カテゴリー「15.『しまぬゆ』との対話」の12件の記事

2007/05/23

負けない論理

『しまぬゆ』は、薩摩と琉球による支配を等価とみなし、
それ以前の奄美に対して、肯定的評価をくだす。

 古代・中世の奄美人達は海洋民族として広範囲にわたって
 交易を展開し、高い文化を持ち、豊かな生活を営み、
 おおらかで勇壮な歴史を持っていた。

しかし、これでは古代・中世に
「おおらかさ」と自由を仮託しすぎである。

ぼくもある意味で、奄美の誇るべきは、
その古代性にあると捉えてきた。

古代の世界観は、いまのぼくたちが未来を展望するときに、
近代が殺ぎ落としてきた大切なものへの手がかりを持っていると
思えるからだ。

『しまぬゆ』の「奄美人の目」は、
古代・中世に「おおらかさ」と自由を見る。

でもそれは、回顧にとどまり、
そこから未来的なビジョンを取り出せない。

 ○ ○ ○

結果、『しまぬゆ』の視点は、
勝者の論理に寄り添ってしまっている。

勝者の論理でしかない歴史を、
「奄美人の目」で記述しなおす。
それが「しまぬゆ」の志であったはずだ。

しかし、奄美をかばう根拠を抽出できない分、
著者たちは、奄美・琉球にダメ出しをするのだけれど、
その論拠が、限りなく勝者の論理になってゆくのである。

あの、「大島代官記」の記述のように。

勝者の論理に擦り寄ることはない。
もとより、そんなことをしては奄美は救われない。
奄美は勝者から見れば敗者である。

しかし、「奄美人の目」は、敗者に目をつぶって
勝者の論理を身につけ欺瞞するのではなく、
かといって敗者の論理に身を委ねるのではない。

何の論理か。
「負けない論理」、である。

「負けない論理」をつくる。
負けない「しまぬゆ」をつくるのである。

それが、『しまぬゆ』から受け取る課題だ。



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2007/05/22

異議申し立ての根拠

『しまぬゆ』の著者の視点は、「あとがき」に明瞭だ。

 奄美の古代・中世は一国民族史観や単一民族史観では
 語れないものがある。人々は国家の境界意識などまった
 く持っていなかった。奄美大島の「アマ」は「水平線の彼方」
 の意を表すものと考えられているが、その名に違わず、
 古代・中世の奄美人達は海洋民族として広範囲にわたって
 交易を展開し、高い文化を持ち、豊かな生活を営み、
 おおらかで勇壮な歴史を持っていた。
 奄美社会からそのおおらかさが消えたのは
 琉球王府による再三の大島諸島遠征であり、
 島津氏の琉球侵攻だった。

 琉球服属時代を「楽土の世」と喧伝する人々がいるが、
 奄美の人々が呻吟し虐げられたのは何も薩摩時代ばかりではない。
 琉球史で忠臣とされる護佐丸は
 与論島や沖永良部では鬼より怖い存在だった。
 泣きじゃくる子供の居る家には必ず働き盛りの壮士がいるとして、
 子供の泣き声を聞いて築城人夫を狩り出していったという。

 竜郷町の瀬留には琉球軍が攻めてきた時、村人が山奥
 に隠れていると、カチャマタ(鍛冶屋又)で白い鶏が鳴いた、
 こんなところに鶏がいるのはきっと人が隠れているに違い
 ないと、琉球軍は探索の手を緩めることなく探し回り、
 村人を引き出して皆殺しにした。人々はあの鶏さえ鳴か
 なかったらと恨みながら死に、それ以来この村では白い
 鶏が育たなくなったとの伝承がある。

ぼくは、著者の「奄美人の目」では、奄美をかばいきれないと思う。
著者は、薩摩と琉球による奄美支配を同等に扱っている。
しかし、そもそも薩摩による奄美支配と、
琉球による奄美支配とではその意味が異なる。

琉球による奄美支配は、
地勢と自然と文化の同一性を根拠に、
その内部から起きた国家形成の造山運動と見なせる。

しかし、薩摩による琉球支配は、
地勢と自然と文化の同一性からは遠い、
外部からの支配を意味していた。

それゆえ、奄美には二重の疎外が生まれる。
薩摩と琉球の支配に差異を見出さなければ、
奄美を長らく患わせてきたことの本質を
つかむことはできないのである。

 ○ ○ ○

 焚書坑儒は支配者の常套手段である。琉球軍の大島侵攻
 によりそれまでの歴史は塗り替えられ、薩摩藩時代には
 元禄六年(一六九九)を皮切りに、琉球辞令書や諸家計図・
 古文書類の差し出しが再三命ぜられ、その古文書類を収蔵
 した保管庫が火事により消滅、あるいは記録奉行が焼却
 したと言われ、現在残っている史料はその写しや収集を
 免れたものだけだとされている。

ぼくは、一六〇九年を扱った『しまぬゆ』が、
原始・古代から書き起こしているにも関わらず、
終わりは、薩摩による戦後処理で止めていることに
不徹底を感じる。

焚書坑儒を「あとがき」で触れるに止めているけれど、
奄美の二重の疎外が完成していくのは、
薩摩による奄美支配の過程においてである。

その過程を俎上にのせなければ、
二重の疎外の構造が浮かび上がってこない。
それはつまり、薩摩に対して、
何を異議申し立てするのかという根拠が
抽出できないということである。

琉球王国による奄美支配も薩摩藩による奄美支配も、
外から余計な勢力がやってきて
余計な支配をしてくれたという点では、
日本のどこの地域とも似たり寄ったりと言えるかもしれない。

異議申し立ての根拠はそこにはない。

奄美による薩摩への異議申し立ての根拠は、
近世国家による領土拡張以上の薩摩の欲望にある。

・対奄美の収奪の強度
・歴史的記述の没収による過去の断絶
・大和風服装の禁止による未来の断絶
 (大和風を着たかったという意味ではない)

この三つの強制により、奄美は、過去とのつながりを断たれ、
未来の像も断たれ、永遠の「今」のなかで、
困難のみを背負わされたのである。

これが、二重の疎外を確たるものにした要因である。

四世紀を経て、それがなぜ問題なのか。
それは、二重の疎外が、
いまだに解けていないからである。

解けないものは解かなければならない。
四世紀経とうが、時間は関係ない。
解かなければ、
奄美が真に前向きに生きてゆくことは難しいではないか。



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2007/05/21

沖永良部の抵抗

薩摩は、奄美大島、徳之島の次に、沖永良部島に侵入する。
しかし、沖永良部では戦闘は無かった。
そのことを、『しまゆぬ』の著者は、こう解説している。

 薩摩郡の侵攻以来、「この地を馬鹿島尻と称するようになった」
 という地名由来譚が語られるようになるが、一説には薩摩軍船
 が西海岸沖に現れると、武器を持たない島民達は「熱い粟粥を
 炊いてぶっかけ、火傷を負わせれば、追い払う事ができる」と語
 り合い、大量の粟粥を炊き、もうもうと湯気の立ち上る鍋を渚から
 村口まで並べ、敵軍の上陸を待った。

 薩摩軍船は夕暮れを待って海岸に押し寄せた。
 浜に上がった軍勢は無数に並べられた鍋の中に、
 丁度いい加減に冷めた粟粥が満たされているのを見て
 我先にと鍋に手を突き込んで粟粥をすすり、
 粟粥は薩摩軍を追放させるどころか逆に元気づけ、
 これを見た村人は驚き呆れて降伏した。

 何一つ抵抗せず降伏した村人に薩摩軍は
 「手向かいもせずに降参する馬鹿共」と言ったという。

 この馬鹿島尻村の伝承は現在の正名集落だと言われている。
 明治二十二、三年の頃に
 この差別的な呼称から正名に改称したというが、
 おそらく「バーシマジ」と呼ばれた焼き畑地の総称に、
 馬鹿尻という漢字地名が当てられ、
 地名由来がこじつけられたのではないかという。

この後、この正名集落への船舶での上陸は、
潮と海路から考えるに無理があるとして、
「伝承のような事実はなかったろう」としている。

 (中略)
 最近発表された沖永良部の島唄「アンマメグワ」の歌詞に
 「血を流さずに和睦した」とする下りがあるようだ。
 沖永良部首之主は大和浜や喜界島の大親同様に
 血を流さずに和睦に応じたものと思われる。

 また戦争に粟粥を使ったとする伝承は、
 徳之島でも琉球首里近くの村でも語られている。
 おそらく村に侵入する悪霊や災いを防ぐため、
 粟粥を炊いて神々に祈っていた神人達の儀式が、
 このような伝承を生んだのであろうとされている。

『しまぬゆ』の随所で感じることだけれど、
かばうべきものがかばわれていない気がする。

かばうべきものとは、もちろん、奄美である。
そしてかばう視点が、「奄美人の目」であるはずだ。

しかし、『しまぬゆ』の「奄美人の目」は、
奄美をかばいきれていない。

この、薩摩の沖永良部侵攻にもそれを感じる。

 ○ ○ ○

沖永良部は、抵抗したのである。

それは、雨乞いにも通じる呪力による闘い方だった。
沖縄ではノロが呪詛の言葉を薩摩の軍船に浴びせている。
それと同じことである。

それが自然・世界との関わり方だったということなのだから、
その闘い方を迷信として片付けて済ますのは間違いだ。

それを認めれば、
バーシマジリは伝承ではなく事実と見なしても構わない。
恥ずかしいと思うことでもなく、
言葉で世界を変えることができる
人間と世界の関わり方を保存していることを
誇ってもよいことがらだ。

ぼくには、『しまぬゆ』の著者が、
この伝承を恥ずかしく思い、
それゆえ事実ではなかったろうとかばっているように見えるが、
そうしなくもてよいのに、と感じる。

むしろ、この伝承が生まれる背景にある島の世界観を
指摘すればいいのにと思う。

それが、沖永良部をかばうことではないのか。


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2007/05/20

琉球の盾としての奄美

一六〇九年三月四日、樺山久高を大将とする薩摩軍は、
三〇〇〇人の将兵を一〇〇艘の軍船で率い、山川港を出発する。

そして四月四日、尚寧王が首里城を下城。
この間、わずか一ヶ月。

薩摩軍は、奄美大島、徳之島、沖永良部島を順次攻略。
沖縄島に至り、今帰仁、読谷を落とし、那覇・首里を攻める。

奄美大島で最初の戦闘があり、
徳之島では、二〇〇人から三〇〇人の犠牲者を出す。
奄美、最大の戦闘になったという。

ちなみに、ここでも与論島は記述にすら登場しない。

 ○ ○ ○

ぼくは、『しまぬゆ』の薩摩侵攻の過程を読んで、
奄美の果たした役割に思い至る。

奄美は琉球の盾となって薩摩(大和)に対したのだ、と。

薩摩は琉球侵攻の際、まず奄美に侵攻する。
それはものの道理で、大和から琉球に行こうとすれば、
まず、奄美に出くわすからである。

それは地理的条件に過ぎないのだが、
しかし、結果として奄美は沖縄より先に薩摩と戦闘に入る。
奄美大島の人、徳之島の人はそれを意識したわけではないが、
琉球の盾となって、闘ったのである。

盾としての意味は、
侵略後の過程がさらに雄弁に物語る。

奄美割譲と黒砂糖の収奪。
これは琉球からの視点でみると、
奄美は琉球のなかで、
琉球の盾となって薩摩の収奪を、
沖縄以上に一身に受けていた。

そう言えることに、気づく。

 ○ ○ ○

同じ言い方をすれば、
それ以降、世界は沖縄からやってくる。
ペリー提督がそうであったように。
米軍がそうであったように。

そこでは、沖縄は日本の盾となって、
ある犠牲を一身に受けてきた。

そのことは広く知られているし、
現在の問題でもある。

ぼくたちは、そのことに思いを馳せたことはあるけれど、
奄美の果たしたことに思い及んだことは残念ながら無かった。

でも奄美の役割を知ることは大切だ。
奄美は、まず奄美が自分自身を評価することが
何より大切なことであり、
かつ、それが沖縄との対話のなかで、
沖縄に向ける言葉にもなるからだ。

そのことを恩着せとして言うのではない。

奄美は、沖縄と三度の訣れを経験したきた。
しかし、実はそれだけではなく、
図らずも、沖縄の盾になったこともあった。
知らぬ顔を決め込んできただけではないと
言えるのではないかと思うのだ。

このことを相互に知ることは、
再会の対話をするうえで、必要なことだと思える。
それが奄美と沖縄の、
お互いの関係を知ることにつながるに違いない。

 ○ ○ ○

追記
それにしても、歴史的大事件に登場しなことのうちに、
与論島の心性も形成されてきたに違いない。

沖永良部を出発した薩摩軍が、洋上を通過するのを
恐怖と安堵で眺めたであろう時。

沖縄島に米軍が上陸して戦闘状態になっているのを
恐怖とともに島から見つめた時。

大きな権力にとって、
取るに足らぬ存在というあり方のなかで、
正直で、極端にはにかみ屋で、喧嘩は苦手で、
自己主張はどこかに置いてきてしまったような、
あの優しい心性は培われてきた。



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2007/05/19

侵略の根拠

薩摩の琉球侵略について、著者は分析している。

 琉球首脳部の神頼みはこれに始まった事ではない。
 同様の記述は陳侃以来明代の使録のいずれにも記載されている。
 『球陽』の遺老伝にも「海寇の来侵すること有れば、
 即ち神たちまち其の米を化して砂と為し、其の水を塩と為す。
 あるいは、寇賊をして盲唖たらしめ、
 忽然として颶風にわかに起こり、
 舟みな沈覆崩裂せしむ」とある。
 神国日本を口にした第二次大戦前の日本同様、
 琉球首脳部は本気でそれを信じていたのであろうが、
 これで国家の経営ができるはずがなかった。
 (『しまぬゆ』)

著者はないものねだりをしていると思う。

琉球は内発的には国家を形成する必然性を持たなかったと思える。
その地域に、「国家の経営」を問うこと自体が
空振りした問いではないだろうか。

著者も言うとおり、日本の「神国日本」の認識と同様に、
琉球弧は日本の縮図と言える側面がある。
それならなおさら、琉球首脳部の認識の欠如を問うのは、
自己嫌悪が増すばかりではないか。

むしろこの苛立ちの影に、
薩摩の琉球侵略の根拠が掘り下げられていない。
ぼくにはそのほうがいらだたしく思える。

『しまぬゆ』の記述を手がかりにすれば、
薩摩の琉球侵略は、

・逼迫した藩財政の建て直し
・対明貿易の利益確保

の二重の政治意図を根拠にしていた。

このうち、藩財政の建て直しを、
奄美諸島の割譲によってなそうとするのである。

しかし、薩摩の侵略にはそれ以上の欲望を感じる。
薩摩は、藩の窮状を経済的に解決すること自体を目指したのではなく、
琉球侵略によって、「藩」ではなく、「国家」になることで、
藩の窮状を超克せんと企図したのである。

薩摩は、「藩」としての国家意思以上に、
「国家」としての国家意思を潜伏させていた。
その意思のもと、
琉球弧のおだやかでゆるやかなあり方に
つけ込んだのだ。




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2007/05/18

屈服の論理

『しまぬゆ』の著者が、「大島代官記」を読み下して、
要約文も書いてくれている。ありがたい。

 述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。
 殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、
 何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。

 琉球国は元来日本の属国である。御当家島津忠国公の時代、
 永享四年(一四三二)忠勤の褒美として
 尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。
 中山王(琉球国王)はその礼を守り、
 綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨
 誓い通い来ていた。

 ところが琉球国三司官の内の一人蛇名親方が、
 短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、
 当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、
 往来無き事二年に及び、当時の中納言家久公が
 これを将軍家康に言上し、薩隅日三州の軍勢を催し、
 琉球国を成敗するために差し向けた。
 大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉
 両将数千騎の軍士を差し渡し、
 慶長十五年酉四月速やかに退治した。
 
 この時より初めて琉球を治める在番を定め、
 離島には守護代官をおき、
 そして領地を割譲して年貢を納めさせた。

 嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、
 故に天のなせる禍は避けられるが、
 自らなせる災いは避けられない。
 蛇名一人の考えの足りなさから、
 永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
 今では昔を慕うことは無益というものであろう。

みなさん、どんな印象だろうか?

ぼくは、これはてっきり薩摩の代官が書いたものと思った。
でもそれは間違いで、解説を見ると大島の役人が書いたものだという。
何度も確かめてみたのだけれど、
これは薩摩の役人ではなく、大島の役人の手になるものだ。

 ○ ○ ○

『しまぬゆ』ではこう解説されている。

 代官記序文は奄美大島の知識人が
 日本民族として最初に自覚した文章とされている。
 藩政期に薩摩から海外と呼ばれ、
 同質化することを拒絶されながらも、
 先祖を同じくする同報として捉えようとした。
 島津氏の武力による制服支配に必ずしも納得していなかったが、
 「謝名親方が逆心を企てたことにより成敗された」
 と思うことにより、屈辱的な現状を受け入れ、
 勝者の論理に盲目的に服従する
 奴隷の精神とは異質な
 敗者の論理を構築して昇華しようとしたのである。
 (『しまぬゆ』)

ぼくはこの解説に全く頷くことができない。
「代官記序文」が薩摩の役人の文章に見えるのは、
これを書いた大島の役人が、
薩摩の勝者の論理を内面化した結果である。

被支配者なのに、
支配者の論理を受け入れ内面化することによって、
表出された文章である。

これは、「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」
というようなものではなく、
奄美の知識人として微塵の抵抗も感じられない
「屈服の論理」以外の何物でもない。

屈服は薩摩支配による諦念の深さを物語るが、
支配とは、被支配の知識人が
支配者の論理を内面化することによって成り立つとは言えても、
「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」と
言えるような代物ではない。

 ○ ○ ○

しかも、薩摩支配を、
謝名親方個人の責に帰するような言い方をしている。
琉球側は、「謝名親方」の無礼が薩摩を怒らせて侵略を招いたという。
一方の薩摩は、「謝名親方」の無礼を成敗したと異口同音に言う。

事態は逆で、薩摩がそう言うから、
奄美・琉球は、その原因を内面化したかもしれなかった。
「代官記序文」を読むと、そう推測することもできる。
もしそうなら、薩摩は内心馬鹿にしたに違いない。

しかも、薩摩も琉球も、「謝名親方」の文字を、
「邪名」や「蛇名」と、悪口のように貶めた書き方をしている。
こんな個人攻撃で事態を理解するのは幼稚きわまりない。

 ○ ○ ○

事態を避けられないものとして受け入れ、
生きることを優先しながらも、
しかし、奄美の知識人として
抵抗した痕跡は認められない。

 永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
 今では昔を慕うことは無益というものであろう。

文末、このくだりだけが、
書き手が奄美人であることを連想させるが、
抵抗に至る通路があるとしたら、
「昔を慕」い、昔を忘れないことが手がかりになっただろう。

「代官記序文」の書き手は、
仮にも奄美の知識人の任を負うなら、
ここで文章を終えるのではなく、
奄美人としての記憶を記述してほしかった。

どうしてか。
そうすることが、それから長らく逆境で辛酸を舐めることになる
後世の奄美人を大きく励ましたに違いないからである。
いやことによれば、逆境をはねのける力を、
抵抗の記述が差し出すことができたかもしれないのだ。

それは果たされていないとしたら、
そのツケはぼくたちが支払わなければならない。

当時の奄美人を慰撫し、現在の奄美人を励ますために。



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2007/05/17

「民族」信仰

『しまぬゆ』は、琉球が薩摩による侵略を招いた事態について、
こう解説している。

 日琉同祖論を最初に唱えたのは
 清朝暦広熙五年(一六六六年)に摂政となった
 羽地按司向象賢であるが、
 当時の琉球首脳部にそのような認識はなかった。
 進貢貿易という密の味に浸りきり、
 中国との関係ばかりを重視して、
 民族統一のバスに乗り遅れ、
 九州僻南の一地方太守に支配されるという事態を招いた。
 (『しまぬゆ1』)

著者は、民族統一のバスに乗ればよかったと言っているのだろうか?
バスに乗るとは、具体的にどう行動することを指しているのだろうか?
それはありえた話だろうか?

ぼくには謎に思える。

琉球は内発的には国家を形成する必然性を
持たなかったように見える。

そんな地域が、
「日琉同祖論」をいちはやく念頭に置くとは思えないし、
それこそ「道の島」を経由しながら、
日本人と呼ばれる人々が島と本土に住むことになったように、
近世の国家意思をもった勢力が、
「道の島」を経由して、国家勢力の拡張を図るのは、
歴史の無意識の流れとしては必然的な側面がある。

琉球の首脳部への苛立ちは、余計ではないだろうか。

当時、民族統一原理としての「日琉同祖論」に
そうやすやすと乗らないのは、
それがふつうの奄美人のあり方というものだ。

「民族」すらひとつの信仰である。
日本人も琉球人も同じ日本人という意味で、
「日琉同祖論」はその通りに違いないのだが、
日本民族がその根拠になるわけではない。

また、現在の「奄美人の目」がそれをしてはいけないと思う。

「民族統一」という信仰は、
「日本人になる」という強迫として、
長く奄美人を患わせてきたのだから。




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2007/05/16

母系制の島々

がんち、むぁんばん、なゆんやあらじげーら。
(そんな風に思わなくていいのではないでしょうか。)

『しまぬゆ』を読んでいると、随所でそう言いたくなってくる。

 琉球王国の政治は祭政一致と言われ、
 聞得大君を通して受けた神託にもとづき国王が政治を執り、
 聞得大君の祭祀権が国王の政治権を越えるほどの力があったと
 考えられているが、それは表向きのことである。
 聞得大君を始め君々もノロも全て任命権は国王にあり、
 尚真王は人々が神の権威に弱く迷信深いことをよく知っていた。
 ウナリ神の権威を政治の上にかぶせ神の託宣だとして
 納得させたのである。
 (『しまぬゆ1』)

政治的共同体の首長は、
古代共同体に紛れ込んだ近代人ではない。
首長とて同じ信仰の共同性の内部にいる。
信仰の共同性の象徴たりえることで、
首長を任じているわけだ。

表向きも裏向きもヘチマもない。
琉球弧は姉が宗教、弟が政治を司る母権的な共同性を
長く保っていたと言えば済むことだ。

首長のみ近代人に擬し人々を愚民と蔑視するのではなく、
人々に視点を置き、ウナリ神信仰の生活の共同性の
実像を浮かび上がらせるのが、
「奄美人の目」による歴史というものではないだろうか。
そのほうが奄美人が生き生きと見えてくるに違いない。

日本自体が、もともと母系的な流れを持つ列島である。
奄美・琉球はその母系的な生活の実相を日本に対しても、
豊かに描いて見せられるということなのだから。




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2007/05/15

都は鄙の辺境

「南島と大和」の引用から始める。

 阿麻彌人は南島の珍しい産物を大宰府に運んだ。
 しかし、奄美の人々に大和に服属・追従しているという
 感覚はなく、単なる交易のために行ったという認識
 だったのかも知れない。
 大和人が阿麻彌人の生活に何ら影響を与えることはなかった。

 鄙という語がある。都から離れた辺境の地をいう。
 地球は丸く、辺境といえども決して行き止まりではない。
 辺境は異なる価値観を持った異域が始まる世界である。
 遣唐使船の南島航路から考えれば、
 南西諸島の方が大和より遥かに中国に近い。

 奄美諸島の七~八世紀に位置づけられる遺跡から、
 奄美諸島在来の兼久式土器とともに
 唐代の開元通宝が出土するなど、
 この頃には奄美諸島は大和ばかりでなく
 大陸とも交流を行っていた。
 東シナ海をめぐる内外の動きは活発化しちたのである。

 南島には大勢の人と大量の物産を積むことのできる船舶があり、
 遠洋航海のできる航海術と操船術があった。
 そこには国家領域に縛られない航海の民として、
 自由に東西南北を往来していた奄美の人々の
 おおらかな姿だけが浮かんで見える。
 (『しまぬゆ1』

「奄美人の目」はこうでなくていい、と思う。

まず、大和が奄美の生活に何ら影響を与えることはなかった、
と断言する必要はない。

丁寧に言えば、ほとんど影響を与えることはなかったろうが、
「何ら」と絶縁に持ち込むことは要らない。
しかもそれを大宰府に足を運んだ奄美人の内面を
仮定してまで言わなくてもいい。

鄙を異域と言挙げする必要もない。
鄙は都から見た辺境だが、
鄙からみれば、鄙は中心であり、
都は鄙にとっての辺境に位置する。

わざわざ、辺境を「異域」の始まりとして言わなくてもいい。

また、確かに遠洋航海する奄美人におおさかさを認めることは
できるけれど、「おおらかな姿だけ」と、
これまた限定する必要もない。

 ○ ○ ○

同じ章で似たくだりに出会う。

 大和朝廷から夷人雑類に位置づけられた
 阿麻彌人は海洋の民である。
 交易の品々を積み、ためらうことなく大海原に押し出した。
 海に乗り出すことは
 天に羽ばたくことと同じだった。
 (『しまぬゆ1』

海に乗り出すことが、
「天に羽ばたく」ことと同じだったはずがない。

当時の奄美人はたしかに、
今のわたしたちには信じられないほど、
自在に海原を巡った人々であるに違いない。

琉球弧が孤島に分断された後に、
島々を渡ってきたことを考えただけでも、
信じられない思いがする。

ただそれと同時に、
柳田國男が『海上の道』で想定しているように、
島から島に渡るのには、潮の流れを一年待って旅立つような、
忍耐を必要とした命がけの行為だったことも確かだと思える。

 ○ ○ ○

わたしは別に『しまぬゆ』の労をくさしたいわけではない。

ただ、古代奄美に、
「大和との絶縁」と「自由」の根拠を置くのは、
ロマンティシズムだと思える。

ロマンティシズムが悪いわけではないけれど、
ここは、リアリティを欠いている。

そうしなくても、
奄美の独立と自由の根拠を探していくことはできるはずだ。

そんなに窮屈に「奄美人の目」を設定しなくていい。
そう、これを書いた、
うじゃたー(おじさんたち)に声かけたくなるのだ。



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2007/05/14

誇るべきこと

『しまぬゆ』を追ってゆこう。

 九州・弥生人との交易を通して
 稲作についての知識も入っていたであろうが、
 当時の奄美・沖縄の遺跡から
 稲作を示す証拠は未だ発見されていない。
 この島々の人々は
 豊かな自然の恵みに依存して農耕を行わず、
 珊瑚礁を基盤にした漁労や猪猟・椎の実などの
 自然物の採取だけで
 食糧事情は安定していたのである。
 (『しまぬゆ1』

「食糧事情が安定していた」かどうかは分からない。

けれど、

 豊かな自然の恵みに依存して農耕を行わず、
 珊瑚礁を基盤にした漁労や猪猟・椎の実などの
 自然物の採取だけで

生活していたのは確かである。

「しまぬゆ」は、1609年に向き合うのに、
原始、古代の南島から書き始めているのがいい。

ただ、残念なのは、約200ページに及ぶ本文のなかで、
原始、古代に触れたのはたった3ページに過ぎないことだ。
引用したくだりはその結びに当っている。

原始、古代から書き起こすなら、
もう少し、厚く描いてほしい。

なぜなら、稲作以前の生産様式の時代を長く持ったことのなかに、
奄美の誇るべきこともあると思うから。

そこで、「遅れた」地域であるという言われ方を
恐れる必要はもはやない。

「遅れる」ことは、「進む」必然が無かったことと同じだ。
「遅れる」ことが「劣る」ことではないことは、
言うまでもないことだけれど、
あえて言えば、歴史が証明していることだ。

未開の部族も、文明に接した途端、
数十年も経たないうちに、
たちまち文明化されてしまうことを
ぼくたちはテレビ番組などで目撃している。

そこまで言わずとも、
奄美人もあっという間に「日本人」になり、
奄美もあっという間に現在の社会のなかに溶け込んでしまった。
身をもって証明してきたことなのだ。

だからもう、臆さなくていい。

 ○ ○ ○

奄美が誇るべきなのは、
長く、自然採取の段階に止まった、
その「とどまる力」のことだと言っていい。

それがなぜ誇るべきことなのか。

自然採取の段階の世界は、
稲作を知らないとか、文明の度合いが低いという言い方もある。
けれど、別の言い方をすれば、
この段階の世界では、
人間は自然や他の存在に対して優位な存在ではなく、
等価な存在だった。

人間が、自然や動物、無機物と等価の存在だということは、
そこに暮らす人々が、人間以外の存在とも、
コミュニケーションをとることが可能だったことを意味する。

動物や植物と対話をすることができた。
動物や植物の気持ちに感応することができたのだ。

現在、近代化をひた走った結果、
ぼくたちはその能力を著しく損なっている。
そして、その力を回復したいと、むしろ切望し始めている。

そのこからみたら、「遅れた」地域の世界は、
これから回復すべき関係性を持った
「進んだ」地域の世界になるのである。

奄美は、その獲得すべき世界のあり方を、
長く保存してきたのである。
ということは、その世界の手がかりを持っているということだ。

人間と他の存在とが等価である世界を長く保存してきたことが、
奄美をはじめ琉球弧の誇るべきことだと、ぼくは思う。

だからこそ、「しまぬゆ」を語るなら、
そのことを誇るべき基底として触れてほしいと思うのだ。


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