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マーケティング病

 頻発する社会の不祥事は
 マーケティング病の結果である
 (『新祖国論』辻井喬、2007年)

と、書かれると、マーケティング屋の端くれとしては、
何を言われているのか、気になるというものだ。

 前世紀の一九八〇年代のころから、
 マーケティング病とでも呼ぶしかない現象が
 わが国を席捲している。
 簡単に言えば、何でもマーケティングの素材として認識し、
 それ以外の思考を排除してしまう考え方である。

ここで、何でもマーケティングの素材として認識するということは、
全てを事業機会と見做すことを意味していると思う。

 一度そういうことに気づいてあたりを見回してみると、
 この病は未だにその領域を熱心に拡げようとしていることがわかる。
 その第一は、売り込み対象の年齢層を拡げようとする努力だ。
 (中略)
 もうひとつの方向は今でまでは休息の時間だった夜を
 市場にする努力である。人口に二十四(時間)を
 掛けたのが市場規模であるなら、
 夜を短くするか、睡眠時間そのものを市場化する必要がある。

時間と空間に手付かずの場所をめがけて、
事業機会とする思考が、
ここではマーケティング病と呼ばれている。

ぼくたちはここで、空間は人口だけでなく、
地域と言い換えてもいい。

地域ブランドと呼ぶ眼差しのなかにも、
このマーケティング病は潜んでいるかもしれない。

 その病が蔓延した結果、
 疲れた大人たちには癒やしのための装置、
 商品があれこれ用意されるようになった。
 癒やしの音楽、癒やしの香り、癒やしの部屋の設計、
 癒やしのペット、といった具合である。
 つまり、マーケティング病の人間社会制覇は
 最終段階に入ったということなのだ。

疲れさせた上で、癒やさせる、とでも言えばいいだろうか。
こう理解すれば、マーケティング病には、
消費者を操作対象と見なす眼差しが含まれているように思う。

 これではどこまでいっても、ひとりひとりの人間が
 自分の心の命じる選択によって
 生き方を決める姿を見ることができない。
 最近頻発する経営の不祥事、悲劇のかなりの部分が、
 このマーケティング病の結果なのではないかという気が僕はする。
 かつて産業活動の大事な肯定的部分であり、
 今でもその本質は残っているマーケティングの世界に、
 いつからこうした病的現象が現れるようになったのかは、
 僕らが大急ぎで解明しなければならないことだと思っている。

「いつからこうした病的現象が現れるようになったのか」

これを、マーケティングの内側から言うなら、
開発マーケティングより販売マーケティングが
重視されるようになってからだと、ぼくなら答える。

つまり、商品が過剰になって以降のことだ。

生活環境から商品が溢れ出し、
それだけでなくお店からも商品は溢れ出す。

極端な言い方をしてみよう。

かつて、ぼくたちの消費行動は、
「必要なもの」があるお店で「必要なもの」を買い、
生活空間で「必要なもの」を使う、
というあり方をしていた。

辻井がマーケティング病と呼ぶ中味を
イメージしやすくするため極端化すれば、

「必要でないもの」があるお店で「必要でないもの」を買い、
生活空間で「必要でないなもの」を使う、となるだろう。

これが、ぼくたちのうかない消費の内実に当っている。

「自分の心の命じる選択によって生き方を決める」
という言い方の、あまりに古典的なことに躓かないとすれば、
「病」の克服はどうすればいいだろう。

マーケティング自体の意義を認めている辻井の視点を生かして、
マーケティング屋として答えるなら、マーケティング屋が、
マーケティングの対象となる領域を知っていることが大切だと思う。

逆にいえば、マーケティングを持ち込んではならない領域を知る、
と言ってもいい。

マーケティングが手を出してはいけない領域。
典型的な場は、家庭である。

家族関係にマーケティングを持ち込めば、家族は壊れる。
差別化、ポジショニングの指標が溶解する場所を指して、
家族と呼ぶからである。

マーケティング屋の倫理として
マーケティングの及ばない時間と空間を持つことが、
求められていると思う。



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