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話し言葉の時代

 ブログは書き言葉では書きにくいなぁと思っています。というか、もともとマーケティング屋さんとしても、ブログは話し言葉で、と勧めてきたわけです。ところが自分自身は、話し言葉にするとぎこちなく、書き言葉で文章を凝縮するように書くと乗れる気がして、しばらく書き言葉で書いていました。

 けれどもそれも違う気がする。個人的には書きやすくなるけれど、どうも現実との呼吸がうまくできていない気がしてきます。もしかしたら問題なのは、話し言葉自体にあるのではなく、ぼくの話し言葉の書き方が、単純に書き言葉の語尾を「ですます調」に変換させただけだから、ぎこちなくなっているんじゃないかと思い始めました。で、むしろ自分でもeメールの書き方として言っているように、「話すように書く」という、書く呼吸の仕方が悪かったんじゃないかと反省して、ふたたび話し言葉で書くようにしたのでした。

 こんな問題意識を持っているところへ、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』をめくっていたら、表現転移の法則がちょっと新鮮に目に止まりました。

(1) ある時代の文学表現は、いつも話体文学体とのふたつを基底としてかんがえることができるし、かんがえるべきである。これは、〈書く〉ということによってうまれる表出の、表出と表現への分裂という意味を誤解しなければ、文字の成立する以前にもさかのぼってかんがえることができる。


(2) 話体の表出は、もしそれを無条件の必然としてかんがえるかぎり、文学体の方へ上昇する。話体表出を話体表出として持続するのは、意識的な思想によるほかはない。それ以外では、文学体への上昇か、話体としての風化、いいかえれば通俗小説化するほかはない。

(3) 文学体は、無条件の必然としては、より高次の文学体へと上昇する。文学体話体へむかって下降するばあいは、作家の意識的な転換であるほかはなく、この転換をうながすに足りる現実的な要因が、かれの個的な時代的な基盤のなかにあったときである。

(4) 現代において話体を風化もさせず、また文学体への自然な上昇をもおこなわずに持続している作家は、かならず現実放棄の思想をもっている。

(5) ある時代から次の時代への表出体の転移は、話体文学体との上昇や下降の複雑な交錯によって想定される言語空間のひろがりと質の転移によっておこなわれる。これは、文学体話体とが極端に張り出した幅とひろがりとしてあらわれるはあいも、話体と文学体との融和のように、あるいは区別できないまでの接近としてあらわれるばあいもある。これと対応づけられるのは言語の表現意識の水準と現実社会の総体的な要因とである。が、それがすべてではない。その他の対応は、不完全であるばかりでなく、対応させることが困難である。

(6) 表出史は現実史へ還元することができない。還元できるのは、意識の表出としての一般性であり、〈文字〉により〈書く〉という形での表現は現実への還元をゆるさない。ただ〈書く〉ということの一般性へ還元されるだけである。

(7) ある時代の表現を、はじめに次の時代へ転移させるものは、必ず文学体の表現である。これからもそうである。

 これは1965年の本でいまから43年も前になるのですが、いまの状況を説明することもできる気がします。特に(3)の、「文学体から話体」への転換は、「転換をうながすに足りる現実的な要因が、かれの個的な時代的な基盤のなかにあったときである」というくだり、いまはまさにそういう時代ではないかと思えてくるのです。

 いまの「現実的な要因」を、ぼくの反省に引き寄せると、現実と呼吸できる書き言葉をみつけていないことになるのでしょうか。だから一度、話し言葉から始めてみる必要があるということです。

 このことを養老孟司は、「漱石、鴎外、二葉亭四迷」以来の書き言葉は百年以上経っているので変化しても可笑しくなく、いまのメールやケータイは、下からの「言文一致体」の創出なのではないかと指摘したことがあります。

 ※「『バカの壁』の読まれ方と現代世界」

 こう考えると、自分のぎこちない悪戦苦闘も時代的な意味がある気がしてくるわけです。

(4) 現代において話体を風化もさせず、また文学体への自然な上昇をもおこなわずに持続している作家は、かならず現実放棄の思想をもっている。

 この言い方も面白いですね。してみると、現在はさしづめ、現実放棄の思想を持ってかろうじて生き長らえる時代なのかもしれません。




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ほっとニュースがほしい

 ほっとニュースがほしい。テレビを見たりインターネットのニュースを見たりしながら、そう思います。インターネットは読む記事を取捨選択すればいいとしたら、これは特にテレビに思うことかもしれません。

 ほっとニュースは、最新の「hot」と、ほっとするの「ほっと」の、素朴なそぼくな掛け言葉です。

 久米宏以降でしょうか。単位時間当りの読み上げる文字量が増えて、それがニュースにスピード感を与えています。それは、日常の時間感覚と合っていて、おかげでビジネスの時間速度とそれほどギャップを感じずに済んでいる面があります。

 けれど、「ほっとニュース」は、それよりは遅い速度で読み上げてほしい。あまりのんびりしていても調子が狂いますが、やはり「ほっとニュース」を見聞きするときは、日常のビジネス速度からは解放されたいのです。

 読む口調は、ソフトさを前面に出してほしい。読む口調といえば、北朝鮮のテレビ放送の、あの、芝居がかった演劇的口調を思い出します。もちろんあれではこちらはリラックスできません。とはいえ、事実を淡々と伝えることをモットーにしているような、自分の感情が読み上げるニュースにいささかでも関与するのを拒否しているような、冷たい読み方も、「ほっとニュース」には向いていません。ニュース内容への感情の関与はほのかでいい。けれど、読み上げ方には、ソフトさがほしいのです。

 そして、読む速度より読む口調より「ほっとニュース」で大事なのは、扱うニュースの選択です。「ほっとニュース」では、日常のほっとする出来事を多く扱います。もしくは、出来事のほっとする側面をクローズアップさせます。それがいまのニュース報道と最も異なる点です。凶悪さと不幸と事態の悪化で塗りつぶしているような今のニュース報道と全く違う印象であってほしいのです。それは、厳しい現実から目を逸らすという意味ではありません。どうしても伝えなければならない凶悪さや不幸や事態の悪化もあるでしょう。しかし、それは必要以上の時間をかけずに報道します。または、その凶悪さや不幸や事態の悪化のなかにも、ほっとする「面」、「面」がなければ「点」を見いだす努力をします。見ていて聞いていてほっとする内容にしたいのです。

 いまの社会現実は、個々人の皮膚を刺すようにあるような気がします。そして一人ひとりが孤独を抱え込んで生きている気もします。その孤独の緩和剤にテレビはうってつけです。日常の行動を邪魔せずさりとて孤独な人を放置している感じもなく、いい感じで映像と音声が流れると、テレビはとってもありがたい存在です。

 ところがいまのテレビは、ともすると、日常でささくれ立った神経をさらに傷つけるような、深刻さと早口で攻め立てられるように感じることがあります。そこに登場するのが「ほっとニュース」というわけです。「ほっとニュース」は、いまの社会の事実を伝えながら、孤独ないまの人を守るように、社会との間に見えない皮膜をつくる役割を果たします。そうでないと、めげてめげて仕方がない。そういうときもあるものです。ただでさえめげることの多い現実です。それなら、その現実を柔らかに前向きに淡々と伝えるニュース報道や番組があっていいですよね。

 と、こう考えると、インターネットのニュース報道もそうですね。グーグルのように、次々とあらゆる新聞報道が読めるのはありがたいけれど、ほっとする切り口でニュースを記事化する。そういうサービスがあってもいいですね。ほっとニュースは、心をはぐくむニュースなのです。



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「静か」というベネフィット

 「静か」というベネフィットが顕在化しています。

 ※人気は「低騒音」 家電メーカー“静かな争い” 「夜カジ族」増加に対応

 「低騒音」の生活家電。

「土日に遠出するために、金曜夜に掃除機をかける家庭も少なくない。

 という生活スタイルにも対応したものだといいます。

 ドラム式洗濯機のベネフィットにもこれがありました。「静かだから」、「早朝に」、「来客中に」、「深夜に」選択できる、というわけです。「静か」ということが、オケージョンの選択肢を増やすのが価値になっているのですね。


 そういえば、昨日は、「電車内のヘッドフォン音量、『注意する』8.9%」という「音」にまつわるニュースもありました。

 このつながりでいえば、ぼくは最近、電車内のヘッドホンよりも、新聞をめくる音が気になることがあります。通勤時、新聞をたたんで読む、読み方がありますね。あれです。あれを隣の席でやられると、とてもうるさく感じるということが、ここ何度かありました。

 これは疲れているからなのか、たまたま威勢のいい音を出すめくり方だったのか、よく分かりません。ですが、「音」に敏感になっているのかもしれないなとは思って反省したりしています。




 

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