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希釈物としての書籍

先日、ある出版社の方と議論をする中で、
フリーペーパーの活字は小さく情報は満載なのに対して、
書籍は、活字は大きく行間もスカスカになり情報も少なくなっている。
この両者、正反対に動いているように見えるという話題になった。

思い起こしてみれば、
TVを見ればCMが定期的に流れ(もっとも無視するのだけれど)、
電車に乗れば中吊りやポスターがあふれ、
街中にも電光掲示板、電柱といたるところに広告がある。
出版社の方は、「隙あらば売り込もうとしている」と語っていた。

決定的なのはしかし、外的な世界ではない。
いまやぼくたちは、パソコンや携帯でインターネットにつながって、
そこで、広告以外にも、ふんだんに情報に接している。
より内的な場面に、情報は移っている。
情報洪水という言葉は、本来的には今日的な状況を指している。
フリーペーパーもこの延長に来る。
一見、無料の仮象をまとって現れる情報だ。

ぼくは浸透圧を思い出す。
濃い液体と薄い液体が接すると、
濃い方から薄い方へ液体が流れ出し、
両者の濃度を均等にする力が働くという、あれである。

ぼくたちの環境は情報にあふれ、情報の濃度は常に過飽和だ。
そこで、知らず知らずのうちに、ぼくたちの脳、身体も高濃度になっている。

ここでは、書籍を読む行為は相当に能動的なものになるだろう。
ぼくたちにとって、書籍の読書とは何になるのか。

かつて、書籍は限られた情報源であり、
読書は、希薄な内部を高濃度で満たす行為だった。
書籍から身体へ、濃い液体が入ってきたのだ。

いま、それは逆転しているのかもしれない。
濃い環境から常に情報が浸透していて、身体は過飽和になっている。
だから、能動的に接する行為は、
この濃い身体を希釈する、
希薄にする必要に迫られているのではないだろうか。

いまや読書とは身体の希釈化行為なのである。
行間だけを読めよ言わんばかりに開いた行間や、
一冊にひとつくらいのメッセージで、
希釈化を果たそうとしているのである。

ただ、フリーペパーと書籍とではひとつだけ違っている。
書籍は、身銭を切る行為だから、
自分のためになる、という目的があらわになる。

希釈化した活字の流れに、
何がしかの想いだけは託されることになる。

そこで、現在的な書籍の果たすべきものは、
ためになると思えることを、希釈化した活字の流れで表すことになる。

これが、浸透圧からみた書籍の現状だ。

すると、現在的な理想の書籍とは、「水」だろうか?




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