2009/07/09

コンセプトとしての「船倉」

 syomuさんが、カルチュラル・タイフーンの懇親会の濃くて深い感じ(Deep Reef)を、

名瀬港まで二泊三日も時間がかかる船中では二等船室の至る所で酒盛りやおしゃべりが繰り広げられ、ゴロンと横になって聞こえてくる島口に、あの人のなまりは大島だな、あの人はバアさんの島口に近いから徳之島だな、ん?沖縄の人かね?などと想像をふくらませたり。船旅はあまりにも時間があるので、隣の人と二言三言話しているとどこかで知り合いが重なっていたり、親と昔付き合いがある人だったり、とそういう経験は二回や三回ではおさまりません。

思えば、私は小学校に入学する前の一番楽しい夢のあった幼い時間だけ島の空気を吸い、島の自然を見て、島の人と触れ合って過ごしたので、感傷的になり、島への感情がほとばしりがちなのかもしれません。

島に向かう船に揺られているようなそんな居心地の良さでパネルも懇親会も楽しませていただきました。(カルチュラル・タイフーン2009『薩摩侵攻/侵略400年を考える』

 と、書いているのを読んで、そうだ、あの Deep Reef クオリアは、黒潮づたいのあの、船の底に似ているのに気づいた。

  道之島といえばおりおり思い出すことがある。昭和十三年から十七年まで大島通いの上り船は名瀬港を夕方出航した。三等室船内の中央部の下は船倉になっていて夜は船倉の上を舞台にして、各島自慢の競演になった。
  与論島の人は沖縄民謡の「上り口説」、沖永良島の「永良部百合の花」、徳之島の「ちゆつきやり節」、大島の「野茶坊節」、喜界島の「池治長浜節」などつぎつぎ繰り出され、指笛の噺子で調子がますます高まる。
  大島各島上り船に乗っていた沖縄の中年の方が二人で「鳩間節」や「四季口説」を歌い踊った手ぶり口ぶりは忘れられない。
  船員の中には芸達者な人がいて三味線、片面太鼓を持ち出し、また洗面器の底をたたき、あるいは変装して踊る人気者もいた。
  「上り口説」、「下り口説」は音痴の私でさえ暗唱しおかしく歌えるが、道之島の部分だけ挙げてみる。

 上り口説(前を略す)

七、伊平屋立つ波押し添ひて
  道の島々見渡せば
  七島渡中人なだやしく
八、立ちゆる煙は硫黄が島
  佐多の岬もはいならで
  あれに見ゆるは卸開聞
  富士に見まがふサクラ島
 下り口説(前と後を略す)
  風やまともに 子丑のは
  サダの岬も あとに見て
  七島渡中も なだやすく
  波路をはるかに ながむれば
  あとや先にも 友船の
  帆をひきつれて 走りゆく
  道の島々 はやすぎて
  伊平屋渡たつなみ おしをひて

 船が少し揺れ始めるころ、船酔い恐怖症の人は二段になった寝ぐらであお向きになり、横向きになり、洗面器を枕もとに寄せて上り口説、下り口説の「七島渡中もなだやすく」と念ずる気持ちになる。
 船倉の上の舞台も一人去り二人去り遂に静かになる。このあたりは七島灘に入る手前である。そのころ三等室に柱時計はなし、ラジオも、もちろんテレビもなし、各人の腕に腕時計も巻き着いていない。おそらく二十二時のころであったであろう。各島回りの定期船は笠利岬灯台の光源の届かぬ闇の海を北に進む。
 早朝、前方に「ご開聞」の薄い姿を拝み、三時間かけて「富士に見まごう桜島」の姿に安堵して身回りの品々を手もとに寄せ、下船の準備をしたのである。(『道之島紀行』)

 この、栄喜久元の述懐を借りると、船倉の舞台、なのだ。

 「船倉」をコンセプトとして捉えると、それはいまぼくなどが欲しいと思う場を表してくれる。琉球弧の島人が集い、ある島のことだけではない、どの島の人も主役になる場面を持ち、しかも、一緒に乗り合わせている旅人を排除しない。一緒に場を共有できる。「船倉」はそういう場だ。

 コンセプトとしての「船倉」。育ててみたい。


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「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」3

 「奄美にとってこの400年とは何だったのか」。それは存在しないかのような存在と化したということであり、そうであるなら、ぼくたちはやはり姿を現す必要があるのだと思います。そのためには何が必要でしょうか。鹿児島の歴史家原口虎雄は、『鹿児島県の歴史』のなかで、「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。」と書きます。

 これ、よく聞き覚えのある言い方です。でも知識人がこう言うと、この延長で「日本にしてやった」とかそういう言い草すら出てくるわけです。ぼくはこれを強者の論理と呼んできました。強者の論理は、加害、加害者の加害です、加害を感謝の要求にすり替えて、加害の内実を不問に付すという構造をしています。これにどうやって言葉を返して言ったらいいのか、とても悩んできました。

 ところで今年は、奄美にとって400年の年でありますが、スピーチが印象的な年でもあります。2月には村上春樹のエルサレムでのとても印象的なスピーチをしましたね。そして、ぼくはその就任演説には心を動かされませんでしたが、4月の「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という大統領オバマのスピーチには心を動かされました。

 これは、従来、「原爆のおかげで戦争は終わった」としか言われてこなかったものです。この、「原爆のおかげで戦争は終わった」が、やはり加害を感謝の要求にすり替えて、その内実を不問に付すという構造をしています。そして、この強者の論理と、「核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という言い方の間には、ものすごい距離があるわけです。ぼくたちも、強者の論理に抗する言葉を出していかなければならないと思います。

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2009/07/08

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」2

 こうして、南から奄美は「存在しないかのような存在」と化すわけです。一方で、北、鹿児島からも「存在しないかのような存在」と見なされるわけですが、これはぼくたちの皮膚感覚に照らしても実感的です。それが端的に示されたもののひとつに、ぼくは山中貞則の謝罪があると思います。

 山中は鹿児島出身の著名な政治家です。山中は晩年の2002年に『顧みて悔いなし 私の履歴書』という書物を出すわけですが、そこで、こう言うのです。「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」ぼくは最初、これを読んだときとても驚きました。あの、ぼくの知っている度し難い頑迷さからすれば、薩摩の政治家が「謝罪」を言うなど不可能か、あるいはぼくが生きている間ではありえないと思ってきたからです。でも、それは今から7年も前になされているわけです。

 しかし、ぼくはそのことよりももっと驚くことがここにはあります。それは、山中は「沖縄」に謝罪しているのであって、「奄美」ではないことです。山中は謝罪の中身について、黒糖のことも触れているのですが、にもかかわらず、奄美は触れられません。どういうことでしょうか。山中は沖縄では良心的な政治家として評価されています。この本にも当時の稲嶺知事の献辞が寄せられています。その良心的な政治家が良心のありようを吐露し、まさに良心的にみえているまさにその最中のパフォーマンスの場面で、奄美は黙殺されてしまうのです。まさに奄美は「存在しないかのような存在」と化しているわけです。

 どうしてこうなるのでしょうか。ぼくは、それは「奄美は琉球ではない」と規定した直接支配が隠されたことにあるのではないかと考えます。汾陽光遠という薩摩の人が、明治7年に書いた「租税問答」という文書があります。その六十三番目の文章にはこうあります。「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」。ぼくはこれを読むと、いつもひそひそ話のように聞こえてきます。

 奄美は、お届けなしの蔵入り地だったわけです。直轄領であることを隠したということが、奄美の「存在しないかのような存在」の色合いを最もよく物語っていると思えます。ぼくはこの400年の意味を最もよく示す文章を挙げよと言われれば、汾陽光遠の「租税問答」「第六十三 道之島内地附属」を挙げます。直轄領であることを隠すことによって、奄美は存在しなかのような存在と化します。存在しないかのような存在になるということは、配慮が不要になるということにつながりますから、それが黒糖の収奪を激化させたでしょうし、近代以降も奄美を食い物にする傾向が続いたのも、理解しやすくなります。

 この、隠すということが致命的だと思うのは、それは人様の視線を浴びないということではないでしょうか。他者の視線がないということは、それはまずいんじゃないの、とか、そんなことしちゃいけないんじゃないの、と言われるきっかけを無くすということです。2007年の『薩摩のキセキ』という本のなかでは、「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」と、いうことが書かれたり、去年は原口泉が『維新の系譜』という本で、「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。」と言うわけですが、どちらも世の中は違う価値観や世界が存在している他者の存在への配慮がない、巨大な勘違いをしていると感じられます。この「維新止まり」であり他者不在の感覚は、直轄領を隠すという行為とぼくはつながっていると思うのです。

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2009/07/07

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」1

 カルチュラル・タイフーンでの発表を掲載します。「奄美を語る会」での発表と重複するところも多いですが、語り口を変えたり考えをわずかながら進めたりしたところもあるので、ご容赦ください。

◇◆◇

 喜山と申します。「やまといしゅぎり」はどうやって歌うんだろうと思っていたので、酒井さんが披露してくださった徳之島の島唄には大変、得をした気分でいます(笑)。ふだんはマーケティングをしていますが、与論島生れというバックグランドからこのテーマに関心を持ちます。

 去年、同じ場で「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」というテーマをいただいたとき、アイヌ、沖縄はいざ知らず、奄美を「まつろわぬ民」と呼ぶのは無理があると思い、失語、自失つまり自己喪失がふさわしいのではないかと考え、そう言いました。今回、「奄美にとってこの400年とは何だったのか」と問われて、それについてぼくは、「存在しないかのような存在」になった時間であると言えるのではないかと考えました。

 「存在しないかのような存在になった」。たとえば島尾敏雄が「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」と1965年に言いましたが、それは「存在しないかのような存在」を意味していると捉えると合っているのではないかと思います。その起点は、奄美は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されたことにあります。それがこの所在ない感じの発端になっていると思います。この二重の疎外の契機になったのが、1609年であり、それ以降、長い時間をかけて、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されていきました。そして近代以降、それは一人ひとりの悩みになります。近代になってぼくたちは「個人」という概念を持って、他県、他地域の人と交流するようになりました。そうなって二重の疎外は個人の悩みになったわけです。

 この悩みはどういえば、分かってもらえるだろうとよく考えるのですが、うまく言えた試しがないなあと考えあぐねるところで、思い出すのが、あの、「お国は?」と聞く、山之口獏の「会話」です。「お国は? と女が言った/さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが」、前置きが長いんですが、それに対して「ずつとむかふ」と、答える、あの「会話」です。このあと、「南方」「亜熱帯」「赤道直下のあの近所」などと応えていくわけが、肝心の沖縄とは言えないままはぐらかします。この「会話」の場面は、琉球弧の島人は必ずどこかで出会っているという普遍的な詩だと思います。

 この「会話」のような場面のことを、奄美について、山下欣一は「ぼかす」と言いました。出自をぼかす行動様式、というわけです。しかし厳密にいえば、山之口の「会話」はぴったりぼくたちには当てはまるわけではありません。ぼくたちは、もっと所在なさがつきまとって浮遊してしまうわけです。沖縄は「琉球は大和ではない」と規定され、それは奄美も同様に「奄美は大和ではない」と規定されました。

 しかし沖縄は「琉球は大和ではない」され、それを逆に、「琉球は大和ではない琉球である」と規定し返していったわけですが、奄美の場合、そこに「奄美は琉球ではない」という規定も加わっていました。それが、二重の疎外であるわけで、ぼくたちは、そういう意味では奄美は、奄美にとっての詩としての「会話」を欠いていると言うこともできます。

 でもまあ落ち込むのはさておきとして、ここに、沖縄にとって奄美が「存在しないかのような存在」になる構造も見えてきます。奄美は「奄美は琉球ではない」と規定された、これは直轄領にされたという意味ですが、これを沖縄から見ると、「奄美は琉球ではない」が、「奄美は大和である」と反転されるわけです。本当は「奄美は大和ではない」とも規定されているわけですが、その面は無視されて、「奄美は琉球ではない」から「奄美は大和である」と見なされてしまいます。そこで、「奄美は内地だから、大和だから」とかときに言われて悲しいわけですが、二重の疎外が背景にはあります。

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2009/07/06

「奄美にとってこの400年は何だったのか?」を終えて

 昨日のカルチュラル・タイフーン、「奄美にとってこの400年は何だったのか?」を終えたが、思いの外、疲れていた。「奄美を語る会」の1/3の持ち時間と半分弱の人数にもかかわらず、倍の披露感がやってきた。どうしてかよく分からないが、仕事でやるセミナーと違って、自分の感情や思考を率直に吐露するので、エネルギーを遣うのには違いない。何というか、仕事のときに比べてはるかに無防備に自分をさらけ出している。

 それにしても、40名程の参加人数は少なかった。去年の仙台も、30名強はいたのだから、人口母体や400年というテーマからすれば、もっといてもおかしくなかったと思う。日曜の夕方、府中で、という時間と場所の条件の不利はあるだろうけれど、なんか悔しい、と柄にもなく思ってしまう。来るべきだなんて思わないけれど、400年といっても特異な関心事たらざるをえないんだろうか。八重山セッションの盛況を聞くと、なおさらである。ぼくはもっと多くの奄美への想いを知りたかった。

 まあ仕方ない。でもいらした方は濃い方揃いだったと思う。

 終わったあと、質問に来た方と二人で話した。名瀬出身でもう東京が長いそうなのだが。

 「今日のようなことは、教えてもらったことがないので全く知らなかった。鹿児島に謝罪や賠償を要求する動きはないのか。今日はそんな話が聞けると思って来たが全くなかったので残念だった。」

 ここまでストレートに考える方が東京にいるのか、と新鮮に驚いた。こういう、具体的な声をぼくはもっと聞きたい。

 パネラーの酒井さんも前利さんもぼくも、持ち時間20分を意識しながら、かなり圧縮した時間を刻まざるを得なかった。テーマや想いの大きさからすれば、短すぎるので、参加した方も消化する間もなく次から次へと大変だったと思う。3倍くらいの時間をかけて、参加者の一人ひとりの声をお聞きしながらやれたら、もっと充実感はあったと思う。

 ぼく個人は、

かしゅていしゃんてん誰が為どなりゆり、やまといしゅぎりやがためどなりゆる
(これほどまでに難儀苦労して働いたとて一体誰のためになるのだ、やまとの丁髷のためにしかならない)

 の唄を実際に聞けたのが、いちばんの収穫だった。


 しっかり宿題も受け取ったつもりでいる。それは今後、越えていけるように努めたい。奄美の生は無言のうちに濃くて深い想いを宿してる。それを口にできずに胸に秘めている人は少なくない。そういう想いをくみ上げる言葉を出せて行けたらと思う。


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雑誌「中部財界」『奄美自立論』書評

 雑誌「中部財界」、「注文の多い本のレストラン」に載った『奄美自立論』の書評。

 ん~。継はぎ感を否めないけれど、あり難い。

 緑の大地に覆われた島、奄美。世間一般のイメージは、青い海とサンゴ礁に囲まれた南の島のイメージである。琉球文化圏のため、沖縄県と勘違いをしている人も少なからずいる。奄美は鹿児島県だ。
 奄美に住む人は「奄美は琉球ですか」と聞かれると「鹿児島だ」と答え、逆に「鹿児島県ですか」と問われると、違和感を覚える人が多い。
 この著書では、奄美に関する疑問や、課題を島の歴史に基づき、奄美出身(与論島)の著者が、薩摩と沖縄に正面から向き合い、これまでにない奄美論を展開している。
 時は四〇〇年前、琉球が薩摩に侵略されることに始まる。一六〇九年の三月四日、薩摩の軍勢は琉球を侵略すべく出航。当時琉球支配下にあった南西諸島は約一ケ月で侵略される。トカラ列島を経て、奄美大島北部の笠利湾に着き、戦闘が始まったのが七日。その日以来、奄美は言葉を失ってしまった。
 奄美はそれ以来「琉球でもない」、「大和でもない」と二重に阻害されてきた。書はその「二重の疎外」の構造と由来を追い、それをどのように克服するかを、各地で出自を隠すように生きてきた六〇万奄美同胞に提起する。同時にそれは、国内植民地としての奄美の現実を広く明らかにするものでもある。
 奇しくも今年の七月二十二日皆既日食が奄美市で観測される。日食以外にも歴史も観測されるのではないだろうか。


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Deep Reef

 濃く深く。それ以外、どう表現したらいいか、うまい言葉が見つからない。

 徳之島の想いがあり、与論の想いがあり沖永良部の想いがあり大島の想いがあり、そこへ接近しようとする想いがあり、深い理解があり。それぞれの想いを聞くうちに、自分の想いが深化され、また独りよがりが相対化されていった。

 鈴木さんユキさんの「朝花節」に始まり、宗さん持田さんの「諸鈍長浜」、持田さんの「五尺ヘンヨー」、シーサーズの琉球舞踊があり。それはそれはご機嫌だった。琉球弧のどこか、だけやるんじゃなくて、どれもやる。これ、ありだなと改めて思った。聞く島人が、これは自分たちの歌だと必ず思える場面が持てるし、それは大切なことなんじゃないかな、と。

 あまりに濃くて深くて。ぼくは、酒も食事もだけど、あと倍くらいは時間がほしく、その場の方たちの想いを一つひとつ聞いていたかった。度の高い酒は希釈してゆっくり味わうことができる。時の流れとともに、この晩に語られた想いの意味がしみじみやってくるのを待ってようと思う。

 それから、

 さっきから、煙草ばかり吸っている。
 「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ」幼い子供たちが、いつか、あわれな節をつけて、野原で歌っていた。私は家で寝ころんで聞いていたが、ふいと涙が湧いて出たので、起きあがり家の者に聞いた。あれは、なんだ、なんの歌だ。家の者は笑って答えた。蛸幅の歌でしょう。鳥獣合戦のときの唱歌でしょう。「そうかね。ひどい歌だね」「そうでしょうか」と何も知らずに笑っている。(太宰治「俗天使」)

 ある方の話をお聞きしていたら、このくだりが思いだされた。奄美的生はこの心情がよく分かると思う。


 ※恥ずかしながら、出版のお祝いもしていただいた。感謝です。(「高円寺Reef」


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2009/07/05

鹿児島弁で島のアイデンティティを叫ぶ

私は、鹿児島本土で育ちながらずっと“島んちゅ”のアイデンティティを感じていました。

しかし、それは確かにあるんだけれども最初は無色透明のようなものでした。(「凍てつく南島」

 syomuさんが、鹿児島の島んちゅのアイデンティティの初期形を「無色透明」というとき、ぼくはどきっとする。東京で社会人になったとき、自分を「無色透明」化しようと意識していた。社会人としてやっていくのも覚束ないだろう自分の存在の仕方として「無色透明」が合っている気がしたからだが、それはもしかしたら、奄美の島人の本土でのアイデンティティ初期形の姿なのかもしれなかった。それは他のどこより、鹿児島で「無色透明」化は要求される。ぼくは鹿児島で培ったものを、東京で生きるに当たって、生きる技術として抽斗から取り出してきたのかもしれなかった。

公に島んちゅ自身が“島の血を引く者”を奄美の同胞として『民族教育』をすることもありませんし、本土の新聞やラジオ・テレビなどの鹿児島のメディアからは鹿児島弁での発信はあっても、島口が聞こえてくることはありません。

私は沖縄のあるラジオ番組から島口が次々に聞こえてきた時には衝撃でした。公のメディアから島口が聞こえてくる体験がなかったからです。

通常の学校教育で島の歴史の詳細が時間をかけて教えられることもありません。

昔は島と本土との人の往来や交流も限られていましたが、現代では交通の便も発達し島の血を引く二世・三世たちが次々に生まれている状態だと思います。

二世・三世たちの家の中で島の話がなかったり、島唄も島口さえも聞こえてこなければ自分自身で“島んちゅ”のアイデンティティに色を塗り重ねるしかありません。それはとても孤独で、溶けて消えてくれたら楽だろうと感じるかもしれません。本当にこんな彩りでいいのかと疑問に思い、塗っても自信が持てないかもしれません。

私もずっとそうでした。鹿児島弁で島のアイデンティティを叫ばなければならないような時に今でも絶望がありますが、私の場合は家の中で島口や島唄が聞こえてましたからまだ楽だったと感じてます。

 ぼくは、奄美について、二世というアイデンティティのありようがあるのをほとんど知らなかった。与論ゆかりの本山謙二が「「二世」のシマ」(「鹿児島市のシマ」『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』)と書いているのを読んで初めて知ったくらいだった。

 ぼくは与論二世を自称したことはない。与論島「生まれ」であることをことさらのように強調して、与論人(ゆんぬんちゅ)と自称してきた、したがってきた。ぼくは、幼いころのsyomuさんのように、「カタシテ」と言って仲間に入れてもらうこともしなかった。むしろ、鹿児島弁をアクセントもろとも拒んできた。この言葉は覚えない、と。でも、それは小さいのに反鹿思想だったからではない。そんなこと知るよしもない。最初は、疎外感から、そしてやがては意思になっていったが、ぼくの場合は、与論島では島の言葉を禁じられていたのに、なぜ鹿児島では自由なのかが解せなかったのに端を発していた。

 鹿児島の友人に、「鹿児島でも共通語をしゃべりましょう、って言われてたんだよさあ」と鹿児島弁で言われる。そのとき、与論島では、それが日本人の証になるだけ強迫観念が伴うこと、それを時には、鹿児島弁で強いられることもあるのを、どう伝えたらいいのか分からない。

 でも、それに応えるより前に、ぼくもsyomuさんのように、「家の中」で、親が話す与論言葉(ゆんぬふとぅば)を身体に刻むように覚えておこうとした。それにか、ぼくが与論人(ゆんぬんちゅ)であることを証しだてる材料がないように感じてきたからかもしれない。

 そう自分を作ってきたので、syomuさんや「奄美を語る会」で出会った友人のように、鹿児島弁で語る奄美アイデンティティはとても新鮮な驚きがあった。こういうあり方だってアリなのだと思わないわけにいかなかった。むしろ、ぼくのほうが土地の言葉に馴染もうとしなかった分だけいびつな形をしているのかもしれない。

 「とても孤独で、溶けて消えてくれたら楽だろうと感じ」、「本当にこんな彩りでいいのかと疑問に思い、塗っても自信が持てない」という感じ方は共通していて、鹿児島弁の「二世」アイデンティティにとても共感する。むしろ、「世界の中心で愛を叫ぶ」ではないけれど、「鹿児島弁で島のアイデンティティを叫ぶ」痛切さに心を打たれる。

 でも、そんな声を聞けたことのほうが、ぼくには遥かに嬉しい。悩みという形ではあるけれど、独りではないと思うことができる。在鹿・奄美アイデンティティの行方は、ぼくにとって他人事のようには思えないのだ。


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「奄美」カルチュラル・タイフーンと懇親会

 今日の「奄美」カルチュラル・タイフーンと懇親会の案内を再掲します。懇親会だけの方も歓迎です。

◇◆◇

カルチュラル・タイフーン2009 / INTER-ASIA CULTURAL TYPHOON

☆パネルディスカッション

 「奄美にとってこの400年は何だったのか?--薩摩侵攻/侵略400年を考える」

☆開催日時/2009年7月5日(日)午後4時30分~午後6時10分
☆開催場所/東京外国語大学府中キャンパス「研究講義棟」102号室

◇東京外国語大学府中キャンパス

大きな地図で見る

「研究講義棟」102号室

◇交通アクセス

◆JR中央線
「武蔵境」駅のりかえ
西武多摩川線「多磨」 駅下車
徒歩5分
(JR新宿駅から約40分)

◆京王電鉄
「飛田給」駅北口より多磨駅行き京王バスにて約10分
「東京外国語大学前」下車

☆開催趣旨

 このイベントは、カルチュラル・タイフーン(文化台風)という文化研究のためのひとつとして行われるものです。私(大橋)は、5年前から、この毎年開催都市と会場を変えて催されるカルチュラルタイフーンにおいて、奄美に特化したバネルディスカッションを開催してきました。今回で5回目となります。今年は、奄美が1609年に薩摩に侵攻/侵略されたちょうど400年にあたることことから、この400年間の来し方の意味をテーマとするものです。こうした400年を考えるイベントは、奄美や沖縄で多く開催されているものの、このたび東京でもこうした奄美の歴史と社会、文化を考えるイベントを開くことになりましたので、ここにお知らせしておきます。(「神戸まろうど通信」から)

☆参加者/パネラー

・酒井正子氏(川村学園女子大学教授/奄美歌謡研究の第一人者・著作に『奄美歌掛けのディアローグ あそび・ウワサ・死』、『奄美沖縄 哭きうたの民族誌』ほか) 
・喜山荘一氏(マーケター/著作に『奄美自立論』ほか、与論島出身、東京在住)
・前利潔氏(沖永良部・知名町中央公民館勤務、『無国籍としての奄美』を今秋刊行予定)
〈司会・進行〉大橋愛由等(図書出版まろうど社代表)

☆内容

 2009年は、奄美にとって歴史的な年であると言えよう。
 1609年に、薩摩軍が琉球王国に、軍事侵略して、今年でちょうど400年になる。
その時から、奄美の支配者は、琉球王国から、薩摩藩に変った。「那覇世(なはんゆ)」から、「大和世(やまとゆ)」となった(これはいずれも奄美独自の歴史区分である)。奄美にとって、薩摩と鹿児島に支配された400年間とは何だったのか。それはとりもなおさず、薩摩と鹿児島は、奄美に対して、なにをしてきたのか、を意味する。これに対して、奄美の内部では、どのように対応したのだろうか。また、奄美の社会や人々は、どのように変化していったのだろうか。
 奄美には、薩摩と鹿児島に対する強い感情が、現在も残っている。こうした感情の元となったものは何なのか。我々は客観的にかつ注意深く分析する必要がある。
我々は、歴史、民俗、社会、文化などさまざまな分野で、この奄美の400年間について、まさに今、総括しなければならない。
 こうした今回のパネルディスカッションの問いは、奄美にとって、新しい記憶の創出となるであろう。

☆各パネラーの発表骨子

(1)酒井正子氏
 徳之島は、1609年の琉球侵攻途上最大の激戦地(秋徳の戦い)とされる。鉄砲で武装した薩軍数千人に果敢に立ち向かったのは、琉球より派遣された統治者(首里の主)の一族であった。彼らの子孫は藩政末期にも、植民地的支配に抗し武力蜂起(犬田布騒動)の先頭に立っている。一方薩摩系の郷士格の子孫も多数島に根付く。奄美諸島の中央にあって、鹿児島、沖縄双方と独自の距離感を保ちつつ生き抜いてきた徳之島のバランス感覚とダイナミックな行動力に注目し、その島民意識の一端を、支配層、民衆各々についてみてゆく。

(2)喜山荘一氏
 四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。
 そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。

(3)前利潔氏
 奄美諸島にとって、「薩摩・鹿児島の時代」(400年)は、「琉球の時代」よりも長い。にもかかわらず、言語、民謡、民俗などの文化は、薩摩の影響を基本的に受けることなく、現在も琉球文化圏である。琉球文化圏は、徳之島以北の奄美文化圏、沖永良部島以南から沖縄島周辺の沖縄文化園、宮古・八重山の先島文化圏に分かれる。
 その中で、沖永良部島は、「琉球」なのか、「奄美」なのか、というテーマは重要な意味を持つ。一方で、奄美諸島は、政治的、経済的な側面では、薩摩の影響を強く受けていた。薩摩藩による奄美諸島に対する経済政策は、黒糖(さとうきび)政策を中心に展開され、奄美内部に、階級分化を生み出した。明治になると、「琉球処分」(1879年)との関連で、奄美諸島がどこに帰属するかについて、琉球王府、清国政府、明治政府、鹿児島県の思惑が絡みながら決定されていたことを明らかにする。また米軍政下(1946-1953)から日本に復帰する際には、鹿児島県以外の帰属も考えられた。奄美そして沖永良部島はいったいどこに帰属するのか、道州制の導入がささやかれる今も常に問われているのだ。

◇◆◇


カルチュラル・タイフーン懇親会&
喜山荘一さん『奄美自立論』出版を祝う会

7月5日(日)19時30分予定
 
場所 高円寺 LIVE & DINING BAR Reef(リーフ) 
〒166-0003 東京都 杉並区高円寺南3-46-9 プラザU B1F 
TEL 03-3313-5980
高円寺駅南口から徒歩2分


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2009/07/04

「サンゴの川」

 中村喬次による、宮古の地名ウルカ理解。

 同姓で真っ先に思い出すのは宮古のウルカ集落である。「あそこは村の8割方が砂川姓だよ」と聞いた。30年前の話である。今はどうなんだろうと、友利研一自治会長に電話で聞いた。
 ウルカは旧城辺町の海寄りの集落。砂川と書いてウルカと読む。現在冊用260世帯。宮古島市の集落では大きい方だ。その6割方が砂川姓だという。(中略)
 ところで、このウルカという集落名、最初聞いたとき、ピンと来るところがあった。ウル石とかウル墓、ウル割りといった言葉は、子どものころ耳になじんだ。同じウルなら、サンゴの川! なんとすてきな名前かと思った。
 ウルカ集落に砂川という川が流れているわけではなかった。宮古は全島真っ平らで山と呼べる山がないから、生活用水はもっぱら洞窟の地下水に頼っていた。「ウリガー」とか「カー」と呼ばれる。ウルカには「アマカー」と呼ぶ洞窟があるが、それを称してウルカと言っているのでもない。集落の前に横たわるサンゴ礁こそウルカの由来だった。サンゴが砕けて白砂になり、それが川のように延びている、そんなイメージが、僕を詩的興奮にいざなうのだった。(中村喬次「南海日日新聞」6/24)

 これは素敵な理解だと思う。ありうると思うけど真偽を判断しきれない。けれど、そうあってほしいと思う地名意味だ。珊瑚の川のウルカ。地勢の特徴を言うことが、詩にも通じた稀有な例だと思う。

 ぼくのいとこ叔父は、夜空の星を皆既日食という太陽と月の交わりが生んだ子どもたちだと言っていた。こちらは正真正銘のロマンテシズム。

 明日は、カルチュラル・タイフーンだ。


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2009/07/03

『われ島ン人を愛す』

 牧哲也の『われ島ン人を愛す』という本がある。「しまんちゅ」を愛す、である。

 牧は徳之島の人だが、この本では、与論島が2回も取り上げられている。「島ン人」の名が示すように奄美がテーマなのだから、与論に触れているのも不思議なことではないと思うかもしれない。けれど中身を見たうえでいえば、与論のことは、明確に与論だからこそ取り上げるというように俎上に載っている。与論島生まれのぼくは、つい、特筆に値すると反応してしまう。

 取り上げられているのは、あの与論献奉と観光のこと。

 話は与論憲法に帰るが、四年前に始めて与論島へ渡ったとき、私はこの儀式に感激した。酒が好きだったし、何よりもこのふん囲気がすばらしいと思った。自他の区別もなく酔いつぶれる世界、いいではないか、万万歳ではないかと手放しで礼讃したものだ。どうして憲法というのかそのいわれも知らぬ。果たして条文があるのかどうか、あるとすればどんな条文なのか研究しょうとも思わぬ。ただ始めて来た私に対してこうまで分けへだてなく迫ってくる人間の暖かさ。カミシモをとりはらった人間たちの赤裸々なブッつかり合い/これだから人間世界はいい。これだから奄美はすばらしく、これあるが故に与論島はなつかしいではないか、とほれ込んだのであった。

 与論献奉は色んな字があてられるから、与論憲法だと間違いであるとは一概に言えない。その強制力からすれば、「憲法」の語感のほうが合ってそうですらある。ところで牧が言うのは、与論献奉礼賛、ではない。

 そして、つい一週間前の再体験。人の評価の何と定かでないことよ。この度、私の日は終始批判的に動かざるを得なかった。「あの人は胃の調子が惑いというのに、また無理に飲まされて……。身体をこわさなければよいが」とバラバラする。「この人は、もともと飲めないたちなのに、あんなに思いきりよく飲み干して……。きっとあとで気分が恵くなるに違いない」と案ずる。血圧が高いので焼酎は自分の健康によくないといつも思っている人が、その場の調子で勢いよく飲みかつ論じている。きっと明日は後悔するはずであるひそれにしてもこれ以外に方法はないのか。人と人が歓談し合う場は酒宴しか考えられないのか。「酒は百祭の長」などと誰が言いふらしたのか。人類をおとし入れる悪い魂胆でもあるとしか思えない。

 そう、この章のタイトル。「与論憲法批判」なのである。

 私は知る限りの与論島の人々に心から親近感をいだいているし、この人たちの親切な歓迎ぶりや、やさしい心遣いについていつも感謝の思いで一はいである。したがって私のこの憲法批判が彼等の心証を害することになるかも知れないことを心からおそれるものである。私はどうかしてこの一文を公けにすることを断念したいとも考えた。しかし、私の良心は敢えて公表することを自らに命ずる。なぜなら、ことは与論町だけの問題ではなく、奄美の島々においてはそこに住む人たちがアルコールの魔力に対してあまりにも無防備な状態にあるからである。アルコールが敵であることを知らず、却って親しい身内か味方のように思いなしている。肉体をけがすものであるのに、逆に体内のよごれを消毒してくれる艮菜だぐらいに考えている。
 アルコールを甘くみてはいけない。酒が人間にとって、大きな力をもった害悪であることを私はせいいっぱい警告したいと思う。(昭和四十六年六月、大島支庁だより)

 アルコールは「敵」ではないけれど、「アルコールの魔力に対してあまりにも無防備」なことに牧の批判の核心はあり、そこに共感する。牧は「与論憲法」を、奄美全体の酒に対する姿勢のシンボルとして挙げているのだ。そう言われてみれば、与論献奉は奄美の飲酒姿勢の象徴かもしれず、その闇雲さにときに辟易しているぼくなどは、牧の批判を好もしく感じる。

 もうひとつは観光地として与論、である。タイトルは、「与論島は楽園か?」。

 夏季の観光客の増加を見越して、船会社がダイヤを変えようとしたがこの案が住民の足を無視したものであるということで大問題になっている。瀬戸内町などおこるのはもっともであるが、いっぽう喜こんでいいはずの与論町においても、事態は単純でない。飲料水の供給力の問題とか墓などが荒らされたとか、また風紀上の問題とかいろいろあって、むしろ「これでは観光公害だ」と嘆く声すら上がっている。せっかく美しい海と白砂の浜辺を持つ素朴な島が、いまや都会の若者たちによって汚染されようとしているという危機感はうそではない。

 これが書かれたのは1971年。そう、与論が島の大きさに比べたら大数の若者を受け入れ、与論イメージが膨張する時期に当たっている。

 白い浜辺に黒々とシミのようなスラッジを見るとき、公害がこの南の小島にも無線ではあり得ないと知って愕然とする。聞くところによればタンカーの乗組員たちがテレビの鮮明度を追って陸地に近寄り過ぎるためだという。大型タソカーが文明の利器ならテレビだってそうである。そしてテレビ番組の娯楽を求める乗組員の心情も、ごくあたりまえのことなのだ。どれも否定し去ることはできないが、ここから海や白浜の汚染という事実が惹起される。人間の営みがこうも自然を傷つけないでは何事も進展しないという「めぐり合わせ」が、たまらなくさびしい。

 浜辺にできた真っ黒いラインをぼくたちはコールタールと呼んでいた。でも、それがテレビ見たさのタンカー接近が原因かもしれない、なんて、想像すらしたことなかった。いまはコールタールはない。けれど珊瑚も消えてしまった。

 しかし、まだまだ与論はきれいである。これをめざして若者たちが熱病のようにむらがってくる。平凡なサラリーマソであり、普通の学生であるだろう彼等が、異様な(?)いでたちで島の中をかっ歩する。新しい食料品店がたち、簡易宿泊施設がどんどんできていく。島の各所が昔日のおもかげを大きく変え始め、人々は商売のうま味を知るようになった。そして少くはない現金収入と引きかえに、人々が何かしら大事なものを失ないつつあるという実感はいずれ来るだろうが、いまはまだない。要は、せっかくのもうけるチャソスをみすみす逃がす法はないのである。

 商売経験は浅いのに商売のうまみを知ってしまった果ては、商売を無くすというごく単純なことだった。ぼくたちは「大事なものを失」ったろうか。少なくとも、島の人の心は大丈夫だと思う。一方、「若者」を「異様な(?)いでたち」とは、子どものぼくは思ってなかった。これは、大人にとっての衝撃を語るものとして受け止めようと思う。

 さて、この若者たちは勢いのおもむくところ、これからもどんどんはいってくるに違いない。そして、おおかたの者が自分の振舞いたいように振舞って、別天地の生活を遊び楽しむことであろう。この際、彼等が地元民の迷惑など考慮に入れてくれると期待することはできぬ。もともと観光客というのはどこにあっても無責任な人種なのだ。その上、彼等の大部分は経済的にも余裕のない人たちであるだろう。無計画というか、かなりに成行きまかせの旅行であろうから、金がなくなれば「かせげばいい」とし、またその手段を選ばないことも十分に考えられるのである。こういう野放図を含めて、これが現代の若者の天国であるとするなら、それは世の親たちが自分の息子や娘にはどうしてものぞかせたくない楽園であるにちがいない。若者たちにとって別天地である同じ場所が、島の住民にとっては日常の生活の根拠地であると知ることはきわめてたいせつである。

 「若者たちにとって別天地である同じ場所が、島の住民にとっては日常の生活の根拠地であると知ることはきわめてたいせつである」という認識は確かに求めてよいことだと思う。ただ、ここではその心配のあまり、旅人は少々悪人に描かれすぎている。でもそれも同時代の心配のなせる業だ。

 牧が取り上げた二つのテーマは、与論を素材にしながら、そこに奄美の問題の象徴を見たのだと思う。与論への真摯な向き合いに感謝したい。

 ところでこの引用はぼくの好みによるもので、牧の関心はもちろんまず、徳之島に向けられている。

 父の死はあまりにもアッケなかったが、年前においても単刀直入、直情径行型の人間であったらしい。喜怒哀楽の衷情が豊かというか、激しく大きく、酔って興に乗ると裸踊りまで辞さず、勢いあまって遊女のところに轟沈することも再三であったとか。
 サソシルを抱いて「ラ・クソパルシータ」の曲を奏でながら、バラバラと落涙するかと思え、ふと思い立って「俺の唐手を見ろ」とばかりに診療虫のガラスだなを血にまみれた手と足で、つぎつぎに打ち割ていくのであった。また、あるときほ麹小足にはいっていき、逃げまどう鶏どもを片っぽLから残らず締め殺すといった具合で、こんな時のオヤジは子ども心にも無気味な存在として映った。すでに四十五、六才にはなっていたはずであるのに自らの感情の異常なまでのたかぶりは、尋常の手段で制禦できなかったのであろうか。

 思うにこの種の狂気-というよりは、熱っぽい人間味と評価したいのだが-は、奄美五島の中でも徳之島の人間がいちばん多く持っているのではあるまいか。飲む紅も、踊る紅も、また遊ぶにしても、とことん倒れるまで享楽しなければ後味が惑いとする気質は、生命をその極限において燃焼させたいとするその燃焼のさせ方に問題はあるとしても、父の島の人たちには普遍的に見られるひとつの特質であるように思えてならない。そしてこれは、別に理論的に抽き出されたものでなく、宗教上の信念にもとづくものでもなく、ただ生命の欲求のままに、遠く父祖から引き継いだ血の騒ぎの故に、そう生きるしか仕様がないのだといった具合に受取れるのである。

 牧はこの「血の騒ぎ」にたびたび言及している。これは徳之島が奄美一ではないか、と。たしか、徳之島出身の作井満も「徳之島野蛮」という言い方で説明したことがあった。闘牛といういかにもそれらしいイベントも徳之島で盛んだ。

 これを外側から理屈づけてみようとすると、大和勢力と琉球勢力の波をともに受けていること、しかし波をかぶる最初の島ではないこと、18世紀に、7人に1人という巨大な餓死を経験していること、そしてそびえる山があること。そんなことを漠然と思い浮かべるが、しかしこの「血の騒ぎ」の文章に触れて、徳之島は違うなというよりも、ぼくも同じだと思った。むしろ、自分でも持て余すほどのこの「血の騒ぎ」としかいいようのない熱情は、個人的なものではなく、島ん人(しまんちゅ)に共有されたものではないか、と。そう、まさに、「そう生きるしか仕様がない」という宿命的なものとして。そのやむなさに言葉を届かせているのが、『われ島ン人を愛す』の深さだと思う。

 『われ島ン人を愛す』には島尾敏雄も書評を寄せていて、そこでも「日常の中ででもおさえることはむずかしい」「執着心のたかぶり」に触れている。

 さて牧哲也は故郷の徳之島を回想するときにそのこころがあやしくざわめくのをおさえることができないようだ。特に亡父の生涯に於いて故郷のすがたが象徴的にあらわれ、天城町のふしぎな町政問題に対しては、故郷に向かって具体的な姿勢を迫られるもののように行動しないわけにはいかない。彼の故郷への思いが熱っぽいのは、孤絶された故郷のすがたが裏打ちされているからだろう。たとえ無意識の中ででも故郷の孤独な広がりに対してのよりいっそうの執着心のたかぶりが認められるからである。彼は熱中する自らのかたむきを故郷のこころと思い、それは彼の日常の中ででもおさえることはむずかしいように見える。たとえば囲碁の世界へのひたむきな傾斜は名瀬に棋院支部を設ける行動に到達しなければおさまることはない。

 さて私は、奄美の(もしくは徳之島の)孤独な混沌の、外がわからでなく内がわからの記録を、彼の此の薯に見るわけだが、それは孤独な環境に投じられたひとつの魂の精神軌跡がどんなかたちを捕きだすかの試み、となってあらわれているように思う。つまりひとつの無垢の魂が孤独な島の環境にいどみかかる攻撃なのではないか。熱いこころで折々の痛みにたえながら、彼自身の表現を確かな自立に導きたいと願望しているように見える。その鏡わぬこころで島の孤独の真髄にふれたとき、思わず表現は確かなひびきをかきならす。

 「孤独な島の環境にいどみかかる攻撃」というところ、これはひとり牧のことだけでなく、自分のことを言われている気がした。ぼくが書くのも、まさにそれではないか、と。こう言ってもらえたなら、本としてはもって瞑すべしというものではないだろうか。

 牧は囲碁狂である。そしてぼくの父とひとつしか年齢が違わない。牧がこの本を1971年に出したとき、ぼくたちは与論にいたから、重なる時期があったのかわからないけれど、本にある住所は鹿児島に移って以降の、ぼくたちの居所の近くだ。牧は、同じく囲碁狂だった父と対局を持つことはなかったろうか。そんなことが気になってくる。

 この本は、syomuさんが貸してくださった。奄美の図書館にならきっとあるだろうけれど、国会図書館にはない。syomuさんがこの本を印象にとどめ父親の書棚から拝借して手元に置くことがなかったら、ぼくが借りることもできなかっただろう。「血の騒ぎ」のつながりだと思った。

Makitestuya

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2009/07/02

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」9

 さて、この400年に際しては、道州制の問題が付随してきたり、奄美として鹿児島に謝罪を要求するという声があったり、琉球として日本の植民地支配に異議申し立てをするという声も出ています。ぼくは今日、そういうことに触れませんでしたが、それはそういう問題は関係がないと思っているわけではなく、そこに連なる材料であると考えています。ただ、ぼくたちは戦争であれ、薩摩軍であれ、米軍統治であれ復帰であれ、いつも問題は抗いようもない巨大な波として訪れて、そこで正体を失って右往左往してきました。だから、いきなり大文字の問題として考えずに、身近なところから始めたいと思ったのです。

 ぼくはむしろ、ぼくのブログに寄せられた、「知ったところで今更どうしようもない。知らないなら知らない方が悩まずに済む」という奄美縁で本土育ちの20代の声に応えることを切実なこととして考えてみたいと思いました。これはぼくの言葉ではなく、ぼくの好きな文芸批評家の言葉なのですが、同様の問いかけに対し、彼は、「歴史を引き受ける義務はないが、歴史を引き受ける自由はある」と応えていました。

 ぼくも、同じように、奄美の歴史を引き受ける義務はないが引き受ける自由はある、と答えたいのです。ぼくにしても奄美の歴史を知らず、でもきっかけがあって調べると、そこで理解できることのなかには、自分の困難の由来をよく教えてくれるものがありました。それを知るということは、よりよく生きていくための術を教えてくれるわけです。この20代も若い奄美世代に対して、「知ったところで今更どうしようもない」かどうか、長い目で考えてみてほしいと思う点です。

 奄美の人は、自身を隠すことによって生きてきました。でも、それでは終わらないと思います。ブログをやってこの4年間の間に、ぼくは似た二つの問い合わせを受けました。自分の何世代か前はどうも奄美らしい。でも、祖父母も両親もそんなことを話したことはなかったので、ぼくは知らない。知りたくて休みを利用して島に行き、いろいろ聞いてまわったけれど、短い滞在日数もあり、知ることができなかった。ブログをやっているあなたなら何か知ってないか、というものでした。

 その声は具体的で切実でした。当然ながら知らない自分をとても歯がゆく感じました。隠す人は、苦労を自分の代で終わらせようとして隠すのでしょう。でもそのことによっては終わらないのです。知らない子はこうして奄美ルーツを探し始めるのですから。

 だから、鹿児島にいる奄美の方にも、表現をしてほしいと思います。たとえば、さきほどブログを書いているという方は一人いらっしゃいました。インターネットはたかがインターネットにしか過ぎません。でも、考えたり想像したりする世界がビジュアル化されて広がっている世界だと見なせば、そこで存在することもまたある存在感を示すことにつながります。奄美つながりのブログについていえば、奄美にいて奄美のブログを書いている人は大勢います。もう一方、奄美の外にいて奄美のブログを書いている人もいます。しかしそうやって見渡すと、鹿児島にいて奄美のことを書いているブログが少ないのに気づくのです。ブログは一例に過ぎませんが、このなかから奄美語りのブログが生まれるのを期待しています。

 最後は与論の言葉を交えて終わらせてください。とうとぅがなし。ありがとうございました。


◇◆◇

 質疑応答のなかで会場から寄せられた声。共感の声もいただいたが、照れくさいのでそれ以外を。

・奄美は戦後、沖縄に差別された。
・大山麟五郎が小学校のとき、学級のみなが「日本人」と認めてほしくて、「ワンダカヤー」と声を挙げたエピソードがあるが、自分のなかにはいまもそれに似た気持ちが残っている。中国の人に、「お前は何民族」かと聞かれて返答に悩んだ。中国の人は、「きみは琉球民族だ」とはっきり言ったが、自分は「大和民族」なのか「琉球民族」なのか、悩みに悩んで「大和民族」と答えた。が、いまでもすっきりしない。
・400年の問題は相当、大きな問題ではあるが、奄美に限らず、島出身というだけで自分も差別を受けた経験がある。奄美だけではない面もあることを覚えておいてください。

(2009/06/20、15:30-16:30
鹿児島市山下町4−18 鹿児島県教育会館3階会議室にて)

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カルチュラル・タイフーン「奄美から問う」懇親会

 持田さんから案内状をいただいた。こんどの日曜のカルチュラル・タイフーン「奄美から問う」は、その後、懇親会を開きます。よろしければいらしてください。パネルディスカッションに参加できなかった方も歓迎です。


◇◆◇


カルチュラル・タイフーン懇親会&
喜山荘一さん『奄美自立論』出版を祝う会

7月5日(日)19時30分予定
 
場所 高円寺 LIVE & DINING BAR Reef(リーフ) 
〒166-0003 東京都 杉並区高円寺南3-46-9 プラザU B1F 
TEL 03-3313-5980
高円寺駅南口から徒歩2分

文化台風(Cultural Typhoon 2009)

パネルディスカッション
「奄美から問う 薩摩侵攻/侵略400年」
7月5日(日) 午後4時30分〜6時10分
東京外大 府中キャンパス  「研究講義棟」102号室 
 (「武蔵境」駅から西武多摩川線「多摩」駅で下車)

◆パネラー
 酒井正子、
 前利潔、
 喜山荘一
 司会/大橋愛由等(まろうど社)

東京外大 府中キャンパスへの交通アクセス
府中キャンパスのイラスト


Reef_2

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2009/07/01

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」8

 もうひとつ、大江修造は南海日日新聞に「黒糖と明治維新」を書いています。大江は、大統領オバマが「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」として、「核のない、平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」と述べたことを引用して、黒糖の問題に結びつけています。

 このオバマ演説に関連して外国では日本こそ被爆国として、核拡散防止条約(NPT)にリーダーシップを発揮すべきであるという意見がある。
 ひるがえって奄美の黒糖問題を考えるとき、奄美人が主張を続けるべきであろう。具体的には義務教育の教科書に一行「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」と加えさせることを目標に努力することが必要であろう。

 大江がオバマの言葉を引くのは決して大げさなことではありません。それは奄美の問題として考えることができる面を含んでいます。たとえば、核に対して、これまでアメリカからは、「原爆のおかげで戦争は終わった」と言われてきていたのです。それが、「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」となったということには千里の径庭があると言うべきです。たとえば、「原爆のおかげで戦争は終わった」という言い方は、原口虎雄の口吻を思い出させます。

隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』1973年)

 これも「原爆のおかげで戦争は終わった」と同型であることが分かるでしょう。
 ぼくはこれを強者の論理と呼んできました。強者の論理は、加害を感謝の要求にすり替え、その内実を不問に付すという形をしています。オバマの発言は、この強者の論理から歩みを進めているのが分かります。
 しかし、この強者の論理は、強者の論理によってのみ支えられるのではなく、それを受ける側が、被害を感謝のにすり替え、その内実を不問に付すとしたときに成り立ちます。内実を不問に付すという構造は共通しているのです。

 そこを抜けだすという意味で、大江のいう教科書に「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」を加えるのは意味のあることであると考えます。しかし、大江が、

奄美侵攻四百年の年に当たり、このような活動を展開する好機である。教科書に「奄美の砂糖が明潜維新に大きく貢献した」と記載されることにより、長年の奄美人の心にある黒糖地獄に対する怨念は昇華する。奄美人の黒糖地獄DNAを書き換える効果がある。

 と続けるのには立ち止まる必要があると思います。

 400年に際して、怨念ばかり言っていても仕方がないという声があります。そして確かにそうだと思うので反省するのですが、しかし、怨念は怨念を止めましょうということによっては止みません。それは、正体を突き止めること、その原因があるならそれを取り除くことによって、止めることができるのではないでしょうか。そういう意味では、「黒糖」は怨念の正体のひとつではありますが、その全てではありません。変な話ですが、もし「黒糖」だけであるとするなら、明治維新のほぼ十年前に惣買入制の始まった与論の民の末裔が、こうして生き難さを感じていることは無かったのではないでしょうか。そこには、ぼくの言葉でいえば、「二重の疎外」があるという視点が必要だと思うのです。

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「中部財界」の7月号に

 月刊誌「中部財界」7月号の「本のレストラン」というコーナーに、『奄美自立論』の書評が載っている。載っているといっても現物は見ていない。目次にあったからわかった。

 「月刊中部財界」2009年7月号

 読みたい。

 それにしても、地元紙はともかく、日経にしても中部財界にしても経済系が反応してくれるのはどうしてだろう。不思議だ。ビジネスのかけらもない内容なのに。


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