『進化しすぎた脳』のクオリア注

 『進化しすぎた脳』から、クオリアに関わる個所だけピックアップ。

 ここでせっかくだからちょっとカッコいい言葉を覚えておこう。これは使える言葉。「覚醒感覚」。つまり、音楽を聴いて、すごく美しいと思ったり、悲しい気分になったり、リンゴを食べておいしいとか、甘酸っぱいとか、そういう生々しい感覚のことを「クオリア」と言うんだ。「クオリア」というのは多分ラテン語で「質」という意味だと思うんだけど、英語ではクオリティ(quality)の語源になっている。
 ここでいう「質」というのは、物質の<質>という意味ではなくて、ものの本質に存在するような質感の<質>。実体ではない<質>。美しいとか悲しいとか、おいしいとかまずいとか、そういうのをひっくるめて「クオリア」と言おう。つまり、僕らが世界を体験しているという実感、その感覚がクオリアだ。
 いまの話の流れからすると、「クオリア」というのは表現を選択できない。リンゴが甘酸っぱいのはもうしょうがない。「脳」がそういうふうに解釈して、「私」にそう教えているから、もう、これは仕方がない。(p.49)

 クオリア(qualia)は、クオリティ(quality)の語源であり、定性(qualitative)につながる。

「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」というクオリアが生まれるんだ。あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。だって、体を自分の意識でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うんだから。つまり、自由意志というのはじつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。
 こんな事実から、クオリアというのは脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にはかならないことがわかる。「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識で神経が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「ボタンを押す」という行動を生み出すとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているってわけだ。(p.171)

 クオリアに対して人は受動的であること。クオリアも無意識に対して後続すること。

 その意味では、ちょっと話は飛躍するけれども、ジェームズーランゲが言った「悲しいから涙が出るんじゃない。涙が出るから悲しいんだ」という発音は半分は正しいと思う。
 〈悲しい〉というのはクオリア、つまり、ありありと感覚されるものだね。しかし〈悲しい〉というクオリアは、おそらくは単に脳の副産物、脳の活動の結果にすぎない。クオリアは僕たちの生活や心にいろどりを与えてくれているものであることは間違いないけれども、神経活動から生まれたクオリアがまた神経に作用するということはない。クオリアそのものは脳が生んだ最終産物である、という結論に行き着いた。ここら辺は抽象的な話でちょっとむずかしかったかもしれない。(p.319)

 クオリアは、ありありとした実感であるが、十全に言葉として表現されるのは難しい。


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「自分へのご褒美」備忘録

 とてもハードなを書いた後は、楽しいだけの本を書きたくなった。そうして思いつくのは、「自分へのご褒美」である。「自分へのご褒美」、ここ一年くらい気に合っているキーワードで、このキーワードをめぐってどんなブログが書かれているのかウォッチングしている。

 そんなことを思って見ると、そのもの、『自分へのごほうび』(住吉美紀)という本が出ていて、すぐに買ってみた。読者層は、著者と同世代の三十代の女性だろうから、思い切りそれから外れて入るし、ぼくも探究する目的が無ければ決して手に取ることのない類のものではあるけれど、これも縁である。

 実際に読んでみると、「自分へのご褒美」というのは、とどのつまり、自分へのケアのことなのだということがよく分かった。

 歳だけは取っていくのに、生き方に確信が持てないまま、焦る気持ちに押しっぷされそうになることが時折ある。漠然とした不安に襲われ、希望とやる気を失い号つなときもある。一度きりの人生、これでいいのだろうか……?白黒はっきりした答えなんて出るはずもない。
 そんなときは、今もやっぱり、周りに目をやってみる。
 すると、意外なものごとや出来事が、思わぬ気づきや励ましをくれる。日常に潜む喜びや発見が、力を与えてくれる。見ようとする気持ちさえあれば、身の周りにはごほうびが溢れているのだ。
 そう、自分へのごほうび。
 人生とは、自分探しの旅である。よく聞く言葉だが、そろそろ、その本当の意味を実感できるお年頃になったのかもしれない。生きていると山あり谷ありだけれど、自分へのごほうびをギユッと愛おしく抱きながら歩けば、旅を続けていけると思うのだ。
 そんな、わたしの「ごほうび」たちを、この本にパンパンに詰めてみた。

 この本のモチーフは、「はじめに」で明瞭に語られる。「自分へのご褒美」が、消費という以前に、自分の身の周りの事物との関係の気づきのことを指していることも語られている。そして、「自分へのご褒美」が、似て非なる「自分探し」と接点を持っていることも。

 で、最初のエッセイは「朝ごはんは重要だ」で始まる「黄金の朝ごはん」なのだが、それがなんとスイーツなのである。朝ごはんというのは、ご飯かパンで、お酒を飲むわけでもないし、こってりしたものを食べるわけでもない、どちらかといえば、まじめな食事?という先入観があるので、朝ごはんにスイーツは驚いてしまう。しかり、驚くのはまだはやくて、

 いよいよ、口に運ぶ。ちなみに食べるのは、台所で立ったままと決めている。構えずに食べたいからだ。お祭りの屋台の前で立ったまま食べるウィンナーやりんご飴は美味しいのに、買って帰り、食卓で食べるといまいち美味しく感じないのと同じである。立ったままの機動力を活用して、軽快に、朝の時間を楽しむ。目が覚める音楽をかけたりして、ちょっとオシリを振りながら食べるのも上々。その数分問は己を解放して、一日のやる気を盛り上げる。

 と、来る。オシリ振りふりスイーツの朝食なのだ。
 自分が元気になるには、食べるべきものという枠に囚われずに食べればいい、しかも食べ方だって好きにすればいい。そうか、ここで言う「自分へのご褒美」というのは、朝ごはんとの関係の仕方を自分で自由にアレンジすることなのだ合点する。

 「手帖」は「一緒に険しき日常を徒行してきた、相棒」。「さけるチーズ」、「身近にいる強い味方」。単焦系レンズの「デジカメ」は、「自分にとって必要不可欠なひとつの機能を持つ」もの。のほほんとする「シンプルな瞬間こそ、人生のシアワセがたんまりと詰まっている気がする」。

 この人はわたしが生まれる前からうちにいる。そして、二歳か三歳のとき、わたしはこの扇風機に向かって顔から転けたという。羽根の周りの金属の留め金で頬を切り、けっこう出血したらしい。一応女の子だし、傷が残ってはよくないと、両親は急いで病院に連れていった。しかし、結局その傷は今も残っていて、ある意味、わたしの顔の個性になっている(と自分では思っている)。
 つまり、扇風機さんは、わたしの顔を作った人のひとりなのだ。そんな歴史まで共有しちゃってるんだから、緑が深いと言うしかない。

 「この人」というのは扇風機のことだ。自分が扇風機を動かし、扇風機に傷つけられることもあったという関係を通じて扇風機は擬人化される。その擬人化のなかで、不器用で愛嬌のあるところに人っぽさを見ているわけだ。

 本『Frog and Toad』に純粋な人間関係を見る。「鼻うがいポット」を通じては、新しい身体との関係。必要なものを減らすことに価値を見いだす「小荷物」主義。「あまり考えすぎず、とりあえず前進」すると、求めるものは返って得られる、その象徴のような「金木犀の香り」。

 それに、それなりに何かをこなしたとしても、今さら若い頃のように誰も褒めてほくれない。褒めてくれるのは自分だけ! だからこそ、その己の自信が崩れたときには、どうしようもない虚しさと脱力感に襲われるのだ。ああ、こわい、こういう朝は。

 褒められるということは、それ無くしては社会的生活に障害が生まれるほど必須なものと思われている。そういえば、「さんまのからくりテレビ」でも、演歌好きの大江君は、叱られたとき、「褒めて伸ばされたいです」とすっとんきょうなことを言っていた。

 橙色の空を見ながら思う。いいではないか、小さな失敗を繰り返してしまっても、ほかの人がすごく見えても。いびつだからこそ、少しでもがんばれた日は、自分を思いきり褒めてあげればいい。

 褒めてくれるのは自分だけ。だからこそ、自分で褒める。ここに「自分へのご褒美」の駆動源もある。つまり、「自分へのご褒美」が顕在化してくる背景には、「ひとり」という状態がある。

 「ひとりカラオケ」だって「自分へのご褒美」である。

 そうよね、自分が好きなところに行って、道で人に踏まれるかもとか恐れずにゴロゴロ寝て、他人がどう思おうと気にせず、何かを期待されても応えず、そこに居たいだけ居て、晴れれば太陽を味わって、雨が降れば雨粒を眺めlて、自分なりに生きていければ、それでいいのよね。

 「ネコと逢う」ことで、余計なことに気を遣い未来を思い患い「ありもしないしがらみに勝手に縛られ」て、忙しくなyている自分自身との関係を結び直す。「洗濯物」を眺めて「心の奥から平穏を感じる」。

 読書に没頭している間は、電車の中に居ようが、自分の部屋に居ようが、カフェに居ようが、周りの環境は全て消え去り、本の世界の中に確かに居るのだ。飲んでいる紅茶や座っている椅子のクッション、吸っている空気までもがなにやら違う質感を帯びてくる、不思議な感覚だ。

 と、読書の本来の楽しみ方を押さえ、ライブで「心身に必要な栄養分」を得る。

 また、「自分へのご褒美」の代表のひとつは「お取り寄せ」である。

 食べることが、日々の悦楽の大きな部分を占めているので、その楽しみをちゃんと確保したいと思う。きょうは何ひとつ楽しみがない、いや、むしろ気が重くなるような仕事がいっぱい溜まっていて、はぁ……という日でも、大好きなものが食べられると確約されていれば、それだけで、じゃあ、その前にイッチョがんばるかな、なんて思えたりする。単純だが、美味しさの確保が大差を生む。自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜くという感じである。

 でもって、「自分へのご褒美」を生きる技術としてみたときの意味がここに書かれる。その原理は、「自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜く」、である。

 ヨガで自分の身体の「進化」を感じる。「ひとりコーヒー」で「大人のオンナ」を実感する。「新しい自分への脱皮が成功すれば、引っ越しも、自分への大きなごほうびとなる」。引っ越しによる自分自身の更新が「自分へのご褒美」だということ。

 「皮膚の下、深度の深いところの渇きまでをも癒してくれそうな気配」の「わたしアロマ」。「邪念なく、体力の限りまでがんばり通すというのは、自分の「生」への炎を確かめるようなもの」というカラオケ部活。「飾らない、素の自分を、かつて心から受け入れてくれたことのある」モト彼の存在は嬉しい。

 それがないと「息苦しくて倒れてしまいそうと感じることがある」からたまに吸う「海外の空気」。その海外では、

 ニューヨークも、ガツガツと何にでも手を出すのではなく、自分だけのキーワードでググる感覚が必要な街だ。そんな旅は難しそうと尻込みすることなかれ。「自分が今求めているものは何か」ということを基準にすればいいのだ。世間の流行や話題のスポットなんてチェックしなくていいし、お決まりの観光エリアを全て網羅する必要もない。逆に、人がどう思おうと、自分にとって大事な場所には絶対に行く。そうすれば、他の街では絶対に得られない、ごはうびが見つかる場所でもあるのだから。

 自分の欲求(wants)をよく分かっていれば、「自分へのご褒美」と出会える。「自分へのご褒美」を見つけるには、自分の欲求(wants)を知っているのがいい。

倉庫の片隅に座り込み、こうして文章を読んだり、本を手に取ったりしながら六歳の少女と会話をしているうちに、まるで恐竜が目覚めるかのように、忘れていた感覚や感情がたくさん、たくさん蘇ってきた。
「自己」を意識する前の自分。自意識に邪魔されずに周囲の世界と関わっていた頃。その少女が、現在のわたしに、鮮烈な存在感を持って迫ってきた。

 六歳のときの自分との対話による自分の見つめ直し。自己更新。
 恰好いい先輩への恋。ラーメンをパスタのようにクルクル巻いて食べると変わるように、ほんの少しで変わる日常。濃い付き合いをしてみると分かる植物に励まされていること。

 こんな風に人に限らず、モノやコトと新しい関係を結んだり、関係を見直したり結び直したりすることのなかに、著者の住吉は、「自分へのご褒美」を見つけている。

◇◆◇

 「自分へのご褒美」をニーズと見なし、このニーズはいつ顕在化したのかと問うと、1996年、アトランタ・オリンピックのマラソンのゴール直後、有森裕子が「自分で自分をほめたい」と語ったときだと思う。それ以降、「自分へのご褒美」は口にしてもいい言葉になった。

 本の世界では、有森裕子の発言の一年前に、作詞家の麻生圭子が『じぶんにごほうび』という書名で先駆けている。見られる限りでは、これは「自分へのご褒美」本の嚆矢であり、その翌年の1996年、有森発言と同じ年には、落合恵子が『自分にごほうび』というエッセイを出している。まさに1995年から96年にかけて、「自分へのご褒美」は人々の意識に上ってきたのだ。

 ただ、この二冊は「自分へのご褒美」を意識化した言葉として嚆矢であるとはいっても、その中身は住吉とはずいぶん違って見える。

 たとえば、麻生の『じぶんにごほうび』は、本文の前に「この本を手にしたあなたへ。」という文章が置かれる。

つぶやく夜はないですか。
「どうしてわたしがひとりなの?」
悔しくて、泣きたくなる夜はないですか。
「こんなにがんばっているのに、
どうして、誰もわかってくれないの?」
まじめで、演がよくて、凡帳面で、
才能があって、がんばってる人ほど、
そんなツラい思いをするようです。
これは、そんなあなたに代わって、
わたしが書いた、甘いつぶやき、
エッセイ詩集です。

 このメッセージを読むと、懸命に頑張っているけれど報われず傷ついている痛ましい姿がやってくる。ここからやってくる印象と住吉の『自分へのごほうび』とは懸命さは同じだけれど、報われていないという痛ましさは、ない。そしてもっとも違うのは、麻生は「どうしてわたしがひとりなの?」と問うのに対して、住吉の場合、「ひとり」は前提であり、しかもやむを得ない前提ではなく、大切な前提としてつかまれているようにみなされていることだ。ここに長く引用した「自分へのご褒美」の種は、一つひとつが、ひとりであることを欠かせない要素として生みだされている。

 住吉の「自分へのご褒美」は、落合のそれとも違う。

まえがき
前略
元気ですか?元気でいてください。元気なあなたは
素敵です。
でも、いっつも元気、なんて嘘。
時々、大声で叫びたくなります。
生きてるってことは
どうして こうも疲れることなのだろう、と。
そう。疲れたあなたも、あなたの大事な一部です。
あなたの怒りが、かけがえのないあなたの一部であるように。
どうか、心に蓋をしないでください。
あなたは あなただから 素敵なのですから。
この本を
目覚める朝ごと「元気であろう」と 自分に呼びかける
あなたに
けれども 時には心の奥に降り積もらせた疲れのために
人知れずため息をもらしているあなたに 贈ります。
一日の終わりに 好きなCf)でも流しながら
頁を繰っていただけたら幸いです。
男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが
使っている意味とは全く別の意味で、この言葉をあなたに。
いい女だよ、あなたは!

 ここからも懸命さと痛ましさの印象はやってくる。
 たとえば、「女子の決断」というエッセイで、住吉は、「最近、周りで決断する女子が増えている」としてこう書く。

 つまり、一度きりの人生、「わたしの存在意義をかけてもいい!」と感じるような、予定外に強烈なものに出逢いたいと思っているのだ。
 コポリの場合、それはイギリスの土地と人で、トモちゃんの場合、それは教育の仕事というライフワーク。
 いわゆる自由が、必ずしも本当に自由なわけじゃない。選択肢が多すぎる今の世の中は、「きりがない」という不自由だってある。だとすると、自分の心を縛って離さない召命と呼べるくらいの強烈なものに出逢えば、縛られているほうがずっと自由かもしれない。
 だから、予定外の素敵なハプニングが起こったら、人生の舵はいつだってきれる。生活の激動だって厭わない。
「うわ、この人と人生をともに歩まねば!」と強烈に感じる男子と出逢ってしまったら、自分の仕事や住む場所などを大幅に変える覚悟だってある。あるいは、予定外に子どもを授かるとか、強く惹かれる仕事の分野や人生のテーマを見つけちゃうとか……そんなことが突如起こっても、ちゃんと引き受けられる。
 ひょんなご緑に人生を委ね、そこで自分なりの何かを育てようと決心できること。もしかして、それこそが女子の持つ母性なのかもしれない。
   決断するのは女子であっても、それは「男子」の対立項として言うのではない。それが、「男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが使っている意味とは全く別の意味で」と断る落合の女性像と変わっているところだと思う。しかも、住吉の場合、「男」ではなく「男子」であり、「女」ではなく「女子」である。

 また、別のところでは、

「男は胃袋でつかみなさい」とよく聞くけれど、わたしは逆だね。つかまれるほうだ。そして、つかまれてしまうという男子の気持ちもよくわかる。だって、美味しいものを毎日いただけるというのは、幸せなことだ。

 として、「料理好き男子」を重宝している。ここにいる男女は、対立構図のなかにない。むしろ、草食系と呼ばれ、それがときには物足りなさとして言われることもある、けれどその分、自由も手にしている女性の、生きる技術が「自分へのご褒美」である。

◇◆◇

 ブログで「自分へのご褒美」のキーワードを追ってゆくと、今年は1月23日、原宿にオープンした「ゴディバ ショコイスト原宿」も出てくる。このショップのコンセプトはそれこそ「自分へのご褒美」だが、それは「セルフトリート」と呼ばれるものだ。

 そう言われてみれば、住吉美紀の『自分へのごほうび』も、「How to treat myself」と、ある。「自分へのご褒美」は、自己へ配慮するための技術なのだ。

 ここまで来ると、「自分へのご褒美」は、顕在化した新たなニーズというに止まらず、絵を描いたり読書したり文章を書いたりなど、人それぞれに行ってきた自己慰安につながってゆくのが分かる。そういう気づきに向かうのに、住吉の『自分へのごほうび』は、よいガイドになってくれた。こういう読まれ方は著者の本意ではないだろうが、感謝である。


 最後に、ブログを追っていると、「自分へのご褒美」は女性のみのキーワードではない。男性もあからさまに使って、自分へのご褒美消費をしている。普遍的なニーズだと思う。しかし、ここまで辿ると、楽しいだけの内容には、やっぱりならないですね。それは悪いことじゃないけれど。

   『自分へのごほうび』(住吉美紀)

Zibunhenogohoubi

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『クオリア立国論』

『クオリア立国論』
Qualia

 人間は、無意識に感じているものを他人に語ることはできません。自分自身でさえよく把握していないのですから、それを他人に説明することは基本的にはできない。自分で意識されたものについては言葉で語れるけれど、無意識のものを言葉にすることはとても難しい。クオリアというのは無意識で感じる質感です。みんながそれぞれに無意識のなかに感じている。それを心のなかから引っ張りだして、互いの質感について話をする。つまりクオリアというのは、人と人とのコミュニケーションの基盤であるという言い方もできるわけです。

 マーケティングの世界に、インサイトという言葉があります。たとえば消費者がある製品を選ぶ。多くの製品のなかから、たったひとつの商品をチョイスする。どうしてその商品を選んだのかを聞くと、明確な理由はそこにはありません。「好きだから」「何となく気に入ったから」という曖昧な答えが返ってくる。そうした消費行動に対する理由づけをすることを「インサイトを明示化する」と言うのです。たとえば数あるコンピューターのなかからアップル社のコンピューターを選ぶ。機能的には大した差がないのに、どうしてかアップルのコンピューターをチョイスする。買った本人でさえ、その理由を明確に示すことはできない。無意識で選んだものに関しては説明のしょうがない。その無意識で感じたクオリアを明確な言葉にしていく。それがマーケティングのひとつの方法論なのです。「アップル社のコンピューターは、こういう理由で選ばれているんですよ」と明示することで、さらに消費心理にいい影響を及ぼすということです。

 ここでいうインサイトは、ウォンツ(欲求)のことだと思えばいい。強いて言えば、無意識の領域の広いウォンツと言えばいいだろうか。


 この本からヒントを受け取ると、ネット上の声は、オピニオン(意見)ではなく、インプレッション(感想)の領域が増えると、生産と消費のサイクルに好循環化を生む。


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『走る女たち』

 女はなぜ、走るのか。自由になるため、だ。それがこの本からまずやってくる印象だ。

 ダイアンは走ると発作が起こらないからそれが薬というように走る。パムは太りたくないから走り、アスラは宗教的抑圧に抗して走る。シャリは女の子の殻を破りたくて走り、ジャネットは性転換して女性になってその証ように走る。

 彼女たちの走りっぷりを追っていくと、体調から自由になるように、いや、女性の身体は走るのに向いていないという偏見に抗うように、女性を取り巻く不自由を振り払うために走っているように見えてくる。フェミニズムの先端は、いま走ることにあるのではないか。そんなことすら思った。 


『走る女たち』

Photo

この本はたしかに走ることについての本だけれど、女性が日々の生活を生きるヒントが見つかるのではないだろうか。女性の場合、仕事や家庭、出産、子育て、加齢による心身の変化など、複雑に絡み合う条件とともに生きていかなければならない。社会的には男女平等がかなり達成されてきているけれども、おそらく女性の人生には、今でも身体的に面倒なことがいくらか多いのではないかと思う。

 これは「訳者あとがき」のなかにある言葉。これは、新しい一歩を踏み出したい。そう思っている女性への応援歌だ。


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『時間単位の市場戦略』

 「時間単位の市場戦略」は、「時間」に着目してマーケットを見るということだ。谷口正和は書いている。

 マスターゲットからタイムテーゲットへ、この視点の切り替えがすべてなのだ。顧客は均質化したマスとしては存在せず、時間帯のなかだけに存在する。

 この一節、なんだかあれである。あれ、を思い出させないだろうか。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

 そう、これ。

 それはさておき、

『時間単位の市場戦略』
Zikantani









 マーケティングのなかで一番危うい概念はターゲットだ。それは、マス(=大衆)という括りではどの商品も広すぎて太刀打ちできないという以上に、消費者を“狙い撃ち”する対象として見做す視点自体が無効化している。

 谷口はこのマスターゲット無効の時代にあって、「時間」という視点を導入しているのだが、この視点の新しさは、狙い撃ちする対象を「消費者」から「時間」に切り替えている点にある。この視線変更について、ぼくはハートランド・ビールのターゲット設定を思い出した。

 ※ハートランド」(ザ・マーケター)

 ハートランドの商品開発は、ターゲットの放棄から始まっている。デモグラフィックな属性で区切るのは止めよう、来させようと考えるのは止めよう。同じ価値観の人が自然と集まる場所にしよう。ハートランドはそう発想している。そしてこれを実現するのに、マーケターはターゲットの研究をするのではなく、「商品」と「場」が共感に値するものになるように大量かつ高質のソフトを注ぎ込んだのだった。

 ここでマーケターは、ハートランドに訪れるニーズを、「職場でも家庭でもない第三の場がほしい」と想定するのだけれど、それは、仕事が明けて家路に着くまでの夕方から夜の時間にかけてになる。ここからみると、ハートランドがターゲットにしたのは、「時間」なのかもしれなかった。

◇◆◇

 ワンダ モーニングショット

 アサヒ飲料の朝専用缶コーヒー「ワンダ モーニングショット」がヒットしている。挽きたて抽出と独自の新抗酸化抽出など、朝専用を証明する切れのよさをアピールした商品内容が謳われているが、ヒットした最大の理由は「朝専用」とコンセプトを確定し、そのコンセプトをストレートにアピールした点にある。
 朝専用と言い切ったから、朝飲まれるようになったのだ。強く自信を持って言い切れば、それが現実になる。情報と心理の時代の逆説的説得法である。シンプルなコンセプトが持つ強さである。

 これは、「朝専用」と書いてあるから飲むきっかけになった。けれどその後は朝じゃなくても飲んでいる、というのが正確なんじゃないかと思うが、「ワンダ モーニングショット」は、確かに、「朝」という時間に着目して開発した商品だ。

 セブン-イレブン

 一九七五年、日本で最初に二四時間営業のコンビニエンスストアをオープンさせたのはセブン-イレブンであるが、そのときおもしろい現象が起こったという。「ニ四時間オープンにしたら、昼間の売り上げも上がったというのである。
 これは、時間に対する顧客心理のなせる技だろう。二四時間オープンしている、「いつでも開いている」という安心感と、「いつでも買い物できる」という安心感がつながり、結果、全体の時間帯で顧客増につながったのだと見ることができるだろう。
 つまりこのとき、人ははじめて、まったく今まで存在していなかった二四時間ライフスタイルに具体的に出会ったのである。その心理的影響の大きさが、マーケットに思いもよらない変化を与えたのである。

 これも実感的によく分かる気がする。いつでも開いているという安心感が消費者を呼ぶと同時に、消費者はそこで初めて、1日が途切れのない24時間であることを具体的に知るものを持ったのだ、と。それは、インターネットの前に、ぼくたちは24時間サービスを知っていたのであり、ことによると、インターネット生活の露払いをしたのかもしれなかった。

 時間は常時覚醒へと励起される。一方で、歴史的に見ると、時間は圧縮されてきた。谷口が引いているのは、「今の一年は昔の一〇万年に当たる」という仮説だ。

 つまり、われわれ現代人は昔の人に比べて、一〇万倍はやい時間のなかを生きていることになる。

 一〇万倍。どうりで、みんなイライラしやすいわけだ。

 時間圧縮は、個々の場面にも向かう。

 ウイダー inゼリー

 森永製菓の「ウイダー inゼリー」のキャッチフレーズは「あなたには、あなたの10秒メシ。」lである。従来のご飯を食べるという概念にはない時間幅だろう。通常の食事時間を一時間と見れば、一〇秒メシは三六〇分の一の時間ですむ。  電車のなかでウイダー inゼリーを食べている人がいる。一瞬にして終わりだ。一〇秒メシとまでいかないまでも、ハンバーガーやおにぎりくらい、もはや電車のなかで食べるのは当たり前の時代になった。

 「ウイダー inゼリー」は、同じ「時間」でも、時間圧縮に着目して商品開発したものだ。

◇◆◇

 この本は、こんな風に、「時間」着目型の商品開発例がいくつも挙げられている。

 劇団四季

 日本の劇場は通常月単位契約のため、大ヒットを飛ばしても、収益が限られてしまう。大ヒット作品は、一年を通じて、あるいはそれ以上のロングラン上演にしないと、大きな収益は望めない。そこで劇団四季は、専用劇場を持つことに踏みきったのである。

 劇団四季は、このように専用劇場を持つことにより、上演カレンダーを思うように作成することを可能にした。日本中で、「時の波カレンダー」 に応じて上演しているのだ。

 SHIBUYA109

 今、世界のショッピングセンターのなかで、最高の売り効率を見せているのは、文句なく「SHIBUYA109」だろう。東京・渋谷、駅前交叉点に建つ地上八階、地下二階のこのファッションビルは、午前一〇時から午後九時まで営業され、マルキューの呼び名で若い女性の間で圧倒的人気を誇っている。なかにひと足踏み入れると、全館に響き渡る大音響の強烈な音楽と、頭のてっぺんから足の先まで109ファッションを身にまとってひしめく一〇歳代、二〇歳代の女性たちの姿に庄倒される。

 たとえば、月坪効率が四〇〇万円を上回る代表的ショップ、レディスウエアのCECIL McBEEがそのひとつだ。「女のコはいつでも、かわいく、輝いていたい…」をコンセプトに、それぞれのシーンにあったいちばん輝けるファッションを提供するこのショップは二階に位置し、約六五坪の店舗に、ショップの商品を着こなした女性スタッフが客の応対にとびまわっている。
 その店頭を見ていると、あることに気がつく。一時間単位で店頭に変化が起きるのだ。時間帯によって、ディスプレイされる服が次々に替えられていくのがわかる。フィールドワークとして109に行き、店頭の変化を自らの目でつぶさに定点観測していて、それに気づいた。一時間ごとに連続写真を撮って較べてみると、一目瞭然だ。
 セシルマクピーのスタッフは、日々、どの時間帯にどの商品がよく売れるかをつぶさに観測し、店頭に配置する商品を次々に入れ替えていくのだという。スタッフの確かな時間帯顧客認識が驚異の売り上げの根底にあるのだ。

 もうひとつ、SHIBUYAlO9の連続的成功を可能にしているタイム・マーケティングの仕組みを見てみよう。なんと、約二〇店舗あるショップのうちのおよそ半分にあたる約六〇店舗が、毎年入れ替わるのである。つまり、五〇パーセントのコンテンツが年々入れ替わることになる。大変な入れ替えの鮮度である。
 このやり方は、テレビ局の番組製作やコンビニエンスストアのマーチャンダイジングとよく似ている。つまり、109はもはや流通産業ではなく、情報産業であり、コンテンツ産業なのである。

 メガマック

 メガマックの瓢間限定既、l発は、結果として、みごとな「時起こし」販売になったといえる。メガマック自体がすぐれた価値を持っているかどうかという論議は、二義的なものにすぎない。もちろん、物として見ればそれなりの価値を持っていることは当然のことであるが、結果として、時間限定販売になったところに顧客支持があったのだ。ハンバーガーを「物」だと思っている人は、ここで間違えてしまう。

 カップメン

 カップメンは、「三分間の価値」というものを圧倒的に引き上げた。お湯を注いで三分間たたなければカップメンは存在しないのと同じだし、逆に三分間より長くすぎてしまうと伸びきってしまって、やはり存在しているとはいえなくなるほど食としての価値は下落する。カップメンにとって、お湯を注いでからの三分間がもっとも価値の高まる「時」なのである。  その「時」を逃すと、価値はいっきに低下する。

 朝時間.jp

「朝からはじまるすこやかなココロ、キレイなカラダ」をコンセプト宣した「朝時間.jp」という女性向け人気ポータルサイトがある。朝の「時間価値」の創造がテーマで、アクセス数が急増しているという。ココロ、カラダ、お買いものの三つのカテゴリーに、簡単朝ごほんレシピ、目覚めすっきり術、朝コンシェルジユおすすめの朝グッズなど「ちょっと憧れの朝型生活のためのヒント満載」というサイトである。

◇◆◇

 時間着目のマーケティングについて、ヒントが多いので、長くなったが例を挙げてみた。
 谷口はこれらの例を受けて、こう続けている。

 顧客に留まっていただかなければ、われわれが提供する価値はない。どんなすぐれた商品であっても、それを使う時間、それに興味を示す時間、それを学ぶ時間、その話を聞きたがる時間が存在しなければ、その価値が顕在化することはない。

 これもまたまた冒頭の一節を思い出させる。いまは方丈記的な時代なのだ。

 これは同時に「優れた商品、必ずしも売れるに非ず」という現代の商品開発の前提を思い起こさせる。だから、マーケティングは「店頭」に活路を見いだそうとしている。ぼくたちはこの本を受けて、「店頭」という他に、「時間」という活路があることを知らされるのだ。

 ぼくは新商品開発の活路のひとつは、「時間」とそれに伴う「場」、つまりオケージョンであると考えている。その意味で、この本は、問題意識が重なって興味深かった。「オケージョン・マーケティング」の領域があることを確認できたのが収穫だった。

 80年代に読んだことのある谷口正和を久しぶりに読んで、キーワード・メーカーとも言うべき言説はいまも健在だということも確かめることができた。

 ただ、24時間すべてを市場と見做すこと、意識されるときだけが存在するときという定言には、時間資本主義が空間と時間を覆い尽くしてはいけないという限定を対置しておきたくなる。夜は寝るのだし、スーパーはコンビニではないと思ってしまう。けれど、ここではそのことには触れない。代わって、もうひとつ、マーケティングというサービスのあり方にも示唆のある言葉を引いておこう。

「プロフェッショナル時間代行サービス」とは、顧客に代わって、顧客の要望を満たすのにもっともふさわしいものを選択し、買ったり借りたりコーディネートしてくれるエージェント型サービスである。このサービスを受ければ、顧客は本来かけねばならなかった時間をゼロにし、しかも望むものを手に入れることができる。  そう見切ったときに、われわれは急にいろいろなものが見えてくる。つまり、プロフェッショナルとは「顧客の絶対時間を奪わない人」ということになる。加えて、「最高の結果を提供できる人」である。

 なるほど、だ。


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『買物欲マーケティング』とは

 商品をつくる開発マーケティングからいえば、消費者視点の商品づくりは、

 「作る」を「使う」から考える

 ことを目指していた。でも、それだけでは足りない。よい商品は消費を保証しなくなっている。商品を売る販売マ-ケティングを考えなくてはならない。で、顧客視点の商品販売は、

 「売る」を「買う」から考える

 ことなのだが、このテーマを追究しているのが、『買物欲マーケティング―「売る」を「買う」から考える』だ。

Kaimonoyoku










 この本では、買い物したい欲求をひと口に「買物欲」と呼んでいるのだけれど、従来は、モノに対する欲求である「モノ欲」で済んできたのに、いまは、買い物したい「買物欲」自体が目的化しているという。買物欲が台頭してきたのだ。どうして台頭したのかといえば、そもそもモノ余りで本当にほしいと思えるものがなく、かつ、ネットのクチコミで商品情報を知ってしまうので、モノ欲が育ちにくくなっている。その反面、ヴィレッジヴァンガードやドン・キホーテのよに、買物プロセスを楽しむ店が増えてきたり、フリーマーケットやネットオークションで、買い手の経験を持つようになったことで、買物欲が育つ場面が増えてきたからだ。

 そこでこの本が提唱しているのが、「買物欲マーケティング」だ。

人はモノを消費する (=消費者)、だからつくれば売れるという「プロダクトアウト」から、人はモノを単に消費するのではなく、生活を営んでいるそのなかで必要となるモノを探している (=生活者)という「マーケットイン」を経て、これからは、人は自分に合うモノに出会いたい (=買い手=ショッパー)という「ショッパーイン」 の発想が必要だ。
これが買物欲マーケティングである。

 従来、消費者のウォンツは、消費をする、つまり商品を使う(食べる)ときのことを考えればよかったし、商品が提供するベネフィットも、商品を使う(食べる)ときのことを考えることだった。ところが、「モノ欲」以外に「買物欲」を独立させるということは、購買時のウォンツとベネフィットを考えるということだと思う。

 まず、顧客として購買ウォンツを持ち、ついで、消費者として消費ウォンツを持つ。購買時に商品の提供するベネフィットと消費時に商品の提供するベネフィットはイコールではなく、ずれたり大小があったりする。購買時のベネフィットを消費時のベネフィットが上回っていなければ、商品は購入されてもリピートされないと言えるかもしれないが、その前に、購買時のベネフィットをしっかり提供しなければならない。消費時のベネフィットが大きくても、それは売れることを保証しなくなっているのだから。

 「買物欲マーケティング」からはどんな視野が開けるのか。それは、買物を楽しむ方向にある。

■三秒の買物を三分の買物に
何も考えずに、三秒で終わってしまうような買物は、買物自体が楽しいとはいえないのではないだろうか?
たとえば、スーパーで豆腐を軍っときを考えてみよう。買物カゴを持った主婦は、豆腐売場で、何秒で豆腐を選んで、買物カゴに入れているだろうか?
おそらく、木綿豆腐か絹ごし豆腐かパッケージで見分けただけで、買物カゴにさっと入れるような買物であっただろう。
豆腐を三秒で終わる男物をする人は、豆腐にはさほど興味がなく、どれでもいいやという人であろう。もしくはよほどお気に入りの豆腐があって、そればかりを選ぶという人かもしれない。このように、豆腐は買物の楽しさを堪能できていなかったかもしれないが、そんな豆腐の買物を変えた商品がある。いままで三秒で豆腐の買物が終わっていた人も、その商品を見つけると、手に取り、じっくりパッケージの裏まで読みたくなる、そして、どんな味がするのかとワクワクするのである。

 ぼくたちが、『買う気にさせる3秒ルール』を書いた時、狙いは、短い時間を使ってスーパーで買物する主婦は、衝動買いと言われたりして、まるで何も考えてないかのように思われがちだが、そんなことはなく、夕飯のメニューを夫の健康や子どものリクエストや天気などを考慮しながら、実に高速に処理して買物していることを明らかにすることだった。そうすることで、本を書いていた頃、不況下で、「特売」しか購買動機に関われないような硬直した販売促進策に、別の視点を導きたかったのである。

 ぼくたちは、スーパーでの買物を微分化して見たのに対して、「買物欲マーケティング」は、スーパーだけを売場の対象とみなさず、しかも楽しさの視点があり、いわば買物を積分化して捉えていて、それが「3秒から3分へ」という視野を生んでいる。

 また、 「ショッパーイン」の発想が面白いのは、従来の商品カテゴリーに対して、ショッパーカテゴリーの発想を促すことだ。たとえば、日々の買物では、「自分へのご褒美に」は、顧客のつぶやきの頻出単語は、そうして選ばれる商品は、アイスクリームだったりスイーツだったりプレミアムビールだったり、と商品のカテゴリーを横断している。でも、顧客のなかでは、アイスクリームとスイーツとプレミアムビールが、「自分へのご褒美」として並んでいるのである。この視点が、ショッパーカテゴリーだ。

 このアイデアを手がかりにして、「買物欲マーケティング」の実践編として3つのステップを挙げている。

 1.ショッパーカテゴリーの発掘
 2.あるべき買物インサイトの発掘
 3.買物シナリオの設計

 開発マーケティングから販売マーケティングへと、マーケティングの重心が移ってから、中でも消費者の購買ウォンツに着目した店頭マーケティングの実践が盛んになっている。そこでは、「『売る』を『買う』から考える」のをベースにしながら、その先に、「『作る』を『買う』から考える」開発マーケティングへのフィードバックが必要とされているのだが、そこまでのプロセスはなかなかつかめていない。でも、「買物欲マーケティング」の3ステップは、そのつなぎまで射程に入れたマーケティングになっているのが新鮮だった。

 これは個人的な意見だけれど、これまでぼくは「インサイト」というと、消費者を操作対象と見なす視点を逃れていないのではないかと思ってきた。だが、この本にいう「買物インサイト」は、そうではなく、商品の持っている価値をどのようにメッセージすれば顧客に、購買ウォンツに、訴えるのかという、道筋をつけようとする努力に思えて好感を持った。





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マーケティング病

 頻発する社会の不祥事は
 マーケティング病の結果である
 (『新祖国論』辻井喬、2007年)

と、書かれると、マーケティング屋の端くれとしては、
何を言われているのか、気になるというものだ。

 前世紀の一九八〇年代のころから、
 マーケティング病とでも呼ぶしかない現象が
 わが国を席捲している。
 簡単に言えば、何でもマーケティングの素材として認識し、
 それ以外の思考を排除してしまう考え方である。

ここで、何でもマーケティングの素材として認識するということは、
全てを事業機会と見做すことを意味していると思う。

 一度そういうことに気づいてあたりを見回してみると、
 この病は未だにその領域を熱心に拡げようとしていることがわかる。
 その第一は、売り込み対象の年齢層を拡げようとする努力だ。
 (中略)
 もうひとつの方向は今でまでは休息の時間だった夜を
 市場にする努力である。人口に二十四(時間)を
 掛けたのが市場規模であるなら、
 夜を短くするか、睡眠時間そのものを市場化する必要がある。

時間と空間に手付かずの場所をめがけて、
事業機会とする思考が、
ここではマーケティング病と呼ばれている。

ぼくたちはここで、空間は人口だけでなく、
地域と言い換えてもいい。

地域ブランドと呼ぶ眼差しのなかにも、
このマーケティング病は潜んでいるかもしれない。

 その病が蔓延した結果、
 疲れた大人たちには癒やしのための装置、
 商品があれこれ用意されるようになった。
 癒やしの音楽、癒やしの香り、癒やしの部屋の設計、
 癒やしのペット、といった具合である。
 つまり、マーケティング病の人間社会制覇は
 最終段階に入ったということなのだ。

疲れさせた上で、癒やさせる、とでも言えばいいだろうか。
こう理解すれば、マーケティング病には、
消費者を操作対象と見なす眼差しが含まれているように思う。

 これではどこまでいっても、ひとりひとりの人間が
 自分の心の命じる選択によって
 生き方を決める姿を見ることができない。
 最近頻発する経営の不祥事、悲劇のかなりの部分が、
 このマーケティング病の結果なのではないかという気が僕はする。
 かつて産業活動の大事な肯定的部分であり、
 今でもその本質は残っているマーケティングの世界に、
 いつからこうした病的現象が現れるようになったのかは、
 僕らが大急ぎで解明しなければならないことだと思っている。

「いつからこうした病的現象が現れるようになったのか」

これを、マーケティングの内側から言うなら、
開発マーケティングより販売マーケティングが
重視されるようになってからだと、ぼくなら答える。

つまり、商品が過剰になって以降のことだ。

生活環境から商品が溢れ出し、
それだけでなくお店からも商品は溢れ出す。

極端な言い方をしてみよう。

かつて、ぼくたちの消費行動は、
「必要なもの」があるお店で「必要なもの」を買い、
生活空間で「必要なもの」を使う、
というあり方をしていた。

辻井がマーケティング病と呼ぶ中味を
イメージしやすくするため極端化すれば、

「必要でないもの」があるお店で「必要でないもの」を買い、
生活空間で「必要でないなもの」を使う、となるだろう。

これが、ぼくたちのうかない消費の内実に当っている。

「自分の心の命じる選択によって生き方を決める」
という言い方の、あまりに古典的なことに躓かないとすれば、
「病」の克服はどうすればいいだろう。

マーケティング自体の意義を認めている辻井の視点を生かして、
マーケティング屋として答えるなら、マーケティング屋が、
マーケティングの対象となる領域を知っていることが大切だと思う。

逆にいえば、マーケティングを持ち込んではならない領域を知る、
と言ってもいい。

マーケティングが手を出してはいけない領域。
典型的な場は、家庭である。

家族関係にマーケティングを持ち込めば、家族は壊れる。
差別化、ポジショニングの指標が溶解する場所を指して、
家族と呼ぶからである。

マーケティング屋の倫理として
マーケティングの及ばない時間と空間を持つことが、
求められていると思う。



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批判は人を育てない

 批判は人を育てないのではないか?

山田ズーニーの『おとなの小論文教室。』で、
ひときわズシンと響いてくる言葉だ。

山田は、批判が自分を成長させると思い、
インターネットでコラムを書きながら、
批判メールから目をそらさず正面から向き合ってきた。

けれど3年経って自問する。

 はたして批判メールは、私を育てたか?

そして、山田は、NOと答える。

 あとから考えると、誤読だったり、視野が狭かったり、
 一方的だったり、論点が平板だったり、論拠がなかったり、
 どうして、こういうメールに、長時間、まじめにとっくみあったのか、
 と思う。
 それは時間の無駄ですむロスではなかった。
 嫌なストレスを溜め込むし、せっかくよい問題提起のあるメールを
 くださっている読者とははればれと向かい合えない。

そして、山田は書く。

 つまり、今日を生きるのに遅れる。

ぼくはほとんど、うんうんとうなづく。
そう言うなら、今日を生きるのに遅れるのは、
何も一日二日の話ではなく、
もう何年も、今日を生きられていない場合だってあるはずだ。

批判はどうして人を育てないのか。

山田は二つ、答えている。

ひとつは、いまは生きていく上での選択を何もかも「個人」で
担わなければならなくなっている。
みんな揺らぐし失敗しながらやっているのだ。

 こういうとき、新しいアイデアを実行していく勇気ある人を励まさないと、
 結局自分も、ゆきづまる。

もうひとつ。

 批判は結構だれにでもできるのではないか?

 ○ ○ ○

批判は誰でもできる。だから、批判は人を育てない。
これは、そもそも、そうだと言える。

けれど、前者の、個人として生きるしかない社会だからこそ、
批判は人を育てない。励まさないと、後がない。
この言葉は、そもそもを離れて、
いまだからこそという切実さを感じる。

批判は人を育てない。
これは、優しさかもしれないけれど、
一方、吹きっさらしに一人で立っているような
いまの社会の現実感のきつさを反映させている。

ことは、だから、「人」にとどまらない。

批判は商品を育てない。

そう言っても同じだと思う。




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『クチコミの技術』の新しさ

『クチコミの技術』の新しさは2つある。

マーケティングに、
企業はクチコミをコントロールできないけれど、
きっかけをつくることはできる、
という認識を加えたこと。

もうひとつは、企業と消費者が同じ土俵にいるということは、
個人のブロガーは、
企業でこれからブログをやらんとする担当者の「先輩」
なのだということを示したことだ。

 ○ ○ ○

Web2.0が実感的になるにつれ、
裏づけが得られたように、
CMが効かないことも認識されるようになった。

そこでは、2つのことが指摘されてきた。

1)企業は消費者のコミュニケーションを
  コントロールできない。

消費者の立場になれば至極、当然のことなのに、
このことが前提となるのに、消費者主導が可視化される空間
の出現が必要だったのかもしれない。

2)消費者による商品のネガティブ評価は
  許容しなければならない。

1)の帰結は、当然このことを踏まえることになる。

Web2.0以降、マーケティングの議論は、
ここまでは共通了解事項として進んできた。

『クチコミの技術』は、ここに、
クチコミはコントロールできないけれど、
きっかけをつくることはできるとして、
マーケティングの方向性を示してくれている。

これは、消費者の無意識を操作せよというメッセージとも、
CMがあって検索があるというメッセージとも異なり、
真っ当だと思える。


そしてもうひとつ。

 ネットでは、企業も個人と同じ土俵にのります。

このメッセージはこの本の中の主調音のように繰り返される。

 従来のメディアは読者をいかにターゲットするか
 を主眼としているのに対し、メディア化した個人
 ブログというのはいかに読者にターゲットされる
 かということを主眼としているということです。

この認識はとても共感できるものだ。

ぼくたちはこのことを、
「囲い込み」から「飛び込み」へという
流れで捉えてきた。

でも面白いのはここからで、
この事態について、だから、と著者たちは続ける。

 その意味では、私たち筆者はこれからネットの世界
 に参加しようとする企業にとって“先輩”です。

と、指摘していることだ。

なるほど、そういうことなのだ、と思う。

ともすると、ブログ・マーケティングは、
タレントをして語らしめること、
と理解されがちな中にあって、

強力なブロガーによる『クチコミの技術』は、
実践に裏打ちされ、とても説得力があった。

 ○ ○ ○

先輩たちの教えるところによれば、
ブログとは農業だ。

「継続は力なり」。
かつて農業が培った忍耐や手入れのよさは、
今日的には、ブログが培うのかもしれない。
これは蛇足。


クチコミの技術 広告に頼らない共感型マーケティング

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ブログとは「会話」である

ダン・ギルモアの『ブログ 世界を変える個人メディア』は、
ブログを「会話」だと喝破している。もっと正確には、イン
ターネットが「会話」であり、個人のブログがその一部を先
端的に担っていると言っている。

Wetheblog ブログ 世界を変える個人メディア

ダン・ギルモア(著)、平 和博(翻訳)

朝日新聞社
2005/08/05
2,205円


ブログが「会話」だというとき、eメールのことが思い出さ
れる。9年前、eメールをマーケティングに使おうとした時、
ぼくたちは、eメールは「電子DM」ではなく「電子接客」
であると主張してきた。

DMの延長でeメールを捉えてしまったら、インターネット
の世界までDMだらけになってしまう。そうではなくeメー
ルは企業にとって接客、つまり消費者とのコミュニケーショ
ンに他なならないと考えたのだ。

ダンの本が明らかにしているのは、eメールに加えてブログ
がコミュニケーションの道具として広がったことである。e
メールもブログもコミュニケーションの道具なのだ。

         ♪   ♪   ♪

ダンは「迷惑メールの厄災は、メールによるニュースレター
をほとんど不可能にしてしまった」としてRSSによる代替
を書いている。ここはかの地のスパムメールの凄まじさを背
景にしているだろう。

ぼくたちの環境でも確かにそう言える面がある。心少ない電
子DMが増え、やがて心ない電子DM=スパムメールも大量
に届くようになっているから。

けれどもダンのニュースレターvsDM談義がいささか図式
的に過ぎると思える現実感もある。ぼくたちの環境ではメー
ルマガジンはコミュニケーションの道具として有効に機能し
ているし、RSSの使いこなしはもう少し観察が必要だ。

現段階では、RSSとメールマガジンで情報配信、eメール
でしっかりコミュニケーションと位置づけておけばいいと思
える。

とはいえ、ブログとは「会話」であるという視点から得られ
る展望はとても刺激的だ。

ダンは、「ブログは、ウェブ上で手軽に、少なくともこれま
でよりは手軽に、発信することができる初めてのツールだ」
と位置づけて、ウェブや既存のコミュニケーション道具との
区別を丁寧に説明してくれている。

たとえば、ウェブとの違いなら、「ウェブがコンテンツの倉
庫なら、ブログの世界は『会話』だ。」というように、本質
に届く鮮やかな仮説に出会うことができる。

インターネットは消費者が主役の空間だから、「手軽」に発
信できるということは何よりも大事なポイントだ。これまで、
最も手軽な発信手段はeメールだったけれど、それはウェブ
上では表現の場を持たない。ブログは、コミュニケーション
の要素を持ちながら、ウェブ上に表現の場を持つことができ
るのだ。だから、ダンはブログを「われわれのメディア」と
して、ジャーナリズムとしての意味を取り上げていくのだ。

ところで、ダンは広報やマーケティングについても触れてい
るから、その言及に触れてみよう。ダンの主張はとても刺激
的で面白い。

ダンは10の提言を挙げているのだけれど、それぞれの第一
文だけ挙げてみよう。

  1.真剣に耳を傾けよ。
  2.活動内容とその目的について、オープンに語れ。
  3.分からないことは聞け。
  4.できる限りの幅広い受け手に向けて、最も効果的な
    方法で情報を発信せよ。
  5.より多く(より少なく、ではない)の情報提供を心
    がけよ。

  6.組織の人間の公的な発言内容を投稿もしくはリンク
    せよ。
  7.あなたの組織に本気で関心をもっている人々へ、正
    確に照準を定めよ。
  8.間違いは迅速、誠実に訂正せよ。
  9.新しいことを教えてくれた人たちには感謝せよ。 
 10.常に実験を繰り返せ。

ブログが後押しして明快な主張を受け取るのだが、これだけ
では抽象的でもっともなことを言われているように見えるか
もしれない。でもたとえば、3は、以下にこのように続く。

  3.分からないことは聞け。喜んで答えてくれる人たち
    がいるはずだ。十分に耳を傾け、語った後には、次
    のステップだ。ブログのコメント受付機能をオンに
    し、顧客が直接、投稿できるようにせよ。さまざま
    な「有権者」あたちに助けを求めよ。ニュースグルー
    プを開設せよ。だが、決してそれらを検閲してはな
    らない。名誉毀損、わいせつ、全く的外れな投稿を
    削除する以外には。

これを見れば、ダンがごもっともな正論を言っているのでは
なく、かなりラディカルな主張をしているのが分かるだろう。
現在のPR目的のブログサイトは、トラックバックを受け付
け、コメントを敬して遠ざけるのが常道になっているのだ。

         ♪   ♪   ♪

ただ、ダンの主張はラディカルとはいえ、至極まっとうだ。
それは、インターネットはマスメディアと異なり、消費者が
主役の空間だ。だからダンが、「ごく少数の例外を除けば、
ネットワーク化された世界では、企業の透明度の高さがその
まま成功につながる、と私は思っている」と言うのは正鵠を
射ていると思える。

ぼくたちは、『ウェブコミ!』で、このことを「囲い込みか
ら飛び込みへ」と表現した。「飛び込みと言っても飛び込み
営業のことではありません」と親切に解説したレビューもあ
るけれどその通りで、飛び込む先は、消費者の声、もっとい
えば文脈(コンテクスト)だ。

商品が過剰で消費者自身もマーケティングを行なうようにな
っている現在、消費者を「囲い込む」のは不可能で、ベター
なアクションは消費者の文脈(コンテクスト)に寄り添うこ
とだと思える。そのためには、消費者の声に「飛び込む」の
が近道だ。

ダン・ギルモアの『ブログ 世界を変える個人メディア』は、
消費者の文脈・声に飛び込む方法について、ブログを介して
具体的に行なう方法を書いていると言ってもいい。

         ♪   ♪   ♪

ブログとは「会話」であるという命題の援用として、ダンは
いくつかの法則を挙げているけれど、そのひとつにメトカー
フ(Metcalfe)の法則がある。

「メトカーフの法則とは、通信ネットワークの価値は、ノー
ド(結節点)、すなわち接続している端末の数の二乗に比例
する」というものだ。

感覚的に言えばこうなる。ネットワークを構成するメンバー
数が10人だとすると、そのネットワークの価値は10の二
乗、つまり100に比例するということ。で、この100は、
ネットワークの10人が自分以外の9人全員と一往復ずつ声
をかけあった数にほぼ等しい。

そこで、ネットワークの価値はそのネットワークのメンバー
相互のおしゃべりの数に比例するとアナロジーすることがで
きる。そしてこうアナロジーすることで、ネットワークの価
値は、コミュニケーション量に比例するということが展望し
やすくなる。

ただ、これまでのコミュニケーション道具は、メトカーフの
法則を云々するには、掲示板にしても、eメール、メーリン
グリストにしてもコミュニケーション量(インタラクション
数)が貧困にならざるをえなかった。

ブログの登場は、そのメカトーフの法則にとっても意味を持
っている。というのもトラックバックとコメントをコミュニ
ケーションの単位と見なすと、nの2乗に対して比肩できる
数を見せ始めているからだ。

ぼくたちは、何かが始まるし始まっているという実感が湧い
て、少し胸を躍らせるのだ。

ダンは、「さあ、会話を始めよう、みんなのために」と、こ
の本のイントロダクションを結ぶ。これはウェブ日記の、公
開される自分を確認するという微妙な位相に向けて届く、ア
ジテーションになっている。

新しい何かが始まるとき、事態の本質を伝えてくれる言葉は
わくわくする。これはそんな本のひとつだ。

(cf. Dan Gillmor's blog

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