゆる「スセン當式土器」が知られているが、
  実態が明らかではない。

  ■兼久式土器段階(古墳時代終末~平安時代後期並行期)
  古代に並行する当該段階の土器様相は、
  ふたたび沖縄諸島と類似するようになる。
  しかし、前段階までに比べて、
  九州地方の土葉化の影響は顕著ではない。
  地域色を強く備えた土器群が、盛行するようになる。

  ■類須恵器段階(平安時代後期~鎌倉時代並行期)
  兼久式土器は消失する。沖縄諸島でいわゆるグスク土器
  と呼称される鍋形・壷形の土器群が奄美諸島にも
  存在するようであるが、実態は明らかでない。
  最近、奄美大島の宇宿貝塚、小湊フワガネク遺跡群、
  喜界島の山田中西遺跡(喜界町)、
  徳之島の小島後竿遺跡(伊仙町)、
  沖永良部島の内城友竿遺跡(和泊町)等で、
  実態が明らかにされていない在地土器の出土事例が
  相次いで確認されはじめている。
  十一世紀代に徳之島で窯葦産が突然開始され
  (カムィヤキ古窯跡群)、当該窯跡の生産品
  (類須恵器もしくはカムィヤキと呼称される)が
  琉球弧全域に流通するようになる。
  さらに白磁(玉緑口縁碗)・滑石製石鍋・布是痕土空焼豊)
  も同時に流通している。
  こうした動態が、奄美諸島では土器文化の終焉を
  加速させていくようである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

これを見ると、土器としてみた奄美は、沖縄と共通した段階から、
本土の弥生期に九州とのつながりを持ち、
ふたたび沖縄とのつながりを持つ段階に入った交互の動きが
潮の満ち干のように感じられてくる。

ぼくはおぼろげながら、
奄美の大和の交流のはじまりを見る思いだ。

ちなみに、与論島の麦屋上城遺跡は、
縄紋時代晩期並行期に属している。

与論島には、いつ、人があの砂浜を踏んだのだろう。
そういう当てのない想いにも、
遠く向こうから手がかりが伸びてくる感触もやってくる。

高梨さんの編年を引こう。
これを見ると、分かりやすい。


Amamidoki

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2007/10/05

兼久式土器出土層の下層

『ヤコウガイの考古学』では、
スセン當式土器と兼久式土器が重視されている。

スセン當式土器は、沖永良部のスセン當貝塚から出土し、
兼久式土器は、カネクという馴染み深い名であるように、
両者はともに奄美を出自に持つ土器だ。

二つの土器について高梨さんは書いている。

  1.スセン當式土器と兼久式土器の層位的重畳問係
  筆者によるスセン當式土器の検討では、用見崎遺跡・
  須野アヤマル第二貝塚・和野長浜金久遺跡・喜瀬サウチ遺跡・
  小湊フワガネク遺跡群(第六次調査)の五遺跡で
  兼久式土器出土層の下層からスセン當式土器に相当する
  土器群の出土を指摘した(高梨二〇〇五a)。

  筆者がスセン當式土器と指摘する土器群の評価は別としても、
  兼久式土器出土層の下層から弥生時代並行期の土器群とは
  相違する一群が出土している事実には注目しなければならない。
  当該事実は、兼久式土器の起源が弥生時代並行期の土器群に
  後続して理解できないことを示しているからである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

兼久式土器の下層から、弥生時代並行期とは異なる土器が
出土したということ
(高梨さんはそこに、スセン當式土器を位置づけるだのが)、
それが重要である。

なんとなれば、このことは兼久式土器の前段階に、
弥生時代並行期とは異なる土器が存在したことを意味しており、
それは、弥生時代並行期の踵を接するように、
兼久式土器が続いたわけではないことを示すからだ。

高梨さんはそう言っている。

ぼくたちは、それなら、なぜそのことの立論が重要なのか、
と問わなければならない。

  兼久式土器が用いられたと孝えられる七世紀~十一世紀の時期は、
  古代国家の地方統治政策が展開されていた時期に相当する。
  琉球弧は「南島」と称されて、武力行使による威圧的政策と
  賜物・賜姓による懐柔的政策が展開されていた。

  奄美大島は統治政策の拠点地域として機能していたと
  考えられていて(鈴木一九八七)、新たなる対外交流が
  急激に進行する社会動態のなかで兼久式土器は
  成立・展開したと理解できる。

  琉球弧における従前の考古学研究では、
  奄美諸島・沖縄諸島の島峡社会は十二世紀前後まで
  漁撈採集経済段階の停滞的社会が営まれてきたと理解されてきたが、
  古代国家の地方統治政策を背景とした対外交流が活発化することにより、
  小湊フワガネク遺跡群をはじめとして
  少なくとも奄美諸島の一部の地域では鉄器文化を受容して
  階層化社会が出現していたのではないかと考えられている
  (高梨二〇〇〇C二一〇〇一)。

  そうした理解論に立つならば、あらためて確認できた
  兼久式土器の年代理解から、兼久式土器を北海道地方の
  擦文土器に対比させて位置づけることも可能であると考えている。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

従来、琉球弧の奄美・沖縄の島峡社会は、
十二世紀前後まで漁撈採集経済段階にあったと理解されているが、
そうではなく、日本の古代国家の統治政策が琉球弧にも及び、
奄美諸島には漁撈採集経済段階以降の社会が
部分的には現出していたのではないか。

こうした仮説を支える考古学的資料として、
兼久式土器やスセン當式土器の存在は重要であり、
とりわけ兼久式土器が、弥生時代並行期の土器の直接の後継ではなく、
媒介を持つことも、その傍証として重要なのだ。

そう言っているようにみえる。
考古学的事実が、歴史を塗り替える、というより、
薄いもやのかかった状態で放置された場所に、
色を塗ろうとする力を感じる記述だ。


ぼくたちは、次にこの土器編年の成果を辿ることで、
奄美の独自性にもう少し接近できるかもしれない。



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