『人類が永遠に続くのではないとしたら』
加藤典洋の『人類が永遠に続くのではないとしたら』は、3.11を起点にして、これ以上にない真摯さで歩んでいる。
3.11の原発事故が明らかにしたのは、保険が利かないという限界を超過した問題だった。これまで消費社会論と地球の限界を論じた『成長の限界』や『沈黙の春』などは接点を持たなかったが、この事故は、北の豊かな側から有限性の近代を考える内在的な理由になる。有限性を根拠にしてどのように生きて行けばよいか。そこに浮上するのが、することも、しないこともできるという偶発的契機のあるコンティンジェントな自由である。
新潮に「有限性の方へ」と題された連載の時から読んでいたので、待ち望んだ出版だった。本は個人的な契機しかふだん考えないが、これはなんというか、多くの人に読まれてほしいと思う。
頷かされることの多い内容だから、ぼくの考えてきたことと違う点のみを挙げておく。
全自然を、じぶんの<非有機的肉体><自然の人間化>となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみあいを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>とかんがえたのである。(吉本隆明『カール・マルクス』)
ここで人間が自然の「有機的自然」になるとは、政治家になると声が大きく威圧的な風になっていき、教師がなにかといえば説教臭くなり、可哀そうに就職活動中の若者が、常に何事にも好奇心一杯ですといったポジティブ満載調になるような、反作用のことをイメージしていた。ネガティブな例ばかり挙げたが、同様に大工が武骨な手と昇りのうまいしなやかな身体を身につけたり、海人が肺活量を増進させ、海中生物のような身のこなしになるのも同じことだ。
ところで、加藤はこう書いている。
では人間が自然化するとはどういうことか。私の考えでは、その意味は二つであって、人間が自然との交渉において生物種としての人間を自分のなかに作りだすということが一つ、またそこでは、人間の意図、行動もまた、自然史的な過程の一コマとして、必要とあらば「力能」の作用へと換算可能な自然的事象とみなされうる存在となるということが、そのもうひとつである(p.229)。
前者は、人間は自然との交流過程のなかでしか生きられないことを示すものだ。ところが、人間が「「力能」の作用へと換算可能な自然的事象」となるのは、それは自然との相互作用に入るための前提だと考えてきた。柱を昇り、釘を打てなければ大工になれないように、コードを知らなければプログラムは書けないように。「人間が自然化」するとはむしろ、「力能の作用」の反作用を受けることを示している、と。
加藤はここから人間と自然の不断の交流過程のなかで、人間の入力が生む人間と自然の変化によるフィードバック作用を重視している。これを反省的に受け留めれば、ぼくの理解の仕方では、加工された自然の変化による反作用がうまく掬い取られないということになるだろうか。ぼくはそこで、人間が対象とする自然を四つの段階として捉えてきたが、それでは巨視的に過ぎるということかもしれない。
ともあれ、加藤のこの本は、人間と自然の相互関係の大きな転換を、「無限性の近代」と「有限性の近代」として抽出している。その先に人類の終わりにまで視線を届かせようとするものだ。
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