カテゴリー「12.祖母へ、父へ」の30件の記事

2015/09/15

母を看取った。

 一週間前、9月6日の早朝に母の最期を看取った。まさかこのブログに、祖母と父に続いて、母の追悼を書くことになるとは思ってもみなかった。

 主治医とよく相談していたので、その二日前には病院入りしていた。おかげでふた晩は、兄弟そろってベッド脇にいることができた。ひ孫の泣き声、島唄、演歌、ビートルズ。とにかく音楽祭りのように、音を絶やさなかった。ひ孫の泣き声では目を覚まし、美空ひばりの「川の流れのように」では涙を流した。ちゃんと聴いているし分かっているのだ。

 5日深夜、呼吸がはやくなり、6日未明には、落ち着きを通り越して緩慢になった。気を利かせた看護師さんが、近親者の集合をアドバイスする。ぼくは、母の手を握りつつ、マブイ、魂を呼び戻すユビコイをしていたが、やがて、息を吐くと口を閉じて息継ぎをする間が出てきた。ぼくは、哭き女とはいかない自分のユビコイを頼りなく感じ、とっさに母の妹に電話をかけ、電話越しに与論から声をかけてもらった。すると、左向きに寝ている母の左の瞳から大きな涙が流れた。母が息を引き取ったのは、それから数分後だった。

 この二年近くで母は二回、手術をしている。その度ごとに驚異的な回復ぶりをみせて、自宅での生活に復帰することができていた。それもあってだろう、通夜では「知らなかった」という声を聞くことが多かった。母は言いたがらなかったのだ。この間は闘病というより、病との共存だった。母は抗がん剤を拒否し、延命措置を拒否していた。延命措置については、「リビング・ウィル」と題した文書さえ拵えていたので、末期の緩和病棟で主治医に納得してもらうのに大いに役立った。

 するとどうなるのだろう。生活に支障が出るという理由で手術は行ったが、術後はこんどは生活に支障の出る投薬は行わなかった。母は、痛みの緩和についてのみ、投薬を望んでいた(もちろん、術後の副作用を抑える薬は飲んでいたのだけれど)。ぼくが感じたのは、健康な細胞を痛めることもないので、外見的には、急に老いていったとしか見えないだろうということだった。実際、最初の手術以後、母は病院より自宅で過ごす時間のほうが多かったし、車椅子でしか動けない状態になっても、島に帰ることができた。緩和のための投薬の効果もあるだろうけれど、癌の末期に想像しがちな、激しい痛みも見られなかった。死に顔も、余計な肉が削がれて、彫りの深い、もともとも顔立ちが立ち現われたようだった。

 母の病との付き合い方は、いまでもどちらかといえば少数派だろう。泣き虫で心配性でメソメソばかりしている人だったが、病への向きあい方だけは、道を示してくれたと思うし、それを誇りに思う。

 息を吐いたあと、口を閉じ、次の息をしなくなったときも、母の顔を直視していた。そのとき感じたのは、見届けた、というより、命を引き継いだという感触だった。そのためか、いまも混乱することなく、わりあい穏やかな気持ちでいる。哀しみはいずれ、しこたまやってくるのかもしれないけれど。

 昨日たまたま、敬愛する奄美の郷土史家の方からお電話をいただいた。母のことを伝えると、これまで風を受けてくれていた人がいなくなり、これからは全部、自分が受け止めなくてはならない。両親が亡くなったときに感じたのとはそういうことだった、と話してくれた。ぼくもまさにそういう予感があった。「無条件の肯定」の視線を送ってくれた父が突然いなくなり、そのとき得体の知れない不安に襲われたが、母を失くせば「無条件の心配」の視線がやってこなくなる。そのふたつを失くすということは、不安を通り越して痛みになるのではないか、そんな不安を抱いていた。いま、辛うじてそう感じないで済むのは、この世の役目を終える前後の母と見つめあえたからではないか、と思ってる。


 追記
 臨終に立ち会った看護師さんは徳之島出身の方だった。ぼくは「与論島慕情」と「十九の春」を流していたが、あとで、「わたしもおばあちゃんのとき、島唄を流そうと思いました」と話してくれた。そういう共感のできる島人でよかったと思う。忘れたくないので、備忘として書いておく。

 

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2015/02/04

『何度でも言う がんとは決して闘うな』

 一年ほど前から、母が癌を患っている。そうなる前から、母は近藤誠の読者だったのだけれど、見舞いや説明を受けに何度か病院へ行くなかで感じるところがあって、ぼくも読み始めることになった。

 母は基本的には近藤誠の考えに共感していて、症状に対処するためにやむを得なかった手術を二度、特定の箇所に限った放射線治療を一度、受けているが、抗がん剤は拒んで身体に入れていない。ぼくも、抗がん剤の拒否には賛成している。自分であっても、そうする気がする。

 では、他人にも勧めるかと言われれば、言い澱む。これが正しい道だと確信しているわけではないし、確信を与えてくれるものが存在しているわけでもない。人によって考え方も状況もさまざまだ。ただ、ぼくにとっては近藤誠がもう片方の考え方を提示しているおかげで、こちらにいくぶんかの判断材料が得られたことは大きかった。だから、勧めるところまで踏み出せないけれど、この一年余りの経験から、同様な立場に立った人の話を親身に聞くことはできるし、近藤誠を読むことは勧めると思う。大方の医者は言うことはない見解に触れることができるのは、今でもそうそうないのではないか。

 現状の判断にしても、これでよかったと思えるのか、悔いを残すのかは分からない。そこに答えがあるかどうかも分からない。ただ、母が珍しく示した意思に対して、尊重したいという思いがいまは強い。根が与論島生まれの自然児なのだ。母がなるべくふつうの日常を生きたいと願うのは自然なことだ。

 そんな折、ふたたび近藤誠の本が出版されたので、『何度でも言う がんとは決して闘うな』を手に取った。これは、彼が医学界に口火を切ってからの対談集で、その意味では読みやすく、主張もすんなり頭に入ってくる。とても嘘を言っていると思えない印象も変わらないが、過去の対談集なので新しい知見や主張が収められているわけではない。しかし、慶応大学を辞めた現在も、彼の、「闘うな」という戦闘は継続中であることが、読むと分かる。

 

『何度でも言う がんとは決して闘うな』

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2011/01/09

宇和寺の夜

(これはフィクションです)

 祖母の家に泊まるのは五年ぶりのことだった。
 その年の春、静かに息を引き取った祖母の葬儀のために東京から戻り、晩を親戚と一緒に過ごした。その時すでに祖母の家は改築されていて、真新しい木材の匂いがした。すべすべした柱に触ると、昔、ぼくや弟の背の印を鉛筆で引いた線が不規則な定規の目盛りのように並んでいたのを思い出した。家は長兄の叔父が継ぎ、祖母のいる時代は終わった。

 急に帰島を決めたので、予約の合間を縫って滞在したホテルから出なければならず、鍵を預かっている叔母から借りて、帰島に合流した弟と家に入った。カーテンで閉められた家の中はガジュマルの生い茂った森のなかにいるように薄暗かった。居間のカーテンを開き窓を開け、西に面した神棚を拝んだ。祖母が朝と夕方に欠かさず祈っていたその場所で。それが済むと、すぐにその場に両手を広げて寝そべった。やっぱりここがいちばん落ち着く。ぼくはそのまま動きたくなくなるのだけれど、弟は箒を取りだして、畳間と廊下を丁寧に掃きだした。怖いこわいと言って、視力検査のCの字のように曲がって動かなくなっているヤスデを集めるのだ。

 箒が畳をする音しか聞こえない。静かだった。ぼくは子どものときそうしたように、居間の縁から足を降ろして庭を眺めた。正面には珊瑚岩を積んだ石垣がある。家のぐるりを囲んだ石垣はヤドカリの棲みかで、夜、家のまわりを一周するだけでバケツ一杯のヤドカリが簡単に捕れた。腹部が魚の餌になるのだ。石垣は二段になっていて一段目のスペースに土を盛ったのだろう、そこに虎の尾や百合が植えられていた。以前は、蜜柑の木も並んでいた。庭の真ん中にも蜜柑の木はあって、円形の木陰を作った。そこにゴザを敷いて絵を描いたり工作をしたりした。その木も今はないけれど、すぐにその姿を思い浮かべることができた。蜜柑も採って食べたしグァバの実を枝から引きちぎって食べるのも楽しみだった。グァバの木は今でも実を育てている。気づくと、庭の陰が増えて午後の容赦ない陽射しがいくらか和らいできた。虫の鳴き声が聞こえてくる。西側の石垣の向こうに群生しているガジュマルやその向こうの海から運ばれてくる潮風の混じった匂いも変わらない。

 二日後に東京に戻ることになっていた。那覇を経由して飛行機に乗るわけだけれど、それまでの時間、ぼくは一度、沖縄島の北端、辺戸岬から島を見てみたかった。でも、ネットブックを開いて沖縄島の地理を弟に見せると、車の運転をする彼は辺戸まで行って南にある那覇に向かうのは遠すぎると困った顔をした。それもそうだと、船の着く本部から近い今帰仁グスクを見ることに決めた。今帰仁には縁がないわけではない。祖母の家からヤシガニも棲んでいたガジュマルの群生の向こうに親戚の住む家があったが、そこには年の近い兄弟たちがいて毎日のように遊んだ。その一つ年長の兄が今帰仁に住んだことがあって、いいところだから一度行ってみるといいと勧められたことがあったのだ。せっかくの機会だ。そこで、インターネットであちこちを調べて、現地のガイドとホテルに予約を入れた。それだけ済ませると、辺りの色は沈み始めていた。東京よりも遅い夕暮が近づいている。八時にいとこ叔父が訪ねてくれることになっていたので、それまでに夕飯を済ませようとサンダルを掃いた。石垣の門を抜けたいところだけど、その手前から通りに向かってコンクリートで舗装された道が家の改築とともに出来上がっていて、ぼくと弟はその坂をあがって通りに出た。門をくぐったほうの出口は人が通らなくなり、もう道と言えないほどに草が生い茂り歩きにくくなっている。祖父母が切り拓く前の元の姿に近づこうとしているのだ。

 十五分も歩くと、かつては銀座名を冠するほどに賑わった街に出る。ぼくたちは港に近い居酒屋に入って、ビールと海ぶどう、島らっきょう、ソーメンチャンプルー、鶏の唐揚げを頼んだ。店の中に観光客の姿はなく、客はお座敷で家族連れが夕食をとっているだけだった。壁にはオリオンビールを持ったキャンペーンガールが数十年前と変わらない笑顔を振り向けている。けれど、ここにはその笑顔に無邪気に吸い込まれる若者たちの姿はない。

 ビールをもう一杯と料理を食べ終えると、時間に間に合うように店を出た。島は薄暮に包まれようとしていた。街を出て二股に分かれる通りを坂のほうへと向かう。その坂が宇和寺の合い図のように、上り始めると静けさが増してくる。砂糖きび畑を過ぎてなだらかな坂を上がりきると、西の海が一面に広がってきた。途切れることなく連なった雲の下を沈みかける陽がオレンジ色に染めている。島には黒の色が降り始めているが、暗がりに抗うようにオレンジが雲の白を浮き立たせていて、思わず持っていたアイフォンで写真に撮った。そこから少し先にある家に着いて、ふたたび見上げると、ガジュマルに縁どられた空は薄い赤紫に染まっていた。

 八時を少し回った頃、いとこ叔父が訪ねてくれた。少し前に東京に行ったのだという。あれだけモノが溢れていれば誰だって東京に行きたくなる、と叔父は語った。島には人がいなくなる。借金も多い。売りに出されている土地も多い。「このままだといずれ大変なことになる」。いとこ叔父の言葉が夜の到来とともに重くのしかかってくる。島のためにということが念頭を離れないはずなのに返す言葉が思いつかない。

 いとこ叔父はお酒を飲まないのでそのまま酒盛りにならず、時の経過を惜しむように一時間ほどで帰った。通りに出て見送ると、濃い藍色の空にいくつもの雲が羊の群れのようにゆっくりゆっくり進んでいた。月は見えなかったが、照らし出されてほんのり光ってみえる雲たちは、まるで目的地があるみたいに揃って西へ向かっていた。さて、と弟の後を追うように坂を下ろうとした瞬間、ぼくは突然、怖くなった。祖母の家は通りを折れた道筋を入り、ガジュマルの木々に囲まれた小道を下ったところにあるのだが、通りを離れたときから空気も変わり時間が停まったように感じられた。ぼくたちが住んでいた四十年近く前、訪れる島人は、ここは昔の島みたいだと語ってくれたものだ。珊瑚礁が隆起してできた島の成り立ちの時間に歩調を合わせたような停まった場所がぼくは好きだったが、夜はその分、闇も濃かった。ぼくは、近所の子供たちと遊んで夕陽が沈んだ後に家に着く手前、真っ暗な小道を下る間が怖くてたまらなかった。日ごろ聞かされているムヌ(幽霊)のことで頭がいっぱいになるのだ。奄美大島であればケンムン、沖縄であればキジムナーといった森を棲息地にするムヌが知られているけれど、森のない島にはケンムンもキジムナーもおらず、海のムヌ、イシャトゥがいた。けれど、陸の小道にはイシャトゥは出ない。それら妖怪に近いよりは、子どもを失くした母のムヌといった、より人に近い幽霊がそこにいるかもしれないと思い、暗闇のなかを思い切って走ることもできず、家の灯りが見えると少し安心するが、玄関を開けて駆けあがるまでは恐怖が肌を離れなかった。もうそんな鬱蒼とした小道ではない舗装された坂を下っているだけなのに、その恐怖が蘇って、頭では呆れながらも昔と同じように怯えてしまったのだ。走り込むようにして玄関を締めると、途端に恥ずかしくなった。まったく、俺は大人じゃないのか。

 家のなかではテレビが点けられていた。この映画、観たかったんだよね、と弟は言った。弟は廊下を挟んだ隣りの部屋のテレビを前に、もう横になっていた。映画は、人気のあるコミックを素材にしたもので、映像化も大がかりなものだった。その晩放送されたのは、三部作られたうちの三つめ、最後のバージョンだ。ぼくは神棚のある居間の柱にもたれて、テレビに付き合った。主人公は自分たちの友達が仕掛けたらしい都市の破壊と殺傷を必死に食い止めようとしていた。ぼくは観るとはなしに映像を追いながら、遠い世界の出来事のように眺めていた。映画だからフィクションとして遠いということもあるけれど、映画がつくられている世界と自分がいま島に帰って身を置いている祖母の家の世界とがつながらない、何か異世界の文物を四角く区切って見ているような感覚だった。居間の北側には当時、ぼくたちが寝室として使っていた部屋があり、その二つの部屋は改築前と同じ間取り、大きさでしつらえてあった。そのせいもあるだろう、建物は真新しいのに、同じところにいるという実感に浸ることができた。祖母の両親と、戦争で亡くなった祖母の子たちの遺影が同じ位置に飾られているのもそう思わせてくれる要因かもしれない。変わったのは、そこに祖母の遺影も加えられていることだ。狭く開けておいた窓からは風が入ってくる。その夏中、ヤポネシアの列島の天気予報には「猛暑」という言葉が飛び交っていたが、列島の南部にある島もいつもより暑いと島の人は語っていた。それでも夜になれば、涼しい風が吹き込んでくる。風でカーテンが波打ち、涼しさを引き立てていた。映画は最後、友達の犯した事件が実は主人公も原因のひとつになっていたことが明らかになって終わった。そういう話だったんだね、と声をかけるが返事がない。襖越しで見えないので覗いてみると、弟はすでに寝ていた。よくこの状態で眠れるなと半ば感心しながらかけっ放しの扇風機を止め、テレビと部屋の灯りも消した。風はある、東京のように暑くて寝られないということはないだろう。

 十一時を過ぎていた。ぼくは服を脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを入れて、浴室でシャワーを浴びた。ガスがうまく点かなかったが、夜の入りのあの怖さがまだ残っていて、北の隅にある浴室にも長くいたくなかったので、水で済ませた。子どもの頃は浴室は母屋にはなかった。というか、もともとは家に風呂場は無く街の銭湯まで出かけていた。小学二年の時(だったと思う)、倉庫になっていた離れに五右衛門風呂をコンクリートで固めて風呂場ができた。枯れた蘇鉄の葉で火を盛んにし朽ちたガジュマルの枝などで水を温める。ぼくは顔を火照らせながらその火を眺めて枝を放ったり、いじって空気の通りをよくしたりするのが好きだった。

 寝室の押し入れから布団を取り出して居間に引いた。薄い毛布も引っ張り出して、かけることにした。寒いわけではないが、上にかけるものがないと、うまく眠れないのだ。電気スタンドを見つけて点け、居間の明かりも消した。持ってきた本は読み終わっていたので、何か読み物はないか探しまわり、箪笥の上にコミックが置いてあったのを見つけてそれを読むことにした。女忍者の話だった。女は山の中にある雪の積もった城郭のなかに入りこんでいた。村人は女を受け容れているようにみえるが、どこか心を許していないらしい。女は使命を持っているらしく、時折、仲間と連絡を取り合いながら、情報を交換しあっている。ところが隠密の行動が城の者たちに悟られ、仲間は傷つき、女も捉えられてしまった。コミックはそこで終わっていた。続きが読みたかったが、それ一冊しかなかったので諦めるしかない。眠気は無かったが仕方がないので、スタンドの電気も消した。

 久しぶりにこの家で眠れる。こんな嬉しいことはない、と思った。けれどどういうわけか、落ち着かない。ここがいちばんそうできる場所だし、実際安らいだ気持ちでもいるのだからと目をつぶってみるが、一向に眠気はやって来ない。風の音が聞こえる。目を開けると、カーテンの裾が上にめくれては戻りを繰り返していた。風が強くなって来たようだった。石垣の門には家の守護神のようにガジュマルがあり、家の四方も同じように木々に囲まれていたし、坂を下った場所でもあったから台風のときでもそこは不思議に静かだった。今はそのガジュマルも寿命が尽きて、根元を残して切られていたので、風の通り道ができてしまったのかもしれない。風が当たり、戸がゴトッゴトッと音を立てていた。突然、ターンと音が鳴った。驚いて鼓動が高まったが、振り子の時計が時報を告げたのだ。それまでも鳴っていたはずなのに、初めて気に止めた。でもそれが十二時半なのか一時なのかは分からない。時計を見ればいいのだが、そんな気にならなかった。この時計も新調されていたが、前のも同じ三十分置きに鳴っていた。子どもの頃、夜中に目覚めたとき、布団の中で時計の音を聞いていたのを思い出したが、時計のある居間で寝ているせいか、当時よりもはるかに大きな音に聞こえた。風は止もうとしない。毛布をかぶってちょうどいいくらいだ。まだ寝付けないが、明日、決まった時間に起きる必要もない、やり過ごそう。風の音を気にしなければいい。

 ぼくは祖母のことを想った。祖母は聞き上手で相手の話を、エーヌンと言って相づちを打ちながらひたすら聴く人だった。晩年、夏に帰るとぼくのことが分からなくなっていたときはひどくがっかりしたが、数年後に行くと再び名前で呼んでくれて一気に心が晴れあがったこともあった。もう百歳を越えているのだ。そうやって現世に少しずつさよならをしていくんだよと、叔母は語ってくれた。その頃、祖母が椅子に座って、周りを見ながら、そこに来ている大勢の人たちにお茶を出してあげなさいと島の言葉で言ったことがあった。誰かいるわけでもなかったが、母や叔母たちは見えるんだねと語り合っていた。口には出さないが、死期が近づいていると感じ取ったのだと思う。ぼくはふと、今ここにも祖先の人達が集まって来ているのではないかと思った。お盆ではないけれど、久しぶりに泊っている末裔の存在を頼りに集まり、おしゃべりをしているのではないかと。ぼくには霊感のようなものが全く備わっていないから、何か見えるわけでもない。けれどそう思っても不思議と怖くなかった。もし語り合っているなら、その声を聞きたくすらあった。そこに祖母もいるなら、声を聞かせてほしかった。ぼくは耳を済ませたけれど、木の葉が揺れ枝がしなむ音しか聞こえなかった。

 風は相変わらず強い。身体はだるかったが、頭は冴えたままだ。ぼくは起きることもできずにだるさに任せて天井を見つめていた。夜の闇は濃く木目はよく見えない。暗闇に目を馴染ませていると、やがて身体が布団に吸い込まれるように下に沈んでいく感じがした。そしてふいに島の大地の上にいる感覚に襲われた。祖母の家でもなく布団の上でもなく、珊瑚礁が隆起してできた島の土の上にぼくはいる。この小さな大地は今も隆起し続けているのか、沈み始めているのか、分からない。けれど止むことなく動いている島の大地に今、いる。ぼくは巨大な珊瑚の上に浮かぶ珊瑚虫の卵のように揺られていた。

◇◆◇

 目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。横に目をやると庭にはすでに朝の陽が射しこんでいて祖母の家に泊まったんだと合点した。弟はまだ眠っていた。頭はぼんやりしていたが、洗濯物を取り出して庭の物干しに干した。島を発つ昼までに乾いてもらわなければならない。陽射しはきらめいているが、熱気を帯びるにはもう少し時間が必要だ。風は止んでいた。庭をぼんやり眺めていると、きらきらと天気雨が降ってきた。慌てて洗濯物を物干しから外して両手に抱え込んで家に入ると、すぐに雨は止んだ。そこでもう一回、干し直した。それなのにいくらも経たない内にまた天気雨が降ってくる。ぼくは同じことだと諦めて、そのままにした。

 まだ現実の世界に戻ってきた感じがしない。人の声が聞きたかったが弟はまだ眠ったままだ。ぼくは隣りの島に長期滞在している学生のことを思い出して、滅多に使わない携帯をバッグから取り出し庭先からかけてみた。何回かのコールの後、彼女は出てくれた。「方言の話せる島の人にアポが取れると聴きとりに行ってます」。彼女は方言を音韻から研究していた。何度も同じ言葉を繰り返し発声してもらいながら、音を聞き取るのだ。小さな島のなかでもシマと呼ばれる集落ごとに言葉は変わる。島の言葉は聞き取り記録する者がいなければ、話す人も少なくなる一方で人の寿命とともに消滅してゆく。とどめるということは意思なしにはできない作業になっていた。島には慣れた?と聞いてみた。慣れてきました。でも、寝泊まりしているロッジは目の前が海で、夜になると真っ暗になって波の音だけが聞こえて怖いんです、と彼女は言った。ぼくは怖いのは波の音ではなくて、島に数多いるムヌのほうだと言いかけたが、怖がらせてもいけない。「それにヤモリも鳴くんです」。ヤモリ?そういえば、ヤモリの鳴き声を聞いていなかった。旅人は決まって怖がるのだが、ぼくはあれを聞くと、帰ってきた気分になってむしろ安らいだ。昨日、ヤモリの鳴き声を聞いていない。どこにいったのだろう。

 ぼくは島に長期滞在できるなんて羨ましい、楽しんでください、と言って電話を切った。洗濯物に触って乾き具合いを確かめた。出発までに乾くのは無理かもしれない。

 声がするので、振り向くと坂の上に五十代くらいの女性が立っている。ぼくは上半身に何も着けていなかったが、そのまま坂を上がった。このきび酢を売ってもらえませんか?とその人は言った。彼女の前には百個くらいのきび酢の壺が並んでいる。家の北面の木々、石垣や豚小屋の跡、畑を更地にして、いとこがそこできび酢づくりを始めていたのだ。贈り物にしたいのでそれ用に包装してほしい。ここに来ればお願いできると思って、ということだった。これはぼくがやっているものではないんです。ちょっと待ってくださいね。そう言って家に戻り、メモ用紙にいとこの名前と電話番号を書いて彼女に渡した。ここにかければお願いできると思います。彼女はありがとうと島の言葉で言い、日傘を差して街のほうへ歩いて行った。ぼくはようやく現実の世界に戻ってきた気がした。

◇◆◇

 ときどき宇和寺の夜のことを思い出す。あの深夜の感覚を呼び起こす。それはありありと身体が覚えている。あの時、何を感じていたのだろう。そこでぼくは確かに何かを感じていたのだ。あるいは聞き取ろうとしていた。はっきりと聞き取れない発音から音を確定しようとするみたいに。ぼくはもっと感じられるはずだった。そこにはあの場所でしか触れられないものが確かにあるのだ。

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2009/09/13

九州を北上して弟と呑む

 父の墓前に報告をし、母の回復を見、弟たちと飲み語らおうと思いたち、鹿児島から福岡へ北上した。移動しては呑むの繰り返しだから、今回は会うべき人会いたい人、すべて失礼するしかなかった。申し訳ない。

 しかし、同じような酒量の弟と一人ひとり会うこと三晩というのは、道場破りの繰り返しみたいで、さすがにへばってしまった。でも、いまは各地に散っている家族を糸で縫い合わせるように心地いい気分が残っている。弟たちとは、与論に自分たちの居場所を作りたいね、と確認しあうことになった。

 『奄美自立論』は、鹿児島中央駅の紀伊国屋書店でも、天神のジュンク堂でも見つけることができた。ジュンク堂では、表を見せてくれてありがたい。紀伊国屋書店では、郷土の本のコーナーにあった。棚に収まっていたが、平積みになっているのは鹿児島の本だけで奄美の本は一冊もなく、これが両者並ぶようになると、氷解の一助になるのにと思った。

 福岡では、語久庵(ごくい)で飲む。福岡で奄美を銘打った店をここ以外に知らない。二回目で、午前様になるまでお邪魔した。店内に貼ってほしいと、本のチラシを渡して、店主さんとしばし語らった。沖縄でも鹿児島でもない奄美を発信したいという心意気だった。

KinokuniyaTenjinjunk

Gokui

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2009/07/30

きょう海からかえったらおかあさんが赤ちゃんをうんでいました。

 その日のことはよく覚えている。海で弟と遊んで家に帰ってみると、子どもが産まれていた。弟だった。年も離れていたので、かわいくてたまらなかった。あれから、38年経った。ぼくの絵日記によれば、当日、与論は曇りで11時の気温は30度。産婆さんが来ての自宅出産だったから、暑い中で産まれてきたんだね。

 誕生日おめでとう。


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2009/06/21

ニ年祭と「奄美を語る会」

 父の霊祭。こんどは家族だけでひっそり行った。神官はスケジュールの都合で、葬儀や一年祭のときとは違う方にお願いした。しかし、父は生前、自分の時はこの方がいいと友人に話していたそうで、父が招いたのかもしれないと思った。しかし、神事の最中、ふと見上げると父の慰霊が目に入るが、なんでそこにいるんだろうと思うのだった。まだ、心の底からは父の他界を認められないのだろうか。

 何事によらず控えめな父だったが、逝くときまでそうだった。それはいかにも父らしいのだが、何もそこまでしなくてもと思う。それを、ぼくはほんの少し、納得してないのかもしれない。けれど、父の子全員そろって、よかった。


 霊祭が終わると、その足で教育会館へ。「奄美を語る会」、参加のため(「奄美にとって1609以後の核心とは何か」)。

 ぼくは二番手だったけど、三十度を超える夏日、冷房なく大きな扇風機のまわる大きな会議室で学校の教室のよう。懐かしい空気だった。

 予想通り、というか懸念した通り、年配の方が多い。どんな語り口にすればいいだろう。少し悩む。引用資料の著者の敬称を略すのは断りを入れればいいだろう。けれどそののっけの村上龍の小説あとがきの引用は、反発を招くんじゃないか。と、戸惑った。

 何人か、頷いて笑顔で聞いてくれる人がいて助かった。でも、大半はそうではない。お年寄りの表情はどうしてもそうなってしまうと思ったが、なかには明らかに反発が伝わってくる表情もあった。ぼくは同世代から若い人に対して、言葉のキャッチボールと笑いで話しを進めることが多いから、うまく乗れない感じはあった。ほんとうは檀上を降りて話したかったのだけれど、そうできなかった。

 けれど、終わった後は、本でしか存知あげなかった方々が声をかけてくれたり、ブログにコメントしてくれるshimanchuさんが質疑応答で話しをしてくれたりして嬉しかった。福岡からは、大山さん玉城さんがいらしてくれた。玉城さんからは400年だけでなく、500年のことを、と面白いアイデアを聞かせてもらった。大島の薗さんと久し振りの再会。父と同じ年だということも知り、父と話しているような気持ちになる。薗さんからも与論島での郷土研究会の活動など、あたたかい話を聞かせていただいた。

 その他、多くの方と言葉を交わすことができてありがたかった。こういう機会をくださった「奄美を語る会」の仙田さんはもとより、来ていただいたみなさんに感謝です。


 それから、こんども姪っ子どうしが再会できてよかった(「父の一年祭」)。「奄美を語る会」のぼくの話で、彼女たちが変な衝撃を受けてないことを祈ります(苦笑)。


Mei2009

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2009/02/08

祖母の雰囲気を感じたくて

 そばにいる人を無条件の肯定感で包んだ、祖母のあの無類の優しさを感じたくて、それをよく知る人と、ときに顔を合わせて話をしたくなるんじゃないか。昨日の久しぶりの「奄美の家」では、そんなことを思った。

 もちろん祖母の話はするのだが、それは何かの折にふいに思い出したようにするだけで、それで時間を費やすわけではない。祖母の話をする代わりに、祖母をよく知る人同士、祖母の雰囲気の名残りを互いに感じたくて、会うんじゃないか。

 あの肯定感は日常そうお目にかかれるわけじゃない。究極には、自分たちがまわりをいつも安心で包みこむ人になるしかない。しかし、それは今のところとても覚束ない。それで、その片鱗を見出すように、与論のことを話しがら、そこに祖母の感じを見つけようとしている気がした。

 そしてその通り、そういう想いが叶うのは嬉しいことだ。再会できたことに感謝というものである。兄(やか)の顔は、より穏やかになっていた。それもいいことだ。


Amaminoie

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2009/01/21

実業家と仙人

 昨日、お袋に、叔父(うじゃ)から電話があったそうな。
 哲男が生きていればと思うことがよくある。いなくなって価値が分かる。と、彼にとっては弟である父のことを話してくれたそうだ。

 叔父は実業家で、仙人のようだった父とは性格も生活も正反対で、ぼくは目を白黒させてきたが、でも昔には、父を大島高校に行かせるためのお金の工面に奔走してくれたという。そういう絆はしっかりあったのだと思う。

 叔父の言葉は父の供養になる。とうとぅがなし。



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2008/11/14

会うも話すもいたわるも

 今朝、牛飼いの同級生から突然、電話があり、お前のおじいさんが亡くなったのではないかというから、もうずっと前に他界(もいしちゃん)したと伝えた。

 でも確かに名字がそうだというから、気になってお袋に電話してみると、祖父の弟のことだった。ああ逝ってしまわれたのか。祖父と違って92歳まで生きたから往生には違いないけれど、やはり淋しい。

 祖父は威厳もあるが、砂糖きび刈りだってばっちり似合う与論人(ゆんぬんちゅ)だった。でも、祖父の兄は、変な意味ではなく、与論の人らしくない都会風の雰囲気があった。スマートで紳士で、与論にいてもどこか、他の人より暑さを感じてないような涼しげな風情があった。あんな雰囲気はどこで身に付けたのだろう。

 奥さんだって、与論の人とは思えない。お嬢様というかレディの雰囲気をいつも漂わせていて、気品を感じさせるから、不思議だった。もちろんお二人とも与論言葉ばりばりの与論人(ゆんぬんちゅ)なんだけど、移住して長いんです、と紹介したとしても誰もが素直にうなずいてしまいそうな感じなのだ。

 あーあ。ちょうど半年前に、叔父と、いつか祖父の弟に昔の話を目いっぱい聞きたいねと話したばかりだった。会うも話すもいたわるも、できるときにしなきゃ駄目なんだなあと思う。兄祖父の冥福を祈りたい。

 にゃまかろう、うれーやかとぅ、むぬがったいしちたばーり。



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2008/08/20

あちゃの夢を見た

 ふだん見ない夢を見た。どこか与論の家にぱらじが大勢集まってた。
 夜、みんな横になると足の踏み場もないほどだった。寝ることもできなそうだと諦めたらビールが飲みたくなったので、弟三人とお酒を探した。
 お袋は、夜中なのに親戚まわりをしてくると言うから、それに付いていってお酒を飲ませてもらおうかと思ったら、
 「あっしぇ、びーねーびしちから、ちゃーきむどぅちきゅーくとぅ」
 と言われて止めた。
 で、弟たちと酒飲んでいるところに、気づくと父ちゃんもいて一緒に飲んでた。
 父ちゃん!と思って、触ったら、あったかかった。


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