「自分へのご褒美」備忘録

 とてもハードなを書いた後は、楽しいだけの本を書きたくなった。そうして思いつくのは、「自分へのご褒美」である。「自分へのご褒美」、ここ一年くらい気に合っているキーワードで、このキーワードをめぐってどんなブログが書かれているのかウォッチングしている。

 そんなことを思って見ると、そのもの、『自分へのごほうび』(住吉美紀)という本が出ていて、すぐに買ってみた。読者層は、著者と同世代の三十代の女性だろうから、思い切りそれから外れて入るし、ぼくも探究する目的が無ければ決して手に取ることのない類のものではあるけれど、これも縁である。

 実際に読んでみると、「自分へのご褒美」というのは、とどのつまり、自分へのケアのことなのだということがよく分かった。

 歳だけは取っていくのに、生き方に確信が持てないまま、焦る気持ちに押しっぷされそうになることが時折ある。漠然とした不安に襲われ、希望とやる気を失い号つなときもある。一度きりの人生、これでいいのだろうか……?白黒はっきりした答えなんて出るはずもない。
 そんなときは、今もやっぱり、周りに目をやってみる。
 すると、意外なものごとや出来事が、思わぬ気づきや励ましをくれる。日常に潜む喜びや発見が、力を与えてくれる。見ようとする気持ちさえあれば、身の周りにはごほうびが溢れているのだ。
 そう、自分へのごほうび。
 人生とは、自分探しの旅である。よく聞く言葉だが、そろそろ、その本当の意味を実感できるお年頃になったのかもしれない。生きていると山あり谷ありだけれど、自分へのごほうびをギユッと愛おしく抱きながら歩けば、旅を続けていけると思うのだ。
 そんな、わたしの「ごほうび」たちを、この本にパンパンに詰めてみた。

 この本のモチーフは、「はじめに」で明瞭に語られる。「自分へのご褒美」が、消費という以前に、自分の身の周りの事物との関係の気づきのことを指していることも語られている。そして、「自分へのご褒美」が、似て非なる「自分探し」と接点を持っていることも。

 で、最初のエッセイは「朝ごはんは重要だ」で始まる「黄金の朝ごはん」なのだが、それがなんとスイーツなのである。朝ごはんというのは、ご飯かパンで、お酒を飲むわけでもないし、こってりしたものを食べるわけでもない、どちらかといえば、まじめな食事?という先入観があるので、朝ごはんにスイーツは驚いてしまう。しかり、驚くのはまだはやくて、

 いよいよ、口に運ぶ。ちなみに食べるのは、台所で立ったままと決めている。構えずに食べたいからだ。お祭りの屋台の前で立ったまま食べるウィンナーやりんご飴は美味しいのに、買って帰り、食卓で食べるといまいち美味しく感じないのと同じである。立ったままの機動力を活用して、軽快に、朝の時間を楽しむ。目が覚める音楽をかけたりして、ちょっとオシリを振りながら食べるのも上々。その数分問は己を解放して、一日のやる気を盛り上げる。

 と、来る。オシリ振りふりスイーツの朝食なのだ。
 自分が元気になるには、食べるべきものという枠に囚われずに食べればいい、しかも食べ方だって好きにすればいい。そうか、ここで言う「自分へのご褒美」というのは、朝ごはんとの関係の仕方を自分で自由にアレンジすることなのだ合点する。

 「手帖」は「一緒に険しき日常を徒行してきた、相棒」。「さけるチーズ」、「身近にいる強い味方」。単焦系レンズの「デジカメ」は、「自分にとって必要不可欠なひとつの機能を持つ」もの。のほほんとする「シンプルな瞬間こそ、人生のシアワセがたんまりと詰まっている気がする」。

 この人はわたしが生まれる前からうちにいる。そして、二歳か三歳のとき、わたしはこの扇風機に向かって顔から転けたという。羽根の周りの金属の留め金で頬を切り、けっこう出血したらしい。一応女の子だし、傷が残ってはよくないと、両親は急いで病院に連れていった。しかし、結局その傷は今も残っていて、ある意味、わたしの顔の個性になっている(と自分では思っている)。
 つまり、扇風機さんは、わたしの顔を作った人のひとりなのだ。そんな歴史まで共有しちゃってるんだから、緑が深いと言うしかない。

 「この人」というのは扇風機のことだ。自分が扇風機を動かし、扇風機に傷つけられることもあったという関係を通じて扇風機は擬人化される。その擬人化のなかで、不器用で愛嬌のあるところに人っぽさを見ているわけだ。

 本『Frog and Toad』に純粋な人間関係を見る。「鼻うがいポット」を通じては、新しい身体との関係。必要なものを減らすことに価値を見いだす「小荷物」主義。「あまり考えすぎず、とりあえず前進」すると、求めるものは返って得られる、その象徴のような「金木犀の香り」。

 それに、それなりに何かをこなしたとしても、今さら若い頃のように誰も褒めてほくれない。褒めてくれるのは自分だけ! だからこそ、その己の自信が崩れたときには、どうしようもない虚しさと脱力感に襲われるのだ。ああ、こわい、こういう朝は。

 褒められるということは、それ無くしては社会的生活に障害が生まれるほど必須なものと思われている。そういえば、「さんまのからくりテレビ」でも、演歌好きの大江君は、叱られたとき、「褒めて伸ばされたいです」とすっとんきょうなことを言っていた。

 橙色の空を見ながら思う。いいではないか、小さな失敗を繰り返してしまっても、ほかの人がすごく見えても。いびつだからこそ、少しでもがんばれた日は、自分を思いきり褒めてあげればいい。

 褒めてくれるのは自分だけ。だからこそ、自分で褒める。ここに「自分へのご褒美」の駆動源もある。つまり、「自分へのご褒美」が顕在化してくる背景には、「ひとり」という状態がある。

 「ひとりカラオケ」だって「自分へのご褒美」である。

 そうよね、自分が好きなところに行って、道で人に踏まれるかもとか恐れずにゴロゴロ寝て、他人がどう思おうと気にせず、何かを期待されても応えず、そこに居たいだけ居て、晴れれば太陽を味わって、雨が降れば雨粒を眺めlて、自分なりに生きていければ、それでいいのよね。

 「ネコと逢う」ことで、余計なことに気を遣い未来を思い患い「ありもしないしがらみに勝手に縛られ」て、忙しくなyている自分自身との関係を結び直す。「洗濯物」を眺めて「心の奥から平穏を感じる」。

 読書に没頭している間は、電車の中に居ようが、自分の部屋に居ようが、カフェに居ようが、周りの環境は全て消え去り、本の世界の中に確かに居るのだ。飲んでいる紅茶や座っている椅子のクッション、吸っている空気までもがなにやら違う質感を帯びてくる、不思議な感覚だ。

 と、読書の本来の楽しみ方を押さえ、ライブで「心身に必要な栄養分」を得る。

 また、「自分へのご褒美」の代表のひとつは「お取り寄せ」である。

 食べることが、日々の悦楽の大きな部分を占めているので、その楽しみをちゃんと確保したいと思う。きょうは何ひとつ楽しみがない、いや、むしろ気が重くなるような仕事がいっぱい溜まっていて、はぁ……という日でも、大好きなものが食べられると確約されていれば、それだけで、じゃあ、その前にイッチョがんばるかな、なんて思えたりする。単純だが、美味しさの確保が大差を生む。自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜くという感じである。

 でもって、「自分へのご褒美」を生きる技術としてみたときの意味がここに書かれる。その原理は、「自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜く」、である。

 ヨガで自分の身体の「進化」を感じる。「ひとりコーヒー」で「大人のオンナ」を実感する。「新しい自分への脱皮が成功すれば、引っ越しも、自分への大きなごほうびとなる」。引っ越しによる自分自身の更新が「自分へのご褒美」だということ。

 「皮膚の下、深度の深いところの渇きまでをも癒してくれそうな気配」の「わたしアロマ」。「邪念なく、体力の限りまでがんばり通すというのは、自分の「生」への炎を確かめるようなもの」というカラオケ部活。「飾らない、素の自分を、かつて心から受け入れてくれたことのある」モト彼の存在は嬉しい。

 それがないと「息苦しくて倒れてしまいそうと感じることがある」からたまに吸う「海外の空気」。その海外では、

 ニューヨークも、ガツガツと何にでも手を出すのではなく、自分だけのキーワードでググる感覚が必要な街だ。そんな旅は難しそうと尻込みすることなかれ。「自分が今求めているものは何か」ということを基準にすればいいのだ。世間の流行や話題のスポットなんてチェックしなくていいし、お決まりの観光エリアを全て網羅する必要もない。逆に、人がどう思おうと、自分にとって大事な場所には絶対に行く。そうすれば、他の街では絶対に得られない、ごはうびが見つかる場所でもあるのだから。

 自分の欲求(wants)をよく分かっていれば、「自分へのご褒美」と出会える。「自分へのご褒美」を見つけるには、自分の欲求(wants)を知っているのがいい。

倉庫の片隅に座り込み、こうして文章を読んだり、本を手に取ったりしながら六歳の少女と会話をしているうちに、まるで恐竜が目覚めるかのように、忘れていた感覚や感情がたくさん、たくさん蘇ってきた。
「自己」を意識する前の自分。自意識に邪魔されずに周囲の世界と関わっていた頃。その少女が、現在のわたしに、鮮烈な存在感を持って迫ってきた。

 六歳のときの自分との対話による自分の見つめ直し。自己更新。
 恰好いい先輩への恋。ラーメンをパスタのようにクルクル巻いて食べると変わるように、ほんの少しで変わる日常。濃い付き合いをしてみると分かる植物に励まされていること。

 こんな風に人に限らず、モノやコトと新しい関係を結んだり、関係を見直したり結び直したりすることのなかに、著者の住吉は、「自分へのご褒美」を見つけている。

◇◆◇

 「自分へのご褒美」をニーズと見なし、このニーズはいつ顕在化したのかと問うと、1996年、アトランタ・オリンピックのマラソンのゴール直後、有森裕子が「自分で自分をほめたい」と語ったときだと思う。それ以降、「自分へのご褒美」は口にしてもいい言葉になった。

 本の世界では、有森裕子の発言の一年前に、作詞家の麻生圭子が『じぶんにごほうび』という書名で先駆けている。見られる限りでは、これは「自分へのご褒美」本の嚆矢であり、その翌年の1996年、有森発言と同じ年には、落合恵子が『自分にごほうび』というエッセイを出している。まさに1995年から96年にかけて、「自分へのご褒美」は人々の意識に上ってきたのだ。

 ただ、この二冊は「自分へのご褒美」を意識化した言葉として嚆矢であるとはいっても、その中身は住吉とはずいぶん違って見える。

 たとえば、麻生の『じぶんにごほうび』は、本文の前に「この本を手にしたあなたへ。」という文章が置かれる。

つぶやく夜はないですか。
「どうしてわたしがひとりなの?」
悔しくて、泣きたくなる夜はないですか。
「こんなにがんばっているのに、
どうして、誰もわかってくれないの?」
まじめで、演がよくて、凡帳面で、
才能があって、がんばってる人ほど、
そんなツラい思いをするようです。
これは、そんなあなたに代わって、
わたしが書いた、甘いつぶやき、
エッセイ詩集です。

 このメッセージを読むと、懸命に頑張っているけれど報われず傷ついている痛ましい姿がやってくる。ここからやってくる印象と住吉の『自分へのごほうび』とは懸命さは同じだけれど、報われていないという痛ましさは、ない。そしてもっとも違うのは、麻生は「どうしてわたしがひとりなの?」と問うのに対して、住吉の場合、「ひとり」は前提であり、しかもやむを得ない前提ではなく、大切な前提としてつかまれているようにみなされていることだ。ここに長く引用した「自分へのご褒美」の種は、一つひとつが、ひとりであることを欠かせない要素として生みだされている。

 住吉の「自分へのご褒美」は、落合のそれとも違う。

まえがき
前略
元気ですか?元気でいてください。元気なあなたは
素敵です。
でも、いっつも元気、なんて嘘。
時々、大声で叫びたくなります。
生きてるってことは
どうして こうも疲れることなのだろう、と。
そう。疲れたあなたも、あなたの大事な一部です。
あなたの怒りが、かけがえのないあなたの一部であるように。
どうか、心に蓋をしないでください。
あなたは あなただから 素敵なのですから。
この本を
目覚める朝ごと「元気であろう」と 自分に呼びかける
あなたに
けれども 時には心の奥に降り積もらせた疲れのために
人知れずため息をもらしているあなたに 贈ります。
一日の終わりに 好きなCf)でも流しながら
頁を繰っていただけたら幸いです。
男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが
使っている意味とは全く別の意味で、この言葉をあなたに。
いい女だよ、あなたは!

 ここからも懸命さと痛ましさの印象はやってくる。
 たとえば、「女子の決断」というエッセイで、住吉は、「最近、周りで決断する女子が増えている」としてこう書く。

 つまり、一度きりの人生、「わたしの存在意義をかけてもいい!」と感じるような、予定外に強烈なものに出逢いたいと思っているのだ。
 コポリの場合、それはイギリスの土地と人で、トモちゃんの場合、それは教育の仕事というライフワーク。
 いわゆる自由が、必ずしも本当に自由なわけじゃない。選択肢が多すぎる今の世の中は、「きりがない」という不自由だってある。だとすると、自分の心を縛って離さない召命と呼べるくらいの強烈なものに出逢えば、縛られているほうがずっと自由かもしれない。
 だから、予定外の素敵なハプニングが起こったら、人生の舵はいつだってきれる。生活の激動だって厭わない。
「うわ、この人と人生をともに歩まねば!」と強烈に感じる男子と出逢ってしまったら、自分の仕事や住む場所などを大幅に変える覚悟だってある。あるいは、予定外に子どもを授かるとか、強く惹かれる仕事の分野や人生のテーマを見つけちゃうとか……そんなことが突如起こっても、ちゃんと引き受けられる。
 ひょんなご緑に人生を委ね、そこで自分なりの何かを育てようと決心できること。もしかして、それこそが女子の持つ母性なのかもしれない。
   決断するのは女子であっても、それは「男子」の対立項として言うのではない。それが、「男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが使っている意味とは全く別の意味で」と断る落合の女性像と変わっているところだと思う。しかも、住吉の場合、「男」ではなく「男子」であり、「女」ではなく「女子」である。

 また、別のところでは、

「男は胃袋でつかみなさい」とよく聞くけれど、わたしは逆だね。つかまれるほうだ。そして、つかまれてしまうという男子の気持ちもよくわかる。だって、美味しいものを毎日いただけるというのは、幸せなことだ。

 として、「料理好き男子」を重宝している。ここにいる男女は、対立構図のなかにない。むしろ、草食系と呼ばれ、それがときには物足りなさとして言われることもある、けれどその分、自由も手にしている女性の、生きる技術が「自分へのご褒美」である。

◇◆◇

 ブログで「自分へのご褒美」のキーワードを追ってゆくと、今年は1月23日、原宿にオープンした「ゴディバ ショコイスト原宿」も出てくる。このショップのコンセプトはそれこそ「自分へのご褒美」だが、それは「セルフトリート」と呼ばれるものだ。

 そう言われてみれば、住吉美紀の『自分へのごほうび』も、「How to treat myself」と、ある。「自分へのご褒美」は、自己へ配慮するための技術なのだ。

 ここまで来ると、「自分へのご褒美」は、顕在化した新たなニーズというに止まらず、絵を描いたり読書したり文章を書いたりなど、人それぞれに行ってきた自己慰安につながってゆくのが分かる。そういう気づきに向かうのに、住吉の『自分へのごほうび』は、よいガイドになってくれた。こういう読まれ方は著者の本意ではないだろうが、感謝である。


 最後に、ブログを追っていると、「自分へのご褒美」は女性のみのキーワードではない。男性もあからさまに使って、自分へのご褒美消費をしている。普遍的なニーズだと思う。しかし、ここまで辿ると、楽しいだけの内容には、やっぱりならないですね。それは悪いことじゃないけれど。

   『自分へのごほうび』(住吉美紀)

Zibunhenogohoubi

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2009年バレンタインデイの「自分へのご褒美」チョコは昨年の7割!?

 「クチコミ@係長」によると、2009年のバレンタイン・デイに「自分へのご褒美」が書かれているブログの記事数は、301で、昨年の423に対して約7割に止まった。

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 この減少を景気の影響と見ることもできるが、バレンタインデイ以外の日の出現数が、やや低調に止まっているのをみると、そのまま景気の規模と見るのではなく、イベント当日の気分としてみたほうがいい気がする。

 301の出現数は、去年の7割に止まるとはいえ、2009年に入って以降の最大数であるには違いなく、また、2008年の年間を通した推移のなかでも、年末に次ぐ数だ。バレンタイン・デイが「自分へのご褒美」ニーズのピークという仮説は妥当性があるように思う。


 ※「2009バレンタインは、「自分へのご褒美」のピークになるか」



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2009バレンタインは、「自分へのご褒美」のピークになるか

 「自分へのご褒美」がキーワードとしてブログに書かれる数が年間で最も多く書かれる月は何月だろうか? それは予想に違わず12月、だ。なんといってもクリスマスがあり、冬のボーナスもあり年末年始も控えている。

 では、「自分へのご褒美」がキーワードとしてブログに書かれる数が年間で最も多く書かれる日は何月何日だろうか?

 ぼくはびっくりしたのだが、「クチコミ@係長」で調べると、2008年は2月14日、なのである。そう、バレンタイン・デイなのだ。

 どうしてバレンタイン・デイに「自分へのご褒美」が最も多く書かれるのだろうか。そもそもその日は、女性が男性に告白する日ではないのか。と、思うとしたら、その感じ方はもはや古典的かもしれない。

 その日は、何といっても「自分へのご褒美」チョコの日、なのである。

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 これを見ると、バレンタイン・デイはクリスマスより群を抜いて高いのが分かる。

 個々のブログを見ても、企業キャンペーンの影響で数が多くなっているわけではない。企業キャンペーンも見られるが、それが数を一番にするほどの影響を与えていない。「自分へのご褒美」チョコのニュース報道を受けた記事が散見されるとはいえ、消費者が自発的に書いたキーワードが「自分へのご褒美」だった。

 ブログの声から読み取ると、

・義理チョコ廃れて、自分へのご褒美チョコ台頭
・高いチョコは自分に
・前からやってた
・VDは、好きなだけチョコを食べていい特別な日
・月に一回、自分へのご褒美

 こんなポイントが浮かび上がってくる。

 さて、2008年に続き、2009年の今年も、バレンタイン・デイが「自分へのご褒美」のピークを形成するか、興味深いところだ。ちなみに、2月に入り7日までの「自分へのご褒美」数は、2008年1049だったのに対して、今年は857とやや低調だ。この推移がどうなっていくか、追ってゆこう。


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マーケティングをひと言でいうと

 マーケティングをしている、と言うと、ときどき胡散臭そうに見られることがある。心外である(苦笑)。

 その理由の核にあるのは、売れないモノまで売れるようにする、というような消費者操作の雰囲気ではないだろうか。でもそれは、易きに流れたときに見せる一面であり、しかもいまのマーケティングは、消費者操作の無効性を組み込むようになりつつある。

 胡散臭さのもうひとつの理由は、マーケティングに該当する日本語が見当たらないからだと思う。マーケティングは広い。広告も販売促進も市場調査も商品開発もチャネル開拓も、そのどれもマーケティングであり、そのどれかのみではマーケティングの全体観に届かない。ひと言でいうことはできるだろうか。

 マーケティングは分解すると、market ing だから、市場を活性化することと言うことができる。市場活性化、だ。結局は、消費者の理解からすべては始まる、と捉えれば、消費者理解と言うこともできるかもしれない。しかし、市場活性化には、消費者不在の不安が生じるし、消費者理解には、消費者への提案というニュアンスが削がれる。

 ぼくがマーケティングの定義で、最も適切だと思っているのは、BMRだ。

マーケティングとは、環境(E)を考慮しつつ消費者のウォンツ(W)と製品・サービスのベネフィット(B)を結びつける創造的かつ総合的活動をいう。(『10年商品をつくるBMR』

 この定義は、マーケティングに欠かせない主役の二者を登場させているのが魅力だ。これに添って言えないだろうか。

 マーケティングとは何か。消費者の欲求と製品の価値を結ぶこと。
 もっとつづめると、欲求と価値を結ぶこと。欲求と価値の連繋。

 欲求価値連繋。こんな熟語じゃ分からない。消商連繋も無理がある。
 やっぱり、欲求と価値の連繋、だろうか。

 マーケティングって何?
 欲求と価値を結ぶこと。

 仮の回答としておきます。



 

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「お客さま学」のゆうべ

 昨日、MCEIで話をさせてもらった。テーマは、「顧客接点の進化と深化」。

 何を話そうと考えていくうち、インターネットが登場してからの十数年間を見返せば、近い未来の見通しが得られやすいのではないかと思い、1996年から2008年までの企業-消費者のコミュニケーションを一気に辿ってみた。勢い抽象的な話を含まざるを得ないのが場違いにならないか、気になったが、参加者に得るものがあったことを願うのみだ。

 本当は水口さんに聞いてほしい場だった。水口さんの思考や態度を引き継ぐことも恩返しになるだろうと思い直して、これからも恩返しを続けていこうと思う。

 最後には感謝状もいただき、びっくり。マーケターの集えるいい場だった。

Mcei


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顧客接点の進化と購入、と聞かれて

 お題。「顧客接点の進化と購入」。

 思いつくこと、メモ。

与件

・EC市場の普遍化。普及率と市場規模。
・モバイルECの成長。普及率と市場規模。
・人口減少時代 2007年から
・標準世帯を単独世帯が上回る


EC、モバイルEC市場の普遍化による顧客接点の進化と購入。

1)リアル店舗代替としてのネットショッピング
・(天気が悪くて買いに行けないから)ネットで済ませる。

2)リアル店舗で探して、ネットで買う。(逆検索)
・アフィリエイト、ポイントなどの理由。

3)リサイクル消費。
・オークションにより消費者自身による価値化

4)買い場の遍在化。
・買いたい時が買う時。

ウェブコミ(ネット上のコミュニケーション)の変化

1)追い越される24時間。
・問い合わせ回答の標準原則は、24時間だが、2008年、それ以下の時間を望むようになった。顕在化はまだ先。
・eメールでの問い合わせと回答は普遍化するか? 90万/月の電話と5千/月のeメール。

2)意見(オピニオン)の充実
・アマゾンのレビューなどの消費者評価の充実
・感想(インプレッション)への期待増

ブログの特徴
・コメント     「人」コミュニケーション
・トラックバック 「記事」コミュニケーション

これらを受けた購買行動の変化

5)ブログネタ消費
・ブログのネタを目的にしたコミュニケーション消費

6)CMを凌駕する記事の出現
・もう自分たちがコンテンツをつくる時代は終わったんですね。

1.古典的モチベーションの沈下
2.個人的モチベーションの高原化
3.特定モチベーションの浮沈

個人的モチベーションの高原化。「自分へのご褒美」




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『クオリア立国論』

『クオリア立国論』
Qualia

 人間は、無意識に感じているものを他人に語ることはできません。自分自身でさえよく把握していないのですから、それを他人に説明することは基本的にはできない。自分で意識されたものについては言葉で語れるけれど、無意識のものを言葉にすることはとても難しい。クオリアというのは無意識で感じる質感です。みんながそれぞれに無意識のなかに感じている。それを心のなかから引っ張りだして、互いの質感について話をする。つまりクオリアというのは、人と人とのコミュニケーションの基盤であるという言い方もできるわけです。

 マーケティングの世界に、インサイトという言葉があります。たとえば消費者がある製品を選ぶ。多くの製品のなかから、たったひとつの商品をチョイスする。どうしてその商品を選んだのかを聞くと、明確な理由はそこにはありません。「好きだから」「何となく気に入ったから」という曖昧な答えが返ってくる。そうした消費行動に対する理由づけをすることを「インサイトを明示化する」と言うのです。たとえば数あるコンピューターのなかからアップル社のコンピューターを選ぶ。機能的には大した差がないのに、どうしてかアップルのコンピューターをチョイスする。買った本人でさえ、その理由を明確に示すことはできない。無意識で選んだものに関しては説明のしょうがない。その無意識で感じたクオリアを明確な言葉にしていく。それがマーケティングのひとつの方法論なのです。「アップル社のコンピューターは、こういう理由で選ばれているんですよ」と明示することで、さらに消費心理にいい影響を及ぼすということです。

 ここでいうインサイトは、ウォンツ(欲求)のことだと思えばいい。強いて言えば、無意識の領域の広いウォンツと言えばいいだろうか。


 この本からヒントを受け取ると、ネット上の声は、オピニオン(意見)ではなく、インプレッション(感想)の領域が増えると、生産と消費のサイクルに好循環化を生む。


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『走る女たち』

 女はなぜ、走るのか。自由になるため、だ。それがこの本からまずやってくる印象だ。

 ダイアンは走ると発作が起こらないからそれが薬というように走る。パムは太りたくないから走り、アスラは宗教的抑圧に抗して走る。シャリは女の子の殻を破りたくて走り、ジャネットは性転換して女性になってその証ように走る。

 彼女たちの走りっぷりを追っていくと、体調から自由になるように、いや、女性の身体は走るのに向いていないという偏見に抗うように、女性を取り巻く不自由を振り払うために走っているように見えてくる。フェミニズムの先端は、いま走ることにあるのではないか。そんなことすら思った。 


『走る女たち』

Photo

この本はたしかに走ることについての本だけれど、女性が日々の生活を生きるヒントが見つかるのではないだろうか。女性の場合、仕事や家庭、出産、子育て、加齢による心身の変化など、複雑に絡み合う条件とともに生きていかなければならない。社会的には男女平等がかなり達成されてきているけれども、おそらく女性の人生には、今でも身体的に面倒なことがいくらか多いのではないかと思う。

 これは「訳者あとがき」のなかにある言葉。これは、新しい一歩を踏み出したい。そう思っている女性への応援歌だ。


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話し言葉の時代

 ブログは書き言葉では書きにくいなぁと思っています。というか、もともとマーケティング屋さんとしても、ブログは話し言葉で、と勧めてきたわけです。ところが自分自身は、話し言葉にするとぎこちなく、書き言葉で文章を凝縮するように書くと乗れる気がして、しばらく書き言葉で書いていました。

 けれどもそれも違う気がする。個人的には書きやすくなるけれど、どうも現実との呼吸がうまくできていない気がしてきます。もしかしたら問題なのは、話し言葉自体にあるのではなく、ぼくの話し言葉の書き方が、単純に書き言葉の語尾を「ですます調」に変換させただけだから、ぎこちなくなっているんじゃないかと思い始めました。で、むしろ自分でもeメールの書き方として言っているように、「話すように書く」という、書く呼吸の仕方が悪かったんじゃないかと反省して、ふたたび話し言葉で書くようにしたのでした。

 こんな問題意識を持っているところへ、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』をめくっていたら、表現転移の法則がちょっと新鮮に目に止まりました。

(1) ある時代の文学表現は、いつも話体文学体とのふたつを基底としてかんがえることができるし、かんがえるべきである。これは、〈書く〉ということによってうまれる表出の、表出と表現への分裂という意味を誤解しなければ、文字の成立する以前にもさかのぼってかんがえることができる。


(2) 話体の表出は、もしそれを無条件の必然としてかんがえるかぎり、文学体の方へ上昇する。話体表出を話体表出として持続するのは、意識的な思想によるほかはない。それ以外では、文学体への上昇か、話体としての風化、いいかえれば通俗小説化するほかはない。

(3) 文学体は、無条件の必然としては、より高次の文学体へと上昇する。文学体話体へむかって下降するばあいは、作家の意識的な転換であるほかはなく、この転換をうながすに足りる現実的な要因が、かれの個的な時代的な基盤のなかにあったときである。

(4) 現代において話体を風化もさせず、また文学体への自然な上昇をもおこなわずに持続している作家は、かならず現実放棄の思想をもっている。

(5) ある時代から次の時代への表出体の転移は、話体文学体との上昇や下降の複雑な交錯によって想定される言語空間のひろがりと質の転移によっておこなわれる。これは、文学体話体とが極端に張り出した幅とひろがりとしてあらわれるはあいも、話体と文学体との融和のように、あるいは区別できないまでの接近としてあらわれるばあいもある。これと対応づけられるのは言語の表現意識の水準と現実社会の総体的な要因とである。が、それがすべてではない。その他の対応は、不完全であるばかりでなく、対応させることが困難である。

(6) 表出史は現実史へ還元することができない。還元できるのは、意識の表出としての一般性であり、〈文字〉により〈書く〉という形での表現は現実への還元をゆるさない。ただ〈書く〉ということの一般性へ還元されるだけである。

(7) ある時代の表現を、はじめに次の時代へ転移させるものは、必ず文学体の表現である。これからもそうである。

 これは1965年の本でいまから43年も前になるのですが、いまの状況を説明することもできる気がします。特に(3)の、「文学体から話体」への転換は、「転換をうながすに足りる現実的な要因が、かれの個的な時代的な基盤のなかにあったときである」というくだり、いまはまさにそういう時代ではないかと思えてくるのです。

 いまの「現実的な要因」を、ぼくの反省に引き寄せると、現実と呼吸できる書き言葉をみつけていないことになるのでしょうか。だから一度、話し言葉から始めてみる必要があるということです。

 このことを養老孟司は、「漱石、鴎外、二葉亭四迷」以来の書き言葉は百年以上経っているので変化しても可笑しくなく、いまのメールやケータイは、下からの「言文一致体」の創出なのではないかと指摘したことがあります。

 ※「『バカの壁』の読まれ方と現代世界」

 こう考えると、自分のぎこちない悪戦苦闘も時代的な意味がある気がしてくるわけです。

(4) 現代において話体を風化もさせず、また文学体への自然な上昇をもおこなわずに持続している作家は、かならず現実放棄の思想をもっている。

 この言い方も面白いですね。してみると、現在はさしづめ、現実放棄の思想を持ってかろうじて生き長らえる時代なのかもしれません。




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ほっとニュースがほしい

 ほっとニュースがほしい。テレビを見たりインターネットのニュースを見たりしながら、そう思います。インターネットは読む記事を取捨選択すればいいとしたら、これは特にテレビに思うことかもしれません。

 ほっとニュースは、最新の「hot」と、ほっとするの「ほっと」の、素朴なそぼくな掛け言葉です。

 久米宏以降でしょうか。単位時間当りの読み上げる文字量が増えて、それがニュースにスピード感を与えています。それは、日常の時間感覚と合っていて、おかげでビジネスの時間速度とそれほどギャップを感じずに済んでいる面があります。

 けれど、「ほっとニュース」は、それよりは遅い速度で読み上げてほしい。あまりのんびりしていても調子が狂いますが、やはり「ほっとニュース」を見聞きするときは、日常のビジネス速度からは解放されたいのです。

 読む口調は、ソフトさを前面に出してほしい。読む口調といえば、北朝鮮のテレビ放送の、あの、芝居がかった演劇的口調を思い出します。もちろんあれではこちらはリラックスできません。とはいえ、事実を淡々と伝えることをモットーにしているような、自分の感情が読み上げるニュースにいささかでも関与するのを拒否しているような、冷たい読み方も、「ほっとニュース」には向いていません。ニュース内容への感情の関与はほのかでいい。けれど、読み上げ方には、ソフトさがほしいのです。

 そして、読む速度より読む口調より「ほっとニュース」で大事なのは、扱うニュースの選択です。「ほっとニュース」では、日常のほっとする出来事を多く扱います。もしくは、出来事のほっとする側面をクローズアップさせます。それがいまのニュース報道と最も異なる点です。凶悪さと不幸と事態の悪化で塗りつぶしているような今のニュース報道と全く違う印象であってほしいのです。それは、厳しい現実から目を逸らすという意味ではありません。どうしても伝えなければならない凶悪さや不幸や事態の悪化もあるでしょう。しかし、それは必要以上の時間をかけずに報道します。または、その凶悪さや不幸や事態の悪化のなかにも、ほっとする「面」、「面」がなければ「点」を見いだす努力をします。見ていて聞いていてほっとする内容にしたいのです。

 いまの社会現実は、個々人の皮膚を刺すようにあるような気がします。そして一人ひとりが孤独を抱え込んで生きている気もします。その孤独の緩和剤にテレビはうってつけです。日常の行動を邪魔せずさりとて孤独な人を放置している感じもなく、いい感じで映像と音声が流れると、テレビはとってもありがたい存在です。

 ところがいまのテレビは、ともすると、日常でささくれ立った神経をさらに傷つけるような、深刻さと早口で攻め立てられるように感じることがあります。そこに登場するのが「ほっとニュース」というわけです。「ほっとニュース」は、いまの社会の事実を伝えながら、孤独ないまの人を守るように、社会との間に見えない皮膜をつくる役割を果たします。そうでないと、めげてめげて仕方がない。そういうときもあるものです。ただでさえめげることの多い現実です。それなら、その現実を柔らかに前向きに淡々と伝えるニュース報道や番組があっていいですよね。

 と、こう考えると、インターネットのニュース報道もそうですね。グーグルのように、次々とあらゆる新聞報道が読めるのはありがたいけれど、ほっとする切り口でニュースを記事化する。そういうサービスがあってもいいですね。ほっとニュースは、心をはぐくむニュースなのです。



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