(これはフィクションです)
祖母の家に泊まるのは五年ぶりのことだった。
その年の春、静かに息を引き取った祖母の葬儀のために東京から戻り、晩を親戚と一緒に過ごした。その時すでに祖母の家は改築されていて、真新しい木材の匂いがした。すべすべした柱に触ると、昔、ぼくや弟の背の印を鉛筆で引いた線が不規則な定規の目盛りのように並んでいたのを思い出した。家は長兄の叔父が継ぎ、祖母のいる時代は終わった。
急に帰島を決めたので、予約の合間を縫って滞在したホテルから出なければならず、鍵を預かっている叔母から借りて、帰島に合流した弟と家に入った。カーテンで閉められた家の中はガジュマルの生い茂った森のなかにいるように薄暗かった。居間のカーテンを開き窓を開け、西に面した神棚を拝んだ。祖母が朝と夕方に欠かさず祈っていたその場所で。それが済むと、すぐにその場に両手を広げて寝そべった。やっぱりここがいちばん落ち着く。ぼくはそのまま動きたくなくなるのだけれど、弟は箒を取りだして、畳間と廊下を丁寧に掃きだした。怖いこわいと言って、視力検査のCの字のように曲がって動かなくなっているヤスデを集めるのだ。
箒が畳をする音しか聞こえない。静かだった。ぼくは子どものときそうしたように、居間の縁から足を降ろして庭を眺めた。正面には珊瑚岩を積んだ石垣がある。家のぐるりを囲んだ石垣はヤドカリの棲みかで、夜、家のまわりを一周するだけでバケツ一杯のヤドカリが簡単に捕れた。腹部が魚の餌になるのだ。石垣は二段になっていて一段目のスペースに土を盛ったのだろう、そこに虎の尾や百合が植えられていた。以前は、蜜柑の木も並んでいた。庭の真ん中にも蜜柑の木はあって、円形の木陰を作った。そこにゴザを敷いて絵を描いたり工作をしたりした。その木も今はないけれど、すぐにその姿を思い浮かべることができた。蜜柑も採って食べたしグァバの実を枝から引きちぎって食べるのも楽しみだった。グァバの木は今でも実を育てている。気づくと、庭の陰が増えて午後の容赦ない陽射しがいくらか和らいできた。虫の鳴き声が聞こえてくる。西側の石垣の向こうに群生しているガジュマルやその向こうの海から運ばれてくる潮風の混じった匂いも変わらない。
二日後に東京に戻ることになっていた。那覇を経由して飛行機に乗るわけだけれど、それまでの時間、ぼくは一度、沖縄島の北端、辺戸岬から島を見てみたかった。でも、ネットブックを開いて沖縄島の地理を弟に見せると、車の運転をする彼は辺戸まで行って南にある那覇に向かうのは遠すぎると困った顔をした。それもそうだと、船の着く本部から近い今帰仁グスクを見ることに決めた。今帰仁には縁がないわけではない。祖母の家からヤシガニも棲んでいたガジュマルの群生の向こうに親戚の住む家があったが、そこには年の近い兄弟たちがいて毎日のように遊んだ。その一つ年長の兄が今帰仁に住んだことがあって、いいところだから一度行ってみるといいと勧められたことがあったのだ。せっかくの機会だ。そこで、インターネットであちこちを調べて、現地のガイドとホテルに予約を入れた。それだけ済ませると、辺りの色は沈み始めていた。東京よりも遅い夕暮が近づいている。八時にいとこ叔父が訪ねてくれることになっていたので、それまでに夕飯を済ませようとサンダルを掃いた。石垣の門を抜けたいところだけど、その手前から通りに向かってコンクリートで舗装された道が家の改築とともに出来上がっていて、ぼくと弟はその坂をあがって通りに出た。門をくぐったほうの出口は人が通らなくなり、もう道と言えないほどに草が生い茂り歩きにくくなっている。祖父母が切り拓く前の元の姿に近づこうとしているのだ。
十五分も歩くと、かつては銀座名を冠するほどに賑わった街に出る。ぼくたちは港に近い居酒屋に入って、ビールと海ぶどう、島らっきょう、ソーメンチャンプルー、鶏の唐揚げを頼んだ。店の中に観光客の姿はなく、客はお座敷で家族連れが夕食をとっているだけだった。壁にはオリオンビールを持ったキャンペーンガールが数十年前と変わらない笑顔を振り向けている。けれど、ここにはその笑顔に無邪気に吸い込まれる若者たちの姿はない。
ビールをもう一杯と料理を食べ終えると、時間に間に合うように店を出た。島は薄暮に包まれようとしていた。街を出て二股に分かれる通りを坂のほうへと向かう。その坂が宇和寺の合い図のように、上り始めると静けさが増してくる。砂糖きび畑を過ぎてなだらかな坂を上がりきると、西の海が一面に広がってきた。途切れることなく連なった雲の下を沈みかける陽がオレンジ色に染めている。島には黒の色が降り始めているが、暗がりに抗うようにオレンジが雲の白を浮き立たせていて、思わず持っていたアイフォンで写真に撮った。そこから少し先にある家に着いて、ふたたび見上げると、ガジュマルに縁どられた空は薄い赤紫に染まっていた。
八時を少し回った頃、いとこ叔父が訪ねてくれた。少し前に東京に行ったのだという。あれだけモノが溢れていれば誰だって東京に行きたくなる、と叔父は語った。島には人がいなくなる。借金も多い。売りに出されている土地も多い。「このままだといずれ大変なことになる」。いとこ叔父の言葉が夜の到来とともに重くのしかかってくる。島のためにということが念頭を離れないはずなのに返す言葉が思いつかない。
いとこ叔父はお酒を飲まないのでそのまま酒盛りにならず、時の経過を惜しむように一時間ほどで帰った。通りに出て見送ると、濃い藍色の空にいくつもの雲が羊の群れのようにゆっくりゆっくり進んでいた。月は見えなかったが、照らし出されてほんのり光ってみえる雲たちは、まるで目的地があるみたいに揃って西へ向かっていた。さて、と弟の後を追うように坂を下ろうとした瞬間、ぼくは突然、怖くなった。祖母の家は通りを折れた道筋を入り、ガジュマルの木々に囲まれた小道を下ったところにあるのだが、通りを離れたときから空気も変わり時間が停まったように感じられた。ぼくたちが住んでいた四十年近く前、訪れる島人は、ここは昔の島みたいだと語ってくれたものだ。珊瑚礁が隆起してできた島の成り立ちの時間に歩調を合わせたような停まった場所がぼくは好きだったが、夜はその分、闇も濃かった。ぼくは、近所の子供たちと遊んで夕陽が沈んだ後に家に着く手前、真っ暗な小道を下る間が怖くてたまらなかった。日ごろ聞かされているムヌ(幽霊)のことで頭がいっぱいになるのだ。奄美大島であればケンムン、沖縄であればキジムナーといった森を棲息地にするムヌが知られているけれど、森のない島にはケンムンもキジムナーもおらず、海のムヌ、イシャトゥがいた。けれど、陸の小道にはイシャトゥは出ない。それら妖怪に近いよりは、子どもを失くした母のムヌといった、より人に近い幽霊がそこにいるかもしれないと思い、暗闇のなかを思い切って走ることもできず、家の灯りが見えると少し安心するが、玄関を開けて駆けあがるまでは恐怖が肌を離れなかった。もうそんな鬱蒼とした小道ではない舗装された坂を下っているだけなのに、その恐怖が蘇って、頭では呆れながらも昔と同じように怯えてしまったのだ。走り込むようにして玄関を締めると、途端に恥ずかしくなった。まったく、俺は大人じゃないのか。
家のなかではテレビが点けられていた。この映画、観たかったんだよね、と弟は言った。弟は廊下を挟んだ隣りの部屋のテレビを前に、もう横になっていた。映画は、人気のあるコミックを素材にしたもので、映像化も大がかりなものだった。その晩放送されたのは、三部作られたうちの三つめ、最後のバージョンだ。ぼくは神棚のある居間の柱にもたれて、テレビに付き合った。主人公は自分たちの友達が仕掛けたらしい都市の破壊と殺傷を必死に食い止めようとしていた。ぼくは観るとはなしに映像を追いながら、遠い世界の出来事のように眺めていた。映画だからフィクションとして遠いということもあるけれど、映画がつくられている世界と自分がいま島に帰って身を置いている祖母の家の世界とがつながらない、何か異世界の文物を四角く区切って見ているような感覚だった。居間の北側には当時、ぼくたちが寝室として使っていた部屋があり、その二つの部屋は改築前と同じ間取り、大きさでしつらえてあった。そのせいもあるだろう、建物は真新しいのに、同じところにいるという実感に浸ることができた。祖母の両親と、戦争で亡くなった祖母の子たちの遺影が同じ位置に飾られているのもそう思わせてくれる要因かもしれない。変わったのは、そこに祖母の遺影も加えられていることだ。狭く開けておいた窓からは風が入ってくる。その夏中、ヤポネシアの列島の天気予報には「猛暑」という言葉が飛び交っていたが、列島の南部にある島もいつもより暑いと島の人は語っていた。それでも夜になれば、涼しい風が吹き込んでくる。風でカーテンが波打ち、涼しさを引き立てていた。映画は最後、友達の犯した事件が実は主人公も原因のひとつになっていたことが明らかになって終わった。そういう話だったんだね、と声をかけるが返事がない。襖越しで見えないので覗いてみると、弟はすでに寝ていた。よくこの状態で眠れるなと半ば感心しながらかけっ放しの扇風機を止め、テレビと部屋の灯りも消した。風はある、東京のように暑くて寝られないということはないだろう。
十一時を過ぎていた。ぼくは服を脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを入れて、浴室でシャワーを浴びた。ガスがうまく点かなかったが、夜の入りのあの怖さがまだ残っていて、北の隅にある浴室にも長くいたくなかったので、水で済ませた。子どもの頃は浴室は母屋にはなかった。というか、もともとは家に風呂場は無く街の銭湯まで出かけていた。小学二年の時(だったと思う)、倉庫になっていた離れに五右衛門風呂をコンクリートで固めて風呂場ができた。枯れた蘇鉄の葉で火を盛んにし朽ちたガジュマルの枝などで水を温める。ぼくは顔を火照らせながらその火を眺めて枝を放ったり、いじって空気の通りをよくしたりするのが好きだった。
寝室の押し入れから布団を取り出して居間に引いた。薄い毛布も引っ張り出して、かけることにした。寒いわけではないが、上にかけるものがないと、うまく眠れないのだ。電気スタンドを見つけて点け、居間の明かりも消した。持ってきた本は読み終わっていたので、何か読み物はないか探しまわり、箪笥の上にコミックが置いてあったのを見つけてそれを読むことにした。女忍者の話だった。女は山の中にある雪の積もった城郭のなかに入りこんでいた。村人は女を受け容れているようにみえるが、どこか心を許していないらしい。女は使命を持っているらしく、時折、仲間と連絡を取り合いながら、情報を交換しあっている。ところが隠密の行動が城の者たちに悟られ、仲間は傷つき、女も捉えられてしまった。コミックはそこで終わっていた。続きが読みたかったが、それ一冊しかなかったので諦めるしかない。眠気は無かったが仕方がないので、スタンドの電気も消した。
久しぶりにこの家で眠れる。こんな嬉しいことはない、と思った。けれどどういうわけか、落ち着かない。ここがいちばんそうできる場所だし、実際安らいだ気持ちでもいるのだからと目をつぶってみるが、一向に眠気はやって来ない。風の音が聞こえる。目を開けると、カーテンの裾が上にめくれては戻りを繰り返していた。風が強くなって来たようだった。石垣の門には家の守護神のようにガジュマルがあり、家の四方も同じように木々に囲まれていたし、坂を下った場所でもあったから台風のときでもそこは不思議に静かだった。今はそのガジュマルも寿命が尽きて、根元を残して切られていたので、風の通り道ができてしまったのかもしれない。風が当たり、戸がゴトッゴトッと音を立てていた。突然、ターンと音が鳴った。驚いて鼓動が高まったが、振り子の時計が時報を告げたのだ。それまでも鳴っていたはずなのに、初めて気に止めた。でもそれが十二時半なのか一時なのかは分からない。時計を見ればいいのだが、そんな気にならなかった。この時計も新調されていたが、前のも同じ三十分置きに鳴っていた。子どもの頃、夜中に目覚めたとき、布団の中で時計の音を聞いていたのを思い出したが、時計のある居間で寝ているせいか、当時よりもはるかに大きな音に聞こえた。風は止もうとしない。毛布をかぶってちょうどいいくらいだ。まだ寝付けないが、明日、決まった時間に起きる必要もない、やり過ごそう。風の音を気にしなければいい。
ぼくは祖母のことを想った。祖母は聞き上手で相手の話を、エーヌンと言って相づちを打ちながらひたすら聴く人だった。晩年、夏に帰るとぼくのことが分からなくなっていたときはひどくがっかりしたが、数年後に行くと再び名前で呼んでくれて一気に心が晴れあがったこともあった。もう百歳を越えているのだ。そうやって現世に少しずつさよならをしていくんだよと、叔母は語ってくれた。その頃、祖母が椅子に座って、周りを見ながら、そこに来ている大勢の人たちにお茶を出してあげなさいと島の言葉で言ったことがあった。誰かいるわけでもなかったが、母や叔母たちは見えるんだねと語り合っていた。口には出さないが、死期が近づいていると感じ取ったのだと思う。ぼくはふと、今ここにも祖先の人達が集まって来ているのではないかと思った。お盆ではないけれど、久しぶりに泊っている末裔の存在を頼りに集まり、おしゃべりをしているのではないかと。ぼくには霊感のようなものが全く備わっていないから、何か見えるわけでもない。けれどそう思っても不思議と怖くなかった。もし語り合っているなら、その声を聞きたくすらあった。そこに祖母もいるなら、声を聞かせてほしかった。ぼくは耳を済ませたけれど、木の葉が揺れ枝がしなむ音しか聞こえなかった。
風は相変わらず強い。身体はだるかったが、頭は冴えたままだ。ぼくは起きることもできずにだるさに任せて天井を見つめていた。夜の闇は濃く木目はよく見えない。暗闇に目を馴染ませていると、やがて身体が布団に吸い込まれるように下に沈んでいく感じがした。そしてふいに島の大地の上にいる感覚に襲われた。祖母の家でもなく布団の上でもなく、珊瑚礁が隆起してできた島の土の上にぼくはいる。この小さな大地は今も隆起し続けているのか、沈み始めているのか、分からない。けれど止むことなく動いている島の大地に今、いる。ぼくは巨大な珊瑚の上に浮かぶ珊瑚虫の卵のように揺られていた。
◇◆◇
目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。横に目をやると庭にはすでに朝の陽が射しこんでいて祖母の家に泊まったんだと合点した。弟はまだ眠っていた。頭はぼんやりしていたが、洗濯物を取り出して庭の物干しに干した。島を発つ昼までに乾いてもらわなければならない。陽射しはきらめいているが、熱気を帯びるにはもう少し時間が必要だ。風は止んでいた。庭をぼんやり眺めていると、きらきらと天気雨が降ってきた。慌てて洗濯物を物干しから外して両手に抱え込んで家に入ると、すぐに雨は止んだ。そこでもう一回、干し直した。それなのにいくらも経たない内にまた天気雨が降ってくる。ぼくは同じことだと諦めて、そのままにした。
まだ現実の世界に戻ってきた感じがしない。人の声が聞きたかったが弟はまだ眠ったままだ。ぼくは隣りの島に長期滞在している学生のことを思い出して、滅多に使わない携帯をバッグから取り出し庭先からかけてみた。何回かのコールの後、彼女は出てくれた。「方言の話せる島の人にアポが取れると聴きとりに行ってます」。彼女は方言を音韻から研究していた。何度も同じ言葉を繰り返し発声してもらいながら、音を聞き取るのだ。小さな島のなかでもシマと呼ばれる集落ごとに言葉は変わる。島の言葉は聞き取り記録する者がいなければ、話す人も少なくなる一方で人の寿命とともに消滅してゆく。とどめるということは意思なしにはできない作業になっていた。島には慣れた?と聞いてみた。慣れてきました。でも、寝泊まりしているロッジは目の前が海で、夜になると真っ暗になって波の音だけが聞こえて怖いんです、と彼女は言った。ぼくは怖いのは波の音ではなくて、島に数多いるムヌのほうだと言いかけたが、怖がらせてもいけない。「それにヤモリも鳴くんです」。ヤモリ?そういえば、ヤモリの鳴き声を聞いていなかった。旅人は決まって怖がるのだが、ぼくはあれを聞くと、帰ってきた気分になってむしろ安らいだ。昨日、ヤモリの鳴き声を聞いていない。どこにいったのだろう。
ぼくは島に長期滞在できるなんて羨ましい、楽しんでください、と言って電話を切った。洗濯物に触って乾き具合いを確かめた。出発までに乾くのは無理かもしれない。
声がするので、振り向くと坂の上に五十代くらいの女性が立っている。ぼくは上半身に何も着けていなかったが、そのまま坂を上がった。このきび酢を売ってもらえませんか?とその人は言った。彼女の前には百個くらいのきび酢の壺が並んでいる。家の北面の木々、石垣や豚小屋の跡、畑を更地にして、いとこがそこできび酢づくりを始めていたのだ。贈り物にしたいのでそれ用に包装してほしい。ここに来ればお願いできると思って、ということだった。これはぼくがやっているものではないんです。ちょっと待ってくださいね。そう言って家に戻り、メモ用紙にいとこの名前と電話番号を書いて彼女に渡した。ここにかければお願いできると思います。彼女はありがとうと島の言葉で言い、日傘を差して街のほうへ歩いて行った。ぼくはようやく現実の世界に戻ってきた気がした。
◇◆◇
ときどき宇和寺の夜のことを思い出す。あの深夜の感覚を呼び起こす。それはありありと身体が覚えている。あの時、何を感じていたのだろう。そこでぼくは確かに何かを感じていたのだ。あるいは聞き取ろうとしていた。はっきりと聞き取れない発音から音を確定しようとするみたいに。ぼくはもっと感じられるはずだった。そこにはあの場所でしか触れられないものが確かにあるのだ。
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