カテゴリー「14.沖永良部学との対話」の22件の記事

2008/02/18

沖永良部学の伊波普猷賞

 去年、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」という論文が公開されているのに気づいて、「沖永良部学との対話」を楽しませてもらった。

 それまで琉球弧を考察する論文といえばほとんど沖縄発のものだった。沖縄発の琉球弧論といえば、与論や奄美のことは範囲として中に入れられているが、実質として外されているといった実感が強かった。だから、奄美発の琉球弧論というだけで、嬉しかった。「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」は、その奄美発の問題意識の延長にあるものだが、それともちょっと違っていた。それは、なんといっても沖永良部発、だったのだ。

 それはお隣の、兄弟島からの発信で俄然、親近感が湧いた。そして驚いたことに、実際に読んでみると、問題意識も近接しているのに気づいた。ぼくはそこでポスト・コロニアルという言葉を教わりながら、自分のアイデンティティが、まるで消去法の果ての残余のものでしかない現れ方をすることや、どれかひとつと言い切れないもどかしさに言葉を届かせた論考に初めて出会って胸躍らせた。

 たぶん、それが「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」へのぼくの感想だった。

 前置きが長くなったけれど、この度、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」をもとに書籍化した、高橋孝代さんの『境界性の人類学』が、伊波普猷賞を受賞した。

 それは嬉しい知らせだった。元ちとせや中孝介がデビューしたというのと同じような嬉しさだ。奄美の、自己表現が胎動している。なんかそんな気がしてくる。実をいえば、伊波普猷賞の何たるかを、ぼくは全く知らないのだけれど、いいじゃないすか、嬉しいじゃないですか。

 授賞式は那覇で行われている。駆けつけたくもあったけれど、東京からだと、ちと遠い。この場を借りて、おめでとうございます、と言わせていただきます。

 ※那覇で伊波普猷賞贈呈式・祝賀会



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2007/05/10

沖永良部学から与論論へ

高橋孝代さんは、
論文「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」の終わり近くで、
主張している。

 本研究を通じて認識されたことは、
 このようなアイデンティティの混淆性は、
 もともと島民にそなわっていたわけではなく、
 それぞれ原因があって構築された結果、
 表象されたものであるということである。

 そして、この状況は変化のプロセスにあり
 現在も構築の途中にある。
 明治以降の近代化に続き、1953年の日本復帰後、
 激化をみせた本土化は、今その意義が問い直され、
 奄美の島々ではアイデンティティを取り戻そうとする
 動きがみられる。

 その方向性は、すでに袂を分かち修復の困難な
 古琉球時代の枠に戻ることはできず、
 完全に沖縄に向かうものではない。
 奄美の島々に住む人々は、今年(2003年)
 日本復帰50周年を向かえ、
 独自のアイデンティティを模索している。
 2003年9月5、6日には奄美の日本復帰50周年を記念して
 第一回「世界の奄美人大会」が奄美大島の
 名瀬市奄美文化センターで開催された。

 これは、沖縄が独自性を主張し、連帯を高めようと
 「世界のウチナーンチュ大会」を開催していることを参考にした
 ネーミングであることは明らかであるが、
 奄美の人々は「本土でも沖縄でもない」ところに
 奄美を見出そうとしている。
 「アマミンチュ」という言葉は、そのような意味を含む主張である。

 だが、「奄美」という場合にも奄美大島が中心であり、
 奄美という枠内でさえ沖永良部島は周縁化される。
 奄美大島主導である今回の「世界のアマミンチュ大会」で、
 沖永良部島民からは、島独特の芸能「やっこ」を
 披露することで個性をアピールした。
 沖永良部島民は今後、奄美の一員として
 アマミンチュのアイデンティティを求めると同時に、
 本土でも沖縄でも奄美でもないエラブンチュとしての
 アイデンティティを求めていくであろう。
 筆者もその一人である。
 (「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」)

自分は何者かという自己認識が、
島人のなかで幾重にも重ねたようにあるのは、
もともとそういうものだからではなく、
歴史的な原因があってのことだ。

それは、いまも状況の変化に応じて作られつつある。
たとえば、現在では、島人としての自己認識を
取り戻そうとしているところだ。

そこで、高橋さんは、

 その方向性は、すでに袂を分かち修復の困難な
 古琉球時代の枠に戻ることはできず、
 完全に沖縄に向かうものではない。

と言うのだけれど、ぼくはここは必ずしもそう思わない。
というか、沖縄に限らず、対話をする必要があると考える。

 ○ ○ ○

与論島では、釣り糸がもつれると、
たしか、まちぶる、と言う。

琉球弧の島人の自己認識は、まちぶっている。
まちぶっているから、必要なのは、ほぐすことだ。
その、ほぐす術が、対話である。

子どもの頃、まちぶって絡み合った釣り糸を
ほぐすのに夢中になった。

まちぶった糸を、ほぐすには、
最初の糸口をつかむのがポイントだ。
そして、そこからひとつひとつ丁寧にほぐしていく。

糸口を見つけるのは時間がかかるけど、
まちぶった糸をほぐして元に戻していくのは気持ちいい。

高橋さんの論文に刺激を受けて、
与論をほぐすには、

1.与論
2.奄美
3.沖縄
4.薩摩
5.日本

という対話の順番を辿るといいと考えた。

こうすることで、ユンヌンチュを純化することが
目指されるのではない。
ユンヌンチュを豊かにすることを目指すのだ。

日本でもあれば奄美でもあれば沖縄でもあることを
可能にしているユンヌンチュという基底を見つけるのである。

高橋さんは、
「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」を通じて、
沖永良部学の創設を目指す。

ところで、ぼくは学問をしたいわけではないから、
与論学とは言わない。

与論島と与論人(ユンヌンチュ)を元気づける
いわば与論・論を展開したいと考えている。

ぼくは高橋さんの沖永良部学との対話で、
与論論の手がかりを掴めた気がしている。

奄美の内側から、わたしは何者かを問うた
この論文の意義はとても大きい。
高橋さんの労に敬意を払い、感謝したいと思うのだ。


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2007/05/09

エイサーがなかったのが不思議

いまでは、エイサーは永良部の芸能の代表になっているという。
高橋さんは、

 これまでエイサーがなかったのが不思議

と書いている。

全く同感。

与論島のエイサーもあまりに馴染んでいて、
昔からあったように感じられるほどなのだ。

 ○ ○ ○

ときに、永良部のエイサーのはじまりは、
喜納昌吉がきっかけだったという。

1993年、フリージアフェスティバルで喜納は、
与論のユンヌエイサーを披露する。

それを観た永良部の人はそのダイナミックさに感動し、
喜納に教えを請うことになる。

 喜納昌吉の、「沖縄と奄美は一つ」という考え方から
 奄美にも普及されたエイサーは、沖永良部島では
 本土化による反動から見つめなおされている三山時代、
 琉球王国時代の沖縄と関係の深かった「過去の時代」
 への伝統回帰によるルネサンスの象徴でもある。

ぼくも与論のエイサーにはびっくりした。
サンゴ祭りでみて、あまりにも決まっていたからだ。
ぼくも教わりたかったと思うほどだった。
エイサーは、いまや南島を越えて演じられている。
ぼくも、子どもの運動会で観てびっくりしたものだ。

琉球の身体性にあうエイサーの普及について、
知らなかった者として喜納昌吉に感謝したい。

「沖縄と奄美は一つ」。

たしかにこの確信あってできたことかもしれない。

 ○ ○ ○

ただ、もう少し耳を澄ますと、
喜納は『すべでの武器を楽器に』でこう言っている。
(この書名はいいですね)

 (前略)もともと奄美と沖縄は一つだった。それが
 1609年の侵攻で奄美諸島は島津の直轄領となり、
 のちに鹿児島県に併合されることになった。
 奄美と沖縄は人為的に切り離されてしまったのだ。
 ・・・真の歴史を取り戻すためには、奄美と沖縄は
 一つに戻らなくてはならない。この問題が解決すれば
 島津のトゲは解消する。

これについては言わなくてはならない。
そんなことでは島津のトゲは解消されない。
解消する必要条件かもしれないが、
十分条件にはなりえない。

島津のトゲが解消するには、
薩摩の思想が、明治維新を越えること、
言い換えれば、彼らが琉球侵犯を相対化しえることが必要だ。

そのためには、奄美・沖縄と薩摩の
思想上の対話が必要だと思える。

 ○ ○ ○

もとに戻ろう。
与論や永良部でエイサーは、
与論人(ユンヌンチュ)や永良部人(エラブンチュ)の
身体性に響いたので、あっという間に土着化した。

琉球弧の身体性は枯れていない、ということだ。


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2007/05/08

アマミンチュ(奄美人)が新鮮

高橋さんは、沖永良部の人たちに突っ込んだ問いかけをしている。

Q.あなたには次のような意識がそれぞれどれだけおありですか?

 ・日本国民
 ・日本人
 ・ヤマトンチュ
 ・ウチナンチュ
 ・エラブンチュ
 ・アマミンチュ

 1.非常にある
 2.ある程度ある
 3.あまりない
 4.全くない

とても刺激的な投げかけだ。

永良部のみなさんはこう答えている。
「非常にある」と「ある程度ある」を
足した数が多いものから並べてみよう。

1.日本人    92.8% *******************
2.日本国民   88.1% ******************
3.エラブンチュ 88.0% ******************
4.アマミンチュ 56.8% ***********
5.ウチナンチュ 34.4% *******
6.ヤマトンチュ 28.1% ******

どうだろう。
「日本国民」の選択肢がちょっと異質だが、
回答結果の順番は、
とても素直に沖永良部の人たちの
アイデンティティの多層性と順位を示しているようにみえる。

たとえば、ぼくはヤマトゥンチュの意識は全くないが、
ウチナンチュという意識も親近感はあれどなかった。
また、アマミンチュは、言葉自体が新鮮で、
そういう言い方があるのに驚いた。

ぼくには、日本人とユンヌンチュがリアルで、
アマミンチュはそんな感じ方を育てていけたらいいなと思った。

 ○ ○ ○

まぁぼくの感じ方はともかく、
沖永良部のみなさんの結果は何を教えるだろう。
それは、大きく二つある。

1)日本人意識が定着している。
2)共同性に対する親近感の順位がある。

「日本人」意識が、約93%になるのは、
近代奄美の市民社会の成熟を語っていると思う。
この意識を背景に、ぼくたちは、
南島における共同性の親和の順位を理解することができる。

それはこんな順番だ。

1.沖永良部
2.奄美
3.沖縄
4.大和

この結果は、島は宇宙という世界観に照らして、
至極まっとうな順位だ。

これは、共同性の小さいものから大きいものへの順番なのではない。
世界としての島の大きいものから小さいものへの順番を示しているのだ。
沖永良部の人にとって、エラブの方がヤマトより大きいということだ。

このことは、こう捉えることもできる。
奄美の人々は、二重の疎外に対して、
なりふり構わず「日本人」になろうとしてきた。

それは奄美人であることの否定、
つまり、他者になることを意味していた。

ところで、そうやっていざ「日本人」になってみると、
それと反比例するように、
エラブンチュ意識は消滅しているかといえば、
そんなことはない。

島の強さ・大きさを物語っている。
言い換えてもいい。
島は、待っていてくれたのだ。

そして、エラブンチュのアイデンティティの多層性に、
ある割り切りにくさがあるとしたら、
それは、日本人になることは、
二重の疎外に出口を用意してくれたけれど、
二重の疎外の解決にはならなかったことを意味している。

 ○ ○ ○

この結果に、ぼくは与論島、ユンヌンチュとしてしていくべき
対話の順番を想定する。

与論に置き換えれば、
与論、奄美、沖縄、大和という順番だが、これは、

与論島と対話し、
ついで奄美と対話し、
沖縄と対話し、
大和(薩摩)と対話する、
というステップだ。

それはこの順番を辿ることで、
対話の通路も拓けることを教えていると思う。


それにしてもアマミンチュは新鮮に響いてきた。
この言葉をどれだけ豊かにできるか、
ぼくたちのテーマだと思う。



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2007/05/07

ネガ奄美からポジ奄美へ

与論島が、与論島自身に真正面から向き合ったのは、
2003年、沖永良部との合併問題の時だったと思う。
2003年。そう、つい最近のことである。

同じように、奄美が奄美自身に向き合ったのは、
1952年の復帰運動の時だった。

このとき、奄美・沖縄は占領統治下ではあったが、
琉球政府として統一される。

このことは、薩摩の琉球侵犯以来、
奄美が被ってきた二重の疎外
つまり、文化的共同性と政治的共同性の矛盾が
限定的な形ではあれ消えたことを意味する。

これは奄美にとって待ち望んだ事態ではなかったのか?
三世紀以上続いた困難の解決ではなかったのか?

けれど、このとき奄美は、
そのことを喜ぶのではなかった。

むしろ、

 奄美と沖縄は違う

という方へ顔を向けた。

これは、二重の疎外の出口を、
奄美の人々が、「日本人になる」ことに
求めたからに他ならない。

そしてそれは主体的な選択というより、
やむざる衝迫に押されたものだった。

「日本人になる」ということは、
あらゆる日本人を巻き込んだ近代化のプロセスで、
ひとつ奄美に限ったことではない。

ただ、我をな無くすほどの切実さ、
標準語励行運動の激しさは、特異だと思える。
しゃにむに雪崩れ込んだ島の人の激しさは、
二重の疎外を背景に置いてはじめて、
理解できるのである。

 ○ ○ ○

沖縄による奄美差別の事実もあっただろう。

しかし、仕向けられた側面もあった。
復帰後、琉球政府は、アメリカの指示により、
奄美出身者を公職から追放する。

このことについて、高橋さんは次のように言う。

 奄美の日本復帰が沖縄の復帰運動に影響することを
 懸念したアメリカ側が、奄美と沖縄の住民を分離する意図が
 あったことが窺えるが、それが精神的な分断をも生み出した
 ことは想像に難くない。

これはぼくもそう思う。

奄美と沖縄は向き合う前に訣れていったのである。

 ○ ○ ○

また、奄美の復帰も一筋縄ではなかった。

1952年、北緯27度線を境界とし、
復帰するのは、徳之島以北で、
沖永良部と与論は対象外という記事が、
毎日新聞に掲載される。

そこでできたのが「日本復帰の歌」である。

 一 なぜに返さぬ永良部と与論
   同じはらから奄美島
   友ようたおう復帰の歌を
   我等血をはく この思い
 二 なんで返さぬ永良部と与論
   同じはらから返すのに
   友よ叫ぼう我等の熱を
   我等黙って居られようか
 三 何で捨てよか復帰の希望
   返す返さぬ熱次第
   友よ励まし手に手をとって
   熱い熱意で進むのだ

ぼくは、このときの毎日新聞の記事が
何を根拠になされたものか、関心を持つ。
まるで、復帰に無頓着な永良部と与論の尻に
火を付けるような効果をもたらしている。

このとは宿題として置いておこう。

話を戻して、この詞を読むと、
「同じはらから奄美島」と歌われるけれど、
「はらから」の中身は迫ってこない。

むしろ、奄美としての統一感が損なわれるというより、
置いてきぼりへの危機感が伝わってくる。

復帰運動は、奄美が奄美自身に向き合う契機だったが、
奄美とは何かを突き詰める動きは生まず、
「脱琉入日」と言われたように、
日本人化への契機としてつかまれたのだった。

奄美は、ネガ奄美に止まったのである。
ぼくたちは、この「ネガ奄美」を「ポジ奄美」へ
変換する課題を持っている。

でもそれはきっと楽しいテーマに違いない。
『奄美の島々の楽しみ方』が楽しいように。



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2007/05/06

日奄同祖論を書き換える

1951年、奄美連合全国総本部委員長昇直隆は、
奄美の復帰問題で、参議院外務委員会公聴会に
参考人として呼ばれ、「日奄同祖論」を展開する。

昇直隆のペンネームは昇曙夢(のぼりしょむ)
ロシア文学者にして『大奄美史』を記した、あの昇曙夢だ。

 わたくしは奄美大島出身の者であります。
 今回の奄美大島の帰属問題について、
 歴史上からの私の知っている範囲において純然たる日本人であり、
 また日本国の一部であることを立証 いたしまして、
 皆さんの御参考に供えて、そうしてこの帰属問題
 について皆さんのご協力を仰ぐ次第であります。
 もうすでに御承知の通り、奄美大島は、
 沖縄と共にずいぶんと古い、
 開びゃく以来古い紀元を持っておる島であります。

 人種の上からいっても大和民族の一つの支流であります。
 大和民族の、もっとも移動についてはたびたび行われて
 おりますが、一番最後の第三回目に大陸から朝鮮海峡を経て
 日向に落ち着いたのが、一番武力においても知能においても
 最も優秀な民族で、これを固有日本人という学名で
 呼んでおりますが、その一派が日向、大隅、薩摩
 ここから南の島々に殖民して、それがわれわれのつまり
 祖先になっているわけであります。

 もちろんそれ以前に先住民族がありました。
 アイヌのごときはその一つでありますが、
 しかしどこまでもやはり奄美人の主体というのは固有日本人で、
 これは学術上明らかに証明されておるので、
 わずかにアイヌの血が混っておるというに過ぎません。
 その点においては、日本全土挙ってアイヌの血を多少とも
 受けておるわけでありますから、
 ひとり奄美大島ばかりには限りません。
 どこまでも主体としては固有日本人になっておるのであります。
 (東京奄美会八十年史編纂委員会 1984年)

 ○ ○ ○

この、昇の「日奄同祖論」は、痛ましい。
この痛ましさは、波照間島の地名をめぐる
金関丈夫の説への宮良当壮の反論に感じる痛ましさに似ている。

昇は復帰運動の理論的リーダーであったというから、
この痛ましさの背後には、
奄美の人々の切実さがあったというべきだ。

奄美復帰後に生を受け、
日本人にならなければならないという強迫を、
当時の奄美の人ほどに感じずに済んだぼくは、
この「日奄同祖論」は書き換えられなければならないと考える。

批判したいからではない。
当時の奄美の人々をかばいたいからだ。

ありえなかったけれど、
ありえてもよかった言論として、
架空の「日奄同祖論」を展開してみよう。

 ○ ○ ○

わたくしは奄美大島出身の者であります。
今回の奄美大島の帰属問題について、
歴史上からの私の知っている範囲において
純然たる日本人であることをお伝えして、
皆さんの御参考に供えて、そうしてこの帰属問題について
皆さんのご協力を仰ぐ次第であります。

もうすでに御承知の通り、奄美大島は、
沖縄と共にずいぶんと古い、
開びゃく以来古い紀元を持っておる島であります。

人種の上からいっても日本人の一つのタイプ、
もっと言えば、日本人の源流に近いタイプであります。
日本人の、もっとも移動についてはたびたび行われて
おりますが、歴史上比較的新しいところでは、
大陸から朝鮮海峡を経て日向に落ち着いたのが、
国家としての日本を形成したと考えられていますが、
この人々が新しい日本人の層を作りました。

その一派は日向、大隅、薩摩ここから南の島々に殖民して、
それもわれわれのつまり祖先の一部になっているわけであります。

もちろんそれ以前に先住の日本人がいたわけです。
アイヌもその一つであります。
奄美人もアイヌにつながる源流を持ち、
日本人としては古型のタイプを濃く保存しています。

古型を温存している点においては、
日本全土挙ってアイヌの血を多少とも
受けておるわけでありますから、
ひとり奄美大島ばかりには限りません。

しかし、その濃度について、
日本人として高いのが特徴であります。

 ○ ○ ○

こうした上で、ぼくは書き足さなければならない。

もし、日本人がどこまでも原型を遡り、
自分の来し方を知りたくば、奄美を訪ねよ、と。
その効用は来し方を知るというばかりではない。
来し方を知ることにより、
行く末の洞察に手がかりを持つことができる。

それは人間が乳幼児の自分を遡って知ることができたなら、
これからの生き方にずいぶんと参考を与えてくれるのに似ている。

「日奄同祖論」とは、
日本人と奄美人は同祖であることを言うだけではない。
日本人の源流に奄美人を展望する。
日本人の上流のひとつに奄美人を置くのである。

いまや復帰とは、
奄美・沖縄が日本に復帰するのではなく、
奄美・沖縄に日本が復帰するのである。

 ○ ○ ○

ここで終えてもよいのだけれど、
もう少し加えておく。

「日奄同祖論」というけれど、
日本民族は決められない。
奄美民族も決められない。
それは厳密には確定できるわけではないと思う。

だから、日本民族という独立した枠組みがあり、
その中に奄美民族があるという言説自体、
本当は成り立たない。

だから、奄美人に日本人の源流を濃く見るというとき、
そこにいう奄美人は、アイヌやポリネシアや他の人々との
連続性のなかに位置づけられる。
いま、確定的に、それが何人だと言えないにしても。

ぼくたちが起源に遡行しようとするのは、
奄美人の祖型を心から知りたいからだが、
それは日本人を純化して捉えたいからではなく、
他の人種との連続性のなかに日本人を想定するからだ。




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2007/05/05

日本人になる-二重の疎外の出口

沖縄と分離した奄美の日本復帰運動は、
奄美の意思には違いないが、なんというか、
奄美人が奄美人として自律的に行ったものとは言いがたいと思う。

奄美は、1609年の薩摩藩による侵略を契機に、
二重の疎外を受ける。

 文化的共同性に顔を向ければ政治的共同性が異なると無視され、
 政治的共同性に顔を向ければ文化的共同性によって差別される。

この、二重の疎外に対して、
奄美人は出口を切望した。

そしてすがるように見出したのは、
「日本人になる」という出口だった。

近代以降、奄美人の本土や満州への移住は、
日本人として平等な存在という価値があればこそ可能になったのだ。

二重の疎外の解消への希求は痛切で、
文化的共同性への参加は当時その出口には見えなかった。
奄美の人々は、「日本人になる」ことに出口を見出したのだ。
それは、命がけで飛躍と言っていいものだったと思う。

奄美・沖縄の標準語励行運動の激しさは
そのことを雄弁に物語っている。

こうして奄美は、三度、沖縄との訣れとを経験してきたのだ。

 ○ ○ ○

しかし、この三度の訣れは、いずれも他律的なものだ。
近世のはじまりは支配勢力の登場として、
近代の始まりはその延長として、
そして、戦後は二重の疎外の解消として。

だから、三度の訣れを経た上で、
改めて沖縄に向き合い、
対話をしていくのはこれからの課題だと思える。

それは、奄美とは何か。
そのことに回答することと別のことではない。


補記
もちろんこの間、まるっきり没交渉であったわけではない。
沖縄復帰運動の際には、
与論島の沖、北緯27度線の洋上からのサーチライトと、
辺戸岬のかがり火は、呼応しあうように対話をした。

しかしこのとき対話の主体は、
沖縄と与論というよりは、
沖縄と日本だった。
与論は日本の象徴を担ったのだった。

奄美と沖縄は、他者ではなく日本でもなく、
奄美と沖縄として対話を必要としている。


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2007/05/04

沖縄との訣れ

奄美はこれまで、三度、沖縄との訣れを経験している。

 ○ ○ ○

ぼくは、奄美の二重の疎外のひとつを、
「文化的共同性に顔を向ければ政治的共同性が異なると無視される」
と捉えたけれど、
琉球が奄美に無関心であったわけではないと、
高橋さんは書いている。

たとえば、1872年、明治政府により琉球王国が琉球藩とされた時、
琉球の伊江王子は外務卿副島種臣と会見し訴える。

 薩摩の支配下にあったときは、
 住民はその苛剣にたえきれないで、ひどく疲弊した。
 現在は天皇の直接支配におかれたのであるから
 特旨を垂れて負担を軽減され、その上、
 大島・喜界が島・徳之島・永良部島・与論島は
 もと琉球の管轄であったものが、
 慶長の役で薩摩に押領されたもので
 風俗習慣はいまも沖縄と同じであるから、
 復帰させてもらいたい。

外務卿は「事重大であるから閣議を経た上で処置する」と答える。
彼は暗に断ったのだが、伊江王子らは
願いが聞き入れられたものと歓喜したという。

その後、1879年に琉球藩から沖縄県とされた時も、
琉球は奄美の返還を求めたが、意に解されなかった。
これが二度目の沖縄との訣れだ。

一度目はもちろん1609年の薩摩藩による琉球侵犯の時である。

近世のはじまりと近代のはじまりに、
奄美は沖縄との訣れを経験する。
一度目は、文化的共同性との訣れとして
奄美にその経験の意味を知らせたはずだが、
二度目の訣れはひょっとしたら、
奄美は無自覚なまま訪れ過ぎたことかもしれなかった。

ぼくは、外務卿副島とのやりとりで、
明治政府の断りを、聞き入れられたものと歓喜する琉球側の
受け入れ方に関心をそそられる。

いかにも、琉球的だと思う。
つまり、素朴な人の良さを政治的共同性にも温存している
うぶさが、である。

 ○ ○ ○

三度目は、言うまでもなく日本復帰運動の時だ。
このとき、奄美には独立や沖縄との同時復帰の議論もあったという。
けれど、奄美の人々は圧倒的に、
奄美の単独復帰で動いていった。

復帰は、三度目の沖縄との訣れだった。

 ○ ○ ○

さて、この三度の訣れを経た上でどうするのか。
ぼくはまだ、奄美は沖縄との対話を必要としていると思う。
どうしてか。明日も考えてみる。


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2007/05/03

ボーダー・アイデンティティ

高橋さんの論文は次第に核心に迫る。

 沖永良部で生まれ育った人々にとって、
 文化化の過程で培われた文化的なアイデンティティは
 出自によるアイデンティティとは必ずしも同質ではない。
 政治と歴史とは別に、
 沖永良部島にはその地域における文化の歴史がある。
 薩摩藩直轄領になった後も、
 そして鹿児島県に行政的に組み込まれた後も、
 沖永良部島は沖縄島から文化的影響を受け続けていた。
 特に芸能文化は沖縄の影響が強く、
 沖永良部島の人々が沖縄に文化的アイデンティティを
 もたせる大きな要因となっている。

アイデンティティは多層である。
それは、沖縄、鹿児島など、どちらかに「峻別し難い」。

こんな境界の場所では、
どちらかを選ぶというより、
「状況によって境界を行き来する」という。

それを、高橋さんは「ボーダー・アイデンティティ」と呼んでいる。

この分析は説得力がある。
ぼくも、ある時は沖縄に愛着を寄せるし、
あるときはただの日本人だ。
でも、いざとなればユンヌンチュが強く顔を出す。
高橋さんはそれをボーダー・アイデンティティと言っていると思う。

これは、沖永良部だけでなく、与論や奄美の、
心のありようを説明してくれていると思う。

 ○ ○ ○

ただ、もうちょっと言えば、
ぼくは、その奥がまだあって、
どれかのアイデンティティに頼る向こうに、
それさえも、どうでもいいじゃないかという
おおらかさがあるような気がする。

島の人はアイデンティティとは誰も言わない。
それはアイデンティティという概念を知らないからではない。
もちろん、知っていてもどうということはないのだけれど、
ふつうの日常生活のなかで、
アイデンティティを糧に生きているわけではないからだ。

考えを詰めて息を凝らして、
煮詰めていくと、たしかにアイデンティティを云々するときはある。
けれど、考え詰めた極点で、
どうってことないじゃんというような、
ただの人のような場所に、いるのではないだろうか。

ユンヌンチュとて。

そこに、アイデンティティという言葉は、
ちょっとしゃちこばった、
外ゆきの言葉に思えてくる。

そんなところで、沖永良部のぴちゅ(人)も
与論のぴちゅ(人)も生きてきたのではなだろうか。


でも、高橋さんの突き詰めはとてもありがたい。


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2007/05/02

ここが違う!与論と永良部

高橋さんの論文で、
教えてもらわないと分からなかったのは、
「世の主伝説」と「西郷伝説」だ。

 ○ ○ ○

言われて思い出す。
沖永良部島でかすかに覚える違和感は、
そこに、「西郷隆盛」の文字を見ることだった。

止めてくれよ、薩摩じゃあるまいし。
ぼくはただの偏見でそう思ってきた。

けれど、考えてみれば、西郷は遠島で
沖永良部に滞在したことがあったのだった。

その間、約一年半。
このとき西郷は近世の政治経済の知識を伝える。
この島への寄与が西郷への敬愛を生んでいることを、
高橋さんの論文から教わった。

ここは与論とはまるで違うところだ。
奄美のなかでも与論は、
薩摩の影響の及ぶことの少なかった地域なのだろう。

ぼくは、西郷が奄美の島々から受けた影響に関心を持つ。
沖永良部が西郷に与えたもの、だ。

 ○ ○ ○

もうひとつ、与論と違うんだなぁと教えてもらったのは、
世の主伝説だ。

与論も琉球王国から、
支配者である世の主、北山王の王舅は来ている。
でも、伝説化されるほどではない。

世の主に対する島の人の親和感は、
沖縄への親和感と地続きになっているのだろう。

与論も沖縄への親近感はあるけれど、
それは、琉球王国を媒介にしていないということだろうか。

すると与論は、琉球王国としての沖縄からの影響も薄いのかもしれない。

 ○ ○ ○

沖永良部は、薩摩、琉球に対して、
政治的共同性に属する人物を介した
親和感を持っている。

対して与論は、薩摩に対しても琉球に対しても、
親和感は、政治的共同性に属する人物を介していない。
これも、与論島の特徴だと分かった。


 与論と沖永良部との違い、勉強になりました。


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