カテゴリー「12.祖母へ、父へ」の27件の記事

2009/09/13

九州を北上して弟と呑む

 父の墓前に報告をし、母の回復を見、弟たちと飲み語らおうと思いたち、鹿児島から福岡へ北上した。移動しては呑むの繰り返しだから、今回は会うべき人会いたい人、すべて失礼するしかなかった。申し訳ない。

 しかし、同じような酒量の弟と一人ひとり会うこと三晩というのは、道場破りの繰り返しみたいで、さすがにへばってしまった。でも、いまは各地に散っている家族を糸で縫い合わせるように心地いい気分が残っている。弟たちとは、与論に自分たちの居場所を作りたいね、と確認しあうことになった。

 『奄美自立論』は、鹿児島中央駅の紀伊国屋書店でも、天神のジュンク堂でも見つけることができた。ジュンク堂では、表を見せてくれてありがたい。紀伊国屋書店では、郷土の本のコーナーにあった。棚に収まっていたが、平積みになっているのは鹿児島の本だけで奄美の本は一冊もなく、これが両者並ぶようになると、氷解の一助になるのにと思った。

 福岡では、語久庵(ごくい)で飲む。福岡で奄美を銘打った店をここ以外に知らない。二回目で、午前様になるまでお邪魔した。店内に貼ってほしいと、本のチラシを渡して、店主さんとしばし語らった。沖縄でも鹿児島でもない奄美を発信したいという心意気だった。

KinokuniyaTenjinjunk

Gokui

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2009/07/30

きょう海からかえったらおかあさんが赤ちゃんをうんでいました。

 その日のことはよく覚えている。海で弟と遊んで家に帰ってみると、子どもが産まれていた。弟だった。年も離れていたので、かわいくてたまらなかった。あれから、38年経った。ぼくの絵日記によれば、当日、与論は曇りで11時の気温は30度。産婆さんが来ての自宅出産だったから、暑い中で産まれてきたんだね。

 誕生日おめでとう。


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2009/06/21

ニ年祭と「奄美を語る会」

 父の霊祭。こんどは家族だけでひっそり行った。神官はスケジュールの都合で、葬儀や一年祭のときとは違う方にお願いした。しかし、父は生前、自分の時はこの方がいいと友人に話していたそうで、父が招いたのかもしれないと思った。しかし、神事の最中、ふと見上げると父の慰霊が目に入るが、なんでそこにいるんだろうと思うのだった。まだ、心の底からは父の他界を認められないのだろうか。

 何事によらず控えめな父だったが、逝くときまでそうだった。それはいかにも父らしいのだが、何もそこまでしなくてもと思う。それを、ぼくはほんの少し、納得してないのかもしれない。けれど、父の子全員そろって、よかった。


 霊祭が終わると、その足で教育会館へ。「奄美を語る会」、参加のため(「奄美にとって1609以後の核心とは何か」)。

 ぼくは二番手だったけど、三十度を超える夏日、冷房なく大きな扇風機のまわる大きな会議室で学校の教室のよう。懐かしい空気だった。

 予想通り、というか懸念した通り、年配の方が多い。どんな語り口にすればいいだろう。少し悩む。引用資料の著者の敬称を略すのは断りを入れればいいだろう。けれどそののっけの村上龍の小説あとがきの引用は、反発を招くんじゃないか。と、戸惑った。

 何人か、頷いて笑顔で聞いてくれる人がいて助かった。でも、大半はそうではない。お年寄りの表情はどうしてもそうなってしまうと思ったが、なかには明らかに反発が伝わってくる表情もあった。ぼくは同世代から若い人に対して、言葉のキャッチボールと笑いで話しを進めることが多いから、うまく乗れない感じはあった。ほんとうは檀上を降りて話したかったのだけれど、そうできなかった。

 けれど、終わった後は、本でしか存知あげなかった方々が声をかけてくれたり、ブログにコメントしてくれるshimanchuさんが質疑応答で話しをしてくれたりして嬉しかった。福岡からは、大山さん玉城さんがいらしてくれた。玉城さんからは400年だけでなく、500年のことを、と面白いアイデアを聞かせてもらった。大島の薗さんと久し振りの再会。父と同じ年だということも知り、父と話しているような気持ちになる。薗さんからも与論島での郷土研究会の活動など、あたたかい話を聞かせていただいた。

 その他、多くの方と言葉を交わすことができてありがたかった。こういう機会をくださった「奄美を語る会」の仙田さんはもとより、来ていただいたみなさんに感謝です。


 それから、こんども姪っ子どうしが再会できてよかった(「父の一年祭」)。「奄美を語る会」のぼくの話で、彼女たちが変な衝撃を受けてないことを祈ります(苦笑)。


Mei2009

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2009/02/08

祖母の雰囲気を感じたくて

 そばにいる人を無条件の肯定感で包んだ、祖母のあの無類の優しさを感じたくて、それをよく知る人と、ときに顔を合わせて話をしたくなるんじゃないか。昨日の久しぶりの「奄美の家」では、そんなことを思った。

 もちろん祖母の話はするのだが、それは何かの折にふいに思い出したようにするだけで、それで時間を費やすわけではない。祖母の話をする代わりに、祖母をよく知る人同士、祖母の雰囲気の名残りを互いに感じたくて、会うんじゃないか。

 あの肯定感は日常そうお目にかかれるわけじゃない。究極には、自分たちがまわりをいつも安心で包みこむ人になるしかない。しかし、それは今のところとても覚束ない。それで、その片鱗を見出すように、与論のことを話しがら、そこに祖母の感じを見つけようとしている気がした。

 そしてその通り、そういう想いが叶うのは嬉しいことだ。再会できたことに感謝というものである。兄(やか)の顔は、より穏やかになっていた。それもいいことだ。


Amaminoie

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2009/01/21

実業家と仙人

 昨日、お袋に、叔父(うじゃ)から電話があったそうな。
 哲男が生きていればと思うことがよくある。いなくなって価値が分かる。と、彼にとっては弟である父のことを話してくれたそうだ。

 叔父は実業家で、仙人のようだった父とは性格も生活も正反対で、ぼくは目を白黒させてきたが、でも昔には、父を大島高校に行かせるためのお金の工面に奔走してくれたという。そういう絆はしっかりあったのだと思う。

 叔父の言葉は父の供養になる。とうとぅがなし。



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2008/11/14

会うも話すもいたわるも

 今朝、牛飼いの同級生から突然、電話があり、お前のおじいさんが亡くなったのではないかというから、もうずっと前に他界(もいしちゃん)したと伝えた。

 でも確かに名字がそうだというから、気になってお袋に電話してみると、祖父の弟のことだった。ああ逝ってしまわれたのか。祖父と違って92歳まで生きたから往生には違いないけれど、やはり淋しい。

 祖父は威厳もあるが、砂糖きび刈りだってばっちり似合う与論人(ゆんぬんちゅ)だった。でも、祖父の兄は、変な意味ではなく、与論の人らしくない都会風の雰囲気があった。スマートで紳士で、与論にいてもどこか、他の人より暑さを感じてないような涼しげな風情があった。あんな雰囲気はどこで身に付けたのだろう。

 奥さんだって、与論の人とは思えない。お嬢様というかレディの雰囲気をいつも漂わせていて、気品を感じさせるから、不思議だった。もちろんお二人とも与論言葉ばりばりの与論人(ゆんぬんちゅ)なんだけど、移住して長いんです、と紹介したとしても誰もが素直にうなずいてしまいそうな感じなのだ。

 あーあ。ちょうど半年前に、叔父と、いつか祖父の弟に昔の話を目いっぱい聞きたいねと話したばかりだった。会うも話すもいたわるも、できるときにしなきゃ駄目なんだなあと思う。兄祖父の冥福を祈りたい。

 にゃまかろう、うれーやかとぅ、むぬがったいしちたばーり。



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2008/08/20

あちゃの夢を見た

 ふだん見ない夢を見た。どこか与論の家にぱらじが大勢集まってた。
 夜、みんな横になると足の踏み場もないほどだった。寝ることもできなそうだと諦めたらビールが飲みたくなったので、弟三人とお酒を探した。
 お袋は、夜中なのに親戚まわりをしてくると言うから、それに付いていってお酒を飲ませてもらおうかと思ったら、
 「あっしぇ、びーねーびしちから、ちゃーきむどぅちきゅーくとぅ」
 と言われて止めた。
 で、弟たちと酒飲んでいるところに、気づくと父ちゃんもいて一緒に飲んでた。
 父ちゃん!と思って、触ったら、あったかかった。


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2008/07/13

むぬゆでぃたばーり

わな、うれーたーねーし、
きむじゅらさるぴちゅない、ないちゃさい

ぱーぱー。
うれーえんぼーぬっちゅんげーら、
ちゃーがんちむーゆい。

あちゃ。
うれーえんぼーいちゃしゅんげーら。
ちゃーさんみんしゅんち。

がしがわな、うくりとぅるなてぃ、
うれーたーねーししーならじちょー。

なゆんだーちてぃ、
むぬゆでぃたばーり。

がしりよーちてぃ、
はたてぃたばーり。

わなうれーたふいぬききちゃさぬなーじ。

さたしちたばーり。
むぬゆでぃたばーり。



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2008/06/22

父の一年祭

 二十人以上集まるなんて今は滅多にないですよ。帰り際、神主さんがおっしゃった。多い少ないは分からなかった。あまり負担はかけられないからと、鹿児島に来れる父のぱらじに声をかけさせてもらった結果だった。

 父が逝って一年経とうとしているのだが、つい先日、百日祭を行ったようにしか思えない。集った人もその時一緒だったのだからなおさらそうだ。万事においてこだわりがなく控えめな人だったが逝くときもそうだったので、いるといないの区別があまりつかない。長い隠れんぼに興じてなかなかみつけてくれないと待っているんじゃないか。父の姉妹のあんにゃーたーを案内しているとそんな気がしてきた。いるような気がする。うじゃたーも口々にそう話していた。

 これが偲ぶということこれが供養ということ。そう言ってしまえばその通りなのだけれど、父がいないのに父をよく知る人たちとむぬがったいしながら思うのは、寂しいからだということだ。父がいないのがさびしいから集う機会を作っているのではないか。さびしいから親しい人が集まって話すことにしているのではないか。こう思うのはぼくの年齢のせいではなく、ぼくが今まで、寂しいという思いの切実さに気づかない出来損ないだったからという気がしてくる。

 どうしてあなたはそんなに与論か好きなの? 従姉のあんにゃーに尋ねられてあれこれ答えるものの、とどのつまり好きというより、このまま遠くにいて島を失ってしまうのが寂しいからじゃないか。最近奄美にこだわっているのも、忘れられた土地のまま奄美が失われてしまうのが寂しいからじゃないか。ブログに書くのなんか、その最たるものだと、そんな気がしてくる。先日、喜界島の方が、島に戻ると二三日で飽きるが、飛行機で羽田が見えると、ああまたここかとため息が出てくると話していたが、ぼくもいまそんな味気なさのなかでこれを書いている。

 久しぶりに会った姪たち。上の子が人見知りの激しい下の子の髪を結んであげていた。こんな場面こそかけがえない。というよりこんな場面こそ作ってあげなきゃいけない。それ以上のことってないのかもしれない。そう思った。

Mei_2











 一年祭。父だったらこういう時なんと言うだろう。最近よくそんなふうに考える。父の書斎から、比嘉康雄の『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』、エリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間―死とその過程について』、『死、それは成長の最終段階―続 死ぬ瞬間』、酒井正子の『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』を拝借してきた。



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2008/02/20

ガシドゥクラサリュール

 父が亡くなってから、昼と夜の二回、アンマー(お袋)に電話するようになって、それがいまだに続いている。父がいた頃は、年に一度か二度、電話すればいいほうで、下手したら誕生日だって忘れてしまっているくらいの親不孝ぶりだったから、それに比べると、365倍も話していることになる、かな。

 近くに弟家族はいるものの一人暮らしで、父が亡くなった後の落胆ぶりが心配で、電話するようになった。定期的にかけていると、アンマーが出かけているときにはつながらない。パラジ(親戚)の家で長居すると、それを知らないぼくは少し心配になることがあって、それをきっかけに携帯電話を持つようになった。

 そういう文明の利器を持つようになると、最初、誰から着信したのかが分からず、日中、電話をかけてきては、「今、電話した?」とかいうすっとんきょーな会話も生まれたけれど、孫に教えられたり、また孫とも話がしたりしたいという気持ちが手伝って、いつの間にか、メールもするようになった。携帯電話など生涯、無縁なそぶりで、テレビでインターネットが話題になると、父と二人、「わったい(わたしたち)は化石だね」と言って笑いあっていたというが、その当人が一年も経たないうちに、携帯を持ってメールもする今どきの人になっていった。こういうの見ると、人はいかようにも変わるなぁと改めて思う。

 アンマー(お袋)とは仲が悪いわけではないけれど、会うとイッコイ(喧嘩)になるのが常だった。だから、電話を頻繁にするようになってみると、案の定、イッコイになってしまう。電話したばかりに疲れて終わることも出てくる始末だった。

 けれど面白いもので、定期的に続けていると、そうした会話の流れが少しずつ変化するようになってきた。ここはあまり責めちゃいけない、ここは別のところから見てあげればいい。なんかそんなこんなを続けていくうちに、根絶はできないけれど、イッコイの頻度はとても減ってきた思う。

 アンマーはだいぶ元気になってきた。ぼくに、「もうそんなにしょっちゅうかけなくてもいいよ」と言ってくれることもある。我ながらそうしてもよいとも思うのだけれど、いまは止められないでいる。結局のところ、アンマーのケアのためにかけているつもりが、なんのことはない自分が寂しいからだ。恥ずかしながら、この年齢になって初めて、寂しいことの何たるかが身に沁みるようになった気がする。

 それに元気になったとはいえ、泣き虫アンマーも変わらない。二階にあがったら親父のにおいがしたといっては泣き、親父が亡くなったとき、なんで通夜告別式ができるくらいでいられたんだろうと言っては泣きしている。

 泣くがいいと、思う。

 ガシドゥクラサリュール。

 とぼくは言う。「そんな風にしか暮らせないよ」。直訳するとこんな感じだろうか。でもぼくはネガティブなつもりで言っているのではなく、もっと肯定的に、「そんな風に暮らすものだよ」と、そんなつもりで言っている。アンマーも、ガシ、と答える。本当はこのユンヌフトゥバ(与論言葉)が合っているかどうか、自信は無いのだが、最近、この言葉をよくつぶやいている。

 アンマーと和解しているようなこんな会話も、アチャ(親父)の置き土産だろうか。
 トオトゥドォ、アチャ。



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