カテゴリー「26.映画『めがね』ウォッチング」の42件の記事

2009/02/16

『めがね』の次

 「この世界のどこかにある南の海辺」というこの上ない他者像をもらった与論島は、これからそれに対応する自己像をつくってゆくのだけれど、主演の小林聡美は、もう『めがね』の次に歩みを進めたようです。

 小林聡美の癒し映画 感動のタイ作…人気作「かもめ食堂」「めがね」に続く

 監督は荻上さんではないが、スタッフは同じ。あの世界観がまた繰り広げられるんだろう。

フィンランドの食堂が舞台の「かもめ食堂」(06年)は、東京と横浜の2館だけの上映からクチコミで人気が広がり、全国公開となり、興収5億8000万円のスマッシュヒット。翌07年公開の「めがね」は鹿児島・与論島での物語で、こちらも興収5億2000万円を記録。ゆったりした雰囲気の中で描かれる人々の生き方が共感を呼んだ。

 こう見ると、『めがね』も健闘してますね。やっぱり与論人(ゆんぬんちゅ)としては、そうあってほしいと思います。

「忙しくない感じ。気持ちがスッキリして余裕ができるし、撮影の現場でもそういう雰囲気」

 『めがね』の姉妹映画と思えば、楽しみです。



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2008/05/06

奄美映画としての『めがね』

空虚と過剰

 映画『めがね』を奄美映画として受け取ることはできるだろうか。無論、この映画は奄美映画として企図されているわけではない。監督の荻上直子もそんなこと思いもしていないだろう。『めがね』は与論映画だと言うことはできる。けれどこれとて荻上がそう呼んでいるのではなく、観る側の批評の自由としてそう言うに過ぎない。むしろ作者は、調べようと思えば、舞台は与論島だと分かるが、積極的にそのことを語らないようにしていた。それでもこれが与論映画だと言えるのは、与論島の自然にある意味で全面的に依拠した作品だったことが挙げられるが、それ以上に、与論らしい事物はほとんど使われていないにもかかわらず、与論らしさが滲んだ作品だった。ぼくたちはそうであればこそ、この映画を与論映画と位置づけてみたくなるのだ。

 ただ、ぼくがここで考えたいのは、この映画は与論映画だとして、それだけでなくその延長に、『めがね』を奄美映画として受け取ることはできないかということだ。それはつまり、『めがね』で描かれていた与論らしさを、奄美らしさとして敷衍することもできるのではないかという問題意識である。

 与論らしさを奄美らしさにつなげるのは、「空虚」だ。たとえば、『めがね』では主人公が、観光地を探そうとすると、宿の主は、質問に戸惑った後、ここにはそんなものはありませんよ、と答える。ここは、何もない場所なのだ。もちろん与論島は島自体が観光地として謳われているし、観光する場所もないわけではない。ただ、映画のなかでは、何もない場所として設定されるのだが、結果的にはそれが与論らしさとして与論を知る者には受け取られた。「空虚」を媒介にして『めがね』は与論とつながるのである。

 そして、「空虚」という言葉はある意味で、奄美らしさを表現してきた。「付録」や「ぼかし」(山下欣一)は、奄美を言い当てるのに欠かせないキーワードだったが、この先に奄美が怖れたのは要するに「空虚」ではないかということだった。「自分を無価値のように感じてきた」と島尾敏雄は島人の心理を代弁したが、ここでいう「無価値」が、奄美の怖れを雄弁に物語っている。何もないということ。だが仮にきわめてネガティブな文脈でしか語られたことがなくても、近世以降、そして近代以降には顕著に、「空虚」は奄美らしさの謂いになってきたのである。ぼくたちにはそれを逆手に取る自由だってあるのだ。また、「この世界のどこかにある南の海辺」という設定は、与論もそうだが、「付録」や「ぼかし」として非在化してきた奄美にこそふさわしいのではないだろうか。

 このことは一方で、沖縄映画と比べると、ポジションがより明瞭になるかもしれない。ぼくたちは沖縄映画と言った途端、そこにトロピカルやリゾートや方言やアメリカや基地や戦争や平和といった夥しいイメージや言葉が喚起されるのに気づく。そしてそれは、奄美映画と言ったときに、その言葉が新鮮でありこそすれ、そこから想起されるイメージが何もないのとは対照的というか対極的である。沖縄映画には持て余すほどに「過剰」なイメージがあるとすれば、「空虚」は奄美映画の持ち分なのである。

メタフィクション

 多くを見聞していないのだけれど、奄美映画としての『めがね』を考えるときに参照するのは、たとえば高嶺剛監督の映画『ウンタマギルー』だ。『ウンタマギルー』も、映画を製作するに当たって、沖縄映画にまつわる過剰なイメージを前提としているし、荻上が奄美映画という言葉を想起することもなかっただろうのとは全く逆に、高嶺は過剰な沖縄イメージを強く自覚している。むしろ、その過剰なイメージをどう処理するのかに応えること自体が映画の意味になっているくらいである。

 思い出せば、映画『ウンタマギルー』では、アメリカ、基地、復帰問題、三線、砂糖きび、泡盛、キジムナー、方言といった沖縄的事象がふんだんに盛り込まれていた。過剰なイメージを映画の素材にしているのである。しかし、その素材はどう扱われているかといえば、たとえばキジムナーは、樹木の精霊であるという描かれ方は由緒正しいのだが、大人の男性として登場するあたり、どちらかといえば、子どものほうが合っているので違和感を持つように、これが事実であるという出し方をしていない。方言は琉球の方言なのだが、実際に使われていた以上に、台詞を全て方言化しているのが感じられる。もっとも、耳を澄ますようにしなくても、麻薬のように淫豚草が出てきたり、アメリカの高等弁務官が豚と血液交換をしたり、ウンタマギルーは空を飛ぶところになるとさすがにこれはフィクションだと分かるし、これはフィクションだとあらかじめ分かることのほうが多い。けれど、事実と架空をないまぜにして、というより、事実として受け止められているかもしれない事象を使いながら架空化していくことによって、現実なのか架空なのかがよく分からなくなってくる。現実の重力場を失っていない架空というか、ぼくたちはフィクションだと思いながらも、ではどこまでが現実かを言い当てようとすると覚束ない。そんな映像なのだ。

 映画『めがね』には、使うにしても闘うにしても、その前提となるようなイメージは何もない。では、荻上は、島の自然と事物を淡々と描いたかといえばそうではない。肌理の細やかな真っ白い砂浜と汀に寄せるさざ波と潮風と砂糖きび畑などは、島の自然に全面的に依拠していたが、携帯電話が通じなかったり、メルシー体操という架空の体操を踊ったり、物々交換をしていたりと、事実ではない要素が盛り込まれていた(もっとも島の習慣としての物々交換はあるけれど)。

 映画『めがね』でも架空化という手続きを踏むのだが、それはこんな場所があったらいいという観る者の願望に添って編み上げられていた。一方、映画『ウンタマギルー』では、観る者は居心地悪く、不安になるように架空化が施されていた。『ウンタマギルー』が「過剰」を架空化して不安にさせるとすれば、『めがね』は「空虚」を架空化して願望を喚起させていた。

「たそがれ」と「オキナワン・チルダイ」

 そのような手続きを踏むことによって作者が描きたかったものは何か。それは、映画『ウンタマギルー』では、琉球の聖なるけだるさ、オキナワン・チルダイだった。オキナワン・チルダイは、柔道の巴投げが、挑みかかる相手の力と体重をこちらの力に換えるように、沖縄に抱く観る者の過剰な先入観の力をむしろ借りて、その信憑を現実か架空か分からないところへ宙吊りにして不安定化した上で、すっと、これがオキナワなのだよと全く思いもしないイメージを差し出してくる。それは言ってみれば、運玉森の地霊のもと、人間と動物、植物の境が無くなり、それらが同一化する世界だ。そこでは、豚は人間であり、親方はニライカナイの神からヤンバルクイナになることを命じられたり、キジムナーと語らうことはできたりする。ぼくたちは過剰なイメージが架空化され映画世界にのめりこむところで、“チルダイ”、けだるさのイメージを手渡されるのだ。

 映画『めがね』で、『ウンタマギルー』のオキナワン・チルダイのような主題に当たるものは、「たそがれ」だった。さざ波や潮風や夕陽などの自然の時間の流れとシンクロすることで人が空間に溶け込むことだった。あるいはその憧れや予感の前に佇むことだった。『ウンタマギルー』が自然と分離しない時間を描こうとしていたとすれば、『めがね』は自然と分離しない空間を描こうとしていた、と言えるのかもしれない。ただ、荻上は架空のあらまほしき世界を描こうとしたのではない。与論島から感受されるものを描こうとすれば、携帯電話が通じないなど、空虚をさらに空虚化するように架空化して、自然とシンクロしやすくさせたのだと思える。

ただの人

 映画『ウンタマギルー』は「過剰」を前提にしている。だから、方言も過剰に使われるし、沖縄の俳優も現れて、現実と架空を弄んでいる。一方の『めがね』は、「空虚」が前提だから、それを徹底するように、方言は登場しない。子どもたち以外、島の人もほとんど登場しない。本土の著名な俳優さんだけが登場する。

 こんなコントラストを両映画は描くのだが、「オキナワン・チルダイ」と「たそがれ」はどこかで接点を持っている。「たそがれ」は「チルダイ」を感受するための状態であるというような関係が両者にはある。それは一通りには、『ウンタマギルー』は高嶺剛という沖縄の出身者が内在的に沖縄を描こうとしているのに対し、『めがね』は旅行者の荻上直子が、旅で感受した与論(奄美)を描こうとしたという差である。

 ただ、その差は初期条件のようなもので、両映画の響きはどこかでシンクロする気がするのだ。映画『ウンタマギルー』は、オキナワン・チルダイこそは沖縄であると言っている。映画のラスト、ウンタマギルーは頭に矢を刺されたままイノー(礁湖)を彷徨うように、沖縄(人)はオキナワン・チルダイを無くし苦悩している姿が描かれるけれど、それこそは沖縄を沖縄たらしめてきたというイメージはしっかり伝わってくる。

 ところでオキナワン・チルダイとは、動物と植物と人間、精霊が等価であるような世界だ。それなら、そこでいう沖縄とは何だろう。そこまでいけば、実はそれは普遍的な概念で、沖縄は固有の差異を主張するよりは人類的な母胎に溶けてしまう。そこで仮に沖縄人とは何かとアイデンティティを問おうとすれば、むしろ、いや何者でもない。ただの人なのだという回答がやってくる気がする。

 止まったような時間のなかで、携帯も通じず、ということは、自分が役割のなかに固定化されることもなく、やがて自然と同一化する『めがね』の世界も、同じような場所にあるのではないだろうか。そこで、アイデンティティを問おうとしても、そんなことはいいじゃないですか、と登場人物に返されそうである。ここでも、人は、ただの人です、と答えるのではないだろうか。

 過剰と空虚。沖縄と奄美はこのように対極的なのだが、こうしたコントラストのなかで与論映画としての『めがね』を位置づけてみると、「空虚」、何もなさを媒介に、人をただの人に誘うという意味で、それは奄美も同じである。ここからぼくたちは、『めがね』を奄美映画として位置づけることもできるのではないだろうか。

 旅人が描いた奄美映画である『めがね』を頼りに、では奄美人として奄美人とは何かを問うてみよう。すると、琉球がやってくれば琉球人になる、もうそうではないと言われればそうではないとみなす、日本人になれと言われれば日本人になる。それはただの人という基底がありありとあるからできるのだ。そう奄美人は答えるのではないだろうか。



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2008/03/21

何もないということは、人が作ったものがないということ

 映画『めがね』のDVD発売に合わせて、フードスタイリスト飯島さんが、『めがね』で用意した料理について語っています。

スクリーンいっぱいに映し出された料理も、キャストの一人。
『めがね』DVD化記念・フードスタイリスト飯島奈美さんの“理想の宿ごはん”とは。

ロケをしたのは与論島でしたが、南の島らしい食事を強調したいわけではないから、現地で手に入らないレンコンやさやつきのそら豆は、東京から送ってもらって。

 と、こう語っているが、そういえば料理にしてもいかにもな南の島(与論)らしさは無かったけれど、それは気にならなかった。

 それとは別に与論らしさはきっちり描かれていたからだと思う。その与論らしさを、「映画『めがね』なにもないがある島の日常」というあんとに庵さんの言葉を手がかりに、「何にもないこと」と捉えてきたけれど、その何もなさというのは、「人が作ったものが何もない」というようにも言い換えられそうです。「人が作ったもの」ではない自然があふれているということ。そこで、「人が作ったもの」しかない都市で生活している人は、そんな光景を前にすると、思わず「たそがれて」しまうのでしょう。

 映画のことを久しぶりに振り返れたインタビューでした。それにしても、飯島さんはお見かけするだけで美味しいものを作りそうな雰囲気を醸し出しています。(^^)


 この『めがね』DVDのパッケージもシンプルですね。TVでやっていた「朝のたそがれ」も収録されているそうです。


Dvdmegane_3

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2008/03/19

『めがね』DVDの広告 at 新橋

 今朝、新橋駅の改札を過ぎたところで、足が止まりました。

 そういえば、『めがね』のDVD発売。今日だったんですね。

Meganedvd_2













 足早に過ぎ行く人たちへ、「たそがれ」の誘い、ですね。

 あとでまた撮ってこようなんて思ってます。


 ふぅ、やっともう一枚、追加です。

Meganedvd




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2008/02/17

『めがね』がザルツゲーバー賞

 盛窪さんの「チヌマンダイ」で、『めがね』がベルリン映画祭で賞を受賞したことを知って、慌ててニュースを見てみたら、ザルツゲーバー賞、なのであった。

 ※ 『めがね』にザルツゲーバー賞 ベルリン映画祭パノラマ部門

 でも、そのザルツゲーバー賞って何?だが、ニュース報道によると、

「既存の概念にとらわれない芸術表現をした」

 とのこと。それは分かる。なにしろ、眠ってもらって成功の作品だから。(^^;)

 記事によると、「とても難しい色調をどうすれば、あのように美しく表現できるのか」なんて、コメントされているから、「既存の概念にとらわれない芸術表現」という意味は、このことかもしれない。

 それなら答えは簡単、「舞台のおかげです」と言えばいい。(^^;)?
 
 たしかに、曇り空の寺崎の浜辺と海は、柔らかな白を基調に広がっていて、独特な色の世界を展開している。浜辺と海の色彩美がもしかしたら評価されたのかもしれない。

ヨーロッパ各国をはじめイスラエルなど20カ国以上から海外配給に関する問い合わせがきている

 というから、与論島は、世界のたそがれ族の集結地になるかもですね。

 荻上監督、おめでとうございます。




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2008/01/15

『めがね』は島尾敏雄エッセイの映画化!?

 tssune3さんがブログ「Optimistic」で、こう書かれていてはっとした。

まさに、「めがね」はそれを映像化した映画と感じた。

 「それ」というのは、島尾敏雄が南島に感じる「やわらかさ」、本土の「かたさ」に対して置かれた「やわらかさ」のことだ。

 ぼくは琉球弧という言葉を使っています。それは琉球という言葉が、奄美の人、沖縄の人にかなり抵抗があるんです。ただ他に言いようがなくて、琉球そのままでもなんなので、まあ琉球孤という地理学的な言葉を援用しています。弧という字もかっこうがいいしあの発音もいいでしょう。それで琉球弧というのを使って、奄美からずっと沖縄、先島までを含めた言葉にしているのです。この琉球弧と東北が、何かいろんな点で似ています。

 政治、行政って言うのかなあ、どっちも、中央権力に与っていない地方ですね。琉球弧の方は、沖縄が小さな国家を作りましたが、でも日本全体からみると、やはり辺境で疎外されて、いつも忘れられてるという形です。東北はというと、これはいつも征伐されている。度々の蝦夷征伐とか、戊辰の役とか、そういうふうにされて来ているところが、何かとても似ているような気がしてしかたないのです。

 それとは別ですけど、ぼくは日本の中に、ある固さが感じられて、それから抜け出したいというような気がしている。どういう形だといわれると、これもちょっと困るんですけどね。ところが奄美に行ったら、本土でいやだと思っていたそういう固さがないんです。さっきも、あいまいにやわらかさなんて言いましたけども、それは何んだろうかと思ったわけです。

 簡単に日本じゃないとは言いきれない。本土には無いものであるのに、ぼくの感じではまったく日本なんですから、日本以外の何ものでもないという感じがしたわけです。まあ別にどうしても日本である必要もないんですが、感じとしてはどうしても日本です。そうすると、表面的には隠れているようにみえる、日本が持っているもう一つの面があるんじゃないかと思ったんです。で、その両をヤポネシアと呼んだわけなんです。
                                                  (「回想の想念・ヤポネシア」島尾敏雄)

 そうか。tssune3さんに言われると、なるほどと思えるところがある。
 もしそうだとしたら、映画『めがね』は、島尾敏雄のヤポネシア論、エッセイを映画化したということになる。そしてこのとき、与論は、琉球弧のある象徴を担ったということでもあるわけだ。これは愉快な連想だ。


 はっとする視点をありがとうございます。山をこよなく愛するtssune3さん。



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2008/01/12

映画『めがね』のDVDが出ます

 早いものです。
 もう、『めがね』のDVDが発売されるそうです。3月19日。

映画『めがね』DVD



 それにしても困ったものです。改めて予告編見るだけで、もう一度、あの世界に浸ってみたいと思うのですから。




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2007/12/26

映画『めがね』への接近 2007

観られる与論島

 2007年、与論島は、映像作品として観られるという経験をした。これは、与論島にとって初経験だったと思う。映像としてなら、同じく今年あった「新日本紀行」もあるが、ドキュメンタリーではなく、作品の舞台として撮られたのは初めてだった。

 ところで、本当に重要なのは、「初」経験のことではなく、撮られたのは作品舞台としての与論島であり、架空の物語のなかに登場する、「どこかの南の島」であるという設定にもかかわらず、描かれていたのがある意味で与論島そのものであるという点だった。

 「どこかの南の島」という設定が、場所が定かでなく浮遊している現実の与論島のイメージ・ポジションに重なること。そして映像作品として描かれているものの内実が、与論島でしか味わえない与論島クオリアそのものであったこと。この二つの点から、映画『めがね』は、作品を通じて与論島そのものと出逢うという達成をしている。それは、登山口こそ違え、高嶺剛監督が、映画『ウンタマギルー』で「沖縄・琉球」に対してi行ったことと同じだと思えた。

 春以降、映画『めがね』の公開前と以降のトピックスをブログで追えたのは幸運だった。数えてみると、ぼくは、34の記事を書いている。まるで追っかけだ。

 ★ 映画『めがね』ウォッチング


 作品の公開後、この映画に寄せられる声を読むのは楽しい。
 ぼくが読んだ範囲で心に残った感想記事を、現在から過去に遡って紹介したい。


■映画/めがね(12/26)

毎朝、枕元にもたいさんが居るのはイヤだけど、あの、自転車で 迎えに来てくれたもたいさんは、女神かと思った。

 タエコの葛藤のような、なかじまさんの言葉がリアルです。
 サクラのイラストも趣があります。

■めがね与論島ロケ地の映画(12/17)

与論島に行ったことある人だったら、すぐにわかるよね。 与論しかあれへん。

 沖永良部在住のめぐみさんのコメントが、とても印象的。とてもいい。

■「めがね」のマフラー完成!(12/09)

 kokorokokoroさんは、もたいまさこさんがつけていたマフラーを、お手製で再現したわけです。すごいことです。

■映画「めがね」を観ながら思うに(11/11)

「めがね」とは、「見えないものを見えるようにするもの」ではなくって 「めがねでしか見えないものを見えるようにするもの」なのだ

 paris-rabbit-sanさんの、『めがね』の「めがね」理解が、味わい深い。

■映画「めがね」(10/24)

好きなものに自信を持っていいんだってことでした

 ナオさんの、この素直な受け取り方に心動かされます。

■映画「めがね」(10/17)

時間をフィルムに定着させるとこんな映画になるんだろう、というのが実感。 「かもめ食堂」より、より時間や空気に寄っていて、メッセージを探す煩わしさ もない(メッセージはあるのだけど、気がつかないふりをしたくなる)。

 鑑賞時の気分を、さとなおさんはよく言い当てています。

■映画…めがね…(10/11)

与論島で撮影されているので、海がすごくきれいです いかにも南のリゾートの海っぽくなくていいです

 「いかにも南のリゾートの海っぽくなくいいい」。kiyokiyoさんのこのひと言、最大の褒め言葉です。

■映画『めがね』なにもないがある島の日常(10/11)

 映画『めがね』を真っ芯で捉えた、あんとに庵さんの本質的な映画評です。

■映画「めがね」(09/21)

 めぐろのY子さんのウェブコミック?が楽しい。




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2007/11/25

『めがね』ウィスパー

与論島でも映画『めがね』が上映されることになった。
そして、映画サイドからは、
与論が舞台だと声高に言わないで欲しいといわれている、
と聞いて、なるほどと思った。

与論島上映に向けて動くべきだ、クチコミを起こせと
言ってきたことが少し恥ずかしくなった。

なるほど「どこかにある南の島」なのだから、
与論島です、と言わないほうがいい。

でもって、ここは大事なポイントだから、
映画サイドからの要請が無くなっても生かしたほうがいい。

たとえば、映画上映が終わった後に、
与論島に行ってみたら、
「ここがタエコの降りた空港です」、
「ここがメルシー体操をやっていた浜辺です」、
「ここで、梅はその日の難逃れと言ってたんです」、
「ここで、タエコはサクラさんに自転車に乗せてもらいました」
とか、いちいち案内板があったらそれこそ興ざめ、
たそがれ気分も半減してしまうだろう。

いちばんいい姿を極端化してみる。
島に着くと、『めがね』の案内はどこにもない。
旅人は不安になって聞く。
「ここは、『めがね』を撮った島ですか?」。
するとそこで初めて、「はい、そうですよ」と島人は嬉しそうに答える。
「メルシー体操をやっていた浜辺はどこですか?」
「島の北の方に行って聞くといいですよ」
「犬のコージに会えますか?」
「宿を教えましょう」
以下、同様。

島内のどこでも、聞かれれば島人の誰もが、答える。
ただし、道案内はどこにもない。
すべてクチコミがガイドする。

そんな絵が、『めがね』コンテンツを生かすのには
いいのではないだろうか。

では、どこで、『めがね』の舞台は与論だとアピールするのか。
それこそ、ネットでするのである。
ネットでは、正直に積極的に言えばいい、書けばいい。

ただし、地元は、たそがれるにふさわしい場所として、
映画と地続きの場所であるように、
なるべく映画世界のままであるように保つ。

たとえば、寺崎に「めがね海岸」なんて看板でも立ったら、
映画世界からいきなり現実に連れ戻されるわけだから、
興ざめはなはだしいことは分かると思う。

だから、島のなかでは、案内は極力なくして、
島自体がささやくように、「そう、めがねの島です」
と言っているくらいがちょうどよい訴求だと思う。

そこを間違わずに、素敵な案内をしてほしいと思う。




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2007/11/01

『ウンタマギルー』と『めがね』

高嶺剛監督の1989年の映画『ウンタマギルー』と、
荻上直子監督の2007年の映画『めがね』は、
対極的な位置にある作品だ。

けれど、その質は似ているとぼくは思った。
登り口は違う。けれど頂は同じ。
いや同じと言わないまでも、とても近いと思うのだ。

その頂というのは、よい表現かどうか分からないけれど、
琉球弧の本質に当たるものと言いたい気がする。

「ウンタマギルーのけだるさ」
 「『ウンタマギルー』以後。過剰の交換」

映画『ウンタマギルー』と映画『めがね』が対極的だというのは、
沖縄と与論の起点がまるで違うことに帰せられる。

「沖縄」は、沖縄自身とは似て非なる記号化された「沖縄」の
イメージを過剰に持つ地である。

それに対して、「与論」はといえば、
与論自身が与論とは何か、自問自答できないくらいだから、
他者像としてノン・イメージなのである。

過剰な「沖縄」像と空虚な「与論」像を起点に、
そこから、その場から感受されるものは何か、を描こうとしているのが、
『ウンタマギルー』と『めがね』なのであり、
地霊的な感受を描こうとしている点において両者は共通しているのである。

高嶺監督は、わざわざ方言を使い字幕を施し、
沖縄人役に日本人俳優を起用し、ありそうでないなさそうである
あわいに浮遊する事象を散りばめて、
記号化された「沖縄」像をことごとく虚構化する方法で、
その残余に、琉球弧の感受を置いた。

それに対するようにいえば、
荻上監督は、与論を非在化し(どこかにある南の島)、
琉球的な事象を、自然と子ども以外は排して、
ありのままの自然を描くことで、
琉球弧の感受を描いてみせた。

それを『ウンタマギルー』は、「オキナワン・チルダイ」、
「琉球の聖なるけだるさ」と呼び、
『めがね』は「たそがれる」と呼んだ。

「たそがれる」は、その世界に浸りきれば、
「けだるさ」の世界にすぐに入っていく。
「けだるさ」に出会って恍惚とする、それを「たそがれる」と呼べば、
両者に橋渡しはできるはずだ。

高嶺監督が、荻上監督より徹底しているというのではない。
高嶺剛は石垣島出身。いわば沖縄の内部から描いたのに対し、
荻上直子は、旅人としての外部から描いたという
立ち位置の違いがあるに過ぎない。

それは内部からと外部からの差異に過ぎない。

しかしこれを単に、その差異に過ぎないと
身勝手に言わせるほどに、
両者が本質的なことをやろうとしてくれたということ。
言うべきなのは本当は、このことかもしれない。

かつて、沖縄と与論は、「オキナワ・ヨロン」と、
リゾートとして併記されたことがあった。
『ウンタマギルー』と『めがね』は、
映画作品化を通じた沖縄と与論の再会のようだ。

追記
こんなことを書いたのは、なんと、
『ウンタマギルー』が、動画配信されていたからだ。
ぼくはまだ観ていないが、いずれ、
18年ぶりにあの映像に触れてみるつもりだ。


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2007/10/12

「なにもないが、ある」-『めがね』を真っ芯で

  「なにもないが、ある。」

これは、映画『めがね』を真っ芯で捉えた言葉だと思う。

「なにもない」と「なにもないが、ある」とは随分、違う。

たとえば、この映画でも象徴的な意味を担う携帯もそうだ。

ぼくたちは地下鉄やなにかで携帯の圏外にいたり、
電池が切れていたりすると、携帯が通じない、と言う。
ふつう携帯が通じる世界にいると思っているから、
通じないのは、「ない」ということだ。

「ない」という時、ぼくたちは、
「ない」という不在感を「欠如」として感じている。
それは、出かけるときに携帯を忘れた時の、
あの、居心地の悪さというか不安を思い出してみればいい。

けれど、あらかじめ携帯の通じない世界だったらどうだろう。
そこにいればぼくたちは、携帯が通じないのは、
ただの「ない」ではなくなる。

携帯が通じ「ない」のは、一時的な、
そう、圏内に入ったり、充電池を確保したり、
自宅に戻って携帯を取りに行けば、
解消されるものではなく、
通じ「ない」のが日常になる。
通じ「ない」時間を生きることになる。

そこでは、携帯が通じ「ない」という世界が「ある」のだ。
ふつうに考えれば、それはただの不便だから、
「ない」が「ある」と言われても困るが、
ぼくたちは、心の隅で、携帯も通じない世界で、
何もかもから解放されてみたい、
という願望を秘めることもあるから、
それだけ、この「ない」が「ある」には価値を感じる。

だから、ここでは、携帯が通じ「ない」ということは、
欠如ではなく、過剰になるのだ。

 ○ ○ ○

ところで、あんとに庵さんは、
単に「ない、がある」と言っているのではなく、
「なにもないが、ある」と言うのだから、
「ない、がある」より、もっと深く呼吸をしている。

そして、吐き出す息でもって、
もう少し、問いを進めてくれている。

  島に住んでる島人がこの映画見たら
  なんていうだろうか?
  (映画『めがね』なにもないがある島の日常
  「あんとに庵◆備忘録」

ぼくも気になる。
想像すれば、「なにもないが、ある」という言い方は、
「なにもないが、ある」と言えるのは、
「ある」世界にいるからだ、とか、
本当は携帯も通じるように、
ここは、「なにもない」どころではなく、
そもそも「ある」のだ、とか、
いう声を呼んでも可笑しくないからだ。

まだぼくは、「島に住んでる島人」の
感想を聞く機会はないから、
ここから先は、シミュレーション的な話。


今回、祖父の洗骨をしに帰島したので、
パラジ(親戚)との再会も多かった。

なかに、ぼくより前の与論をぼくより長く住んで
いまは関東在住の兄(ヤカ)も『めがね』を観ていた。

ぼくの「よかったでしょう?」という問いかけに、
「ようわからんかった」。

でもって、兄(ヤカ)は、

「だって空港出たら、すぐ寺崎ってそれはねぇだろう」

と、江戸っ子ばりに言い切る。

いやこれは映画だから、と一瞬、半畳を入れたくなったが、
それだけ、映画の世界が現実の与論島と地続きだから
出てくる台詞だと受け止めることにした。

でも楽しかったのは、関東出身の姉さん(兄の奥さん)は、

「本当は、“たそがれる”ってすごくネガティブなことよね」

と話していたが、みんな出かける時には、

「じゃ、ちょっと“たそがれ”てくるから」とか、
「だって、ここは観光するとこなんかないんだよ」とか、

それが、小さなコミュニティの合言葉になっていた。
断っておくと、合言葉は、自嘲でも卑下でもなく、
楽しく語られた。

 ○ ○ ○

島は、「なにもない」と、
しこたま言われてきて、それを、
欠如として受け止めることに島人は慣れている。

でも、島出身の兄(ヤカ)や島つながりの姉さんが、
与論島と地続きに映画を観てしまうけれど、
それでも、「観光するとこなんか、ないんだよ」と、
合言葉のように言う、その言い方が、素敵で愉快だった。

「観光するとこなんか、ない」。
こういう時、それは欠如ではなく、
過剰として受け止められているのだ。

ぼくはそこに、近い将来の島人による映画感想を、
先取りして見ている気分だった。

島人は、「なにもない」を欠如として受け止めてきたが、
それが、「なにもないが、ある」という過剰へ
反転して受け止めるように、映画が後押ししてくれている。
そんな風にも感じられた。

もし、そうだとしたら、それが島人にとっての
最大の効用に思える。

 「あんた、タビンチュね」
 「はい、観光に来ました」
 「ヌッチュウ?観光?そんなとこ、どこにもないがねー」

島の人が、もしこう言ったら、とてもいい。
いまのところ架空の対話をぼくは思い浮かべるけれど、
こんな対話が島で飛び交ったら、
この島は大丈夫、と思うのだ。


もっとも、そんなこと考えなくても、

  でも島んちゅは素直だから
  「島をこんな風に撮ってくれて嬉しい」
  っていうと思うけど。

という、あんとに庵さんの弁に、
ぼくも、そうそう、と思うのだ。

 ○ ○ ○

それにしても、

  いや、ものの見方を変えるなら「過剰にある」
  ものが沢山あるんだけど・・自然とか、
  海とか海とか海とか植物とか植物とか
  キビとかキビとかキビとか山羊とか牛とか
  犬とか猫とかねずみとか蟲とか虫とかムシとか・・・・。

ここには、与論風景的リアリティがあって、
大笑いさせてもらった。

とおとぅがなし、である。


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2007/10/11

本当に必要なものは、実はあんまりない

またまた、「奄美の島々の楽しみ方」の山川さんに、
『めがね』掲載の雑誌を教えてもらった。

 「エココロ」

みなさん、いい笑顔です。

Megane1011














小林聡美さんコメント。

  「そうですね。1カ月のロケなので、本とかDVDとかたくさん持って
  行ったんですけど、一切見る気分にはならなかったです(笑)。
  映画の中でも、市川さんの役のハルナに
  『ここじゃ本なんて読めないでしょ』って言われるんですけど、
  その通りで(笑)」

共感しますね。

ぼくも持っていく本は、いつにもまして睡眠誘発剤になるし、
仕事柄、パソコンを持っていってメールするのですが、
すべて文字化けに見えてしまいますから。

もたいまさこさんコメント。

  「そうか、そうだよな、そんな荷物、早く捨てればいいのにって。
  でも実際、与論島(今回のロケ地)に行ってみて思ったのは、
  本当に必要なものは、実はあんまりないんだなってことでした。
  映像そのままのとてもきれいなところでしたけど、
  なんにもないところなんですよ。気持ちいいくらい。
  だから、ない中で、工夫して食べたり飲んだり、
  あたり前の生活を楽しむんですね」

「本当に必要なものは、実はあんまりない」。
この気づきを与論島が与えてくれるとしたら、
それは素敵なことですね。



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2007/10/10

『めがね』の居眠り

「眠ってしまった」という感想を見かけたり、
映画を改めて思い出したりすると、
つくづく、『めがね』は都心の逆写像だと思う。

ここでいう都心は、必ずしも都会の真ん中のことではない。
たとえば、いまや与論島だってインターネットは快適にできるし、
携帯電話も実はよく使っている。
そこにおいては、都心的なのだ。

先日、「時間の加速と重畳」と書いたけれど、
時間が速度を増し幾重にも重なる場のことを
都心的と仮に呼んでみる。

『めがね』は都心の逆写像だ。
都心にいると、時間は加速しかつ重畳される。
そこでぼくたちはあるところまでは
快適に感じながら、度を越すと、
神経が磨り減るような消耗感を覚える。

果ては、どんな過激な映像やニュースを見ても、
無感覚になってゆく。

これを事件の深刻さで解釈しないとしたら、
時間の流れに身体が過飽和になっているのだ。
もうこれ以上は、都心の時間の流れに身体を合わせることができない。
身体に時間が溢れ、過飽和になるのだ。

『めがね』は、都心がそうであればあるほど身体が要請する
その逆写像の映像だ。

ここでは時間は流れない。
時間を折り重ねる携帯電話も永久圏外だし観光地もない。
時間は希釈されて、まるで胎内の時間の流れのように、
身体に調和していく。

映画『めがね』を観るとはどういうことか。

 ○ ○ ○

濃度の異なる二つの溶液を半透膜で隔てると、
濃度の低い方から高い方へ液体が流れ込む。
ぼくたちはそれを浸透圧と呼んでいる。
『めがね』はその浸透圧を連想させる。

映画館では、『めがね』上映の間、
浸透圧が発生するかのようなのだ。
希釈された時間の映像を、
「24時間じゃ足りない」と、時に呟くほどに
過飽和になった身体が観る。
すると、希釈された時間がスクリーンを通じて、
過飽和になった身体に雪崩れ込む。

ぼくたちは、希釈されて希薄になった時間が
身体に殺到してくるのを感じるだろう。

そして、希釈された時間に身体を委ねる。
そのいちばん素直な反応は、睡眠だ。
都心とは、眠らない場所だから。

だから不思議なことに、「眠ってしまった」は、
この映画のネガティブな評価にならない。
それどころか、居眠りはきわめて『めがね』的身体反応だ。

 ○ ○ ○

過飽和の水溶液にゴミを入れると結晶が析出されるように、
ぼくたちは過飽和の時間の流れの最中から、
必死に何かを生み出そうとしているのかもしれない。

けれど同時に同じ身体も、
過飽和を解き、限りなく自然時間の流れに身を委ねたくなる。

その欲求に『めがね』は応えている。
その意味では、『めがね』は都心の落とし子なのだ。



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2007/10/06

『めがね』の島だ

着いた瞬間、『めがね』の島だ、と思ってしまった。
オレは出身者じゃなかったのか。

でも、台風の接近のための曇り空が、
ちょうど映画の曇り空のようで、
そういえば、タエコはこんな空の空港を
横切っていった気がしたのだった。

そんな心準備があったのか、
飛行機に乗る人が「たそがれ族」に見えてしまう。

那覇で、

 あんなちっちゃいよ。
 チャーター機みたいだ。

与論に近づくと、

 見てみて、すごい、海があんなにきれい。
 めちゃくちゃキレイね。

そういう声を聞いて、

ああ、考えてみれば、
那覇から、あのプロペラ機に乗るときにはすでに
与論物語が始まっているんだなと思った。

彼ら彼女らは、あの那覇空港で、
プロペラ機に乗るときは、
与論島への期待に胸膨らませてるんだ。

あの、ちっちゃい飛行機だって、
与論旅の一部として、
働きかけるといいんだなって改めて思った。

昔でいえば、クィーンコーラルが、
その役目にあずかっていたわけだ。

台風が近づいていたけれど、
雨がなかったおかげで、難なく与論には着けた。

祖父の改装が無事に済むよう、願う夜だ。


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2007/10/05

『めがね』の向こうの与論島

まずは、このQ&Aをご覧ください。

  与論島って、そんなにのどかですか?

映画『めがね』を観て、映画にほだされて、
与論島に行きたいと思う人が生まれてきています。

「与論たそがれ族」?が、
秋以降、数を増やしていくのでしょう。

与論そのままの映画だということを思えば、
与論はいつものとおり、
みんなを迎えればいいのでしょう。

存分に、たそがれてもらえたらいいですね。




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2007/10/03

与論の映画のことを与論の人へ

盛窪さんのチヌマンダイ「映画『めがね』の寺崎海岸」で、

 未だ映画を見ることができないのが残念である。

とあって、公開初日にいそいそ観にいって申し訳ない気持ちも過ぎりました。

 ☆ ☆ ☆

与論のみなさんへ。

映画『めがね』は、与論を舞台に、架空の世界を組み立てたのではなく、
与論そのものを、ワラビンチャーと自然以外は、
琉球的事象に頼らずに、描いた作品でした。

そういう意味で、“これが与論島です”、
と、そのままに誇れるものになっています。
ぼくはそう感じました。

何より与論島そのものを好きになってくれた荻上監督の存在があり、
与論そのものと架空の物語をつなぐ難しい役所を
ノロのようにこなした、もたいさんがおり、
また、身体は与論島に感応しているのに、
それを拒まなければならない難しい役所をこなした
小林さんの存在があり。

監督さんと役者さんのおかげで、
与論島そのもののよさを表現してくれる作品になっています。
与論島で観れる日を楽しみにしてください。

そういえば、おすぎは、「私には全然理解できない」
この映画をいちはやく評しています。

たまたまですが、仕事で渋谷に行くと、
ときどき、彼?とすれ違うことがあります。
いつも眉間に皺を寄せた、きつそうな表情をされています。
与論島に来ればいいのに、ほどけるのに、
と思わないでもありません。

『めがね』は、与論島の価値を表現してくれています。
与論の自信につながってくれたらと願っています。



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2007/09/28

『めがね』を反芻する-時間の溶解劇

  小林:監督ねぇ。毎回、不安になるんですけどね(笑)。
  「これで本当に映画になるの?」って。
  市川さん、不安だったでしょ。
  市川:はい(笑)。「えっとーえっとー、何かーえっとー、
  もっとー、素な感じで-」とかもたいきんに言っているのを聞くと、
  こんなの私、わからないって。
  (映画のプログラムから)

これが琉球弧の民俗に資源を求めた映画だったら、
ユタ(巫女)の役だったろうと思わせるのは、
浮世離れしたオーラを放っていた、
もたいまさこ演じるサクラだった。

そのもたいまさこが、「もっと素な感じで」と
監督から要請されるところに、この映画の特徴は顔を出している。

荻上監督は、限りなく演劇性を排したところで作品を
構成したかったのだと思える。

それは脱演技、という意味ではない。

また、この映画は、物語があるようでない、と評されている。
でも、脱物語が目指されているのではない。

たしかに、この映画では何も物語は起こらないと言ってもいい。
けれど物語性は解体されようとしているのではない。
映画の途中でハマダに宿泊するヨモギは、
タエコに会うなり「先生」と声をかけて彼女を驚かすのだが、
二人がどういう関係なのか、映画のなかで語られることはない。
それはしかし、物語が脱構築されるためにそうあるのではなく、
二人の背景は、作品にとってあまり大切ではないということと、
背景は鑑賞者の受け止めにゆだねるという
両方の意味を持っているようにみえた。
実際、作品の背景には、物語が充満していると感じられるのだ。

だから、物語の解体劇ではない。

荻上監督が、「もっと素で」というとき、目指したのは何か。
それは、時間の減速と一重、だ。
こういうと分りにくいが、この逆はたぶんイメージしやすい。
時間の加速と重畳、である。
こう書けば、それは都市生活の感覚であるとすぐに了解されるだろう。

流行の前に流行に気づきたいと誰もが思うほどに、
時間はつんのめって加速される。
そしてそれだけでは足りず、時間は多重化している。
テレビを見ながらインターネットをし、
会議をしながらノートPCを打ち、
“ながら”は牧歌を失いながら常態化している。

時間の減速と一重、というのは、その逆だ。
時間をあたうかぎりゆるやかにし、また、層を重ねない。

メルシー体操をするときはメルシー体操だけするのだし、
朝ごはんを食べるときは朝ごはんを食べるだけだし、
釣りをするときは、釣りだけをするのだ。

そのために、舞台は携帯電話がつながらない必要があった。
時間の重畳化の象徴的な道具こそ、携帯電話だからだ。
「ここはね、携帯電話がつながらないんです、いいでしょ」。
ここでは時間は折り重ならない。そう言っているのだ。

映画『めがね』には物語性が希薄だからといっても、
物語の解体劇なのではない。
言ってみれば、溶かすように時を止める、時間の溶解劇なのだ。

 ※「百分間の帰省-映画『めがね』メモ」


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2007/09/22

百分間の帰省-映画『めがね』メモ

  観ているうちに、寝ちゃうかもしれないですね。(小林聡美)
  うん。日本にこんなに気持ちのいいところがあるのかしらというくらい、
  海が穏やかで・・・。(市川実日子)

ふつう「寝ちゃうかも」なんて言われたら退屈な映画だと思われそうだが、
これがほめ言葉になるのが、『めがね』という作品だった。

「携帯が通じなさそうな所に行きたかった」という割には、
「いえ、結構です」、「少し、放っておいてください」、「無理」、などと
都市のノリそのままでほぐれない、小林聡美扮するタエコ。

そして、他の登場人物とともに、もたいまさこ扮するサクラは、
「おはようございます、朝です」、「氷、ありますよ」と、
キーワードのような台詞しか言わないのに、
かたくななタエコを、まるでユタ(巫女)のように、
作品のメインテーマである“たそがれ”の世界に導いてゆく。

この流れに乗って、ぼくもぼくのたそがれの世界に入っていくようだった。

茶色に枯れた葉もある蘇鉄、元気なさげなアダン、青々と茂るモンパ、
緑とコントラストをなす島の赤土、背景をなす砂糖きびの畑、
放物線を描くようにたれる砂糖きびの葉、石灰岩がごろごろする道、
海辺の砂の肌色を含んだ白。その砂浜の白に溶け込む珊瑚岩の白。
曇り空の海の青と陽射しに照らされた海の青。
イノー(珊瑚礁)の、あのコバルトの蒼。
黒白まだらの山羊、どこからともなく聞こえる牛の声。
どこからともなく現れる猫。夕陽に照らされた砂浜を掘る犬。
いつも聞こえているような、風の音、鳥のさえずり、波の音。

そうそう。かき氷を食べるシーンだったろうか。
さざ波を映していると思いきや、ぐいぐいと汀に引き寄せられるようで、
思わず、どきどきした。映画撮影としてではなく、観ているうちに、
カメラマンが惹き寄せられたように見えたのだった。

かき氷を食べるタエコの肩越しには、防砂林のモクマオウが見えた。
あのモクマオウの向こうに、もうすぐ洗骨を迎える
祖父ちゃんのお墓がある、などと思った。

タエコの肩越しに、ぼくは現実を見たのだけれど、
それが、作品世界と地続きにあるように、自然に思えるのだった。

寺崎の海岸が白く映えていた。
言語学者の村山七郎は、ジャワ語 sila[光線]、
フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」
に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導いている。
この、*t'ilak(「光線」)は、ティラでありティダ(太陽)へとつながっていく。

ぼくたちは以前、寺崎のティラを洞穴と解する理解を試みたけれど、
村山の解釈に添えば、寺崎とは「洞窟の崎」ではなく、
「太陽の崎」なのかもしれない。
ぼくのたそがれは、そんな連想に進んでいった。

この上なくゆるやかな時間が流れて、
ぼくは、百分間の帰省を堪能させてもらった。

映画『めがね』は、たとえば、三線や与論言葉や、
本当はめったに見ないけどシーサーなどの琉球的な事象に頼らずとも
(もっとも、メルシー体操したりかき氷をたべたりする
ゆんぬのワラビンチャーは可愛いけどね)
与論島を描くことはできることを示してくれた。

映画『めがね』の「たそがれ」から、
琉球の本質を捉えた高嶺剛監督の映画『ウンタマギルー』の
「琉球の聖なるけだるさ」の世界まで、ほんの少しの距離なのだ。

けれど映画『めがね』のことを言うのにそれを説明する必要はない。
ぼくは、与論島を丸ごと生かすように作品をつくった荻上監督に
感謝しないわけにはいかない。
トオトゥガナシ、ミッタンイチャリタン。

帰省したいけど叶わないとき、ぼくはまたこの映画を観るだろう。

Tilazaki_2

















(春にタエコたちを迎えた寺崎の夏)




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2007/09/20

『めがね』、鹿児島でも上映

『めがね』のTVCM第二弾。

  「人はどうして」編

  「ま、人間やってると色々ありますからね」

小林聡美の言いっぷりは、味ありますね。


「朝のたそがれ」は明日まで。

  スッキリ!1分劇場“朝のたそがれ”

明日まで、映画封切の前の日に終わるようになっていたんですね。
なるほど、です。


土曜からいよいよ上映開始。

そういえば、鹿児島での上映が決まっています!

  TOHOシネマズ 与次郎

在鹿ゆんぬんちゅ、あまみんちゅの方は、ここで観れますね。
よかった。


与論島での上映がありますように。




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2007/09/16

まともさと清潔さとユーモアと

映画『めがね』を観るのに、これを観ないわけにいかないだろう、
ということで、前作『かもめ食堂』を観た。

 ※『かもめ食堂』

映画が進むにつれて、やってくるのは、
まともさ、清潔さ、ユーモアだった。

いい作品だ。でも、いつものように、それならなぜ、どのように、
心を動かされたのか、そうした説明を、
いまは少し免除させてもらおうかなんて、
そんな気持ちになるのだった。

そのくせ、この作品を観たらその足で、
次は与論島を舞台に映画を撮ってください、と、
そう荻上監督にお願いしたくなるような感じだ。


そういえば、エンドロールで流れる井上陽水の「クレイジーラブ」は、
一見、不似合いな気もするが、とても効いていた。なぜだろう。

ま、今回は、それも深入りせずにいたい気がする。


まともであることはとても大事で、
その動かなさ、変わらなさが、ときに人を救う。
それは地軸のように、それがあるから、
回転していられるというようなものだ。

ぼくも、糸の切れた凧のように飛んでいってしまうきらいがある。
まともさは、とてもありがたいのだ。


追記
映画『かもめ食堂』のまともで清潔でユーモアのある世界観は、
公式サイトにも、素直に反映されていました。

  『かもめ食堂』オフィシャルタイト




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2007/09/15

街なかも、『めがね』

池袋のイルムスを通りかかったら、
なんと、そこに『めがね』の予告編。
思わず、釘付けになりました。

1_3










2










予告編はインターネットで配信されているから知っているわけですが、
やっぱり、街中で観るのは迫力が違います。
いよいよだなぁってワクワクしました。

画面に夢中になってしばらく気づかなかったのですが、
見渡せば、『めがね』グッズもありました。

3










Photo










街中も『めがね』、です。
もうすぐ与論島が、タビンチュの皆さんを全国的に癒します。
考えてみたら、これは観光ブームの時以上の力になるかもしれません。

この力をぼくは注視していこうと思っています。

5










 ※池袋イルムス


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2007/09/12

タエコ賞はヨロン島の旅

映画『めがね』がキャンペーンをやっています。
その名も、「“たそがれ”キャンペーン」

  “たそがれ”キャンペーン実施!

映画に登場する犬の当てよ、というもの。
ふむふむ。かわいいクイズです。

しかし、ぼくがもっぱら注目するのは、
タエコ賞がなんと、

 ヨロン島2泊3日の旅

だということ。

いいなとかすごいとかではなく、
ここでやっと、映画と与論との接点が垣間見えました。

嬉しい。

みれば、「ヨロン島観光協会、ヨロン島ビレッジ」が提供しています。

そうか。

こんな接点があるなら、与論島上映も働きかけられるかもですね。

がんばってほしいなぁ、観光協会。

期待。



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2007/09/11

めがね尽くしの舞台挨拶

TVCMに続いて、映画『めがね』の試写会が記事になっていました。

今回は、出演者全員、めがねをかけての挨拶。

 観客もめがねをかけて、映画『めがね』舞台挨拶


  気持ちのいい映画が、できました。
  セリフのないシーンの空気感に、
  たそがれどきを感じてください。

というのは、荻上監督の言葉。

セリフのないシーンの主役は、もちろん与論島ですね。(^^)

もうすぐ9月22日です。




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「めがね」のTVCM

偶然、何回かテレビで見かけた映画『めがね』のCMが
ブログから配信されていました。

 公開中のTVスポットです。【第一弾】

 「旅の鞄に詰める荷物は必要なものだけにしよう。
 人生もそういうことで。
 旅するつもりで映画館においでください。」

小林聡美の台詞がとても沁みます。

旅の鞄かぁ。荷物を点検したくなりますね。

ご覧ください。


それにしても、映画『めがね』の与論島上映があればいいのに。
願わずにいられません。



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2007/09/09

南の海辺でちょっと変わった旅人を演じる

JALの機内誌「SKYWARD」に、
小林聡美さんのインタビュー記事が出ていました。

 「南の海辺でちょっと変わった旅人を演じる」

Skyward

















「与論島」という言葉は出てきませんが、

「ロケ地は、ついた途端に頭からセリフが飛んでしまったほど、
ボーッとできる雰囲気なんです」

と、しっかりほめてくれています。

映画『めがね』は22日公開。
与論が舞台なのだから、与論でも上映してほしいですね。


メモ

 完結しています。
 かもめとめがねのおいしいごはん

 寺崎の映像が嬉しい。
 朝のたそがれ 

 22日初日には舞台挨拶が再びあるとのこと。
 めがね オフィシャルブログ




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2007/08/30

美日子と「めがね」と与論島

「LOVE YOU SOMETHING」のブログで、
映画『めがね』に関する本や雑誌をチェックできます。
ぼくは見落としも多いので、ありがたし。

 【book&magazine】 映画「めがね」と市川実日子さん関連雑誌メモ

このなかで、『装苑』を手にとってみました。


市川実日子さんのインタビューが載っている。
例によって、与論島に関係のありそうなところを引いてみる。

 ほかにすることがないということもあるんですけれど、
 生活の中の普通の一つ一つのことがすごく楽しくて、
 東京にいる時の“欲”みたいなものが
 自分の中からなくなった感じ。

 島にいる時に“やりたくないことはやらなくていい”
 ということをよく言われて。
 それってわかるけど、だけどものすごく難しい。
 でもそれを目の前で実践してくださった作品。
 大切なものを、本当に大切にしていこうよというのを、
 目の前で実践してくださったんですよね。
 なんか現場が殺伐としてない感じ。
 本当にそうやって映画を撮っているんだなあと。

 そのころ、東京の仕事では「もっと早く、もっとテンポを!」
 と言われていたから、それが私の中で抜けないっまでいたみたいで。
 だから、撮影の初めのころ、監督から「もっとゆっくり」
 とよく言われていました。
 しばらくは、それでもどこか焦っているようなところがあったんですけど、
 島の海や空、全部を感じてほしいと言われて、
 だんだんと「あ、なんかこういうことかな」と。
 何回かそんな気持ちになることがありました。
 いつも焦っていたのかなあ。それが癖になっていたということか。


監督の荻上直子さんのインタビューもありました。

 ロケ地の与論島は、昔、ある映画を観て
 個人的に憧れを持っていたところです。
 とにかく海がきれいで、海以外には“たそがれる”しかない。
 その印象は、1年前の春、脚本を書くために再訪したとき、
 ますます強まりました。

 ニュースを見ているだけで悲しい気持ちになることが多い今。
 だからこそ、気持ちのよさ、
 思い出すだけでくすくす笑えるような心地よさを、
 映画の中だけでも味わってほしいと思っています。


お二人とも変わらず、いいことをおっしゃってくれてます。

荻上さんが観た映画って何でしょうね。気になります。

映画の舞台に与論島が選ばれたのは、
荻上さんのなかに与論島がすでに存在していたからなんですね。
それはとても素敵なことです。

与論のなんたるかをまっすぐに感受した方が
映画を撮ったということですから。

これは逆のケース、与論の青いを海と空を、
ただの観光地として撮られたとき悲惨を思えば、貴重なことです。

市川さんへの、「もっとゆっくり」というアドバイスも、
「ここは与論だよ」という声をコノテートしていますね。

加速された時間のなかに、
分裂的に身を紛れ込ませるような都市のなかにいて、
しかも、自他ともに壊れゆくような出来事が迫りくるいま、
荻上さんの、せめて「映画の中だけでも」というメッセージは、
切実に聞こえてきます。

もっと言えば、与論島が提供できる価値が
大きくなっているということです。




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2007/08/29

かもめとめがねのおいしいごはん。連載中

その1 『かもめ食堂」ごらんになりました?

「かもめ食堂」もいいけど、昔懐かしくなる緑と赤土の
与論の道が最高です。

その2 目玉焼きは、かりかりに。

「氷金時」もいいけど、かき氷と役者さんの向こうの
与論の寺崎や海も最高です。

その3 だいじな朝ごはん。

でも、朝ご飯もやっぱりとっても美味しそうです。

その4 ふたつのポテトサラダ。

ジャガイモがすごく美味しそうだけど、もたいまさこさんが
両手を上げる寺崎の海と空には言葉を無くします。


ちょっと邪道な連載紹介でした。



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2007/08/25

『めがね』の視点

雑誌『ピクトアップ』が、映画『めがね』を特集しています。

 ピクトアップ#48

キャスト、スタッフ全員のインタビューが載っているので、
与論島に関わるところをご紹介します。

小林聡美さん

 でも、実際にロケ地に入ったら、
 普通の健全な人であれば誰でも、
 あの海と大自然のパワーでリラックスせざるをえない風になるわけです。

市川実日子さん

 島に一ヶ月も滞在することが初めてだったこともあるんですけど、
 東京で撮影している人たちがあの現場に入ったら、
 普段、自分たちがいかに早足でいるかということに
 ビックリするんじゃないかと思うんです。

加瀬亮さん

 いい台本だなと思いました。
 邦画界っていまバブルとかいわれてて、
 テンポのいいイケイケな作品が多い中で、
 『めがね』はすごく孤立してて、
 珍しく地に足がついたスタンスで企画された作品だなと思って。

これは、直接、与論に触れたコメントではありませんが、
どこかで与論につながりますね。

荻上直子さん(監督)

 何もしなくていいっていう贅沢を、
 フィンランドで教わったんです。
 で、そのあとに、与論島に行ったら、
 観光するところなんかどこにもなくて、
 あるのはきれな海だけ。
 ボーッとたそがれるしかないわけです(笑)。

 島全体にゆるーい空気が流れていて、
 フィンランドとは真逆の南の島なのに、
 共通するものを感じました。
 私自身がそういうことに憧れて、
 体験したいという気持ちはあったかなと思います。

富田麻友美さん(美術)

 最初は建てるつもりはなく、
 良い場所があればそこを借りて、
 飾りつけしようと思ってたんですよ。

 島は小さいので、すぐ回れちゃう。
 だから、粘っても、ないものはない。
 それで『プランを描くので、良ければ建てさせて』と提案して、
 1週間後にプランを上げて、
 その1週間後には建て始めました。
 
飯島奈美さん(フードスタイリスト)

 監督にもプロデューサーにもそう言われていたので、
 おいしそうに見えるための湯気や、
 ビールの泡なんかは死守しなきゃと思っていて。
 『ちょおっとすいません!
 ビールの泡、足します』と撮影を待ってもらうこともありました。
 たぶん『めがね』じゃないと、
 『湯気を見せたい』なんて言っても、
 聞き入れてもらえなかったと思います

これも与論のことを直接コメントしたものではないけど、
通じますね。

伊藤千枝さん(振付家)

 一見ふわっとした雰囲気があるけど、
 根底には強い何かがパイプラインのように流れていて、
 その上にすべてが乗っている感じ。
 だからこそ、揺るぎのないゆったり感が出ているのだと思います。

「揺るぎのないゆったり感」。
これも与論ぽい。

霞澤花子さん(プロデューサー)

 ゆったりというか、なんにもないところがよかったんですよ。
 そしたら、「そうか、与論島がある!」って。
 それは、「ヘルシンキがある!」というのと同じ。

ぼくは、映画の『めがね』の舞台としての与論島のことを云々しているけれど、
考えてみれば、「与論島」を選ぶ過程を経て、
与論島舞台の映画になったわけですね。

それもすごいことです。


 

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2007/08/24

かもめとめがねのおいしいごはん

ほぼ日刊イトイ新聞で、
『かもめ食堂』と『めがね』に出てくる料理をテーマに、
フードスタイリスト、飯島奈美さんの連載が始まるようです。

 かもめとめがねのおいしいごはん

またまた楽しみが増えました。

別ウィンドウで開いた画面の最後が、
与論島の画像で、嬉しくなってしまいました。

なんだか、『めがね』もお腹の空きそうな映画ですね。



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2007/08/23

「観光するところなんて、ありませんよ」

このタイトル、ドキっとしましたか?

これ実は、映画『めがね』の台詞だそうです。
観光したいと言うタエコ(小林聡美)に返される答えが、
 
 観光するところなんて、ありませんよ。


他にも、
 
 たそがれないのに、一体何をしにここに来たんですか?

とも。


予告編では、

 ここ携帯つながんないんですよ、いいでしょ。

たしか、こんな台詞も入ってました。


実際の与論島は、島中観光地だし、携帯は浜辺だってつながるし、
たそがれるだけじゃなく、希望もロマンもいっぱいなんだけど、
映画『めがね』の台詞は、妙に、与論ぽい。

観光するところなんてない、も、
携帯はつながんない、も、
たそがれないのに、何しに来たんですか、も、

 与論ぽい。


そういえば、また最近、どこかのブログで、
「ヨロン島はバリ島の近くにあると思ってたの私だけ~」
と驚いている記事を見かけました。

これもまた、カタカナヨロンのこととはいえ、与論ぽい。


かつて沖縄は「天国にいちばん近い島」と、
キャンペーンされたことがありました。

与論島はかつて南の最果ての島でしたが、
今は、与那国島や波照間島が、その任についています。

与論島のポジションはどこだろう?

そう思うとき、

何もない、
何もしない、
どこか分からない、
どこかの南の島。

という映画『めがね』の提示するイメージは、
旅する島、与論島のポジショニングとして、
いいなぁと思えます。


 ○ ○ ○

上の台詞は、このサイトで見ました。
試写会の様子を含め、いちばん詳しい紹介が出ています。

 『めがね』完成披露試写会レポート



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2007/08/19

欲が少なくなった-与論島感想

「奄美の島々の楽しみ方」の山川さんが、
ぼくの『めがね』オタクぶりを見かねてか、
『ナチュラルスタイル』という雑誌に、
市川実日子さんのインタビューが載っているのを教えてくれました。

市川実日子さん。
ぼくもさすがに『めがね』に出ている役者さんと覚えました。

 9月に映画「めがね」が、
 「かもめ食堂」と同じ制作スタッフで公開されますが、
 今回は与論島で長期間ロケをされたそうですね。
 与論島に行かれたのは初めてですか。

 はい。初めてです。「いいところ」だとは聞いていたのですが、
 鹿児島から離れた島というイメージくらいしか思っていませんでした。
 映画を観ていただければわかると思いますが、
 海も空も本当にきれいなんですよ。
 与論に着くまでは頭痛がとまらなかったのですが、
 島に着いた翌日にはすっかり治っていました。
 でも、島の陽気のせいなのか、
 ほんとに思考回路が止まったしまうというか、
 何か考えようとしても考えられない不思議なところでした。

 どういうところが普段と一番違うと感じましたか。

 東京に帰ってきて、
 また頭が痛みだしたんですよ。
 たぶん島時間と東京時間の変化を体が調節しようとしていたのが、
 調子を取り戻すまでにしばらく時間が必要でしたね。
 東京に戻って気づいたのは、
 東京にいて普段の暮らしのなかで当たり前と思っていたことが
 与論島では違っていたことです。
 与論島に滞在したことで、
 いろんな自分の中の欲が少なくなったんですよね。
 それっとすごいことだなと思いました。
 ロケ中にはふざけて「買い物に行きたーい」と
 いうようなことを言ってみたりしたんですが、
 東京に帰っても全然行っていないですよ。
 (『ナチュラルスタイル』9月号)

相変わらず、いいことを言ってくれますね。

頭痛が治る、思考回路が止まる。
どちらも与論島真実です。(^^;)

 ○ ○ ○

「欲が少なくなった」というのに、
その通りと頷きながら過ぎることがあります。
それは、格差社会のくぐり方をめぐってです。

「格差社会」には、冗談じゃないという面と、
知ったこっちゃないという面があると思います。

冗談じゃないという側面は、
ここ数年、資本主義の興隆期のように、
富の偏在化が進み、
景気回復などと言われてもまるで実感の湧かない事態のことです。

これは特に選挙期間中は、
都市と地方の格差がクローズアップされましたが、
都市の内部でも大企業と中小企業の格差として露出しているものです。

この、重たい課題はある。

でも一方あるのが、知ったこっちゃないという側面です。

それが、市川さんのいう「欲が少なくなった」ということに関わります。

思い返せば、「格差」は、奄美、琉球弧にとって、おなじみの言葉です。
奄振が、そもそも「格差是正」を謳い文句にしていました。

ぼくも少年期には、
鹿児島県の県民所得が最下位を争う地域ということを
数値としてみていました。
そして鹿児島のそれを下げているのは奄美だろうから、
自分(たち)はよっぽど貧しいということなんだろうな、と。

でも、だろうな、と思っても、
どうしても実感は湧かなかった気がします。

与論での生活を思うとき、
貧しいという言い方がそぐわない気がしました。
むろん、ぼくは、水道、電気が通ったあとの世代であり、
テレビも電話も最初からあった世代なので、
「知らない」ということもであるでしょう。

でも、あの空や海や静寂や人と人の間柄や、
植物たちの中にいだかれた時間の流れは、
その後、どこで味わいたくても味わえない贅沢な時の流れでした。

なんというか、経済指標の及ばないところで、
桁違いの豊かさを享受していた気がします。

だから、ありていな言い方になってしまうけど、
経済価値に変換されるものを尺度にするなら、
貧しいかもしれないけれど、
それに還元されないものが豊かにあったと思っています。

その価値尺度の違いを踏まえるなら、
格差社会など、知ったこっちゃないという面を持ちます。
これはいまでも大事な点だと思います。

その、経済価値に還元されてこなかったものを
味わっているということ、
経済価値にもし還元したら、とても大きな価値を持つことを、
市川さんの「欲が少なくなった」という言葉は示唆しないでしょうか。

この言葉は、
都市が人の欲望を喚起することで、
消費と生産を生んでいるという人工性を示すと同時に、
別の価値を享受していることを意味しているとも思えます。

現に彼女は、頭痛が止まったというのですから。

耳を澄ませば、市川さんの言葉のなかにも、
与論島の向かう道のヒントがあるような気がします。


追伸
教えてもらわなかったら、『ナチュラルスタイル』
気づきもしなかったでしょう。ありがとうございます、山川さん。

追伸2
いまTVで、小林聡美が『めがね』のCMやってました。
びっくりして何を言ってたか、分からなかった。
観ましたか?



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2007/08/12

心地のいい空気感 『めがね』のモチーフ

雑誌『PEN』に、映画『めがね』の荻上監督の弁が載っていました。

 スクリーンに漂う、心地よさの秘密とは?

 脚本を書く前に、舞台となる与論島に行ってみました。
 今回は映画の中で“たそがれ”という、
 とってもヘンな言葉をわざわざ用いているんですけど、
 本当にボーッと、“たそがれる”以外にすることがない。
 余計なことをしたり考えたりしなくていい場所なんですね。
 私が味わった心地のいい空気感をぜひ観客の皆さんにも
 届けたくって、『めがね』を作りしました。

これじゃあ、役者さんたちが与論島のことを言うはずですね。
だって、与論島を描きたくて作りました、
と言ってるようなものではないですか。

「心地のいい空気感」。

この映画のモチーフであると同時に、
与論島の惹句になっていますね。



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2007/08/03

ますます与論!『めがね』予告編

映画『めがね』の公式サイトで、予告編を配信しています。
1分版と2分版があります。

 ★ 映画『めがね』予告編

これ、いいです。

ますます与論島を感じます。
与論の風、空気が流れてて。

 何が自由か、知っている。

このコピーも、与論だから言えるフレーズに見えてきます。
言い過ぎかな。少なくとも、与論が舞台だから、不自然じゃない。

与論、奄美大島、鹿児島でもやってほしいですね。

ますます期待が膨らみます。



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2007/08/01

『めがね』、いっそ与論上映を

映画『めがね』のトップページ、
デザインが更新されています。

 ★ 映画『めがね』公式サイト

それから、劇場も公開されました。

 ★ 劇場情報

これ見てがっかり。

沖縄では上映されるけど、たった一個所。
九州は、福岡、佐賀止まりで鹿児島での予定もありません。
鹿児島本土に住む与論の人もすぐには見れないということ。

もったいない。

こうなりゃ、与論島上映をしたらどうでしょうか?
島民、観光客、こぞって観にいくこと請け合い。

上映は、公民館あたりで簡易劇場的にやるので充分。
本土からの旅人にだって新鮮だし、いい思い出になります。

小さい頃、公民館で、「ライオン丸」や「忍者赤影」を
わくわくしながら観たのを思い出します。

あるといいなぁ、与論上映。




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2007/07/26

与論がいっぱい!「朝のたそがれ」配信中

akiさんの「LOVE YOU SOMETHING」というブログで、
「朝のたそがれ」が動画でも配信されているのを知りました。

 映画「めがね」のスピンオフドラマとして日テレ「スッキリ!!」にて
 放送中のスッキリ1分劇場「朝のたそがれ」が、インターネット
 動画配信サイト「第2日本テレビ」にて配信を開始したそうです。

ぼくも、早速観ました。

 ★ スッキリ!1分劇場“朝のたそがれ”配信中!

これ、いいですよ。

ほのぼのした映像もさることながら、
終わりにオチの台詞が入ります。
それがなんとも可笑しくて楽しい。
笑わせてくれます。

これ、観てると、ああ与論だぁと感じ入ります。

もちろん、舞台が与論島だから当然なんですが、
なんというか、役者さんのやってることも含めて、
ああ、与論だと思えるんです。

与論島という場に逆らわない、どころか、
与論島にたたずんでいると、こうしたくなる、
そんな感じで役者さんたちも振舞っているように見えます。

だから、ああ、与論島だなぁって気分に浸れるし、
役者さんたちが、舞台挨拶で、
与論島のことを口々に言うのも頷けました。

というわけで、与論ではTVでやっているのか知りませんが、
TVでやってなくても観ることができます。

与論がいっぱい!です。ご覧あれ。
(akiさん、ありがとうございます)




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2007/07/23

『めがね』オフィシャルブログ

映画『めがね』の公式サイトとは別に、
オフィシャルブログがオープンしています。

  ○-○ めがね オフィシャルブログ ○-○

「はじめまして、『めがね』です」という記事が早速、載っています。
中身は、動画でも記事でも公開されている完成試写会のレポート。

舞台では役者さんたちが、
与論島(ヨロントウ)、与論島と連呼していたのに、
記事では、「ロケ地である南の海辺」などと言い換えられていて、
それが少し残念。

でも、みなさんが口にしていたのは与論島ですし、
間違いなく与論島が舞台なのだから、
島の魅力がこの映画を通じて伝わっていくのを期待します。

トップのこの浜辺、寺崎なんでしょうか?
いい雰囲気です。

それから、公式サイトから、始まる「めがねmap」

これも素敵です。
浜辺も学校も道端も空港も、与論島満載。
映画の雰囲気もちょっと楽しめます。



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2007/07/06

映画『めがね』の舞台挨拶-与論島の場力

八雲ふみねさんの「yakumoxTV」で、
映画『めがね』完成試写会での舞台挨拶を観ることができる。

観るべし。

ぼくはいままで失礼なことに役者さんを無視して、
背後の与論島ばかりに目を奪われてきたが、
この映像を見ると、役者さんのコメントが響いてくる。

というのも、役者さんたちは、
映画のことより、与論島で感じたことを話しているのだ。

小林聡美曰く。

 島に行ったらもう、ほんとにマイナスイオンとかα波の嵐で、
 もうリラックスしないでそどうするといった環境の中で・・・

もたいまさこ曰く。

 東京ではああでもないこうでもないと考えてたんですけど、
 すっかり、島へ入った途端に、
 無駄だ、すべては無駄なんだ、ていうことが分りましてね。
 ・・・
 みなさんも行ってみるといいですよ、ってそんな感じですね。

荻上直子監督曰く。

 脚本を書く時に一番最初に行った時に、
 ほんとに考えるとか、思考するとかいうことを
 根こそぎ奪われるような場所で・・・。

ぼくは役者さんたちの言葉に、心を動かされた。

たとえば、「考えるとか、思考するとかいうことを
根こそぎ奪われるような場所」という荻上監督の言葉は、
そのまま、ぼくが与論島に行くと感じることだ。

 ○ ○ ○

誤解されたくないので書くけれど、
これは、島の人が何も考えないでいるという意味では全くなく、

与論島の場の力、
とくに、時間が重層する場から与論島に入ると、
強烈に感じる、あの、力のことを言っている。

役者さんの言葉も、そのように、
与論島の魅力の核心を言い当てているのだと受け止めてほしい。

役者さんたちは、役者さんの鋭敏な感受性で、
与論島を感じ取り、舞台挨拶で素直にしゃべってくれている。

これは、映画の舞台挨拶なのだから、
与論島のことを話すのは逸脱だと思われるかもしれない。

でもそうではない。
役者さんのみならず、監督までも与論島のことを口々に話すのは、
与論島の場の力が、作品形成に大きな力を発揮しているからだ。
というより、与論島の場の力が作品を作ったと言わんばかりだ。

これが、舞台挨拶から感じることだ。

ますます、期待は膨らむというものだ。
だって、映画作品から与論島そのものを
感じることができるかもしれないから。



 
 

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2007/07/03

『めがね』完成記念特別試写会

昨日、『めがね』の完成記念試写会がありました。
ぼくは観れていませんが、
早速、記事で見ることができます。

 もたいまさこ「メルシー体操はビリーよりハード!」。
 それでもゆるーい『めがね』

その映画の一部の画像も公開されています。

これを見てもどうしても、
視線は背景の与論島に向いてしまうのですが、
でも、記事を読むと、

 「ゆるい」、「のんびり」、「リラックス」

これらを、監督が映画のキーワードとして挙げているのに気づきます。

このキーワードは、舞台の与論島そのものだといっていいもの。

与論島こそ舞台にふさわしい、
与論島だからできた。

そういう映画なのかなと期待します。



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2007/07/01

「めがね」のキャスト

映画「めがね」のキャストが公式サイトで紹介されています。

それぞれに著名な俳優、女優さんだと思うのですが、
失礼なことに、これを見てもどうしても
人物の後ろに目が行ってしまいます。

他でもない舞台としての与論島です。

明日7月2日には、舞台挨拶付きの完成披露試写会があるそうです。

刻一刻と近づいてきますね。
公開が楽しみです。



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2007/05/16

『めがね』の向こうは与論島

先日、映画『恋しくて』を観にいった時、
映画『めがね』のフライヤーが置いてありました。

Maganeflier














 何が自由か、知っている。

という例のコピーとともに、

 一瞬のようで永遠のような、
 たそがれどきの物語。

と、あります。


映画ももちろん楽しみなのですが、
この「めがね」の登場人物たちの向こうの背景は、
与論島だと思うと、
もうそれだけで食い入るように見つめてしまいます。

舞台としての与論島の活躍が楽しみです。




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2007/04/26

何が自由か、知っている。

 何が自由か、知っている。

これは映画『めがね』のキャッチコピー。


知っている?と聞かれたらなんて答えるだろうと考えた。
自分を生かすスタイルを持っていること、
と今なら、答える。明日は知らない。

予告編の海は、与論島の海だと思ってとろけそうになる。
波の音がいいですよ。


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2007/04/16

「めがね」の与論

このところ、与論関連のブログで、
ちらほらと「めがね」の文字を見かけるようになりました。
映画『めがね』の撮影の舞台が与論島だからです。

 人生を1回休むつもりで、宿を訪れたタエコ(小林)に、
 宿の主人ユージ(光石研)、島の生物教師ハルナ(市川
 実日子)、タエコを捜しにきたヨモギ(加瀬亮)、そし
 てかき氷作りの名人サクラ(もたいまさこ)。めがねを
 かけた5人が「たそがれる様」を「かもめ―」よりもさ
 らに力の抜けたタッチで描く。

クランクアップを伝える記事を読むだけでも、
与論向きだなぁと思えてきます。
「力の抜けた」というところが。(^^)

 高まる周囲の期待をよそに、3月中旬から与論島で合宿
 状態のキャスト陣は、のんびりした雰囲気で撮影に臨んだ。
 「きょうが何曜日か、何日かとかも分からなくなりますね。
 本も読む気にならないし、テレビも見ないし」と小林が言
 うと、もたいは「欲がなくなるのかしら」とニヤリ。加瀬
 も「いい芝居しようっていう気さえもなくなりますよね」
 と話した。

この気分はよく分かる。

ぼくも、島に行くと、時間の感覚は薄れるし、
メールは文字化けに見えてくるし、
たしかに、欲は減っていく、
というか、自分がおだやかになっているのに気づきます。
都市では、欲望に釣り下げられているのがよく分かってくるのです。

もちろん、これは自分がオフに行くからだけれど。

でも、いい芝居はしてほしい。
いい映画であってほしいです。

与論島を舞台にしたことが、
作品にいい影響を与えていますように。

ところで、監督は、
ここは何もないからたそがれるしかない、
と言っています。

たそがれる場としての与論島。
それもあり、ですね。


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