2010年2月 1日 (月)

「静かな革命」

吉本 僕が思うに、鳩山由紀夫という人が、今やろうとしていることを、「そんなうまくいくか」とか言わないで、ゆっくりと静かな革命をしようとしている、と正直に捉えてあげてもいいんじゃないか、と思いますよ。それだけの能力はあると思いますし、民主党には、それだけの人材はいると思うんです。一見、革命と見えないような形でそれをやろうとしている。やり方がまずい以外には失策はないと思います。それに、とてもいい時期だと思いますから、やればいいのに、と思いますけどね。気後れすると、よりラディカルなことを言う政治党派か、保守派の大企業みたいな資本家、どちらかに偏りやすいんですけど、だけど両方に偏らない。そのあたりはうまくやっていくと思いますけどね。危惧もたくさんありますよ。あんなに善良で、気が強くない人が、そういう風に頑張れるかな、と。でも、粘り強く、自分たちの思うことを貫いてくれたら、静かなる革命が成就すると思っていますけどね。


『BRUTUS ( ブルータス ) 2010年 2/15号』


Brutus1_3

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2009年9月17日 (木)

『無印ニッポン』

 『無印ニッポン』はどうしても、極めて個人的な読み方になってしまう。『変革の透視図』を読んで、ここになら居場所があるかもしれないと思ってセゾン入りしながら、現場と理念の乖離感を埋めることができずにセゾンを離れ、一方では、消費社会を推進しながら消費社会批判も自然にできる月刊誌『アクロス』の分析に夢中になりながら、没入というわけにいかなかった。両方とも、ぼくのなかに謎が残ったままだ。それだから、堤清二と三浦展の対談は、一石二鳥にみえるのだ(苦笑)。

 まず、堤は「石油文明の曲がり角」として言っている。

堤◎消費社会の一つの変化というのは、車社会のパターソが変わることではないでしょう か。沿線ビジネス、つまり、土地の安いところまで行って店を作る、そのかわり駐車場は整備する、というロードサイド型の展開は、車社会を前提にしていました。多くのチェーソ店はそれで保っていたんだけれども、いまの消費者は、間に合うんだったら、近くのコンビニで間に合わせてしまう。わざわざ車で走って行って、買い物したり、食事をしたり、という生活パターンが変わってきているという感じがしてしかたないですね。車を使わないのはガソリンが高くなったからだ、というのは嘘で、実際ガソリンが下がっても傾向は変わらない。近場にあるレストランなら、それほど影響を受けないけれども、幹線道路のかなり先にあるような店は、駐車場があるからいいだろう、ということで利用客が集まってきていましたが、車社会の変質の結果として軒並み減益ですね。政府は、高速料金を下げて、車を使わせようとしていますが、車離れという現象は決定的だと思っています。それはたぶん、多くの人が、車社会の味気なさみたいなものに気がついたということではないかと思います。統計をとるとそういう数字が出るのではないでしょうか。

 以前に比べて東京では自転車が目立つようになった。自転車で通勤する人も増えている。「車社会の味気なさ」というだけでなく、自転車が格好いいという感覚も強くなっている気がする。そして「車離れ」という以上に、派遣切りの先陣を切って、剥き出しの資本主義の横行に拍車をかけたトヨタは、もう尊敬を払われる企業として浮上することはないのではないか。

三浦◎それを企業側は一番怖れているでしょうね。景気が悪いので買わない、というのなら、また景気をよくすればよいという話だけれども、人々が車がなくても暮らせる生活に変えちゃったとすると、これは深刻です。のちほど詳しくお聞きしますが、堤清二最大の功績である「無印良品」 のコンセプトは、シンプルな暮らしであり、「これがいい」ではなく、「これでいい」という一種無欲な商品を作ることですね。この金融危磯によって日本人の消費意識が、「あれがいい」、「これがいい」、「みんな欲しい」、という物欲主義から、「これでいい」、「これで十分だ」、という無印良品的価値観に急速に変わっていきそうな予感がします。

 自転車が格好いいという感覚を、三浦は「無印良品的価値観」と指し、その時代到来を指摘する。

堤◎論壇が苦境に陥った一つの原因には、読む方がしらけちゃったという面もあるでしょう。各誌が論壇ふうに問題をとりあげても、世の中は全然変わらなかった。あんなものを読んでも何の役にも立たない。それよりは、もっと軽いノリで楽しく過ごした方がいいや、と。
三浦◎それがセゾン文化の一面ですよね(笑)。
堤◎そう。だから、巨視的に見れば、セゾソ文化が論壇誌をつぶした(笑)。罪は重い。セゾン文化、パルコ文化は、本質的には、サブカルチャーのもっているカウソクー.カルチャー的な性質を備えていたんです。ただ、それがあまりにも受けちゃったもんだから、カウソクー・カルチャー的な要素が弱まって、軽いノリの方ばかりが広がったという面がある。

 ぼくは、そのカウンター・カルチャー的な要素に居場所を求めたが、拡大したのは「軽いノリ」だったので、居場所にならなかった。とも言えそうだ。

三浦◎社会の平等化が進むと消費が拡大する。それ以上に、消費が拡大することで平等化が進むという関係ですね。家電もファッショソも、消費するほど平等化が進む。私はパルコ時代に若い女性の消費を研究することが多かったですから、まさにその点を感じましたね。女性の解放については、革命なんかよりも消費の方がよほど革命的なんじゃないかとすら思いました。

 ぼくも消費による平等化を目の当たりにしたと思っている。バブル経済に居場所は無かったが、否定する気持ちにはなれなかったのは、この側面があったからだ。

堤◎(前略)昔、百貨店審議会というのがあって、呼ばれたことがある。そこに工藤昭四郎さんという都民銀行の総裁だった人がいて、わたしが何かでしゃべるの聞いて、「あれは面白い奴だ」と思っていたらしい。わたしは百貨店協会を抜けていたんですよ。百貨店協会から抜けている百貨店の責任者の意見も聞こう、ということだった。わたしはそこで、百貨店法があるのほ当然だ、と発言しました。百貨店法は中小商業者の保護に一定の役割を果たしていましたから。
 その頃、大丸さんが東京駅の八重洲口に出てきて大安売りをじゃんじゃんやっていた。はたの迷惑も考えずに安売りをやって中小の商店が潰れ、商店街がなくなるとしたら、日本の都市構造の点から問題だ。大規模店をコントロールすることも必要だ。わたしは百貨店法に賛成です、と言った。こういうことを言うもんだから、現役時代わたしは、経営者として馬鹿にされていたし、業界からつるし上げられていたんです。

 こういう堤の視点は百貨店内部からも、なぜ事業成長の足かせになるようなことを言うのか、不可解に見えていたような気がする。しかし、時代がめぐってみると、古臭くすら見えた視点が新しく、重要なものとして蘇ってこないだろうか。

三浦◎(前略)そういう意味で、これまでの地方というのは、あれがいい、これがいい、それが欲しい、これも欲しいという価値観でやってきた。それで実際、道路も、空港も、ショッピソグ・セソタtも手に入れた。しかし、その結果どうなったかと言うと、地域の個性、歴史、文化などが失われた。これはネガティヴな意味で「無印」になったんですね。でもこれから、ポジティヴな意味で「無印」な地方が再評価されるだろう。たいしたものはない、都会にあるものはない、しかしそれで暮らせる、これでいい、十分だという価値観をもった地方が再評価されるのではないか。

 たぶんぼくはこういうところで、三浦の言説にのめりこめないできた。でもそれは個人的な理由で、ぼくは「地域の個性、歴史、文化」が失われていない場所から読んでいるからだと思える。ぼくが見ている場所は「無印」ではないから。ただ、三浦が別の場所で、「都市には風土性がやっと残っているが、地方には消えている」というのはよく分かる。

三浦◎無印は 「批判」なんですよね。
堤◎そう。でも、わたしがいくら説明しても、社内にきちんと浸透しなかった。「これは反体制商品です」と言っても、みんなぼーっと聞いていた(笑)。わたしは大まじめに言っていたんですが。
三浦◎わたしは、無印良品は堤さんの最大の成果だと思っています。「世界商品」になりましたし、イッセイ・ミヤケや川久保玲らのファッショソは別として、自動車とか家電のように性能のよさで売る商品ではない、新しいライフスタイルの価値を提示する商品が世界中に広がったのは珍しい例ではないかと思います。反体制とおっしゃるのは、豊かさの意味の捉え方が、アメリカ的豊かさとは逆だからでしょう。単に、シアーズをモデルにして、むだを省いて安い商品を作ったというだけではない。これは、セゾングループの特質でもありますが、いまある豊かさを疑ってしまうという、そういうところがあった。

 こんなエピソードを読むと、堤が会議で、「これからの百貨店は、リゾーム、シミュレーション、ガジェットだ」などと言うと、翌日には管理職諸君の机上に、ドゥルーズやボードリヤールの本が積まれたのを思い出す。反社会的な行動をしないようにと誓約させる企業で、「反体制商品」と言って通じるわけがないのだ。
 それにしても、「世界商品」の響きが懐かしい。

堤◎(前略)無印良品は、便利性、浪費性、そのどちらにも当てはまらないし、ファッションを追いかけたりもしません、と。では、無印良品は何を訴求したいと思っていたかと言うと、それはただ一点、消費者主権なんです。三浦さんが指摘して下さったように、ここまでは用意します、あとはあなたがご自分で好きなように使って下さい、という、そういう意味での消費者主権。「そんなの面倒くさいよ、そんなこと言われても困るよ」、という人も多いだろうから、そういう人に対しては、「とにかく、安いんですよ」、ということでこちらに取り込む(笑)。なるほど、製品にクレームをつけるといぅのも消費者主権の行使だろうけれども、それは消費者主権の一つの側面にすぎません。それだけの主権には限界がある。もちろん、「これはよくない、あれはよくない」と、クレームをつけて下さるのもけっこう。しかし、自分流にものをアレンジするというのも、これはこれで消費者主権の行使だろうと思うのです。

 商品が商品としての完成度を下げることによって生まれる消費者主権。

堤◎(前略)その点については、マルクスが『資本論』 の第一巻第一章で、本来個人的生活過程であった商品が、資本主義になってからは、単なる労働力の再生産過程でしかなくなったということを言っています。わたし流に読めば、商品は労働力一般になってしまって、個性がなくなったということです。ですから、消費過程そのものに個性を復活させることが必要だと。そういう認識が堤清二流流通論の背景にはある。こういう観点で流通産業を見ると、それはマージナル産業だ。つまり、一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業です。ですから、そのマージナルな場所で、消費者が自分を回復しやすい、個性の過程に入りやすいものを考えて提供するのは、流通業者として立派な役割ではないか、というのがあるわけです。

 これは今に生かせるアイデアだと思う。『変革の透視図』に惹かれた理由のひとつはこの箇所だった。

堤◎当時としては希少価値があったでしょうね。
三浦◎社員も自由だった。やりたいことはやる、やりたくないことはやらない、やりたいことができないなら辞めてやる。当時はふつうの会社には、そういう空気はなかった。しかし、アルバイトも含め、セゾングループにはそういう人たちがたくさんいて、そこから作家やらなにやらが生まれていった。
堤◎保坂和志とか草谷長吉とか町田康とか、男の作家は何人もいます。女性では、作家はおそらくいなくて、編集者になった人が何人かいる。女性の場合、自己実現できたので、それで満足して、表現する必要がないのかも。

三浦◎男性の場合は、それこそ三井や三菱などの大企業ではとても雇ってもらえそうにない連中がいっぱいいた(笑)。わたしは、セゾングループがかなりの数のフリーターを吸収していたと思いますね。逆に言うと、セゾンがなくなったからフリーターが増えた(笑)。七〇年代だったら、それこそ高円寺で古着屋を始めるとか、西荻で喫茶店を始めるとかできた。八〇年代は会社の金で遊べた(笑)。九〇年代以降は遊びようがない。「生きづらさ」なんていう言葉が流行っていて気持ちが悪いですが、実際、社会に隙間がない。なので、生きづらいというのも無理はないかと。

 堤が「当時としては希少価値」と言うのは、男女が同じ仕事をして給与格差もない状態を指している。確かにそうで、当時としては感性的な自由度が高かった。ただ、女性がいま以上に男性化を強いられてもいた。それ以上にその通りだったと思いだすのは、人事の採用基準も「変な奴」になっていると思うほどだったから、三浦のいうことはよく分かる。

三浦◎「つかしん」(堤が、一九八五年、兵庫県尼崎市塚口に建設した都市郊外型施設)は、堤さんがイメージする理想の社会に近いものだったのでは。
堤◎しかし、百貨店という文化に染まってしまった人にわたしの意図は伝わりにくかった。百貨店という城下町を作ろうとするんですね。
三浦◎一種の故郷とか、共同体とか、そういうものを夢見られたのではないかと想像します。古い拘束的な共同体でもなく、近代の個人がばらばらなものでもない、非常に現代的な社会イメージをおもちだったと。
堤◎見えない共同体みたいなものを考えていましたね。規模は小さいかもしれませんが、若者たちはいろいろな場所でそういうものを作っています。たとえば、あまり有名でないシソガーソングライター。そのまわりには、一〇〇人単位の共同体ができている。それは、職場共同体や家族共同体や地域共同体とは似ても似つかない、テイストによる共同体です。

 そして話題は「つかしん」へ。『変革の透視図』以外に、セゾン入りしたかった理由は「つかしん」だった。理想の人工都市づくり。居場所を求めている気分のぼくには、身を投じるべき世界に思えた。あっという間に、環境はその試みを許さなくなっていったのではあるが。

堤◎つかしんでは、百貨店の人をトップにしたのが大きな間違いでした。テナントや業者を下に見る。村にとっては全員がテナソトだから、対等でなければならない。わたしがそう言うと、わかりました、とは言うんだけれど、実行を伴わなかった。ずっとそういうふうに生きてきたのか、取引先に対していぼることしか知らない。だから、パルコみたいにはいかなかった。パルコは、自分では商売をやらなくて、同じ資格で参加しているテナソトを大切にした。百貨店には悪い習慣があって、取引先が必ず何か付け届けをしてくるんです。付け届けをしないと、取引が減る。水戸黄門の悪代官の世界ですよ。わたしが睨みをきかせて、絶対に認めなかったので、一時は減ったんですが、わたしが辞めたらとたんに復活したらしい。通念とか環境は、大きい。一人やふたりの経営者が一時的にかっこつけたって、すぐ元に戻ってしまいますね。

 ああ、ぼくもテナントへ「いばる」感じは馴染めなかったなあ。

堤◎日本で、労使対立が見えにくい状況が続いてきたのは、近代市場経済の中にあっては、例外的な平和状態でした。本質的な対立の契機が、契機のまま眠っていた。ところが、世界的な恐慌と言われる急速な不況の中、セーフティーネットと見えていたものが崩れた。資本対労働者という対立の構造が浮かび上がらざるをえなくなってきたのだ、と思います。ただ、資本と労働は、対立しているのが平和な状態だ、と思うんです。対立して妥協点を見つけ出せるなら、その方がいいからです。不安をもちながら、それを押し隠しているのは、不健康な平和状態、疑似平和です。

 バブル経済期以降、労働組合は労働環境を守るという意味では存在理由を無くしたように見えたことがあった。ただ、ここ数年、自身の経験を含めていえば、訴えるか弁護士を立てるかしたほうがよい状況のとき、しかし個人ですれば関係を壊し色んなものを失うと考えて、結局どうあればよいのかと考えたとき、今さらながらに労働組合の必要性に気づかされた。ぼくには、堤は経営者として公然と労働組合の導入を図っていて、ぼくには先進的に思えた。いままた、改めてそう感じる。

 しかし同時に、高邁な理念はいつも超トップダウンだったために、労働組合もどこか底が浅くならざるを得なかった気がする。

三浦◎それから先ほど、均等法について、経営者はそれを歓迎し、組合は反対すべきだ、というアイロニーを含んだ発言をなさいましたね。これは予言だったとも言えます。つまり、均等法は実際、経営者のために使われている。
堤◎女性の中には、その危険を理解していた人もいると思います。わたしは、均等法は両刃の剣であることが、すぐにわかりました。均等法で女性にも男性と平等に仕事ができる可能性が開かれました。しかし現実には、子どもを産んだらどうするか。苦しい労働条件の中で、体を壊す女性も出るだろう。可能性だけは開かれましたが、女性にとってはたいへん過酷な世の中になったんです。当時、均等法導入に反対していた女性団体もあったと記憶しています。そこではすでに、アメリカ型を選ぶか、ヨーロッパ型のワーク・シェアリソグを選ぶかが、議論されていました。結局日本はアメリカ型を選んだ、とわたしは理解しています。それがその後、女性自身の予想をはるかに超えた「男女平等参画社会」が実現し、その結果、「おひとりさまの老後」が待ち受けている。

 ぼくはほぼ男女雇用機会均等法の開始時期に社会人になっているが、均等法はワーク・シェアリソグとセットで考えるべきだったと思っている。反省を込めて。

堤◎(前略)ふつう、どんな人でも、ローカリティに支えられて、その上で個性を保っていると思うんです。そのローカリティの部分が根こそぎになって、浮遊してしまっているのが、現在の日本人ではないでしょうか。ただ、根無し草では不安だから、拠り所は求めていて、それでいきなり「日本」に飛んでしまう。
 それぞれの地域が誇りをもって暮らせば、日本全体云々などはまた別の問題。わたしは、地方の中小企業の経営者はたいしたもんだと思う。つねに先を読もうとしてきたし、生き残ろうとがんばってきた。みんなが、自分のところだけ生き残ればいい、そう思ってがんばったら、案外みんなが生き残れるかもしれない(笑)。全体をどうにかしなければ、などと、大上段に構えるから、どうしたらいいかわからなくなる。日本全体を一つの方向に持っていくなどというのは、どだい無理な話です。グローバリゼーションは、まだあまり浸透しているわけではないし、拒否反応も多い。まだ引き返せる。地方がもう一度地方になるんです。

 これは励ましとして受け取りたい。ぼくも、地方と呼べる地方を持っている。

◇◆◇

 書評とも言えない、感想の呟きを綴ってしまった。許したまえ。目下、過去の反芻期につき。


   『無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉』

Mujirushi

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2009年8月13日 (木)

過剰な委縮

 「Myaku」(「死の棘」日記から(5))で知って、「現代詩手帖」の吉本隆明の発言を読んだ。

よく経済学者が解説するなかに一九一〇年代の大恐慌が出てきますけれども、その状況といまは違っていて、日本の企業とくに中小企業にとってはなんの関係もないし、影響もないというのがいまの状態だと思います。いま日本の出版業をはじめ中小企業と言われる領域の企業が縮こまっているのは、アメリカの恐慌の影響でも何でもない。これは自らを守るために事業とか職業とかでさんざん苦労している日本の中小企業のひとたちが、敗戦があきらかになったころの十年間くらいのあいだのことを顧みて考えて、それを思い出して身を縮めている。それは過剰な身の縮めかただと思います。(吉本隆明、瀬尾育生「孤立の技法」「現代詩手帖」8月号)

 実感に照らしても過剰な委縮というのはよく分かる。理由もないのに委縮してしまっているのだ。

 けれど、間接的な影響ならあると思える。本質的には関係ないはずなのに、大企業の死んだふりで中小企業が深刻な影響を被っているのが現在の状況ではないだろうか。もっと言えば、大企業の死んだふりを模倣して、ここぞとばかりに横暴さを発揮する中小企業もある。必死に死んだふりの影響を最小限にとどめようとする中小企業もある。ぼくたちはここで、正体が露骨に現われるのを目撃しているのだし、今後の選択肢を明示してもいる。

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2009年7月21日 (火)

『吉本隆明1968』

 「団塊世代の吉本隆明体験」を書くというのが『吉本隆明1968』のモチーフ。若い世代に分かるように喩えを繰り出して解説するが、次第に我知らずのめり込み、気がつけば400ページを越えるボリュームになり、かつ中身も本格的な評論になった。それが、鹿島茂のこの本だと思う。

 転ぶ転ばないではなく、近代と封建制の社会構成の全体を捉えているどかが問題の転向論。封建性的土壌から離脱した後、その土壌への嫌悪や恥ずかしさからそこに戻れなかった芥川龍之介。フランス留学を契機に世界性を知るが、出自世界の封建的優性との葛藤が未決のまま戦争にのめり込んだ高村光太郎。抒情詩がそのまま伝統回帰の母体になってしまう。こうした転向の系譜と格闘しながら、大衆の原像の概念をつかみ、自立の思想をつかむまで。それが本書の中身であり、それに添うなら、「団塊世代の吉本隆明体験」というより、「吉本隆明の自立思想」というべきものだ。

 「団塊世代の吉本隆明体験」の当初モチーフは、あとがきに示される。

 それは、「吉本隆明はお為めごかしや偽善的なことは絶対隻口わない」という非常に単純な「倫理的な信頼感」であったと断言できます。もっと、単純に言ってしまえば、「ヨシモト、ウソつかない」ということになります。
 というのも、まだまだスターリニスト的な左翼の影響力が強かった時代に、人民だとか反貧困だとか反戦だとか絶対平和主義だとかいったご大層な大義名分を並べる人に向かって「それはウソでしょう」と遠慮なく言うことのできる勇気を持ち合わせていた人は、吉本隆明を除くとほんのわずかしかいなかったからです。

 「ヨシモト、ウソつかない」。これだと思う。

 けれど、モチーフと中身のズレは失敗だとは思わない。易しい紹介をするつもりが、つい、のめり込むのは好もしいし、おかげで批評家としての初期吉本像を振りかえることができた。


『吉本隆明1968』


Yosihmoto1968_2

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2009年6月 6日 (土)

「そうじゃないと、どうしても、 どこかで片思い的になりますよね。」

 そうだよなあ、という吉本の言葉。

  006 片思

ええ、だいたい、男女の気持ちは
ちょうど均衡してるのがいいんでしょうけど、
それには条件がいるような気がします。

女の人が、親からいじめられてどうした、
というようなことがなく、
生活で不自由したこともなく、
男もそうだ、というんだったら
かなりありうると思いますが、
そうじゃないと、どうしても、
どこかで片思い的になりますよね。


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2009年5月31日 (日)

『叙情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録』

 辻井喬の『叙情と闘争』を読んだ。

 堤清二の『変革の透視図―脱流通産業論』を読んで西武百貨店就職を希望した変わり者として、本の理念と現場の隔絶感は何だったのか、いまだに解けないものを感じるので、そのヒントを求めて読んでしまう。

 もうひとつは、経営者と作家・詩人といいう矛盾した領域を、どう両立させてきたのか、あるいはそれができなかったのかを知りたく思う。

 その後者については、冒頭すぐに言及があった。
 一九六〇年の安保闘争の果てに、安保条約が自然成立した一九日深夜、辻井は、「僕は自分を押さえることができなくて、一人で国会前に行った」。そこで胸中に繰り返しやってくるのは、「俺はここに来る資格などないという呟きであった。」

その晩、僕は家に戻る気になれず一人で銀座の酒場で飲んでいた。間違いなく僕には資格がなかった。一年半ほど前に僕は訪日を要請しにアイゼンハワーに会っているのだから。
 一九五八年の秋には藤山愛一郎外相とダレス国務長官の間で日米安保条約改定の同意が成立していたから、父のホワイトハウス訪問が、その同意に基づき、それを促進するためのものであったことは明らかだったのだ。
 たとえ好奇心に誘われたからであったとしても、それは個人としての欲望であり公の行動に移すべきものではなかったのだ。反対運動は結局政府側に押し切られたという見方が、革新の側の見解であった。成立してしまったのだからそう言えるのだけれども、岸内閣は退陣しなければならず、政府はイデオロギー闘争を一切やめて所得倍増政策を掲げなければならなくなったのだから、単純に放けたと言ってしまっていいのか、というのが僕の判断だった。
 大衆がその後の経済優先政策に賛成しているのに、それに頑なに反対して孤立を深めていった革新的な指導者の社会認識に、一種の原理主義があったのではないか。一方メディアのなかでは「新憲法感覚は大衆社会に浸透した」という意見が大勢であったのだから。しかし、こうした情況にあって、確かなのは、僕が二重の裏切りをしているということであった。ひとつは父親に従ったということで反対に立ち上がった人々を裏切った、二つ目には、敗けたという認識が拡がるなかで僕自身が傷を負わなかったことで僕自身を裏切っていたのである。

 自己としての自己はどう振る舞ったとしてもとがめられる筋合いではない。辻井の自己としての自己も、そういう者として「好奇心に誘われ」て行動する。しかし、それは社会としての自己は、安保反対に立ちあがった人たちを裏切ったことになる。しかし一方、安保闘争は、岸内閣の退陣と政府のイデオロギー闘争の不能を導いたのだから、単純な負けではないと判断するが、敗北の傷を負わなかったことで、自己としての自己を裏切ったことになる。

 のっけから、しかしいつもの分かりにくさがやってくる。
 辻井はどこにいるのだろう。ホワイトハウスまで「好奇心」もあり出かけた自分を、裏切りといい、安保自然成立の夜に国会前に行ってしまった自分に対し、「ここにいる資格はない」と感じるのだから、辻井は、安保の反対運動に対して共感を抱いていだと考えることができる。

 しかし一方、反対派の敗北感に対しては、「経済優先政策」を支持する大衆とのズレや、内閣の退陣と政府のイデオロギー闘争の不能化を導いたことの成果から、反対運動者たちとも心理を共有できない。

 そこで二重の裏切りがあったと辻井は言うのだが、ぼくには分かりにくい。まず、「父親に従ったということで反対に立ち上がった人々を裏切った」のところは、ふつう、「父親に従ったということで反対に立ち上が」りたい自分を裏切ったとなるのではないだろうか。また、「敗けたという認識が拡がるなかで僕自身が傷を負わなかったことで僕自身を裏切っていた」のところは、裏切りでもなんでもなく、認識の相違に過ぎないのではないだろうか。

 前者は自己としての自己として考えるべきことであり、後者は社会としての自己として判断すべきことではなだろうか。そのほうが、自己への配慮としてまっとうではなだろうか。ぼくにはちぐはぐな感じにみえる。

 ここから感じられるのは、大衆とは個人として圧倒的な距離感にありながら、大衆とともになければならないという強烈な倫理感である。大衆とは隔絶していながら、それをあってはならないと考えるために、それを埋めるべく強度な倫理感が要請される。そこで、自己としての自己で引き受けるべきものに社会的な自己が入りこみ、社会的な自己として考えればいいときに、自己として自己で考えてしまうという混乱がやってきているのではないだろうか。

僕はこの慫慂に対して二つ条件を出した。
 そのひとつは労働組合の存在を認めること、二つ目は毎年公募で大学卒業生を採用することであった。
 この二つは企業の近代化にとっての必要最低限の条件だと僕は考えたのだが、聞いた方にとっては父親をはじめ意識の上でも完全にその支配下にあった西武鉄道の経営者にとっても、「何を馬鹿なことを、経営者ともあろうものが」と絶句するほどの驚きの発言であったらしい。

 「慫慂」は「しょうよう」と読み、他人からの勧めを意味すると、辞書にはある。堤清二としてのこの二つの条件は、この延長上に自分も入社しているのが分かるが、確かにぼくは、労働組合に対して経営者が積極的に意義を見出していることは、この企業の魅力に思っていた。大卒採用が絶句される背景には「アキンドに学問は要らん」という考えがあってのことだというのは過去であると見なせるが、一方の「労働組合の存在を認める」のは今も開明的なのではないだろうか。

 ぼくも自分が経営者の一人であったとき、何に矛盾あるいは物足りなさを感じていたのか、またはここ数年の苦境に対し、何が欠けているのかを考えてみると、それは労働組合という存在なのではないかということに行き着くのだ。

世の常識が指摘するように、芸術家と経営者、わけても財界人とは両立しないのである。もっと言えば両立してはいけないのである。それをあたかも両立するように僕は主張したことがある。それは意図的でなかったとしても誤りであった。政治家の場合はその職業が権力を握り得るものだけにもっといけない、と僕は思う。芸術家が政治家として成功するとしたら、それは独裁政治だからだ。だから財界人や政治家に望むのは、芸術や文化に理解を持っていてほしいということだけで、それ以上ではない。

 これは、芸術家とは自己としての自己で自己の全体を満たす存在であり、経営者とは社会としての自己で自己の全体を満たす存在であると言っているのではないだろうか。それゆえ、両立しないという認識はまっとうだと思う。比較にならない規模だが、ぼくも経営者をしているとき、ビジネス書は書けるが、批評書は書けないと思った。経営者を辞めたあと、批評書を書いた。そのとき、経営者を辞めたからこそ書けるという実感が伴った。これが書きたかったのだという嬉しさも一入だった。経営者を辞することで、書き手としての自己をぼくは救抜できたと感じた。それは後付けの了解に過ぎないにしても。

 そうした社会状況の中に日米安全保障条約の改定案が持ち込まれたのであった。一九五七年、五八年の頃のことである。これに対する社会の反応は、改定を急ぐ政府の事の運び方の拙劣さもあって、極めて否定的であった。岸内閣はこの反応の悪さを反政府勢力の煽動・メディアの偏向報道の結果だと誤認して、いよいよ大衆を怒らせた。
 大衆にはこの改定案を認めれば半植民地的な状態が恒常化してしまうのではないかという、ナショナルな感情に基礎を持つ不安があった。 

 現に政治において、米国追従の「半植民地的な状態」があり、沖縄が象徴的に軍事でそれを担わされていることを考えれば、安保は、ぼくたちにとっても無縁ではないことが分かる。

 三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。
 彼の目に、それは思想的退廃としか映らなかったのである」確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
 しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか見なかった。もしかすると戦後の社会は、一九七〇年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。

 この三島理解は友情に裏打ちされていて心を動かされる。それとともに、「烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失ってい」るのは、現在なおそうだと感じる。その補償のように、ネットでは匿名の烈しさが跋扈している。

 その頃、かつて 「婦人公論」 の名編集長だった三枝佐枝子所長の下で 「商品科学研究所」は「主婦の日」 「故郷銘品」 といった商品の開発に加わり、量販店の西友がその販売を行うシステムが作られていた。また商品開発の中で生まれた「無印」 という言葉には、品質は同じだが、ブランド商品ではないために安価である、という考え方が込められていた。「無印」 と「主婦の目」「故郷銘品」との間には共通する考え方と異質な部分とがあったから、どちらがよりよく消費者に受け入れられるかは、市場の選択に任せればいいと考えた。そして、このような考えに従って開発を進めてみると、対象をファッション商品に限定すべきではないことが分かってきた。

 たとえば椎茸はなぜ思いのほか値段が高いかを調べると、傘のところの端が欠けたり、茎が極端に曲がっている椎茸は産地で不良品として、パックする際に除外されてしまっていることが分かった。そこで椎茸を買った人が、どんなふうにそれを使い、消費しているかを調べた。すると大部分の椎茸は、だLを取るために使われているから、産地や農場名がはっきりしていれば、形は不揃いでも構わないと、大部分の消費者が考えていることが分かった。

 もちろん、「それって新しいブランド志向ではないか」 という反論も出された。ノン・ブランド商品を開発する思想は単なるブランド反対、ということではなく、根底には人間らしさの上に立った、合理性の思想が必要なのだという意見が次第に台頭してきて、それに合致しているブランドは三宅一生の作品ではないかというような主張も飛び出し、そうなると、今度はその主張を巡って論戦が交わされるという、それまでの小売業の社内にはなかった質の討論なども行われるようになった。社外の、感性と思想に強い人たちが参加していたことも刺激になっていたように思う。

 セゾンがもっとも輝いたときのことが触れられている。それだけに文章も説得的だし、ぼくも確かにこの、新しさに惹かれた。

 その他、業種的には不動産部門を担当している西洋環境開発、飲食レストランの西洋フードシステムズ、吉野家、先代の指示もあってはじめたヘリコプター運営会社は朝日航洋と名前を変えて業界の大手になっているといった具合だった。それだから、西武百貨店の社長をやめ、小売部門で引退を宣言しても、誰もそれを本気とは受け取らなかったのは、冷静に考えれば当然のことであったろう。
 そこのところに経営管理上の隙も生まれたのである。

 ぼくはこの頃に西武に入っているが、堤清二はすでに会長職にあった。そして社長の影はその分、薄かったと思う。ぼくは「経営管理上の隙」を目撃はしなかったが、理念と現場の巨大な「隙」なら大いに直面した。

一九八八年の記録によれば八七年に単独店舗として西武池袋店は売上高で全国一位に、会社として西武百貨店の売上高も、流通企業集団としてのグループとしても業界一位に、つまり三冠を獲得している(後略)

 のだが、同じ時期の詩では「私ハモウ駄目デス」と書く。

 そうして、こうした詩が書かれているところを見ると、確かに西武百貨店の経営は、入社した時の目標を達成したと僕は認める気分になるのである。本当は、有頂天になって祝杯をあげてもいい時なのに、自分で考えても、この心理構造は変と言えば変だし、謎めいていると指摘されれば領くしかないと思う。僕が、人間は多分、自分のことは分からないのだと思うのはこういう時である。

 これを理解することはできるだろうか。西武百貨店の達成をうかない感じでその場だけ共有していたぼくなどに考えられるのは、経営者と芸術家は、社会的自己か自己的自己のどちらかのみの存在であり、両立はできないはずなのに、両者をうまく統合できないまま行き来し続けたため、社会的自己の達成を、自己的自己が追い詰められるものとして受け取らざるを得なかった、ということではないだろうか。

僕はセゾングループの歴史をまとめておこうと思い立った。世の中の通念に無いことを理解してもらうのがどれくらい困難かについて、僕にはかなり痛切な思いがあり、社外の学者や評論家に自由に分析してもらって、その中から、僕が何を考えて仕事をしてきたかが浮かび上がればいいという気持ちだった。客観性が認められれば、ただ創業者を顕彰しているような社史とは違って、経営史の資料としても使ってもらえるのではないか、という期待もあった。

 ぼくもこの企画を覚えている。

 最後に、現代を思想的に分析してセゾングループに迫るという巻は、『トランスモダンの作法』という題名になり、哲学者今村仁司教授を中心に篠原資明、中岡成文、野家啓一、鷲田清一といった、現代知を代表するような若い学者が集まった。その「あとがき」で今村仁司が触れているように、ほぼ三年にわたる共同研究の結果が、全六巻に集約されたのであった。
 こうした作業は、真面目なセゾンの幹部たちにどのような印象を与えていたのだろうか。どことなく僕は、この六巻の社史の編纂によって、セゾングループは知を手に入れてロイヤリティを失ったような気もするのである。
   「セゾングループは知を手に入れてロイヤリティを失った」という洞察は正確なのではないだろうか。それは、「社外の学者や評論家に自由に分析してもら」うという方法に根ざしていると思う。もちろん、セゾングループの社史が世によくあるような堤清二礼賛の書であったらぼくたちはひどく失望したろう。しかし、外部の書く社史は、そうした失望すらできないものに思えた。つまり、内部の者がここに自分たちがいると感じられるものでもなかった。ここには内在が空虚化されてしまっている。ぼくたちは失望すらできない。それはそのまま、外部から書くものの中身を空疎化したと思う。その意味では、セゾングループはロイヤリティを失っただけでなく、知も手に入れてないのだと思える。
 僕にとって、戦争で無念の最期を遂げた人々の死を引き受けることなしに、現代を生き続ける路を開くことほ出来なかったのだ。と同時に、自分にも難解に見えた条件として、経営者である人間が書いていくという状態のむずかしさ、あえて名付ければ、職業と感性の間の同一性障害とでも指摘すべきズレがあったのではないかと、自分でも思う。

 結局はここに行き着くのだと思う。辻井と堤は、芸術家と経営者であるため、自己的自己と社会的自己のバランスという概念がなく、経営者であるとき社会的自己は満たされるが、自己的自己は零あるいはマイナスに追い込まれる。そこで、自己的自己を満たす芸術家の世界を持つが、そのとき社会的自己は空虚化される。その、オール・オア・ナッシングを往復することでしか、両立することはできなかった。経営者から降りることができれば、バランスの問題に持ち込むこともできただろうが、辻井の運命はそれを許さなかった。

 そしてこの辻井の矛盾は、西武のあの、外部の過剰と内部の空虚ともいうべき、雰囲気にも投影されていた気がする。そういうことではなかったかということにたどり着けたのが、この本からのぼくの収穫だった。


  『叙情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録』

Zyozyoutotousou

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2009年5月19日 (火)

『詩とはなにか―世界を凍らせる言葉』

 この人の書くものはつぶさに読んでいるつもりだった。『詩とはなにか―世界を凍らせる言葉』も、雑誌の切り抜きで持っている講演録が収められているのが目当てのつもりだったが、とても新鮮だった。

 たとえば、1961年の「詩とはなにか」は、強烈に響いてきた。

(前略)わたしがほんとのことを口にしたら、かれの貌も社会の道徳もどんな政治イデオロギイもその瞬間に凍った表情にかわり、とたんに社会は対立や差別のないある単色の壁に変身するにちがいない。詩は必要だ、詩にほんとうのことをかいたとて、世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかにほんとのことをロにしたのだといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない。

 充足感は雲泥の差ではあったとしても、ぼくにとって批評はそうだ。そして『奄美自立論』は、誰に受け止められないこともあるかもしれないけれど、ぼくはなにかに止めを刺したと思っている。

 しかし、慣習的な精神への苦痛や侮蔑は、実生活では解消することはできなかった。まず世間は、あらかた素直で健全な精神に荷担するし、明るく素直な少年は、瀾歩した。わたしは職業軍人になろうと思ったことはなかったが、こういう同年輩の少年は、わたしの環境ではおおく職業軍人のような社会肯定的な方向へむかったようにおもう。わたしは羨望を感じ、孤独でありながら、その方向へ行けなかったというのが妥当なところである。だから、戦後になっても、戦争で死んだ同年輩に対する非難に、じぶんの異和を申し述べて同調するよりも、かれらの死を擁護した。
 戦後、時代はかわり社会は一変したかにみえたが、ただひとつかわらないことは、素直で健全な精神は、社会を占有し、そうでないものは傍流をつくるという点である。

 これは、今も、そうではないだろうか。「素直で健全な精神は、社会を占有し、そうでないものは傍流をつくる」。ほんとうにそうだと思う。「素直で健全な精神」は羨ましく、ぼくはそうではないのだなということがいよいよもって身につまされてくる。


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2009年2月16日 (月)

しゃべる村上春樹

 ニュースでしゃべる村上春樹を初めて見た、聞いた。

 村上春樹さんの講演 イスラエルに批判的報道なし

 エルサレム賞の村上春樹さん「ここに来ること選んだ」

 発音は日本人的愛嬌を残すとはいえ、表現力は豊かな感じだった。「壁」がどんなに正しくても「卵」の側に立つというのも文学者の面目というもの。この作家が、社会的事象に無関心なのではなく、なみなみならぬコミット感を持っていることも改めて分かる。

 少なくともぼくは、オバマの演説より、こっちを読みたいと思った。



 

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2009年1月26日 (月)

「我々は、我々の生き方について謝らない」

 「用意周到」の誉れ高い新大統領の就任演説。しかし、翻訳文を読んだせいかもしれないが、ぼくは、何も言ってないように聞こえた。空疎を覚えた。

 オバマ米大統領、就任演説全文(和文)

さらに、我々のエネルギーの消費のしかたが、我々の敵を強化し、我々の惑星を脅かしているという証拠が、日増しに増え続けている。

 ぼくは、「敵」という言葉が普通に出てくることにぎょっとする。というか、この点、前大統領と変わらないのを知る。

 我々のために、彼らは、わずかな財産をまとめ、新たな生活を求めて大洋を旅した。

 我々のために、彼らは、劣悪な条件でせっせと働き、西部に移住し、むち打ちに耐えながら、硬い大地を耕した。

 我々のために、彼らは、(独立戦争の戦場)コンコードや(南北戦争の)ゲティスバーグ、(第2次大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンのような場所で戦い、死んだ。

 彼らはこうは言うが、自分たちが先住民を追い出したことに言及しない。

 我々は、我々の生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しない。テロを引き起こし、罪のない人を殺すことで目的の推進を図る人々よ、我々は言う。我々の精神は今、より強固であり、壊すことはできないと。あなたたちは、我々より長く生きることはできない。我々は、あなたたちを打ち破るだろう。

 ぼくはこの、「我々は、我々の生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しない。」というところ、「謝らない」「躊躇しない」にアメリカらしさを感じる。「我々は、我々の生き方について謝らない」。この演説のなかで、もっとも印象的なくだりだ。

 我々には、南北戦争や人種隔離の苦い経験があり、その暗い時代から出てきて、より強く、より団結するようになった。我々は信じている。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる線も消えると。世界が小さくなる中で、我々に共通の人間愛が現れることになると。米国が、新しい平和の時代に先駆ける役割を果たさねばならないと。

 そうだ。そしてそうなら、「国家を隔てる線も消える」と言うべきところではないだろうか。

 ここに理念の更新はなく、被差別者による自己肯定の追認があるように感じた。ちょっと偏屈な見方かもしれないが、心動かされなかった。


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2009年1月21日 (水)

『文学地図』

 好きな作家がいるけれど、ぼくは小説のよい読み手ではない。でも、文芸批評は大好きだ。文芸批評によって小説のよさを教えてもらっているようなものだ。鈍感だが考えることはできる。ということなのだろうか。

 とにかく、今回の加藤典洋の『文学地図』も、読み応え満点だった。

 村上春樹の「象の消滅」や「ニューヨーク炭鉱の悲劇」などの、村上の「逆説的なコミットメント」の“読み”は面白くて仕方ない。「大江と村上」、「関係の原的負荷」も未知の現在を切開する力強さがある。「関係の原的負荷」など、他人事ではない。食い入るように読んだ。

 また、読むだろう。

 『文学地図 大江と村上と二十年』

Bungakutizu


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