『しまぬゆ』の著者が、「大島代官記」を読み下して、
要約文も書いてくれている。ありがたい。
述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。
殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、
何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。
琉球国は元来日本の属国である。御当家島津忠国公の時代、
永享四年(一四三二)忠勤の褒美として
尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。
中山王(琉球国王)はその礼を守り、
綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨
誓い通い来ていた。
ところが琉球国三司官の内の一人蛇名親方が、
短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、
当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、
往来無き事二年に及び、当時の中納言家久公が
これを将軍家康に言上し、薩隅日三州の軍勢を催し、
琉球国を成敗するために差し向けた。
大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉
両将数千騎の軍士を差し渡し、
慶長十五年酉四月速やかに退治した。
この時より初めて琉球を治める在番を定め、
離島には守護代官をおき、
そして領地を割譲して年貢を納めさせた。
嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、
故に天のなせる禍は避けられるが、
自らなせる災いは避けられない。
蛇名一人の考えの足りなさから、
永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
今では昔を慕うことは無益というものであろう。
みなさん、どんな印象だろうか?
ぼくは、これはてっきり薩摩の代官が書いたものと思った。
でもそれは間違いで、解説を見ると大島の役人が書いたものだという。
何度も確かめてみたのだけれど、
これは薩摩の役人ではなく、大島の役人の手になるものだ。
○ ○ ○
『しまぬゆ』ではこう解説されている。
代官記序文は奄美大島の知識人が
日本民族として最初に自覚した文章とされている。
藩政期に薩摩から海外と呼ばれ、
同質化することを拒絶されながらも、
先祖を同じくする同報として捉えようとした。
島津氏の武力による制服支配に必ずしも納得していなかったが、
「謝名親方が逆心を企てたことにより成敗された」
と思うことにより、屈辱的な現状を受け入れ、
勝者の論理に盲目的に服従する
奴隷の精神とは異質な
敗者の論理を構築して昇華しようとしたのである。
(『しまぬゆ』)
ぼくはこの解説に全く頷くことができない。
「代官記序文」が薩摩の役人の文章に見えるのは、
これを書いた大島の役人が、
薩摩の勝者の論理を内面化した結果である。
被支配者なのに、
支配者の論理を受け入れ内面化することによって、
表出された文章である。
これは、「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」
というようなものではなく、
奄美の知識人として微塵の抵抗も感じられない
「屈服の論理」以外の何物でもない。
屈服は薩摩支配による諦念の深さを物語るが、
支配とは、被支配の知識人が
支配者の論理を内面化することによって成り立つとは言えても、
「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」と
言えるような代物ではない。
○ ○ ○
しかも、薩摩支配を、
謝名親方個人の責に帰するような言い方をしている。
琉球側は、「謝名親方」の無礼が薩摩を怒らせて侵略を招いたという。
一方の薩摩は、「謝名親方」の無礼を成敗したと異口同音に言う。
事態は逆で、薩摩がそう言うから、
奄美・琉球は、その原因を内面化したかもしれなかった。
「代官記序文」を読むと、そう推測することもできる。
もしそうなら、薩摩は内心馬鹿にしたに違いない。
しかも、薩摩も琉球も、「謝名親方」の文字を、
「邪名」や「蛇名」と、悪口のように貶めた書き方をしている。
こんな個人攻撃で事態を理解するのは幼稚きわまりない。
○ ○ ○
事態を避けられないものとして受け入れ、
生きることを優先しながらも、
しかし、奄美の知識人として
抵抗した痕跡は認められない。
永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
今では昔を慕うことは無益というものであろう。
文末、このくだりだけが、
書き手が奄美人であることを連想させるが、
抵抗に至る通路があるとしたら、
「昔を慕」い、昔を忘れないことが手がかりになっただろう。
「代官記序文」の書き手は、
仮にも奄美の知識人の任を負うなら、
ここで文章を終えるのではなく、
奄美人としての記憶を記述してほしかった。
どうしてか。
そうすることが、それから長らく逆境で辛酸を舐めることになる
後世の奄美人を大きく励ましたに違いないからである。
いやことによれば、逆境をはねのける力を、
抵抗の記述が差し出すことができたかもしれないのだ。
それは果たされていないとしたら、
そのツケはぼくたちが支払わなければならない。
当時の奄美人を慰撫し、現在の奄美人を励ますために。
最近のコメント