大山一人さんに依頼されて書いたものが、雑誌『部落解放』に載ったので、ここにも掲載する。挙げるのは提出した原稿のままで、校正を経る前のものだ。ひと月近く前の文章だが、状況は急速に変化することが分かるサンプルにもなっている。
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奄美にとって2009年は特別な年だった。1609年に、薩摩が琉球を侵略し、奄美は薩摩の隠された直轄領になった。それから400年が経った節目に当たっていたのだ。なぜ、節目でありうるのか。侵略により被った奄美の困難が現在も継続しているからである。なぜ、特筆すべきなのか。300年経った時点の1909年でも、奄美は困難を貧困として生きていた最中にあり、この問題を直視する余裕など無かったからである。2009年は、奄美が奄美の困難を俎上に載せる初めての機会だった。
この年、薩摩の琉球侵略400年をめぐって、奄美をはじめ、沖縄、東京などで計42回のシンポジウムやイベントが開催されたが(回数は、「薩琉400年:東アジア島嶼圏の形成―総括と展望」における杉原洋のレジュメに依る)、うち、11回は奄美のいずれかの島でのものだった。沖縄では14回開かれているが、沖縄での開催数に比肩しうる数は、黙するのが常の奄美からすれば異例のことであり、この問題が奄美にとって切実であることを如実に物語っていた。
奄美で皆既日食が観測できるタイミングと重なったこの年、ぼくは、太陽だけでなく、奄美の地理と歴史がその姿を現わさなければならないと考えた。村上春樹の『1Q84』にならって言えば、奄美は1609年以降、琉球とも大和とも異なる時制を生きているようなものであり、それは160Qと呼ぶのがふさわしい。不可視のなかにある奄美が、地理と歴史に登場しなければならない。それが400年の課題であり、克服は奄美の発語によって開始されるはずのものだ。
障害が無かったわけではない。特に、鹿児島県と沖縄県の知事が奄美大島で「交流拡大宣言」を行ったことは、奄美の沈黙の継続を意味するしかないものであり、地理と歴史を登場させるためには拒否の声を挙げないわけにいかなかった。しかし、400年前の戦争犠牲者に対する慰霊があり、弓削政己をはじめとした少数の研究者による史実の発掘があり、また、奄美の歴史副読本製作の決定があり、発語へ向けた手応えをぼくたちは感じてもきたのだ。その発語の継続が401年以降のぼくたちの課題である。
しかし、2010年、意外なところから奄美の地理が浮上することになる。普天間基地問題の解決を図る政府が、その移設先として徳之島を挙げたのだ。奄美は内側からではなく、国家としての日本からの視線で登場する。奇妙なことに、政府からの正式な言明がないまま、徳之島案はあれよあれよという間に有力視され、地元では反対集会が開かれるまでに至った。政府案の不在のままでの徳之島案の浮上は、移設先を「県外」と標榜する政府の意思を梃子にしながら、しかし大和(日本)ではない場所として指定されたように見える。正式な言明がないのに徳之島案が共同の意思であるかのように作用するという事態の展開そのものが、政府がというより、歴史的な共同幻想が奄美を指定したように見えるのだ。いわば、二重の疎外の共同幻想が奄美を登場させている。
二重の疎外は、薩摩が琉球を侵略しながら、幕府とともに中国にそれを隠蔽しただけでなく、奄美を直轄領としたことは幕府にも隠蔽したことから発生している。いわば奄美は、「琉球ではない、大和でもない」地理となり、そこから160Qの歴史を歩むことになる。今回の徳之島案は、琉球でもない大和でもない場所として照準されていったのである。
もとより首相鳩山は、奄美を非日本と見なす国家観は持っていないだろう。鳩山は差別することもされることも無かった裕福なお坊ちゃんを思わせる。対して小沢一郎は貧困を知るガキ大将だ。しかし、貧困を知るガキ大将が首相になる時代は田中角栄で終っている。ただ、貧困は「格差」の問題として無くなったわけではないから小沢一郎は要請される。鳩山には貧困解決の理念はあるが実感はない。むしろ実感の不在により、平等という理念が肥大化し、それが実態と乖離したところに空隙を生んでいる。その空隙を縫うように、二重の疎外の共同幻想が奄美を覆ったようにみえる。だから、首相鳩山の明確な意思というより、歴史的な共同幻想が指定していると見なした方が妥当に見えてくるのだ。
ぼくは二重の疎外を本質とする奄美の困難を克服するのに、奄美と沖縄をつなぐという糸口をつかんだ。400年前の傷痕を最も象徴するのは、与論島と沖縄島の間に引かれた境界である。奄美と沖縄の文化と自然、経済の連続性を回復することは克服の道筋であるに違いない。昨年の11月に東京新宿の箪笥町で行った「奄美と沖縄をつなぐ」というイベントはその試行だった。そう考える者にとって普天間基地の徳之島移設案は、ひとつの問いを強いる。奄美と沖縄をつなぐのであれば、基地移設を奄美は引き受けるべきではないのか、という問いである。もとよりぼくは『奄美自立論』でも、沖縄の基地問題に対して、膜ひとつ隔ててではあるが、歴史を共有する隣人として奄美も声を挙げるべきであると主張している。この問いは避けて通れない。
徳之島案をどう考えればいいだろう。ぼくは島の在住者ではなく徳之島が生まれ島ではない。徳之島の在住者はどう考えるだろう、まず、そのことが気になった。たまたま最初に聞いた在住者の声が移設賛成であったから余計に気になったのだが、賛意の背景には衰退する島の経済という現実があるから、ありうる声だ。それは島の過半数を越える声だろうか。しかし4月19日、人口2万5千の徳之島で1万7千人が参加したとされる移設反対集会が開かれ、三町長も反対の意思を表明した。島は、反対している。
徳之島の意思はこれで確認できる。しかしその前段、3月28日、徳之島で4千2百人が参加したとされる反対集会では衆議院議員の小池百合子が招かれ、反対の意思表明を行った。小池は徳之島に向かう際、ツイッターで、「明日は鹿児島・徳之島へ飛びます。米軍基地の徳之島への移設反対郡民大会出席のため。徳之島町、伊仙町、天城町はすでに反対決議済み。ちなみに自民党は現行案です」と、コメントしている。「現行案」を提示する小池のツイッター・アカウント名が ecoyuri なのは鼻白むしかないが、問題は小池を反対集会の演説に立たせたということだ。ぼくが主催者なら、小池を招くことはありえない。それは奄美と沖縄をつなぐことから考えても、徳之島への移設に反対することが、沖縄県内でのたらい回しを是認することと一緒であってはならない。
この問いにおいて、奄美と沖縄をつなぐ、とはどういうことだろう。すでに、徳之島(奄美)は基地移設を受け入れるべきであるという沖縄出身者の声が、ぼくの耳にも届いている。こうした声は堪える。また、奄美からも「沖縄の痛みを分かち合える部分もあるのではないか」という声も発せられている。ぼくはその声の存在に安堵する。それは他人の声ではない。
しかし、徳之島案を同じ琉球圏にある隣人として引き受けることが採るべき態度だろうか。徳之島案は、沖縄「県外」にはなるが、琉球「圏内」であることに変わりはない。徳之島案に持ち込むのは最も安易な選択というべきで、またぞろ日本の歴史における大和と非大和という切断線を再生産させてしまうものだ。奄美と沖縄をつなぐということは、奄美が沖縄と同じ基地状態になることを目指すのではなく、沖縄も奄美と同じ基地希少、さらには撤去状態になることを目指すものでなければならないはずだ。現在、徳之島に存在する賛成の声も、隣人への良心からではなく経済がその理由である。そしてそれはそれ以上でなくていい。良心を政治に直結させても、それはまるで逆の世界を実現させてしまうことは社会主義国家の失敗がこれ以上にない雄弁さで無効であることを示している。
これでは、沖縄には同情するが自分のところには真っ平ご免だとする市民感覚と変わらないかもしれない。事実、ぼくにしても、仮に与論島が移設先の候補に挙がったら、島の在住者の過半数が賛成しても反対するだろう。それははっきりしている。
奄美と沖縄をつなぐということは、徳之島案を受け入れることではなく、基地の撤去を理想として、そこに至る道筋が避けられないなら、国外、県外、(琉球)圏外という優先順位を、まず採るべきだと考える。
4月25日、沖縄の読谷村で普天間基地県内移設反対集会が開かれた。9万人が参加したとされる集会にぼくは行けなかったが、ネットでユーストリームの映像を見ながら、同時にツイッターで次から次に寄せられる声を読んだ。ヨロンマラソンのときもそうだったが、リアルタイムの映像とコメントを共有すると、現場そのものとは異なる臨場感を味わうことができる。そこでは、政府への反対意思と同時に、国民にも一緒に考えてほしいとメッセージされた。また、具体的な中味は明らかではなかったが、徳之島の三町長からもメッセージが届けられていることを知り、小池百合子を招いたのとは異なる態度のあるのを知ることができた。
1609年に奄美は薩摩の侵略を受け、琉球の盾となり薩摩に差し出された。また、敗戦後は沖縄とともに米軍統治下に入るが、山多き大島の地形が基地に向いておらず、また復帰運動の過熱を防ぐという意図ともと、沖縄より早く1953年に日本へ復帰する。沖縄の前に奄美、沖縄の代わりに奄美というのは歴史的に繰り返されてきた構図だ。ぼくたちは今、徳之島を舞台にその再現を目撃している。
その後、政府は二重の疎外の共同幻想が浮上させた徳之島案に逆に追い込まれ、5月末現在、徳之島への一部機能移転だけを「県外」の証のように動き始めている。鹿児島県知事は、徳之島の三町長へ政府との面談に応じるよう求め、沖縄の一部県議、市議は徳之島へ移設の承諾を求めた。事態は首相鳩山が明言してきた5月末の結論へ向けて露骨になり始めている。
その最中、東京では、5月15日、徳之島への普天間基地移設反対デモが行われた。主催者に呼びかけられたとき、「徳之島へ基地を造らせるな」というメッセージに「普天間基地の撤去」と添えてほしいと要望したが、返ってきたのは県外=徳之島を意味しているので難しいという回答だった。ぼくは、この二つのメッセージが同時に発せられなければ意味がないと考え、参加を見合わせようと思ったが、小異はツイッターに投稿すればいいと思い直し、大同についた。当日、いきさつは知らないが、シュプレヒコールのひとつは「普天間基地を撤去せよ」と叫ばれたので、小異を際立たせる必要のないことを確認した。
奄美にとって、今回の普天間基地移設問題は、奄美への基地移設反対が普天間基地撤去につながるよう沖縄と連帯できるかどうかという課題として現れている。それは本土と同じくこれまで沖縄の基地問題に声を発することなく歩み、その前に沖縄より先に復帰した歴史を克服することにつながるからである。それは取りも直さず、二重の疎外の場所として奄美を登場させる歴史を終らせ、奄美がその地理と歴史を現すことに通じているに違いない。
鳩山は首相として初めて普天間基地問題に汗を流し、沖縄の基地を国民の問題として俎上に載せた。それは鳩山の平等理念に依るものだと思えるが、その理念が実態を伴わない空隙を含むために、徳之島は二重の疎外態として登場させられている。ぼくたちがこれを401年問題として臨むべきなのは、もつれた糸がはずみで小さくほぐれることがあるように、ここに奄美の困難の諸条件が貌を見せているからである。(5月22日)
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