カテゴリー「17.『海と島の思想』」の31件の記事

2007/08/31

『海と島の思想』を辿って

『海と島の思想』 を頼りに、
琉球弧を、身体感覚に染み込ませたいと思った。

自分が実際に辿るのがいちばんに違いないのだが、
それはいつのことやら、おぼつかない。

だから、実際に島歩きをした人の記述を辿って、
琉球弧の島の息吹を追体験してみたかったのだ。

この本を辿って、おぼろげながらに琉球弧像がつかめるようだった。

 ○ ○ ○

ただ、正直に言えば、この本は少々、難儀だった。
はじめ、ぼくは、親近感から本書の順番ではなく、
奄美の島々から辿ってみたのだけれど、
なんとなく物足りなかった。

けれどそれは沖縄のことを書く人がしばしばそうであるように、
奄美になる途端に関心が低くなってしまうアレかと思ったが、
読み進めるうちにそうではないと分かった。

なぜだろうと考えて思ったことは、
媒介が見つからないということだった。

たとえば、ここには沖縄の神女や巫女さんの発言がよく出てくる。
富士山で他の宗教の巫女さんが、
アマミキヨという神霊が一緒に行くと言っているが
アマミキヨとは誰だろうということを、言ったりする。

その言葉が、生のまま記述されるので、
どう受け止めたらいいのか分からなかった。

憑依的な発言は信頼できないと言いたいわけではない。
ただ、それを受け取るには、どう理解すればいいのかという
媒介が必要な気がする。

これは、野本さん自身のことでもそうだった。
野本さんは霊感があるのだと思う。
随所で、たとえば、ここで塩を買ったほうがいい気がした、
というような、気配を察知する記述が出てくる。

これにしても、野本さんの感じたこと行動がそのまま、
ただ、書かれているので、どう受け止めていいのか、困った。

また、地元の資料や伝承も、そのまま記述している。
というか、それをどう受け止めるかという野本さんの考えが知りたい。
地元の資料や伝承がそのまま事実のように
受け止められているように見えるので、戸惑うのだ。

野本さんが琉球弧を渡った時期は、9.11以降の、
混迷の新しい世紀に入ってからだ。
そこで、野本さんは戦争に抗するように、
沖縄に意義を見いだしていくのだが、
どうアメリカの戦争が批判されなければならないのか、
どう沖縄は抗することができるのか、を書くのかと思いきや、
無媒介に、「生命」、「平和」が主張されるので、
ここでも、具体的な考えが知りたくなった。

こうして、媒介の言葉が読むほどにほしくなるのだった。
ぼくは、あまりにひっかかるものがないので、
島々の事実や文献を調べるようにしか読み進めることができず、
難渋した。

その意味では、ぼくはこの本のよき案内役ではなかったと思う。
これは申し訳ないことだ。

 ○ ○ ○

ぼくは読み進めるために、
琉球弧の地理と歴史のテキストを読んでいるのだと思うことにした。

沖縄県の人は、沖縄の歴史を学ぶことはあるのだろう。
ぼくは、与論の歴史も奄美の歴史も教わったことはない。
鹿児島県の歴史ならあるが、
それは、遠い世界のこと自分とは関係ないことのように思えた。
そのせいか、日本史でさえも、
世界史のひとつのようにしか感じることができなかった。

ぼくは、「与論島の地理と歴史」を辿りたいと思う者だ。
だから、その前段で、琉球弧のそれを読んでいる、と思うことにした。

そういう力弱い読みになってしまったことはお詫びしたい。

ここで得られた琉球弧の身体感覚を礎のひとつに、
神女の言葉と現在をつなぎ、
地霊的な琉球弧の力を表現したい。

そして、琉球弧の民俗的な理解を更新し、
それらが日本や世界に対して持つ意味を
少しずつ言葉にしていきたい。

本当は、屋久島の節もあるのだが、
黒潮の形成した琉球弧からはお隣さんだということを言い訳にして、
『海と島の思想』(野本三吉) を辿る道行きは
これにて完了とします。




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2007/08/30

琉球弧のなかの琉球弧-八重干瀬

ある意味で、琉球弧のなかの琉球弧は八重干瀬(やびじ)だ。
時を待って地上に顔を出す佇まいが、
否応なしに喚起する詩情と、
海の畑として琉球弧島人の生活の資を提供してきた豊かさが
そう思わせる。

 八重干瀬のサンゴ礁は台礁と呼ばれている。
 台礁とは陸地から離れた場所にあり、
 常に海面の上に出ている部分が少ないリーフのことをいう。
 八重干瀬にあるたくさんのリーフは全て台礁で
 日本最大の規模と言われている。
 そして、大潮の干潮の時に礁原の浅い部分が海上に浮上してくる。
 毎年、旧暦の三月三日にもっとも潮が引き、
 干上がる面積が大きくなるために
 「レニツ」という伝統的な浜下り行事(女性の厄払い)が行われ、
 池間島や宮古島から八重干瀬に渡って
 一日潮干狩りなども行われてきた。
 (『海と島の思想』 野本三吉

干瀬は特別な感情を呼び起こす。
琉球弧の民俗に関心を寄せる先達も心を奪われている。

 干瀬はさながら一条の練絹のごとく、
 白波の帯を持って島を取巻き、
 海の瑠璃色の濃淡を劃している。
 月夜などにも遠くから光って見える。
 雨が降ると潮曇りがここでぼかされて、
 無限の雨の色と続いてしまう。
 首里の王城の岡を降る路などは、
 西に慶良間の島々に面して、
 はるばると干瀬の景を見下している。
 虹がこの海に橋を渡す朝などがもしあったら、
 今でも我々は綿津見の宮の昔話を信じたであろう。
 (『海上の道』柳田國男)

これは、干瀬という存在が喚起した詩情だ。

また、谷川健一は、現世と他界の接点として見ている。

 他界を夢想するのに最もふさわしい場所が、
 南島の海岸であった。
 沖縄の海は本土と違って、
 干瀬と呼ばれる暗礁が島をとり巻いているので
 二重になっている。
 干瀬の彼方はどす黒い波がうねっている海である。
 そこには舟が発達しなかった頃は、
 島民はめったに行かない非日常空間であり、
 死んだ人の魂だけがおもむく他界であった。
 干瀬の両側は目もさめるような青い海であり、
 潮が引くと州があらわれ、島民が魚介や海藻をとる日常空間であった。
 沖縄の海の魅力は干瀬によって仕切られた他界と現世が
 一望に見渡せるところにある。
 (『魂の民俗学・谷川健一の思想』大江修編)

ぼくたちはいずれ、自然と生活と信仰の場である干瀬について、
それを琉球弧の文化の中核にすえた
徳之島の松山光秀の考察を読むことになるだろう。

八重干瀬(やびじ)は、その干瀬のなかの干瀬として、
琉球弧のなかで特別な存在価値を持っている。


追記
ここは、八重干瀬の具体的な地名が分かるのが嬉しい。

 八重干瀬地形図


『海と島の思想』 野本三吉
Ⅴ 原初的世界との共生
45 幻の島・八重干瀬



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2007/08/29

八重山の表情

石垣島、西表島周辺の八重山の島々は、表情が豊かだ。
竹富島というと、安里屋ユンタをすぐに思い出すし、
最近では、竹富島出身の崎山毅さんの
「大隈・奄美、八重山の地名相似説」を知った。

 「大隈・奄美、八重山の地名相似説」

小浜島では「ちゅらさん」、鳩間島は「瑠璃の島」のテレビ番組、
由布島では、水牛車と不思議な植物園、
新城島では、アカマタ・クロマタを思い出す。

でもぼくの皮相な認識はここまでで、
黒島はイメージできるものがなかった。

『海と島の思想』で、
辿ってみると、これらの島々の姿がもう少しはっきり浮かび上がってくる。


たとえば、由布島はかつて、
西表島の古見部落の雨乞いの「祈願所」であったという。

西表島の東の少し離れた小島で、むべなるかなと思う。

地名が、ぼくのいちばん身近な与論の海、フバマと
同じ由来のように見える小浜島には、
ダートゥダーという仮面芸能がある。

1926年から封印されてきたが、2001年に復活。
小浜島にしかないものだという。

ダートゥダーは、収められていませんが、
ダートゥダーが行われる結願祭の触りは見ることができます。

 結願祭(きちがんさい)
 
黒島は、2002年から無医村状態になった。
それから、石垣市からの週一回の巡回診療や
保健師の方のボランティア活動でつないできたが、
無医村は続いている。

野本さんの記述はそこで止まっている。
気になるので、調べてみると、去年の10月、
常駐の医師が誕生したという。

 住民安ど、大喜び「常駐医師が来た」黒島診療所

診療所再開の喜びを伝える記事もある。

 診療所再開で島をあげて歓送迎会

医療不安から島を離れるケースもあるから、
医者がいるという安心感は計り知れないと思う。

そういえば、ドクター・ヘリのことを思い出す。
Wikipediaによると、沖縄県では、ニーズはあるが、
財政事情からドクター・ヘリ事業は行われていない。

補完として、陸上自衛隊と海上保安庁の
航空機による搬送が行われているという。
ぼくが覚えている範囲でも、那覇から来たヘリコプターで
患者さんが与論島から搬送されることがあった。

ただ、機内での高度な医療はできないものの、
ヘリコプターを使った患者搬送は始まっているようだ。

 民間ヘリで患者搬送/県内初

 ○ ○ ○

鳩間島では、深刻な過疎対策として、
「里親制度」を敷いている。「子乞い」だ。
ぼくはそれだけでもびっくりするのに、
テレビ番組の「瑠璃の島」は
それをテーマにしたものだと初めて知った。

 瑠璃の島2007

南の果ての受け皿になるから、
何か大きな意味を感じるけれど、現状をぼくは知らない。
とても知りたく思う。

顔立ちのはっきりしている八重山の島々も、
琉球弧の現在形の姿を教えてくれる。

 ※「巨人伝説の島・波照間」




『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅳ 暮らしの思想
28 離島の輝き・鳩間島
29 「星砂」の島・竹富
32 ダートゥダーの島・小浜
33 島づくりの夢・黒島
35 水牛車の風景・由布島
36 アカマタ・クロマタの島・新城



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2007/08/27

与論島と石垣島の接点、ナーマ

石垣島と西表島は、地名で通過してみたい。

石垣島については、『地名を歩く』を読んで、
与論島の那間と増木名と同音の地名があるのに気づいた。

 ※「那間は泉」

Photo

























(「石垣島の川の方言名」『地名を歩く』)


まず、地図の下方にある円のgは、
フナーと呼ばれる川だが、
その周辺に、長間(ナーマ)と呼ばれる場所がある。

『地名を歩く』によれば、「石垣島地方の『ナー』は、
地下水が自然に地表に湧き出る泉を指して」いる。

与論の那間も、泉を持っており、
ここにいう「長間(ナーマ)」と同一の地名と思われる。

また、上の方の円のcは、マニシキナカーラと呼ばれている。
マニシキナーは別名マシクナー。
これは、那間にある「増木名(マシキナ)」と同一だ。

石垣島のマシクナーは、轟川の上流の支流だという。
「増木名(マシキナ)」も、増木名池と呼ばれていたから、
泉の元のような意味なのかもしれない。

石垣島と与論島の意外?な接点が嬉しい。

 ○ ○ ○

西表島は、以前、スネ島と呼ばれた時期があるという。

 西表島について最初に記録されたものは『李朝実録』の
 「済州島民漂流記録」と呼ばれるもので、
 そこには「所及(スネ)島」と書かれている。
 「一四七七年のこと、済州島の民が漂流しているところを救助され、
 与那国から所及島(西表島)へと送られてきました。
 彼らは所及に半年間滞在したあと、島づたいに沖縄、
 さらに九州まで行き、そこから本国である朝鮮へと無事、
 帰国しました。・・・
 所及は現在“祖納”と字を当て、
 一般的には“ソナイ”と呼ばれていますが、
 島の人々はそれを“スネ”と呼ぶことから“スネ”の名称は
 五百年以上も変わっていないことがわかります」
 (『ヤマナカーラ・スナイビトゥ』西表島エコツーリズム協会、
  一九九四年、六四頁)

これとは別に、西表島は、古見島と呼ばれていたこともある。

 (前略)古見がかつて一たびは南島文化の位置中心であって、
 しかも近世に入ってから他に類例もないほどの激しい盛衰を
 経ているということだけは、弘く世上に向かって是非とも説きたてて
 置かねばならぬ。是には幸いにしてまだ有形無形の史料が、
 必ずしも没しきってはいない。

 ただ統一時代における我々の関心が、法外に乏しかったのである。
 最初にまず西表という現在の島の 名だが、
 もとは普通に古見の西表、すなわち古見という島の西の船着きを
 意味しており、そこの開発もかなり古く、
 多分はいわゆる倭寇時代の船の往来によって、
 発見の端緒を得たものと思うが、
 一方には土着者の家にもほぼ同じ頃からの言い伝えがあって、
 後に筆録せられて世に行われている。

 是には主として水土の功、ことに与那国という近隣の一孤島の
 収容と連絡とが窺れるが、対岸大陸との交通にはまったく触れて
 いないのは、或いは隠れたる動機があったのかもしれない。
 とにかく明治の新時代に入ってから、ここが汽船の航運に
 利用せられたのは必然であったうえに、
 さらに南島としては珍らしい石炭層が、ほんの僅かだが
 ここの渓谷に発見せられたために、
 ここが重要なる寄航地となってしまい、
 それに引き続いては労働力の供給問題、
 島の人たちはちっとも来て働こうとしないので、
 囚徒を入れまた浮浪者や貧窮人を連れ込んで、
 ひどい虐待をしたことが評判になり、
 いわゆる西表炭鉱の惨状が新聞に書きたてられて、
 若年の私などは、是で始めてこの名の島の存在を、
 知ったような次第である。

 古見という一郷の驚くべき盛衰史を、
 人が片端でも知っていたならば、
 こんなまちがった改称を公認するはずがなかったのである。
 (「根の国の話」柳田國男 1955年)

柳田は、古見から西表への改称に憤っているが、
ぼくたちは、古見の前型として、祖納を置き、

西表島の地名の呼称について、

 スネ(祖納、所及) → クミ(古見) → イリムティ(西表)

という変遷を想定できるかもしれない。

あるいは、

西部は、スネ(祖納、所及)、
東部は、クミ(古見)

と呼ばれ、
 
統一されたとき、西部のイリムティ(西表)を採用した、と。

スネは、祖納(ソナイ)からの転訛を想定できると思う。

 sonai →soni(母音aの脱落)→suni(三母音化)→sune(同一行の転訛)

最初の、母音aの脱落がありうるのか、
明確に言えないが、ありうる気がする。

意味の変遷は、

 スネ(祖納、所及) 水のあるところ 
 クミ(古見)     米の地
 イリムティ(西表) 西の船着場

となるだろうか。


八重山の大島の地名メモとして。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅴ 原初的世界との共生
40 南風の吹く島・石垣
44 原生林の島・西表



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2007/08/24

どんな小さな島も世界を持つ

奥武島と書いて、おうじまと呼ぶ。
『海と島の思想』で辿っているのは、
沖縄本島の南部の「奥武」だ。

というのも、琉球弧には、七つの「奥武」の地名があるというから。

野本さんは、仲松弥秀の「墓地」としての「奥武」の考察を引いている。
これは、『日本の地名』の「沖縄の青の島」で、
谷川健一も考察の起点に置いたものだ。

 (一)陸(主島)から比較的近いところにある。
 (二)現在は人が住んでいる場合も、かつては集落のない島であり、
    人は住んでいなかった。
 (三)いずれも小さな島である。
 (四)古代の、或は古代からの墓地である。

 (中略)
 奥武地名の島は、陸地に近接した小島をなして乏水性の島であり、
 古代生産性の低い時代には集落立地には不適なところではあるが、
 葬所としては最適な条件を持っていたと思う。
 おそらく沖縄の古代人は最初は集落近い場所に
 葬所を選定したであろうが、
 次の時代には、もし近接した小島があった場合には、
 その小島を葬所としたのではないだろうか。
 このような小島が、“奥武”であって、
 この名称は葬所としての機能の面からの名付けであろうと思われる。
 (『古層の村』1977年)

奥武が葬所であるとして、
それならなぜ「青」を意味する「オー」と呼ばれるのだろうか。

それは、谷川健一の要約が分かりやすい。

 洞窟墓の中の死者の住む世界は、
 真暗でもなく、赤や白のように明るくもなく、
 その中間であるぼんやりした黄色な世界であることから、
 それを青と称したと仲松は考えた。
 沖縄では近代に入っても黄色という呼称はなく、
 黄色をアオと呼んでいた。
 (『日本の地名』1997年)

なるほどなあと思う。

黄色の葬所としての青の島だ。

離島の集合地としての琉球弧(あるいは日本)は、
どんな小さな島にも名があり、名には意味がある。
その初源は、地勢を地名とするが、
時代がくだれば、さまざまなバリエーションを持つようになる。

奥武島は、色から名付けられた島だが、
意味は色であっても含意するところは、墓地である。
これは、他界概念が空間化されたことの表出の一形態だ。

ある重たい意味を担ったのが、琉球弧の「青の島」だ。

 ○ ○ ○

沖縄南部の奥武島の西側にある瀬長島は、
奥武島と同じく、どんなに小さくても島には名があるという意味では同じだ。
しかし、瀬長島は、奥武とは逆に生者の世界、
拝所もあれば、生活の場もあった。

それを分かつのは、奥武が洞窟の多い岩場であるのに対して、
瀬長島が、アンジナと呼ばれるように、
砂場である違いに起因しているのかもしれない。

野球場と比べられるほどの小さな島にも世界がある。
島はどんなに小さくても、世界を持つ。
それはなんて大きなことだろう。



『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
16 あんじなの島・瀬長
Ⅲ 古代信仰と女性原理
27 青の世界・奥武島



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2007/08/23

久高オデッセイ

久高島について、『海と島の思想』では、こう書いている。

 その時、上映されたのが、『神屋原(カベール)の馬』であった。
 この映画は、一九六六年に行われた久高島のイザイホーの祭りを
 記録したものである、
 民俗学の世界では注目されていたイザイホーは、
 まだ映像化されたことはなく、
 日本では最初の記録映画であった。
 (中略)
 そしてモノクロの映像と共に、北村谷栄さんのナレーションが続いていく。
 洗い髪のまま白衣に身を包んだ久高島の神女達が
 「エーファイ」「エーファイ」とかけ声をかけながら
 「神アシャギ」(祭祀を行う小屋)の中に入ったり出たりする迫力に圧倒された。

ぼくが観たのもこれと同じだろうか。
ぼくも、島の女性たちが神アシャギに出たり入ったりしながら、
集団憑依に入っていく映像を覚えている。
「エーファイ」「エーファイ」という掛け声が耳から離れない強力な映像だった。

母系的な共同祭儀であるイザイホーは、
久高島の神女になる資格のある女性が減ったため、
1978年を最後に行われていない。

ところが、このイザイホーを復活させる動きがあるという。

 この島に移り住んだ映画監督の大重潤一郎さんは、
 二〇一四年に復活する、次のイザイホーのために、
 今から準備過程も含め、四部作の映画を製作するという。

気になるので検索してみると、『久高オデッセイ』と題されている。

 映画「久高オデッセイ」へのいざない

 久高オデッセイ上映会

これを見ると、去年の夏に第一部が完成して、
今年、自主上映会が開催されているのが分かる。

映画は、第4部を2014年上映と予定している。
いまの紹介記事からは、2014年、
イザイホーを復活させるのかどうかは分からない。
しかし、島を再生するとは民俗を再生することだというアプローチは、
さすが久高島だと思う。

 ○ ○ ○

地名としての久高島は、フボー(クボー)と呼ばれる。
御獄のあるフボーから付けられたものと思われ、
その名は、御獄に繁茂している植物のクバ(ビロウ)のことだという。
琉球弧の他の地域にもあるフボーという地、拝所も、
同じくクバの自生しているところだから、
久高島の地名は、フボーから来ているのは確からしく思える。

久高島と対の関係にあるという隣の
津堅島は、チキン、という。
この由来は、いまのところ、ぼくには分からない。

『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅲ 古代信仰と女性原理
22 イザイホーの島・久高
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
15 第二次世界大戦と津堅島



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2007/08/20

コーラル・サンド・ケイの久米

まだ、久米島には行ったことはない。
しかし、地図からその居住まいを見ると、
ある独特の思いに囚われる。

久米島は、琉球弧に中心線となる曲線を引けば、
そこからかなり離れた場所にある。

これだけの距離があれば、離島のなかの離島として、
離島苦を人一倍思わせる寂しさを漂わせていそうだけれど、
久米島は、そう感じさせないところがある。

それはまず、本島の引力圏に吸引されないだけの
大きさがあるからだが、
でも、それだけに留まらないものも感じる。

それはひとつには、あの、君南風、チンベーの存在感だと思う。
野本さんは君南風(チンベー)について書く。

 稲の穂の化身である君南風は、人々に豊作を約束し、
 山々の植物の化身となっていのちの恵みを人々に語りかけていたのだ。

君南風(チンベー)の、たとえば六月ウマチーは、
ぼくの言葉でいえば、
第零次段階の行為を、第一次の世界で行ったものだ。

 ※ 「移住の根拠」

自然を人間のイメージ的身体とするという関係式を、
植物を育てるという農の世界に適用したものだ。

その君南風(チンベー)の姿は、
六月ウマチーの映像で触りを見ることができる。

 ※ 六月ウマチー

ところで、農の世界で、植物の化身となる行為ができるのは、
久米島の「農」が豊かであることが条件になるはずだ。

そしてその豊かさは「米」の豊かさであり、
それは地名に表れていると指摘したのは、柳田國男だった。

 (前略)奄美大島にも沖縄の主島にも、各々その西南側に
 古見または久米という旧地があり、
 さらに南端の八重山群島のまんなかに、
 古見または球美という稲作の大きな根拠地があったのである。
 (『海上の道』)

稲が豊かであるということが、地名に由来になっている。
地名は地形を物語るのが初源の形だから、
久米が「米」を語源にしているとしたら、
それは地名としての新しさを物語るとともに、
従来の名を捨てるほどに、
稲が豊かであったことを意味すると思える。

もうひとつ感じる豊かさは、
久米島には、北東に伸びる珊瑚州島があることだ。
これは、地形として心惹かれるポイントでもある。

珊瑚州島、コーラル・サンド・ケイは、
海面すれすれの珊瑚礁の上にできるという。

 サンゴ礁の白い砂

これをみると、与論島の百合が浜は、
珊瑚州島ではないかと思うのだが、
そんな説明を見たことがない。
知りたいところだ。


もとい。久米島は、第零次と第一次がともに豊かな世界として、
その点で、琉球弧の中でも、
独特な位相を持った島として迫ってくる。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
11 君南風と「立神」の棲む島




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2007/08/15

離れ島の命運

琉球弧の島々を地図で眺めていると、
沖縄島のような本島に寄り添っている離島や、
慶良間のように小さな島が寄り添っている離島もある。

でも、それら本島から離れ、
近くに寄り添うべき島々も少ない。
そんな離島をみると、いわゆる島のさびしさもひとしお
なんじゃないかと心が吸い寄せられていく。

粟国島と渡名喜島も、そう感じさせる島たちだ。

野本さんの紀行に頼ってみていくと、
粟国島は、中江裕司監督の『ナヴィの恋』の舞台になったところだ。

そのせいかどうか、野本さんの紀行文も明るい。

伊佐達雄さんとの出会いもあり、伊佐さんはこう語る。

 民俗調査が好きで好きでたまらないという感じであった。
 「この村の屋号を全部調べてみましたよ。
 それと、地名一覧もまとめてみました」
 手製の和綴じの冊子には、
 ビッシリと手書きの文章が並んでいる。
 「もっと前からやっとったらノーベル賞じゃのうと笑うんさ」。
 一ページ一ページ繰りながら、達雄さんは本当に楽しそうだった。
 「この小さな島に、八四もの地名があるというのは不思議じゃないですか。
 それに、調べただけでも、五つの殿内(どんち)があり、
 拝所は九ヶ所もあるわけさ。
 これも、この島にしては多すぎると思うけど、
 なぜかなと考えておるところです。

こんな語りを読むのは嬉しい。
こんな方がいる限り、島は大丈夫だと思えてくる。
与論の菊さんや与那国の池間さんのことが思い出される。

一方、渡名喜島には、水中運動会が行われているのだという。
水中運動会。つまり、運動会をやるのだ。
玉入れも綱引きも。競争は水泳。
これ、楽しそう。

粟国島の人口は2001年現在、889人。
30年間で、ご多聞に漏れず、人口半減。
渡名喜島は2004年現在、人口472人。
ただ、この40年で人口は3分の1に減っている。

どちらも人口減少を免れていないが、
粟国島は、那覇から空路で20分で行ける。
渡名喜島は、航路で90分という。
この差は、大きいだろうと想像できるところだ。

この傾向を回帰線を引けば、零に向かっているようにみえる。
でも、それは数字上の話で、島に残りたいと思う人は絶えない。

離島は、大橋によって架橋されることで、
離島を終える島も出てきた。

大橋によって架橋されることのない離島は、
どうなっていくのか。

経済の架橋がなされなければならないことは言うまでもないが、
ぼくは、粟国島の伊佐さんのような営みが尊いと思う。
それによって、島の心が理解できるからだ。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅲ 古代信仰と女性原理
20 ナヴィの恋・あぐに
24 温もりの海郷・渡名喜


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2007/08/14

沖の島感覚

来間島の地名の由来を考えるとき、
表音はクリマとしているのだが、気になることがあった。

『島々清しゃ』の「来間島」には方言名として「フィマジマ」とあって、
どちらで考えればいいのだろうと思ったのだ。

そこで宮古市と溝の口にある「地名資料室」に確認してみた。
宮古市では、来間島出身の50代の方にお聞きし、
地名資料室では、角川の辞典などいくつか参照していただいた。
結果、「クリマ」という表音だけが見つかったので、クリマで考えている。

でも、「フィマジマ」という発音がないわけではないと思っている。
そういう言い方もあった、と聞く機会があれば、こちらも考えてみたい。
古宇利島の「フィ・フィジマ」の「フィ」と同じかもしれない。

来間島の展望台には、来間島憲法が書かれているという。
その第三条は目を引く。

 第三条 住民は、集落の景観を美しく保つために以下の努力をしなくてはならない。
 一、屋敷内の庭にブーゲンビリアの花を一本以上植える。
 二、屋敷内の庭にハイビスカスの花を一本以上植える。
 三、屋敷内の庭に花を植える。

「屋敷内」というのはすごいけれど、これ、いいと思いませんか?
与論は、パナウル王国。与論も、花と木を植えたいものです。



来間島の地名の由来を、沖の島とみなした。
ところで、来間島自体は、現在は宮古島と橋でつながっていて、
沖の島ではなくなってしまっているが、
宮古島には、もうひとつの「沖の島」がある。
多良間島、だ。

ただ、多良間島は、宮古島から西に約67キロ、
石垣島の北東約35キロだというから、
沖の島という名づけは石垣島からのものであったかもしれない。
石垣島からはどう呼ばれているのか、調べてみたいところだ。

多良間島で、野本さんはこう書いている。

 その中の洞穴に入って腰を下ろす。
 上下左右の空間も開け、どこからでも海が見え、空も見える。
 快い風が吹き込み、晴海は岩に腰を下ろして眠っている。
 岩陰の白砂に寝ころび、目を閉じる。
 波の音が遠く近くに重なり合い、
 近くを何の警戒心もなく走り廻るカニの足音がする。
 太古から続いてきた自然の営み。

 原始そのものの海と岩と砂に埋まり、
 ぼくはグングンとけていく。
 時間が止まってしまったような空間の中で、
 実に素直に、ぼくは宇宙に拡散し、
 呼吸するたびに大きくなったり小さくなったりしている。
 輪郭のなくなったぼくは、
 白砂でもあり、岩にもカニにもなってしまいそうだ。

何をすれば琉球弧を味わったことになるのか?
ぼくは、溶けることだと思っている。
溶けるとはどういうことか?
それが、野本さんの文章に表れている。

時間と空間への溶解。
それを感じることができれば、
旅人は、琉球弧の何たるかが身体に染みてくるのではないだろうか。

多良間島で、それが濃厚に感じられるなら、行ってみたい。
沖の島感覚を味わいに。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅳ 暮らしの思想・祈りの思想
31 神話の生きる島・来間
34 緑と白砂の島・多良間


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2007/08/12

どことなく与論に似ている伊江島

与論島とは伊江島とも交流があり、
どことなく似ている島という印象がある。

 海に囲まれた伊江島は、周囲二四キロ。
 人口は5000人といわれている。
 本部半島の先端から西方約五キロに浮かぶ島である。

この大きさや人口は、似ていると感じる点だ。
隆起珊瑚礁の島だということも。

でも、よく見ると、与論島よりは、
沖永良部島に似ているのかもしれない。

・ユリフィールドなど、ユリの栽培が盛ん。
・農業が盛んで、裕福に思える。
・城山と大山と200メートル級の山がある。

けれど、地上戦と基地の経験は、
与論にも沖永良部にもないものだ。

数ヶ月前、伊江島の役場の方と話す機会があった。
音楽ホールのような施設のパンフレットがあって、
離島には考えられない豪華なものだと感じて、
どうしてこれができるのか尋ねてみると、
米軍の射爆場があるので、その補助金なのだという。
そうした現実も、ある。

『伊江村史』は、地名について、

 定説はないが、イイシマ(良い島)・イイジマ(石島)・
 イリシマ(西の島)などの発想から名付けられたと思われる。

こう説明がある。

このなかでいえば、ぼくは「西の島」に説得力を感じる。

伊江島の佇まいは、琉球弧の他の離島と違う印象がある。
本島に近く、島自体も農で潤っている。
このゆったりした島の存在が、
離島の孤独感を緩和させているのではないだろうか。

それが、島にゆとりのようなものを感じさせる。

もしかしたら、あまりこだわらないおおらかさが、
与論といちばん似ていると思わせる点かもしれない。

いつか、自分の見聞で確かめてみたい。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
14 イーハッチャー魂・伊江島

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