吉本隆明さんの講演、『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』を聞いてきた。

吉本さんの講演を聞くのは久しぶりだった。学生の時分は地の利を生かして吉本さんの講演を「ぴあ」や何かで見つけては聞きにいった。『ハイ・イメージ論』の頃である。中央区の区民会館のようなところ、池袋のリブロブックセンター。学生なのに無理して名古屋まで追っかけをしたこともある。品川の寺田倉庫で、中上健次や三上治と共同主催した「いま、吉本隆明25時」は圧巻だった。これがあるから東京にいると思い込んでいた。おかげでぼくの物まねレパートリーのなかには吉本さんの講演真似も入っているくらいだ。
吉本さんの講演を聞かなくなったのは関心が薄れたからではない。あの水難事故以来だろうか、吉本さんが講演しなくなっていったからだ。以来、年齢を思えば仕方ないと諦めてきたので、今回、ほぼ日刊イトイ新聞主催で講演があると聞き、とても嬉しかった。おまけに、吉本さん自身も柳田國男の「海上の道」の講演をイメージしてやるということなので、その力の入れようも楽しみだった。
会場では、加藤典洋さんにもお会いできた。「加藤さん?」、声をかけずにはいられなかった。加藤さんはきょとんとされている。それはそうである。ぼくは加藤さんの本を大好きでよく読んでいる読者の一人というに過ぎないのだから。でも、「ご本、好きで読ませていただいています。」と伝えられたのはよかった。それだけでも行った甲斐があるというもの。
吉本さんのおしゃべりは、ああ吉本さんだなと思わせてくれる醍醐味充分だった。今日の最大の肝は、アダム・スミスが彼の経済論で、りんごの価値は、木に登ってりんご採ってくるまでの労働のことであると分かりやすく規定したと吉本さんは評価していたけれど、それと同じように、芸術言語論の基礎の自己表出と指示表出を、樹木にたとえて、幹と根が自己表出であり、枝、葉、花、実が指示表出であると表現したことにあると思う。
いま、コミュニケーション論が盛んだけれど、吉本さんの「芸術言語論」は、言ってみれば反コミュニケーション論で、「沈黙」に価値を置いている。というか、自己表出である言語の幹や根にあるのは、「沈黙」なのだと位置づけている。吉本さんは「沈黙でさえ表現であり、価値である」と確か、そう言っていた。ここまで言ってくれるから、ああ吉本さんだと思う。ここまで言ってくれるから、長きにわたり失語という沈黙を続けている奄美のことも疎外されずに含まれていると、自分のことに引き寄せても聞くことができる。吉本さんの文芸批評は「境界を持たない」のだ。
「自由、平等、無価値」と言ったのも印象的だった。「芸術言語論」のことを、「自由、平等」と切り出したので、何が続くのかと思いきや、「無価値」ときた。芸術の価値を云々する「芸術言語論」を「無価値」と言うのは、それは吉本さんの自己抑制で、「芸術言語論」といっても何かを強制するものではないし、その世界に入るも入らないも任意であることを指しているのだと思う。作者の真意が分かる分からないが偶然の出会いに左右されるように、「芸術言語論」にしてもそれは同じなのだと。この言い方は親鸞の口吻を思い出させるものだ。
思い出させるといえば、終盤に何かを思い出そうとして頬杖をついたときは、少し前にスクリーンに映し出された太宰治の表情そっくりでどきっとした。糸井さんの強制終了?間際には、天を仰ぐような手振りで話すのだったが、その姿はさながらシャーマンだった。でも、何といっても、冒頭、舌を出して照れ笑いをしている表情がよかった。
時間はオーバーし、当初、休憩を挟み、糸井重里さんが質問して答えてもらうトークセッションも想定されていたみたいだったが、その時間がなくなるくらい吉本さんはしゃべり続けた。糸井さんのおしゃべりも書くものも好きだが、吉本さんの話が聞きたいぼくとしては、吉本さんのおしゃべりに終始するのでよかったし、もっと聞きたいくらいだった。最後の「二列音」のことは、まだどこにも書いたりしゃべったりしてないものだと思うから、なおさらだった。
糸井さんも驚いていたけれど、会場に詰め掛けた、あれは二千人くらいだろうか、人たちは三十代がメインで吉本さんの読者という感じではなかった。ぼくや加藤さんのような存在は部分で、全体的には、糸井さんのファンが吉本さんの話を聞きにきたような、そんな雰囲気だった。
吉本さんの話が尽きないように、吉本さん自身も、完成を禁じられて無限成長をするしかないのが宿命のように見える。八十三才の言葉は、学生時代に聞きほれていたときと変わらず刺激的だった。




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