2007年5月 1日 (火)

『バベル』-隔たりを越えたい

映画『バベル』は、
人種や言葉や誤解で隔てられた人たちが、
追い詰められ、追い詰められる極点で、
隔てを越えようとする力を滲ませる。

正視して観るのに疲れた。
けれど、観てよかった。
そういう作品だった。

モロッコの少年が冒険のように放った一発の銃弾は、
思いがけず、アメリカの女性の肩近くを射抜く。

モロッコの少年は追い詰められる。
アメリカの女性は死に追い詰められる。
けれどその前に、女性は夫との関係に追い詰められていた。

夫は、妻との関係に追い詰められ、
二人の絆を探しにモロッコを旅していた。
ところが絆どころか、妻の命を失いかけて追い詰められる。

アメリカ人夫婦の子どもたちを預かる乳母は、
夫妻の事故で、メキシコの身内の結婚式に
出られなくなりそうになり、追い詰められる。

そこで彼女は子どもたちをメキシコに連れてゆくが、
アメリカへ帰るとき、
車を運転する身内が酒の勢いで荒れてしまい、
砂漠に取り残されて追い詰められてしまう。

一方、日本。
聾唖の女の子は、
家庭で抱える不全感と言葉の不全感とから、
満たされない思いを抱えて、
投身するような行いの果てに、
追い詰められてゆく。

その父は、昔、モロッコの友人に銃を譲ったことがあった。
その銃が巡り巡って、今回の事件を起こす。
しかし、父は、自分の銃が事件に関わるという前に、
妻が銃で自殺するという過去を抱えて、
追い詰められていた。


アメリカ人の女性は命をとりとめ、
夫婦は、二人を追い詰めた出来事を話し合う瞬間を持ち、
砂漠に残された子どもたちは、
映像には出ないが助かった、という。

追い詰められた父と娘は、
その極点で手をつなぎ、
隔たりを溶かす瞬間を持つ。

だから、隔たりをそれとして突き放すのではない。
それが越えられる瞬間を伝えて映画は終わる。


世界はつながっているんだなと思った。
みんなが英語を話すという意味ではない。
登場人物は、アメリカ、日本、モロッコ、メキシコそれぞれで、
みんな自国語を話すだけだ。

つながっていると感じるのは、
それぞれの出来事に対する人の感情のありようが、
怒り哀しみ喜びが同じだと思えることだ。

違うのは、都市と砂漠と、
それぞれに置かれる環境なのだ。

夫々に隔たりをどうやって乗り越えていくのか。
作品は大きな隔たりを作り出している。
言い換えれば、登場人物たちは、
直面すべきことに直面できていない。

たとえばアメリカ人夫婦は、
二人のことに向き合えていない。

それが二人のせいだというより、
向き合いにくくさせる世界にぼくたちはいる、
というように感じる。

こんなにも隔たっているのに、
それを越える可能性を作品は手離していない。
そのリアルな力が作品を観てよかったと思える点だ。

もしかしたら、現在は、
追い詰められるだけ追い詰められないと、
隔たりを越える契機を得られない時代だということなのかもしれない。



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2005年7月17日 (日)

『スター・ウォーズ』-視線の自在化の行方

『スター・ウォーズ』の持つ意味は、視線の自在化だ。

宇宙船を上から見下ろしたり下から見上げたり、
宇宙船に対してどこからでも見ることができて、
見る位置が自由になった。

その上下左右自在な視線の移動が『スター・ウォーズ』が
もたらしてくれた自由だった。

それは宇宙空間に舞台を採っているという理由だけでは、
実現できない。視線を自在に置くビジョンが無かったら、
こうはならない。

むしろ、視線の自在化というビジョンがあったから、
宇宙空間が舞台に選ばれたというのが正確なのだ。

今回で完結した『スター・ウォーズ エピソード3』は、
自在な視線というテーマからは、シリーズ最初の作品から
28年間の技術の達成を示すものだったに違いない。

特に冒頭の宇宙空間での戦闘シーンがそれに当っていた。
そこでは、ひとつの視野の中に、いくつもの映像が処理されていて、
重畳する場面が構成されていた。

宇宙空間に放り出される飛行士の向こう側には、
別の宇宙船同士の戦闘シーンがある、というように。

この重畳感は過剰で、観る者が楽しめる量をはるかに
上回って展開されていたと思う。言い換えれば、
何回観ても楽しめるということかもしれない。

けれど、この過剰さが、ひとつのかたまりとなって、
ある質感を伝えてくれるというようにはならなかった。
過剰な映像空間に投げ出されて、断片を味わったに過ぎない
貧弱な感じを少し伴っている気がする。

これに対して、同じ時期のスティーブン・スピルバーグの
『宇宙戦争』は視線を不自由にして、人間の位置からしか
宇宙船や事態を見ることができなかった。それは、恐怖を過剰化
させるのにとても有効に働いていたと思う。

アメリカでは『スター・ウォーズ エピソード3』に比べ、
『宇宙戦争』は振るわないと聞く。日本でもそうかもしれないけれど、
少なくともアメリカで『宇宙戦争』が大きな支持を得ないのは
よく分かる気がする。

なぜなら、『宇宙戦争』の主人公が持っているのは、
逃走の論理で、悪がいたら闘って倒すという論理ではないからだ。

作中、登場人物が、「世界最強の国が二日間でこのざまだ」
という内容の台詞を言う。この台詞をいまのアメリカが歓迎する
とも思えない。

ぼくは、圧倒的な力に出会ったら、とにかく逃げるという
逃走の論理は悪いものだとは思えず、ある意味でとても親近感を持った。
作品の倫理としては、アメリカ映画を感じずに済むことができたと
言ってもいい。

視線の過剰自在な『スター・ウォーズ エピソード3』からは、
映像食傷感を味わい、視線の不自由な『宇宙戦争』からは、
映画ならではの恐怖を味わうことができた。

そう言えばいいだろうか。僕自身は、ジョージ・ルーカスと
スティーブン・スピルバーグの2005年夏の陣は、
スピルバーグに軍配を挙げたくなった。

『スター・ウォーズ エピソード3』について言えば、作品よりも、
13才のときに初めて『エピソード4』を観たのだけれど、
その物語が完結する『エピソード3』を、
13才になる息子と一緒にみるという2世代かけた鑑賞
という事態のほうが感慨深かった。

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2005年7月 2日 (土)

『宇宙戦争』鑑賞記

ふつうエンドロールになるとおもむろに席を立つのだけれど、
今回はそうできなかった。

感動のあまり席を立てなかったわけではない。
お気に入りの曲が流れたわけでもない。
圧倒されて神経が疲れて、立つ気になれなかったのだ。

スティーブン・スピルバーグの映画『宇宙戦争』は、
恐怖感が映像と音響で倍化されて迫ってきた。

人間に対して非情に迫る巨大なロボット。
無機的なごう音となって鳴り響く雄たけびのような機械音。
ロボットから発せられ瞬時に人間を粉末に枯らしてしまう光線。
数十メートル上空から人をすくい上げる触手。
地下室に隠れる人を見つけるべく、うねりながら伸びるセンサー。

それらが次々に迫ってくる。
ぼくたちは息つく暇もなく、ただただ怖くなっていった。

けれど、それはスピード感で考える間もなく、
次の映像を見せる最近の映画とは少し違っている。

トム・クルーズ演じる主人公だけならそれも可能だったろうけど、
ここにはもう一人の主人公ともいうべき十歳になる娘もいて、
『インディアナ・ジョーンズ』のようにというわけにはいかない。

むしろ、娘の視線や表情を通じて恐怖は強化されていった。

その怖さは、もし無慈悲に突然、明日が無くなるような
絶望的な状況に追い込まれたらどうなってしまうだろう、
と問うものだった。

映画が終わると、血の気が引いているように身体が冷たくなっていた。
そんな怖さだ。

スピルバーグはときにヒューマニズム的な落ちをつける安易さも
あるけれど、『宇宙戦争』は、『激突』や『ジョーズ』を
思い出させるような、迫り来る恐怖を描ききっていると思う。

映画は結末で家族が再開し、
その極限の状況を乗り切った親子が絆を深くする場面で終わる。
けれど、この結末がハッピー・エンドにならない。

いや、ハッピー・エンドに違いないのだけれど、
そこにカタルシスを覚えるには、あまりに疲れているといったら
いいだろうか。

それは作品の破綻ではない。
いまやぼくたちは映画でも勧善懲悪の世界観に浸れない、
いつでも、日常は非日常に変るかもしれないという不気味な
不安のなかにいる。

その実感を下地にしているから、
親子の絆の深まりも、そこで生きていけるというよりは、
救抜しなければならないことのように感じているのだ。

ロボットは、百メートルに近い大きさなのに、
映画の視線も俯瞰を禁じて、あくまで等身大の目線でみつめていた。
そして、この夏のカタルシスを約束された『スター・ウォーズ』と違い、
高速道路や高層ビルなど、日常の世界が破壊されていくリアルな
映像が展開された。

それがますます、現実との地続きを感じさせるのだ。
この震えのような神経疲労が収まるには時間がかかりそうだ。

けれど、映像の力で現実を上回り、
現実に対する洞察を得るきっかけを得るなら、
それは作品本来の力なのだと思う。

映画ならではの味わいを満喫することができた。

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