カテゴリー「16.奄美考」の113件の記事

2013/07/15

「奄美の復帰60年–なにが検証されてきたのかを問う」に参加して

 昨日、国分寺の東京経済大学で開催されたカルチュラル・タイフーンに行ってきた。パネラーとして参加したのは、「奄美の復帰60年–なにが検証されてきたのかを問う」というセッション。

 パネラーの参加者、中西雄二さんは、在関西の奄美出身者が、「奄美」、「南西諸島」、「沖縄」というさまざまな名の元の活動が生まれながら、最終的には、「旧鹿児島県大島郡」を立脚する根拠として選択していく様をトレースして、復帰過程のアイデンティティの揺れを指摘した。前利潔さんは、「復帰は早すぎたのではないか」という指摘も発言もこれまであったが奄美内から発せられたものではない。尚早という視点から復帰を相対化する議論があってよいのではないかという問いかけを行った。

 ぼくは、千字の趣旨文で書いた通り(「いま、奄美が語れること」)、「異民族支配からの脱却を獲得した民族自決の祖国復帰」ではなく、「着ること、食べること」を求めた生活権の獲得運動として捉えることが重要だと主張した。

 千字文に書いたのはそこまでだったが、もうひとつ開かれたローカリズムの例として、与論イメージを取り上げた。これは以前、「与論イメージの冒険」として書いたものを、図を更新してふたたび議論の俎上に載せたものだ。 

Yoronimage


 ここで、申し上げたかったのはこういうことだ。奄美は、その困難を「無国籍地帯」(前利潔)と形容されることもあるけど、映画『めがね』で示された「この世界のどこかにある南の海辺」というフレーズは、まさに無国籍地帯を表現したものと受け取れる。しかし、それは困難としてではなく、ポジティブなイメージとして表現されたものだ。

 強いられた困難をポジティブなイメージとして転換すること。これは、一朝一夕にできることではなく、与論イメージの蓄積と、それを可能にする与論の立ち位置があって実現できたもので、この与論イメージの層は復帰以後60年の達成である。そういうことだった。

 途中、調子に乗って、まるで政治家の与太話のような口調になるときがあって、少し反省した。司会の大橋さんには、「喜山さんの言説は奄美では受け入れがたい面がある」と、たびたび指摘されたが、そんなことはないのではないかと自己弁護的には思ったりする。

 復帰世代がご存命のうちにより多くの証言を聞き出すこと、復帰を問いなおす言葉を彼らにも届けることは、いまの重要な課題だと思う。


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2013/06/28

いま、奄美が語れること

 今年のカルチュラル・タイフーンの奄美セッションのテーマは、「奄美の復帰60年–なにが検証されてきたのかを問う」、だ。

 パネラーとして参加するに当たり、主催の大橋愛由等さんから、発表骨子の依頼があり、書いてみた。制限は千文字なので、圧縮する必要があるけれど、準備稿として、記しておきたい。


 「いま、奄美に語れること」

 近年、安全保障を核としたアメリカに対する日本の属国性が露わになり、ぼくたちを捉えている思考枠がよく見えるようになってきた。アメリカと日本という対は、日本と沖縄、奄美と鹿児島の対とパラレルに見なされやすい。沖縄は基地負担を巡って日本に対立している。奄美は1609年以降の歴史を巡って鹿児島と対立している。しかし、日本がそもそもアメリカの属国ならばどうすることもできない。沖縄はまだ国家相手だから主張のし甲斐もことの切実さも大きいが、こと奄美の場合、鹿児島という地方自治体が相手であり、取り上げられることも少ない。天辺の屋根がどうしようもない。沖縄的な主題を持つわけでもない。県内で主導権を持つわけでもない。この同心円的な三層構造のなかで、奄美はお馴染みの思考の萎縮、停止、諦念という泥濘に沈み込んでゆくのだ。しかし、もうこの構造を元にする限りどこへもゆけないのではないか。

 祝、奄美復帰60周年と言う。何が祝なのか。何を祝うというのか。「異民族支配からの脱却を獲得した民族自決の祖国復帰」というなら、それは先の思考枠をなぞったものに過ぎない。奄美の復帰に課題があるとしたら、この復帰神話の解体がなされなければならないのである。

 この課題に対して、弓削政巳をはじめとした、古代から近代にわたる歴史検証は問わず語りの解体工事を担っている。なかでも、町健次郎の「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」は、奄美の知識人による日本神話への接続操作を辿るもので、復帰の理論的支柱になった日奄同祖論のからくりに正面から向き合ったものだ。

 ぼくの観点からは、復帰の課題とは、泉芳朗の詩の「日の丸」の無垢さに象徴されるように、奄美が敗戦の意味を受け取り損ねていることに尽きる。しかし、求められているのは、泉芳朗、昇曙夢の営為に手放しに敬意を払うことではなく、彼らの営為を克服することだ。祝うべきことは、「異民族支配からの脱却を獲得した民族自決の祖国復帰」なのではない、着るもの食べるものを巡る生活権の獲得というささやかなことなのだ。この認識が無ければ、村上春樹の「1Q84」になぞらえると、奄美は160Q以降、違う現実を生きたままなのである。これでは、復帰を祝ったとして、それは奄美、大島以外の人の心に届くことはないだろう。

 一方、ぼくたちは、国家主義者がグローバリズムを進めるという奇妙な事態に立ち会っている。ここへきて松島泰勝を中心にした琉球の独立という琉球ナショナリズムは別の相貌を持つ。日本の沖縄差別は止まない、ならば独立しよう。という以外に、もう国民を守る国家が無くなりつつある。ならば自分たちで守ろうという側面を照らすからである。

 いま、奄美が語れることは何か。相互扶助を元にした地域共同体のよさ、国家が国民の生活を守るというよさを語ること。ここでなら、復帰の意味は現在的な意味を持って蘇ってくる。それが160Qからの復帰ではなく同期を果たし、危うい動向へ抗う力を持つことになるのではないか。

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2010/06/28

カルタイ向け発表骨子メモ。

 カルチュラル・タイフーンまで、もう1週間を切ってしまった。今回のお題は、「米軍普天間飛行場の徳之島移設案が持つ思想的な意味〜奄美諸島は沖縄県外か、圏内か」。ぼくはここでいう、「思想的意味」ということにこだわりたいと思っている。

 カルチュラル・タイフーン 2010


◇カルタイ向け発表骨子メモ。

・160Q時制の中の奄美
・ニ重の疎外の露見
・401年問題として解く
・「県外」だが「圏内」
・沖縄との連帯
・「琉球自治共和国連邦独立宣言」に想う

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2010/06/20

401年問題

 大山一人さんに依頼されて書いたものが、雑誌『部落解放』に載ったので、ここにも掲載する。挙げるのは提出した原稿のままで、校正を経る前のものだ。ひと月近く前の文章だが、状況は急速に変化することが分かるサンプルにもなっている。

◇◆◇

 奄美にとって2009年は特別な年だった。1609年に、薩摩が琉球を侵略し、奄美は薩摩の隠された直轄領になった。それから400年が経った節目に当たっていたのだ。なぜ、節目でありうるのか。侵略により被った奄美の困難が現在も継続しているからである。なぜ、特筆すべきなのか。300年経った時点の1909年でも、奄美は困難を貧困として生きていた最中にあり、この問題を直視する余裕など無かったからである。2009年は、奄美が奄美の困難を俎上に載せる初めての機会だった。

 この年、薩摩の琉球侵略400年をめぐって、奄美をはじめ、沖縄、東京などで計42回のシンポジウムやイベントが開催されたが(回数は、「薩琉400年:東アジア島嶼圏の形成―総括と展望」における杉原洋のレジュメに依る)、うち、11回は奄美のいずれかの島でのものだった。沖縄では14回開かれているが、沖縄での開催数に比肩しうる数は、黙するのが常の奄美からすれば異例のことであり、この問題が奄美にとって切実であることを如実に物語っていた。

 奄美で皆既日食が観測できるタイミングと重なったこの年、ぼくは、太陽だけでなく、奄美の地理と歴史がその姿を現わさなければならないと考えた。村上春樹の『1Q84』にならって言えば、奄美は1609年以降、琉球とも大和とも異なる時制を生きているようなものであり、それは160Qと呼ぶのがふさわしい。不可視のなかにある奄美が、地理と歴史に登場しなければならない。それが400年の課題であり、克服は奄美の発語によって開始されるはずのものだ。

 障害が無かったわけではない。特に、鹿児島県と沖縄県の知事が奄美大島で「交流拡大宣言」を行ったことは、奄美の沈黙の継続を意味するしかないものであり、地理と歴史を登場させるためには拒否の声を挙げないわけにいかなかった。しかし、400年前の戦争犠牲者に対する慰霊があり、弓削政己をはじめとした少数の研究者による史実の発掘があり、また、奄美の歴史副読本製作の決定があり、発語へ向けた手応えをぼくたちは感じてもきたのだ。その発語の継続が401年以降のぼくたちの課題である。

 しかし、2010年、意外なところから奄美の地理が浮上することになる。普天間基地問題の解決を図る政府が、その移設先として徳之島を挙げたのだ。奄美は内側からではなく、国家としての日本からの視線で登場する。奇妙なことに、政府からの正式な言明がないまま、徳之島案はあれよあれよという間に有力視され、地元では反対集会が開かれるまでに至った。政府案の不在のままでの徳之島案の浮上は、移設先を「県外」と標榜する政府の意思を梃子にしながら、しかし大和(日本)ではない場所として指定されたように見える。正式な言明がないのに徳之島案が共同の意思であるかのように作用するという事態の展開そのものが、政府がというより、歴史的な共同幻想が奄美を指定したように見えるのだ。いわば、二重の疎外の共同幻想が奄美を登場させている。

 二重の疎外は、薩摩が琉球を侵略しながら、幕府とともに中国にそれを隠蔽しただけでなく、奄美を直轄領としたことは幕府にも隠蔽したことから発生している。いわば奄美は、「琉球ではない、大和でもない」地理となり、そこから160Qの歴史を歩むことになる。今回の徳之島案は、琉球でもない大和でもない場所として照準されていったのである。

 もとより首相鳩山は、奄美を非日本と見なす国家観は持っていないだろう。鳩山は差別することもされることも無かった裕福なお坊ちゃんを思わせる。対して小沢一郎は貧困を知るガキ大将だ。しかし、貧困を知るガキ大将が首相になる時代は田中角栄で終っている。ただ、貧困は「格差」の問題として無くなったわけではないから小沢一郎は要請される。鳩山には貧困解決の理念はあるが実感はない。むしろ実感の不在により、平等という理念が肥大化し、それが実態と乖離したところに空隙を生んでいる。その空隙を縫うように、二重の疎外の共同幻想が奄美を覆ったようにみえる。だから、首相鳩山の明確な意思というより、歴史的な共同幻想が指定していると見なした方が妥当に見えてくるのだ。

 ぼくは二重の疎外を本質とする奄美の困難を克服するのに、奄美と沖縄をつなぐという糸口をつかんだ。400年前の傷痕を最も象徴するのは、与論島と沖縄島の間に引かれた境界である。奄美と沖縄の文化と自然、経済の連続性を回復することは克服の道筋であるに違いない。昨年の11月に東京新宿の箪笥町で行った「奄美と沖縄をつなぐ」というイベントはその試行だった。そう考える者にとって普天間基地の徳之島移設案は、ひとつの問いを強いる。奄美と沖縄をつなぐのであれば、基地移設を奄美は引き受けるべきではないのか、という問いである。もとよりぼくは『奄美自立論』でも、沖縄の基地問題に対して、膜ひとつ隔ててではあるが、歴史を共有する隣人として奄美も声を挙げるべきであると主張している。この問いは避けて通れない。

 徳之島案をどう考えればいいだろう。ぼくは島の在住者ではなく徳之島が生まれ島ではない。徳之島の在住者はどう考えるだろう、まず、そのことが気になった。たまたま最初に聞いた在住者の声が移設賛成であったから余計に気になったのだが、賛意の背景には衰退する島の経済という現実があるから、ありうる声だ。それは島の過半数を越える声だろうか。しかし4月19日、人口2万5千の徳之島で1万7千人が参加したとされる移設反対集会が開かれ、三町長も反対の意思を表明した。島は、反対している。

 徳之島の意思はこれで確認できる。しかしその前段、3月28日、徳之島で4千2百人が参加したとされる反対集会では衆議院議員の小池百合子が招かれ、反対の意思表明を行った。小池は徳之島に向かう際、ツイッターで、「明日は鹿児島・徳之島へ飛びます。米軍基地の徳之島への移設反対郡民大会出席のため。徳之島町、伊仙町、天城町はすでに反対決議済み。ちなみに自民党は現行案です」と、コメントしている。「現行案」を提示する小池のツイッター・アカウント名が ecoyuri なのは鼻白むしかないが、問題は小池を反対集会の演説に立たせたということだ。ぼくが主催者なら、小池を招くことはありえない。それは奄美と沖縄をつなぐことから考えても、徳之島への移設に反対することが、沖縄県内でのたらい回しを是認することと一緒であってはならない。

 この問いにおいて、奄美と沖縄をつなぐ、とはどういうことだろう。すでに、徳之島(奄美)は基地移設を受け入れるべきであるという沖縄出身者の声が、ぼくの耳にも届いている。こうした声は堪える。また、奄美からも「沖縄の痛みを分かち合える部分もあるのではないか」という声も発せられている。ぼくはその声の存在に安堵する。それは他人の声ではない。

 しかし、徳之島案を同じ琉球圏にある隣人として引き受けることが採るべき態度だろうか。徳之島案は、沖縄「県外」にはなるが、琉球「圏内」であることに変わりはない。徳之島案に持ち込むのは最も安易な選択というべきで、またぞろ日本の歴史における大和と非大和という切断線を再生産させてしまうものだ。奄美と沖縄をつなぐということは、奄美が沖縄と同じ基地状態になることを目指すのではなく、沖縄も奄美と同じ基地希少、さらには撤去状態になることを目指すものでなければならないはずだ。現在、徳之島に存在する賛成の声も、隣人への良心からではなく経済がその理由である。そしてそれはそれ以上でなくていい。良心を政治に直結させても、それはまるで逆の世界を実現させてしまうことは社会主義国家の失敗がこれ以上にない雄弁さで無効であることを示している。   

 これでは、沖縄には同情するが自分のところには真っ平ご免だとする市民感覚と変わらないかもしれない。事実、ぼくにしても、仮に与論島が移設先の候補に挙がったら、島の在住者の過半数が賛成しても反対するだろう。それははっきりしている。

 奄美と沖縄をつなぐということは、徳之島案を受け入れることではなく、基地の撤去を理想として、そこに至る道筋が避けられないなら、国外、県外、(琉球)圏外という優先順位を、まず採るべきだと考える。

 4月25日、沖縄の読谷村で普天間基地県内移設反対集会が開かれた。9万人が参加したとされる集会にぼくは行けなかったが、ネットでユーストリームの映像を見ながら、同時にツイッターで次から次に寄せられる声を読んだ。ヨロンマラソンのときもそうだったが、リアルタイムの映像とコメントを共有すると、現場そのものとは異なる臨場感を味わうことができる。そこでは、政府への反対意思と同時に、国民にも一緒に考えてほしいとメッセージされた。また、具体的な中味は明らかではなかったが、徳之島の三町長からもメッセージが届けられていることを知り、小池百合子を招いたのとは異なる態度のあるのを知ることができた。

 1609年に奄美は薩摩の侵略を受け、琉球の盾となり薩摩に差し出された。また、敗戦後は沖縄とともに米軍統治下に入るが、山多き大島の地形が基地に向いておらず、また復帰運動の過熱を防ぐという意図ともと、沖縄より早く1953年に日本へ復帰する。沖縄の前に奄美、沖縄の代わりに奄美というのは歴史的に繰り返されてきた構図だ。ぼくたちは今、徳之島を舞台にその再現を目撃している。

 その後、政府は二重の疎外の共同幻想が浮上させた徳之島案に逆に追い込まれ、5月末現在、徳之島への一部機能移転だけを「県外」の証のように動き始めている。鹿児島県知事は、徳之島の三町長へ政府との面談に応じるよう求め、沖縄の一部県議、市議は徳之島へ移設の承諾を求めた。事態は首相鳩山が明言してきた5月末の結論へ向けて露骨になり始めている。

 その最中、東京では、5月15日、徳之島への普天間基地移設反対デモが行われた。主催者に呼びかけられたとき、「徳之島へ基地を造らせるな」というメッセージに「普天間基地の撤去」と添えてほしいと要望したが、返ってきたのは県外=徳之島を意味しているので難しいという回答だった。ぼくは、この二つのメッセージが同時に発せられなければ意味がないと考え、参加を見合わせようと思ったが、小異はツイッターに投稿すればいいと思い直し、大同についた。当日、いきさつは知らないが、シュプレヒコールのひとつは「普天間基地を撤去せよ」と叫ばれたので、小異を際立たせる必要のないことを確認した。

 奄美にとって、今回の普天間基地移設問題は、奄美への基地移設反対が普天間基地撤去につながるよう沖縄と連帯できるかどうかという課題として現れている。それは本土と同じくこれまで沖縄の基地問題に声を発することなく歩み、その前に沖縄より先に復帰した歴史を克服することにつながるからである。それは取りも直さず、二重の疎外の場所として奄美を登場させる歴史を終らせ、奄美がその地理と歴史を現すことに通じているに違いない。

 鳩山は首相として初めて普天間基地問題に汗を流し、沖縄の基地を国民の問題として俎上に載せた。それは鳩山の平等理念に依るものだと思えるが、その理念が実態を伴わない空隙を含むために、徳之島は二重の疎外態として登場させられている。ぼくたちがこれを401年問題として臨むべきなのは、もつれた糸がはずみで小さくほぐれることがあるように、ここに奄美の困難の諸条件が貌を見せているからである。(5月22日)

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2010/05/30

南海日日、五月読み

 たまりに溜まった南海日日新聞を読んだ。というより、目を通した。「徳之島」と「加計呂麻島」の字には気になって目がいくが、全体から受け取るのは島に流れるゆったりとした時間で、それが愉しい。地方紙ならではのよさだと思う。

 5月2日。

-徳之島で反対運動が高まった背景は。
 「厳しく痛めつけられてきた歴史がある。江戸初期に薩摩藩の侵攻を受けて多くの島民が殺され、その後の薩摩支配下で黒糖の利益を搾取され続けた。『黒糖モノカルチャー』経済で自然災害に弱く、餓死者や疫病による死者を出す悲劇も味わった。島民はこうしたDNAを受け継いでいる」
 「戦後、徳之島を含む奄美群島は米軍統治下に置かれ、断食など激しい島民運動の末、1953年にようやく日本復帰を果たした」
-基地移設問題で首相らの対処の仕方は。
 「徳之島の過酷な歴史に対する認識が甘い。(頭越しに進める)〝空中戦のやり方に、島民はばかにされたと思っているはずだ。沖縄の基地負担の軽減は必要だが、徳之島案については(話し合いの)入り口を間違えた」  国政選挙などで保岡興治氏と徳田虎雄氏の両派が激しく展開した『保徳戦争』に見られるように、島民の政治意識は一筋縄ではいかない。そのことを踏まえず、簡単に移設先にできると思っていたのではないか」
-島の経済振興の観点からはどうか。
 「日本復帰後、土建突出型の振興策でなんとか生活できるようになったが、今は状況がまったく異なる。ハード偏重が島の経済自立を助けなかったという教訓から、島民の価値観は変わった」
 「豊かな原生林や黒糖焼酎、島唄など徳之島固有の魅力を発信し、地域循環型の産業でやっていけるという認識があると思う。補助金や交付金と引き換えに(基地を)受け入れるという論理はもう通用しない」

 徳之島の基地一部機能移転をめぐる原口泉のインタビュー記事。真っ当なことを言っていて驚いた。当事者でない場合は(本当は当事者でもあるのだが)、ゆがまずに済むという標本のようだ。ここで、国のやりかたとして評していることを、薩摩、鹿児島に当てはめても重なる部分が多い。

 5日。福島義光による「三池争議と与論出身者」の記事で与論島が出ている。大牟田での経験値には、出版物で知る概説の範囲を出るものではない。叔父が、大牟田の与論出身者は主張するのが遅すぎたと憤っていたのを思い出した。

 8日。一面大見出しの「徳之島 受け入れ拒否」の文字が大きく太い。同日、徳之島出身の盛岡茂美が、「シママブリよ、声高に叫べ」と題する寄稿を寄せている。今回の問題は島外の出身者たちをも動かしている。

 16日。ぼくも参加した東京でのデモが記事になっている。「銀座で『基地ノー』」。千人デモ。イエローTシャツにプラカード。当日、演説をしたのはどなたか知らなかったが、記事のおかげで関東徳州会、徳之島町会、関東伊仙町会の方々だった。

 17日。山川和子の「奄美に『院内助産院』の設立を」という寄稿記事。産婆さん。いてほしいと思う。

 18日。11年前、ギリシャ人の船乗りがハワイ沖から流したラブレターが大島に届いたという記事。安達征一郎の「待ちぼうけの人生」みたいだ。そこでは、異国の少女の助けを求める瓶入りメッセージを受け取って、少女の住所を知るべく三通目の奇跡を待つことに人生を費やした島人のエピソードが出てくる。こんどの手紙は、無事、差出人に連絡できたそうだ。それにしてもギリシャ。与論の姉妹都市契約も、あながりこじつけではないかもしれない。

 20日。花井恒三の紹介する記事。4月30日の沖縄タイムスの「名乗るべし鹿児島県民」。

「薩摩により歴史上収奪されてきた徳之島を新基地にしてはならない、鹿児島県民こそふるさとを基地移設候補地として挙げるべきではないか」

 これを書いているのは、指宿の琉球山川交流の会代表の永田和人。鹿児島からもこうした声があるのに驚いた。syomuさんが、挑発のそぶりまで見せながら、「鹿児島本渡移転案」を提示して、議論の糸口をつかもうとしているのに通じる(「米軍基地移転問題、“鹿児島本土移転案”に対するざっくばらんな鹿児島県人の討論スレ」)。

 22日。小湊フワガネク遺跡の記事。高梨修のコメントが熱意とともに伝わってくるようだ。

 24日。喜山康三寄稿の「普天間移設、二重分断のわな」。二重分断というのは、「沖縄対全国」、「徳之島内対立」の二重の対立軸を指す。市町村議会の「移設反対」の主張は、二重分断のわなを招くものであり、「国外移設」を主張すべきであったとするもの。

今年は薩摩侵攻401年目に当たる。奄美はかつて琉球であった。薩摩藩(日本)の侵略や太平洋戦争後「日本政府や米軍の思惑による日本復帰時期のずれがなければ、今以上に同胞として密接な関係を続けられたのだ。

 こういう想いには、与論人らしさがにじみ出ていると思う。

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2010/05/23

基地移設の引き換え条件にしてはならない

 ちょっと時間が経ってしまったが、「普天間移設:徳之島受け入れ7条件「すべてのむ」官房長官」と題した20日の毎日新聞記事。

 徳之島の基地移設推進派が示した要望7項目。

 16日朝、鹿児島市内のホテルのスイートルーム。平野氏は移設賛成派の住民14人と会談し、移設受け入れに向けた7項目の要望を記した紙を受け取った。一通り目を通した平野氏は「移設と振興策は別だが、7項目はすべてのむ」と言い切った。

 ペーパーに記された7項目は(1)徳之島3町合計で約250億円の借金(公債)棒引き(2)航路・航空運賃を沖縄並みに抑制(3)燃料価格を沖縄・本土並みに引き下げ(4)沖縄県が対象の黒糖製造工場への交付金を鹿児島県にも適用(5)医療・福祉・経済特区の新設(健康保険税の免除)(6)奄美群島振興開発特別措置法の所管省庁を国土交通省から内閣府へ移す(7)看護学校、専門学校の設置--だった。

 平野氏は会談で、奄美群島向けの10年度政府予算(奄美群島振興開発事業予算)が前年度比29%の大幅減となったことを謝罪、来年度予算編成での対応を約束した。徳之島へのドクターヘリ配備にも言及し、今後、徳之島の地元3町長や伊藤祐一郎県知事と振興策を詰める意向も示したという。

 借金の棒引きは別にして、これらの項目は、基地移設とは関係なく、島嶼としての奄美が実現すべく働きかける事案だと思える。それを、基地移設と引き換えの条件にするのは、筋違いであり自身の首を絞めるようなものではないか。困難の引き受けなしに、奄美は奄美の未来を築けないなら、歴史は進まないし奄美本来の困難は継続されるままである。


◇◆◇

 ブログへのコメントの返事をなかなか返せなくて申し訳ありません。時間をとって近いうちに必ずお返事いたします。



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2010/05/16

徳之島基地移設反対デモ行進に参加

 昨日5月15日、徳之島への基地移設反対デモに参加した。少し前、主催者に参加を呼びかけられたとき、「徳之島に基地は造らせない」のメッセージに加えて、「普天間基地撤去」のメッセージも添えてほしいとお願いしたが、県外=徳之島を意味する現在、それは難しいとの回答だったので、参加は止めようと思っていた。けれどいまはツイッターがある。違和感や賛同できないことを感じれば、ツイッターに書けばいい。それを読む人の多寡ではなく、そう表明できることが重要だと思えたので、思いなおし、参加した。

 弁護士会館前に集合と聞いていたが、隣の日比谷公園で昼を取り、飲み物のベンダーを探していると、公園内にみんなが集合しているのに出会い、合流できた。そこから北へ向かい、銀座の数寄屋橋交差点を横切り、東京駅の前を通り常磐橋を渡ると、その道脇の公園が終点だった。

 参加者は、昔会ったことがあるような懐かしい顔つきの、明らかに島の人だとわかる顔が多かったが、奄美に何らかの縁があって、参加している方もいるようだった。六十代以上の方も目立った。島への想い募ってのことだろう。

 デモは穏やかなものだったと思う。日比谷公園内でシュプレヒコールの練習をする。主催者は、コールの中味を繰り返すようお願いしていたと思うが、声は揃うものの、続く参加者たちは「阻止せよ」、「縮小せよ」などの文末しか声にしない。主催者の意図とは違うものの、声は揃う。勝手だが一致するという、これは徳之島流か。

 行進中、街道でたまたまデモ行進に出くわした人たちの目線は冷淡ではなかった。連日の報道で徳之島の問題は周知のものになっているだろうし、こうした行動を理解できるからだろう。むしろ、偶然出会ったデモを撮ろうとする人もいた。リゾートバスから手を振る人もいれば、親指を立てて応援する金髪の外国人もいた。記者が、参加者の一人に声をかけて熱心にメモを採っていた。共同通信の記者だった。ぼくが気づいたのは、あとはNHKのカメラだったが他にもメディアは来ていたらしい。

 カメラを向けられた参加者が笑顔で応じると、隣の参加者が「笑顔じゃダメだよ、怒った顔にしなきゃ」と談笑。行進者もそれを見かけた人も、穏やかな空気のなかで動いていったと思う。これは現状の事態が、あいまいで不確定な要素が多いために生まれる空白感も寄与していただろう。しかし、同日、平野官房長官は鹿児島で徳之島の住民との面談を行うことになっており、政府からの働きかけは目に見えるものになっている。いつ深刻さを増すやもしれないという不安や、こうした行動は今回だけではなく始まりに過ぎないかもしれないという予想を持ちながら、それでも島の人同士が連帯できる機会が嬉しい、そんな内面ではなかったろうか。

 好奇心でカメラを向けた街道の人に笑顔を向けるのは、ぼくは悪いことではないと思う。そこに相互理解の契機もあるかもしれない。デモ行進の実行とそこに高齢をおして参加していること自体で、もう何事かである。そういうぼくも、まっとうなデモ行進者というより、ひたすらiphoneでツイッターを打ち続ける、伏し目がちの不真面目な参加者だった。けれど、ぼくはぼくで、ツイッターで、よぎる想いを吐き出せる解放感は代えがたいものだった。ぼくのツイートに、リプライやRTしてくれる人もいて、デモ参加による孤立感もなかった。デモの渦中にいながら、自分の見聞や感想を発信し、ほぼリアルタイムに外にいる人たちと会話できることで、デモと関係なく普通の日常を送っている人、遊んでいる人とつながれるのが、よかった。

 在鹿児島の奄美の人たちから送られたというチラシのなかに、「沖縄と共に最後まで闘おう」というメッセージのものがあって、それはぼくが持つのにふさわしいだろうと感じ、それを手に歩いた。3本ほどだろうか、国旗を掲げながらの行進に、ぼくは違和感が抜けなかったが奄美っぽさが出ていた。しかし、いきさつは知らないけれど、シュプレヒコールのひとつが「普天間基地を撤去せよ」とメッセージされていたのは、徳之島への基地移設反対は普天間基地撤去とセットでなければ大きな意味を持たないと考えてきたぼくには共感できるもので、メッセージを口にできないということはなかった。

 沖縄の普天間基地県内移設反対集会からモチーフをとったのだろうか、Tシャツ、首からかけたプラカード、横断幕は黄色で統一。その黄色の列が、少し風はあったが、晴れ渡った空のもと、その空の色に溶けいるような青の高層ビルの谷間を抜けていった。常磐橋を渡り曲がり角から後方をみると、思っていた以上の長い列が続いていて驚いた。報道では800人とされていたが、それ以上に感じる長さだった。終点の公園では、去年、「奄美と沖縄をつなぐ」でも唄ってくれた徳之島のHiroさんが、用意していた三線で奏で始める。すると、自然に人の輪ができ踊る。島の人はこれがないと終われないよなあと感じ入る。締めのワイド節も、昨日は穏やかな音色だった。


Demo1
Demo2Demo3

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2010/05/05

「普天間、徳之島移設を問う」2

 南海日日新聞に「『圏内』は政府の詭弁」とする松島泰勝の記事の続き。ぼくの怠慢で、3週間近くも前の記事だが、問題の本質は変わらない。

 私が住んだことのあるグアムでも現在、基地機能の強化が行われていますが、工事を行う企業、労働者の大半は島外に拠点を置いています。基地経済は島を植民地経済にします。

 徳之島に予定されているのはヘリコブター基地ですから、地元雇用も多くないでしょう。米軍基地はアジア憤輿世界情勢によって増減lされるという不安定性を持っています。基地依存の経済が形成されても、基地の削減時は一気に基地はなくなるでしょう。その時、島経済は大混乱となります。基地と補助金は「アメとムチ」に例えられますが、実際は「アメ」ではなく、「毒、麻薬」です。一度依存すると、それから脱して正常に戻るのが大変困難です。その意味で、徳之島は重要な選択を迫られています。

 基地により島外から投下されたカネによる小さな「経済効果」によって、多くの島の宝を失うことになります。その最大のものは、島の自治力の減退です。島外からカネが投じられ、カネの使い方を島外企業が決める。不労所得が入り、勤労意欲がなくなり、遊技場などで遊ぶ人も増えてくる。自らの頭を使い、互いに協力し合って島の自立を実現しようとする自治の力が失われたら、島は植民地そのものになってしまいます。

 徳之島では騒音問題が心配されていますが、基地は多くの被害を人間に与えます。暴行、殺人、ひき逃げ、酒気帯び運転、強盗、市街地へのヘリコプター墜落等、あらゆる犯罪や事故を米兵、またその家族が起こします。
その根底には米兵による民族差別があると思います。優越意識を持った米兵やその家族と同じ島で生活するのは精神的にもストレスが高まります。

 その他、基地内で使用される有毒物質の土壌汚染、川や海の汚染もあります。さらに、面積が狭い島では住民が移動できる場所も大きく限定され、島生活での閉塞感が高まります。

 もし戦争になったら、米軍基地のある徳之島は敵国から狙われる存在となります。ミサイルを撃ち込まれるかもしれません。敵軍が上陸したらl狭い島ですから住民も必ず戦争に巻き込まれ、多くの犠牲が出ます。狭い島々での戦争は必ずこの日ようになります。琉球、太平洋諸島における戦争の経験が示しています。l防衛省は離島防衛を重視し、海洋基本法を制定することで海や離島を守ろうと日本政府は考えています。

 つまり南の島々に日米両軍の基地、拠点を置く動きが活発に進められているのです。日本の最西端、与那国島にも自衛隊を配僻しようと鳩山政権は狙っています。琉球弧を戦場にしようとしています。「沖縄戦」のように、日本本土を守るために、琉球弧に戦場を限定しようという国家戦略です。

 琉球弧の全住民は、基地にリンクした補助金が「アメ」という幻想、「県外」という幻想を打ち破り、日本本土のために琉球が犠牲になるような歴史に終止符を打つ必要があると強く思います。

 「基地経済は島を植民地経済」にするという提言は、沖縄の経験から生まれた言葉だ。ぼくたちがその経験を生かすとしたら、充分にシミュレーションしなければならない。

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2010/05/04

「米軍基地の県内移設に反対する鹿児島県民総決起集会」チラシ

 5月8日に鹿児島で計画されている普天間基地県内移設に関する決起集会のチラシをいただいたので紹介する。

 ただ、チラシに付されているメッセージ案には違和感を抱かざるを得ない。

 「徳之島は鹿児島の宝」って、一体いつそうなったのか?
 実行委員会は、鹿児島発のものだろうか? そうなら、徳之島を「宝」扱いしたためしがあったのか、と半畳を入れたい。奄美発のものなら、このメッセージは鹿児島に向けているように見える。そうでなければ、窮地に至っては鹿児島に寄りそうという、あまりにご時勢主義ではないだろうか。

 それ以上に、なぜここに、「沖縄の米軍基地に反対する」という言葉が無いのだろうか。

 残念だが、このメッセージ案?には、切実さを感じない。いや、切実に違いないけれど、底が浅く見えてしまう。当日、そうではないことを願う。


Tokunoshima1
Tokunoshima2

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2010/04/26

「普天間、徳之島移設を問う」1

 18日、南海日日新聞に「『圏内』は政府の詭弁」とする松島泰勝の記事。

 私は石垣島生まれの琉球人です。鳩山政権が沖縄県の「県外」として、徳之島に普天間基地を移そうとしていますが、琉球人はこのような詭弁に納得していません。徳之島は、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島と共通する歴史や文化や自然を持つ、琉球文化圏、琉球弧の仲間であり、明らかに「圏内」といえるからです。

 歴史的に日本は琉球弧、南西諸島を支配と差別の対象としてきました。今から401年前に島津藩は琉球国を侵略し、奄美諸島を直轄領にし、サトウキビ栽培を強制し、奴隷制を持ち込み、激しい収奪の対象としました。1879年に、日本政府は軍隊を導入し、琉球国王を東京に拉致して王国を滅亡させ、日本国の南の領土を拡大しました。近代において琉球人に対する同化、差別政策が実施されました。1945年の沖縄戦では日本本土を守るために琉球は「捨て石」とされ、多くの住民が戦争に巻き込まれ、日本軍による虐殺や集団死の強制が行われました。

 戦後は、日本本土が「平和で経済繁栄」するために、琉球を米軍統治下に置くことを日本政府は認めました。現在も米軍基地の75%を沖縄県に集中させるという差別政策を日本政府は続けています。

 沖縄が日本に「復帰」する前後、沖縄の経済を発展させるためとして、石油備蓄基地、精製工場を沖縄本島と海中道路で結ばれた平安座島に建設しました。日本本土では公害運動が激しくなり、日本政府は石油の国家備
蓄を確保するために、「経済発展する」と約束して沖縄に石油基地を建設したのです。しかし、現在、精製工場は閉鎖され、従業員は解雇され、環境問題も発生し、島の経済は衰過したのです。

 以上のように、日本は長い歴史をみても、琉球弧から政治的、経済的な利益を得るために利用してきたことが分かります。

 徳之島に米軍基地が建設されることで島は発展するのでしょうか。沖縄でも1995年に12歳の少女が3人の米兵に暴行され、大きな反基地運動が発生して以来日本政府は基地がある市町村に対して膨大な補助金を投下してきました。しかし、人口減少、失業率の増加、商店街の衰退、自治体の財政赤字等、地域経済は活性化していません。

 なぜなら、膨大な補助金は日本政府から提供されますが、そのカネは島を素通りし、また日本本土に帰って行くからです。公共事業の半分以上は本土大手建設業が受注しています。また、基地とリンクした補助金により建設された施設やイソフラの維持管理費は、自治体の財政負担となり、結局は赤字財政に陥ってしまい、ますます国からの補助金に依存するようになります。

 松島の言を手掛かりにすると、米軍基地による「膨大な補助金」を奄振の拡大版とみなせば、本土還流の資金と地域経済の衰退という末路は、基地誘致をしなくとも透けて見えるということもできる。


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