2009年11月 1日 (日)

「たとえいくぶん薄暗かったとしても」

 青豆の言葉で心に残るひとつ。

 青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」
「もしそうだとしたら、人生はけっこう薄暗い」
「かもね」
「しかし誰かを心から愛することができれば、それがどんなひどい相手であっても、あっちが自分を好きになってくれなかったとしても、少なくとも人生は地獄ではない。たとえいくぶん薄暗かったとしても」
「そういうこと」(『1Q84』

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月19日 (土)

1Q84年9月以後の空想

 10歳のときに手を握った。そのときの想いを届けることが作品の骨格だったとしたら、空気さなぎに眠る青豆が天吾にぬくもりを送ったのだから、作品としては完結していることになる。


 けれど、物語の流れからいえば、次の展開をどうしても空想してしまう。

 青豆は死なない。青豆は組織からも追われなくなる。青豆はリトル・ピープルにとって次の代理人の候補になったのだ。一方の天吾は、その代理人である天吾との関係の深さから、反リトル・ピープル・モーメントの鍵を握っているにもかかわらず、直接、手をくだされることはない。青豆と天吾は、二人の関係によって1Q84の世界の善と悪の均衡を保つようになる。

 今夜の空想。でも書いててちょっと恥ずかしくなった。

 男は言った。「彼らには君を破壊することはできない」
「どうして」と青豆は尋ねた。「なぜ彼らには私を破壊することができないの?」
「すでに特別な存在になっているからだ」
「特別な存在」と青豆は言った。「どのように特別なの?」
「君はそれをやがて発見することになるだろう」
「やがて?」
「時が来れば」
 青豆は顔をもう一度歪めた。「あなたの言っていることは理解できない」
「いずれ理解するようになる」


   『1Q84』


1q84_book11q84_book2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月16日 (日)

作品にある世界が本当なんじゃないか

 以前、吉本隆明は、優れた作品は、これは俺にしか分からない、「俺のことを書いてるんじゃないか」という内閉感をもたらすと書いたことがあった。

 こんど、『1Q84』を読み、現在、それは必ずしも条件ではなく、もしかして今自分が生きている世界がフィクションで、作品にある世界が本当なんじゃないか、いまある世界は本当だとしても、作品のなかの世界も交換可能なものとして存在しているんじゃないか。そういうことを感じさせるのが現在のすぐれた作品なのではないかと感じた。決して、青豆も天吾も自分のことだとは思わせないけれど、自分も青豆でありえた天吾でありえた、そこにそんなに違いはないと思わせる。そうなっているのではないかと思った。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年5月19日 (木)

悪くない一手間

tanka考える短歌―作る手ほどき、読む技術

俵 万智

新潮社
2004/09
693円

発刊直後以来、この本を読んだのは今回で二回目だ。
考えてみれば、二回以上、本を読む機会は減る一方だ。

マーケティングを生業にしているので、
データとしての言葉には繊細さを求めるけれど、
いざ逆の立場の書き手としての自分を振り返ると、
切り売りのように言葉を走らせているだけのような気がしてくる。

だから、言葉を味わう感覚を呼び起こしたくて、
再び、この本を読んでみようと思った。

 短歌は、心と言葉からできている。

ぼくは短歌読みではないけれど、この書き起こしは素敵だ。

心が揺れたとき、大事件でも些細なことでも、
その一瞬の心を短歌は書き留める。
そしてそのためには、「心の筋肉を柔らかくしておくことが、大切だ」。
そう俵は書いている。

すると、ぼくたちはつい、聞いてしまいたくなる。
どうすれば、心の筋肉は柔らかくなるのか、と。

回答はとても明快で、短歌を作ることそのもの、なのだ。

 短歌を作っているからこそ、その『あっ』を見つめる時間が、
 生まれる。(中略)『あっ』を見つめて、立ちどまって、
 味わいつくことが、心そのものを揉みほぐしてゆく。

これはマーケティングのデータも同じだ。
どうやったら、商品に対するウォンツが見えるような
繊細でリアルなデータが書けるようになるか。
それは、データを書き続けることによって、である、というように。

こんな連想は邪道な読み方かもしれないけれど、
短歌読みでなくても応用を許す「技術」になっていると思う。

ぼくが、啓蒙されたの個所はいくつもあった。

 「も」があったら疑ってみよう
 
 特に、同様のことが他にもあるという意味で、
 無防備に使ってしまうと、 焦点が絞りきれず、
 印象があまくなってしまうことが多い。

 一首ができあがったら、他人の目になって、読みかえしてみよう。

 体言止めは一つだけにしよう

 はるばる、しばらく、ゆっくり、いささか、いと、たいそう・・・
 こういう言葉は、なるべく使わないでおこう(後略)。
 こういう言葉は、何かを説明するときに、とても手軽に感じを出して
 くれる。便利といえば便利なのだが、そこに落とし穴もある。
 つまり、誰が使っても、そこそこの効果をあげてくれるかわりに、
 誰が使っても、同じような効果しかあげてくれない。

 三十一文字という限られた文字数で表現するとき、数字を入れる
 ことによって、イメージがとても鮮明になることがある。

言葉の使い方に制限を設けるのは、
マーケティング・データを書く際にも有効だ。
たとえば、リアルな商品評価のデータを書くのには
「便利」という言葉は使わないようにするのがいい。

「便利」という言葉は文字通り、便利でそれで何でも片付いてしまう。
でも、その分リアリティは損なわれてしまう。

同じ便利でも、10分かかっていたものが5分で済むようになった、
とか、重くてかさばっていたものがコンパクトになったとか、
便利の中味を知りたいからである。

それから、「数字を入れよう」というのは、
そのままマーケティング・データにも当てはまるアドバイスだ。

 散文でも、よく使われる方法だが、文末を現在形にすると、
 読者が今まさにその場に立ち会っているような臨場感が生まれる。

 はじめよければすべてよし・・・というわけにはいかないが、
 初句の印象というのは、きわめて大切だ。ここが、あまりに
 凡庸だと、たった三十一文字とはいえ、続きを読む気持ちが
 しぼんでしまう。逆に、新鮮な初句に出会うと「おっ、これは」
 という期待が高まるものだ。芸人の話術でいえば、「つかみは
 オッケー」ということである。

ここは、eメール・プロモーションに通じるところだ。
eメールは瞬間芸で、最初の文章がものを言う。
件名や冒頭で「つかみはオッケー」になれるかどうか、
読まれるかどうかの試金石になるからだ。

こんな対話を経ながら読み終えると、短歌をつくってみたい気分になる。

ただ、一番、心に響いたのは、短歌ではなく、
俵万智の説明文の一節だった。

 これは、悪くない一手間である。

「悪くない一手間」という言葉が、
二回読んで、二回とも最も心に響いた。

「手間」の省略がいつも課題のようにのしかってくるからだろうか。
あるいはそうかもしれない。

でもここはそう消極的にならずに、
短歌だけでなく、一手間加えることでがらりと表情を変えることは
データでも人でもあることだから、それを惜しまないようにしよう
という励ましに聞こえた、と受け取っておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 4日 (月)

なんくるないはへこたれない

nankurunai

なんくるない

よしもとばなな

新潮社
2004/11/25
1,365円

ビジネス書を立て続けに読むと、心がしくしくしてくる。
読んだビジネス書のせいではなく、ビジネス書に対する
ぼくの受け皿が小さいのだ。

そういうタイミングで読んだ
よしもとばななの『なんくるない』は心に染みた。

「なんくるない」、なんとかなる、というタイトルを持つ物語の
大きな流れに身を任せるおおらかさのせいかもしれない。
沖縄をテーマにした小説だということもあると思う。

  私たちは毎日のように海に行った。飽きもせずに遠浅の珊瑚礁
 で色とりどりの魚たちの生活をのぞかせてもらった。中腰の姿勢
 でサンダルをはいたまま、海の中をどこまでも歩いていって水中
 めがねでのぞきこむと、魚たちは逃げることもなく食べ物を探し
 たり、群れ同士で出会って向きを変えたり、さっと岩陰に隠れた
 りした。その色の鮮やかさ・・・・黄色や青や赤が珊瑚の世界に
 まみれていた。(同書)

こんな導入のさりげない個所から、かさかさ乾いた心の身体が
潤っていくのを感じることができた。

『なんくるない』は、四つの掌編からなる作品集だ。
共通しているのは沖縄という舞台。
そして、おおらかな大きな力に助けられて
折った膝をふたたび伸ばして立ち上がろうとする、
そんな励ましを受け取る。

「あとがき」もいい。

  私はあくまで観光客なので、それ以外の視点で書くことはやめ
 た。これは、観光客が書いた本だ。
  沖縄は日本人にとって、あらゆる意味で大切にしなくてはいけ
 ない場所だ。
  沖縄を愛する全ての人・・・深くても軽くてもなんでも、あの
 土地に魅せられた人全てと、沖縄への感謝の気持ちを共有できた
 ら、それ以上の喜びはないと思う。(同書)

『なんくるない』によって、描かれる沖縄は更新される気がする。
よしもとは、「観光客が書いた本」としてこの作品を
提示するのだけれど、それは、現地の人が見る沖縄と
交わることのない無縁の世界なのではなく、
現地の人が見る沖縄と交点を持つ世界だ。

こうなるには沖縄が都市化する必要があった。
でも、それ以上に、沖縄の「なんくるない」の身体性は
都市化によってはへこたれない豊かさがある必要もあった。

ようやく、「沖縄」は、誰でも共有できる身体性に
なったのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)