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「自分へのご褒美」備忘録

 とてもハードなを書いた後は、楽しいだけの本を書きたくなった。そうして思いつくのは、「自分へのご褒美」である。「自分へのご褒美」、ここ一年くらい気に合っているキーワードで、このキーワードをめぐってどんなブログが書かれているのかウォッチングしている。

 そんなことを思って見ると、そのもの、『自分へのごほうび』(住吉美紀)という本が出ていて、すぐに買ってみた。読者層は、著者と同世代の三十代の女性だろうから、思い切りそれから外れて入るし、ぼくも探究する目的が無ければ決して手に取ることのない類のものではあるけれど、これも縁である。

 実際に読んでみると、「自分へのご褒美」というのは、とどのつまり、自分へのケアのことなのだということがよく分かった。

 歳だけは取っていくのに、生き方に確信が持てないまま、焦る気持ちに押しっぷされそうになることが時折ある。漠然とした不安に襲われ、希望とやる気を失い号つなときもある。一度きりの人生、これでいいのだろうか……?白黒はっきりした答えなんて出るはずもない。
 そんなときは、今もやっぱり、周りに目をやってみる。
 すると、意外なものごとや出来事が、思わぬ気づきや励ましをくれる。日常に潜む喜びや発見が、力を与えてくれる。見ようとする気持ちさえあれば、身の周りにはごほうびが溢れているのだ。
 そう、自分へのごほうび。
 人生とは、自分探しの旅である。よく聞く言葉だが、そろそろ、その本当の意味を実感できるお年頃になったのかもしれない。生きていると山あり谷ありだけれど、自分へのごほうびをギユッと愛おしく抱きながら歩けば、旅を続けていけると思うのだ。
 そんな、わたしの「ごほうび」たちを、この本にパンパンに詰めてみた。

 この本のモチーフは、「はじめに」で明瞭に語られる。「自分へのご褒美」が、消費という以前に、自分の身の周りの事物との関係の気づきのことを指していることも語られている。そして、「自分へのご褒美」が、似て非なる「自分探し」と接点を持っていることも。

 で、最初のエッセイは「朝ごはんは重要だ」で始まる「黄金の朝ごはん」なのだが、それがなんとスイーツなのである。朝ごはんというのは、ご飯かパンで、お酒を飲むわけでもないし、こってりしたものを食べるわけでもない、どちらかといえば、まじめな食事?という先入観があるので、朝ごはんにスイーツは驚いてしまう。しかり、驚くのはまだはやくて、

 いよいよ、口に運ぶ。ちなみに食べるのは、台所で立ったままと決めている。構えずに食べたいからだ。お祭りの屋台の前で立ったまま食べるウィンナーやりんご飴は美味しいのに、買って帰り、食卓で食べるといまいち美味しく感じないのと同じである。立ったままの機動力を活用して、軽快に、朝の時間を楽しむ。目が覚める音楽をかけたりして、ちょっとオシリを振りながら食べるのも上々。その数分問は己を解放して、一日のやる気を盛り上げる。

 と、来る。オシリ振りふりスイーツの朝食なのだ。
 自分が元気になるには、食べるべきものという枠に囚われずに食べればいい、しかも食べ方だって好きにすればいい。そうか、ここで言う「自分へのご褒美」というのは、朝ごはんとの関係の仕方を自分で自由にアレンジすることなのだ合点する。

 「手帖」は「一緒に険しき日常を徒行してきた、相棒」。「さけるチーズ」、「身近にいる強い味方」。単焦系レンズの「デジカメ」は、「自分にとって必要不可欠なひとつの機能を持つ」もの。のほほんとする「シンプルな瞬間こそ、人生のシアワセがたんまりと詰まっている気がする」。

 この人はわたしが生まれる前からうちにいる。そして、二歳か三歳のとき、わたしはこの扇風機に向かって顔から転けたという。羽根の周りの金属の留め金で頬を切り、けっこう出血したらしい。一応女の子だし、傷が残ってはよくないと、両親は急いで病院に連れていった。しかし、結局その傷は今も残っていて、ある意味、わたしの顔の個性になっている(と自分では思っている)。
 つまり、扇風機さんは、わたしの顔を作った人のひとりなのだ。そんな歴史まで共有しちゃってるんだから、緑が深いと言うしかない。

 「この人」というのは扇風機のことだ。自分が扇風機を動かし、扇風機に傷つけられることもあったという関係を通じて扇風機は擬人化される。その擬人化のなかで、不器用で愛嬌のあるところに人っぽさを見ているわけだ。

 本『Frog and Toad』に純粋な人間関係を見る。「鼻うがいポット」を通じては、新しい身体との関係。必要なものを減らすことに価値を見いだす「小荷物」主義。「あまり考えすぎず、とりあえず前進」すると、求めるものは返って得られる、その象徴のような「金木犀の香り」。

 それに、それなりに何かをこなしたとしても、今さら若い頃のように誰も褒めてほくれない。褒めてくれるのは自分だけ! だからこそ、その己の自信が崩れたときには、どうしようもない虚しさと脱力感に襲われるのだ。ああ、こわい、こういう朝は。

 褒められるということは、それ無くしては社会的生活に障害が生まれるほど必須なものと思われている。そういえば、「さんまのからくりテレビ」でも、演歌好きの大江君は、叱られたとき、「褒めて伸ばされたいです」とすっとんきょうなことを言っていた。

 橙色の空を見ながら思う。いいではないか、小さな失敗を繰り返してしまっても、ほかの人がすごく見えても。いびつだからこそ、少しでもがんばれた日は、自分を思いきり褒めてあげればいい。

 褒めてくれるのは自分だけ。だからこそ、自分で褒める。ここに「自分へのご褒美」の駆動源もある。つまり、「自分へのご褒美」が顕在化してくる背景には、「ひとり」という状態がある。

 「ひとりカラオケ」だって「自分へのご褒美」である。

 そうよね、自分が好きなところに行って、道で人に踏まれるかもとか恐れずにゴロゴロ寝て、他人がどう思おうと気にせず、何かを期待されても応えず、そこに居たいだけ居て、晴れれば太陽を味わって、雨が降れば雨粒を眺めlて、自分なりに生きていければ、それでいいのよね。

 「ネコと逢う」ことで、余計なことに気を遣い未来を思い患い「ありもしないしがらみに勝手に縛られ」て、忙しくなyている自分自身との関係を結び直す。「洗濯物」を眺めて「心の奥から平穏を感じる」。

 読書に没頭している間は、電車の中に居ようが、自分の部屋に居ようが、カフェに居ようが、周りの環境は全て消え去り、本の世界の中に確かに居るのだ。飲んでいる紅茶や座っている椅子のクッション、吸っている空気までもがなにやら違う質感を帯びてくる、不思議な感覚だ。

 と、読書の本来の楽しみ方を押さえ、ライブで「心身に必要な栄養分」を得る。

 また、「自分へのご褒美」の代表のひとつは「お取り寄せ」である。

 食べることが、日々の悦楽の大きな部分を占めているので、その楽しみをちゃんと確保したいと思う。きょうは何ひとつ楽しみがない、いや、むしろ気が重くなるような仕事がいっぱい溜まっていて、はぁ……という日でも、大好きなものが食べられると確約されていれば、それだけで、じゃあ、その前にイッチョがんばるかな、なんて思えたりする。単純だが、美味しさの確保が大差を生む。自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜くという感じである。

 でもって、「自分へのご褒美」を生きる技術としてみたときの意味がここに書かれる。その原理は、「自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜く」、である。

 ヨガで自分の身体の「進化」を感じる。「ひとりコーヒー」で「大人のオンナ」を実感する。「新しい自分への脱皮が成功すれば、引っ越しも、自分への大きなごほうびとなる」。引っ越しによる自分自身の更新が「自分へのご褒美」だということ。

 「皮膚の下、深度の深いところの渇きまでをも癒してくれそうな気配」の「わたしアロマ」。「邪念なく、体力の限りまでがんばり通すというのは、自分の「生」への炎を確かめるようなもの」というカラオケ部活。「飾らない、素の自分を、かつて心から受け入れてくれたことのある」モト彼の存在は嬉しい。

 それがないと「息苦しくて倒れてしまいそうと感じることがある」からたまに吸う「海外の空気」。その海外では、

 ニューヨークも、ガツガツと何にでも手を出すのではなく、自分だけのキーワードでググる感覚が必要な街だ。そんな旅は難しそうと尻込みすることなかれ。「自分が今求めているものは何か」ということを基準にすればいいのだ。世間の流行や話題のスポットなんてチェックしなくていいし、お決まりの観光エリアを全て網羅する必要もない。逆に、人がどう思おうと、自分にとって大事な場所には絶対に行く。そうすれば、他の街では絶対に得られない、ごはうびが見つかる場所でもあるのだから。

 自分の欲求(wants)をよく分かっていれば、「自分へのご褒美」と出会える。「自分へのご褒美」を見つけるには、自分の欲求(wants)を知っているのがいい。

倉庫の片隅に座り込み、こうして文章を読んだり、本を手に取ったりしながら六歳の少女と会話をしているうちに、まるで恐竜が目覚めるかのように、忘れていた感覚や感情がたくさん、たくさん蘇ってきた。
「自己」を意識する前の自分。自意識に邪魔されずに周囲の世界と関わっていた頃。その少女が、現在のわたしに、鮮烈な存在感を持って迫ってきた。

 六歳のときの自分との対話による自分の見つめ直し。自己更新。
 恰好いい先輩への恋。ラーメンをパスタのようにクルクル巻いて食べると変わるように、ほんの少しで変わる日常。濃い付き合いをしてみると分かる植物に励まされていること。

 こんな風に人に限らず、モノやコトと新しい関係を結んだり、関係を見直したり結び直したりすることのなかに、著者の住吉は、「自分へのご褒美」を見つけている。

◇◆◇

 「自分へのご褒美」をニーズと見なし、このニーズはいつ顕在化したのかと問うと、1996年、アトランタ・オリンピックのマラソンのゴール直後、有森裕子が「自分で自分をほめたい」と語ったときだと思う。それ以降、「自分へのご褒美」は口にしてもいい言葉になった。

 本の世界では、有森裕子の発言の一年前に、作詞家の麻生圭子が『じぶんにごほうび』という書名で先駆けている。見られる限りでは、これは「自分へのご褒美」本の嚆矢であり、その翌年の1996年、有森発言と同じ年には、落合恵子が『自分にごほうび』というエッセイを出している。まさに1995年から96年にかけて、「自分へのご褒美」は人々の意識に上ってきたのだ。

 ただ、この二冊は「自分へのご褒美」を意識化した言葉として嚆矢であるとはいっても、その中身は住吉とはずいぶん違って見える。

 たとえば、麻生の『じぶんにごほうび』は、本文の前に「この本を手にしたあなたへ。」という文章が置かれる。

つぶやく夜はないですか。
「どうしてわたしがひとりなの?」
悔しくて、泣きたくなる夜はないですか。
「こんなにがんばっているのに、
どうして、誰もわかってくれないの?」
まじめで、演がよくて、凡帳面で、
才能があって、がんばってる人ほど、
そんなツラい思いをするようです。
これは、そんなあなたに代わって、
わたしが書いた、甘いつぶやき、
エッセイ詩集です。

 このメッセージを読むと、懸命に頑張っているけれど報われず傷ついている痛ましい姿がやってくる。ここからやってくる印象と住吉の『自分へのごほうび』とは懸命さは同じだけれど、報われていないという痛ましさは、ない。そしてもっとも違うのは、麻生は「どうしてわたしがひとりなの?」と問うのに対して、住吉の場合、「ひとり」は前提であり、しかもやむを得ない前提ではなく、大切な前提としてつかまれているようにみなされていることだ。ここに長く引用した「自分へのご褒美」の種は、一つひとつが、ひとりであることを欠かせない要素として生みだされている。

 住吉の「自分へのご褒美」は、落合のそれとも違う。

まえがき
前略
元気ですか?元気でいてください。元気なあなたは
素敵です。
でも、いっつも元気、なんて嘘。
時々、大声で叫びたくなります。
生きてるってことは
どうして こうも疲れることなのだろう、と。
そう。疲れたあなたも、あなたの大事な一部です。
あなたの怒りが、かけがえのないあなたの一部であるように。
どうか、心に蓋をしないでください。
あなたは あなただから 素敵なのですから。
この本を
目覚める朝ごと「元気であろう」と 自分に呼びかける
あなたに
けれども 時には心の奥に降り積もらせた疲れのために
人知れずため息をもらしているあなたに 贈ります。
一日の終わりに 好きなCf)でも流しながら
頁を繰っていただけたら幸いです。
男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが
使っている意味とは全く別の意味で、この言葉をあなたに。
いい女だよ、あなたは!

 ここからも懸命さと痛ましさの印象はやってくる。
 たとえば、「女子の決断」というエッセイで、住吉は、「最近、周りで決断する女子が増えている」としてこう書く。

 つまり、一度きりの人生、「わたしの存在意義をかけてもいい!」と感じるような、予定外に強烈なものに出逢いたいと思っているのだ。
 コポリの場合、それはイギリスの土地と人で、トモちゃんの場合、それは教育の仕事というライフワーク。
 いわゆる自由が、必ずしも本当に自由なわけじゃない。選択肢が多すぎる今の世の中は、「きりがない」という不自由だってある。だとすると、自分の心を縛って離さない召命と呼べるくらいの強烈なものに出逢えば、縛られているほうがずっと自由かもしれない。
 だから、予定外の素敵なハプニングが起こったら、人生の舵はいつだってきれる。生活の激動だって厭わない。
「うわ、この人と人生をともに歩まねば!」と強烈に感じる男子と出逢ってしまったら、自分の仕事や住む場所などを大幅に変える覚悟だってある。あるいは、予定外に子どもを授かるとか、強く惹かれる仕事の分野や人生のテーマを見つけちゃうとか……そんなことが突如起こっても、ちゃんと引き受けられる。
 ひょんなご緑に人生を委ね、そこで自分なりの何かを育てようと決心できること。もしかして、それこそが女子の持つ母性なのかもしれない。
   決断するのは女子であっても、それは「男子」の対立項として言うのではない。それが、「男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが使っている意味とは全く別の意味で」と断る落合の女性像と変わっているところだと思う。しかも、住吉の場合、「男」ではなく「男子」であり、「女」ではなく「女子」である。

 また、別のところでは、

「男は胃袋でつかみなさい」とよく聞くけれど、わたしは逆だね。つかまれるほうだ。そして、つかまれてしまうという男子の気持ちもよくわかる。だって、美味しいものを毎日いただけるというのは、幸せなことだ。

 として、「料理好き男子」を重宝している。ここにいる男女は、対立構図のなかにない。むしろ、草食系と呼ばれ、それがときには物足りなさとして言われることもある、けれどその分、自由も手にしている女性の、生きる技術が「自分へのご褒美」である。

◇◆◇

 ブログで「自分へのご褒美」のキーワードを追ってゆくと、今年は1月23日、原宿にオープンした「ゴディバ ショコイスト原宿」も出てくる。このショップのコンセプトはそれこそ「自分へのご褒美」だが、それは「セルフトリート」と呼ばれるものだ。

 そう言われてみれば、住吉美紀の『自分へのごほうび』も、「How to treat myself」と、ある。「自分へのご褒美」は、自己へ配慮するための技術なのだ。

 ここまで来ると、「自分へのご褒美」は、顕在化した新たなニーズというに止まらず、絵を描いたり読書したり文章を書いたりなど、人それぞれに行ってきた自己慰安につながってゆくのが分かる。そういう気づきに向かうのに、住吉の『自分へのごほうび』は、よいガイドになってくれた。こういう読まれ方は著者の本意ではないだろうが、感謝である。


 最後に、ブログを追っていると、「自分へのご褒美」は女性のみのキーワードではない。男性もあからさまに使って、自分へのご褒美消費をしている。普遍的なニーズだと思う。しかし、ここまで辿ると、楽しいだけの内容には、やっぱりならないですね。それは悪いことじゃないけれど。

   『自分へのごほうび』(住吉美紀)

Zibunhenogohoubi

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