「させていただきます」考

 「敬語の指針」での、「させていただきます」に関する解説。

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【解説1】「(お・ご)……(さ)せていただく」といった敬語の形式は,基本的には,自分側が行うことを,ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い,イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある場合に使われる。したがって,ア),イ)の条件をどの程度満たすかによって,「発表させていただく」など,「…(さ)せていただく」を用いた表現には,適切な場合と,余り適切だとは言えない場合とがある。

【解説2】次の①~⑤の例では,適切だと感じられる程度(許容度)が異なる。
①相手が所有している本をコピーするため,許可を求めるときの表現
「コピーを取らせていただけますか。」
②研究発表会などにおける冒頭の表現
「それでは,発表させていただきます。」
③店の休業を張り紙などで告知するときの表現
「本日,休業させていただきます。」
④結婚式における祝辞の表現
「私は,新郎と3年間同じクラスで勉強させていただいた者です。」
⑤自己紹介の表現
「私は,○○高校を卒業させていただきました。」

上記の例①の場合は,ア),イ)の条件を満たしていると考えられるため,基本的な用法に合致していると判断できる。

②の例も同様だが,ア)の条件がない場合には,やや冗長な言い方になるため,「発表いたします。」の方が簡潔に感じられるようである。

③の例は,条件を満たしていると判断すれば適切だが,②と同様に,ア)の条件がない場合には「休業いたします。」の方が良いと言えるだろう。

④の例は,ア)とイ)の両方の条件を満たしていないと感じる場合には,不適切だと判断される。⑤の例も,同様である。ただし,④については,結婚式が新郎や新婦を最大限に立てるべき場面であることを考え合わせれば許容されるという考え方もあり得る。

⑤については,「私は,卒業するのが困難だったところ,先生方の格別な御配慮によって何とか卒業させていただきました。ありがとうございました。」などという文脈であれば,必ずしも不適切だとは言えなくなる。

なお,ア),イ)の条件を実際には満たしていなくても,満たしているかのように見立てて使う用法があり,それが「…(さ)せていただく」の使用域を広げている。上記の②~⑤についても,このような用法の具体例としてとらえることもできる。その見立てをどの程度自然なものとして受け入れるかということが,その個人にとっての「…(さ)せていただく」に対する「許容度」を決めているのだと考えられる。
-----

ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い,
イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある

 敬語表現「させていただきます」は、この二つに基準でチェックすればいいように見える。

 しかし、「今日、会社を休まさせていただきます」という表現は、2つの基準ではうまくチェックできない気がする。「会社を休ませていただく」のも、相手(上司、会社)の許可を受けて行い、そのことで休むという恩恵?を受けるように見える。

 「今日、会社を休まさせていただきます」は、「失礼を超えて、無礼な表現」と、小池清治は書いている。「休ませて」は、使役表現である。使役主は、この場合、上司に当たるが、「休ませる」と使役したはずがない。これは、殴っておいて、次に、尊敬しています、と言っているようなものだ、と。激しい叱責である。

 ところで、使役表現が見掛けだけのものではなく、実質的使役表現である場合、「(さ)せていただきます」という表現は適切なものとなります。
 「喜んで、私がやらせていただきます。」「遠慮なく、出場させていただきます。」
 これらは敬語表現上、なんの問題もありません。
 断り無しの使役表現の無礼さに気づけば乱用は避けられることでしょう。(『みんなの日本語事典―言葉の疑問・不思議に答える』

 これを見ると、「今日、会社を休まさせていただきます」も、「断りなしの使役表現」になっているのが違和感のもとになっていると思う。

 ところで、「敬語の指針」では、使役表現という言葉を使わずに説明しているのは、上の例のように、使役表現以外で使われることが多くなっている現状を受けてのことだと思われる。



 もしくは、「今日、会社を休まさせていただきます」は、

ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い,
イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある

 ア)の、許可を受けているわけでもないのに、「休む」ことが前提になっており、「断り無しの使役表現」になっているのが問題であると理解すればいいだろうか。


Saseteitadaku_3

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Q17.メリハリをつけたい時はどうすればいい?(2)

A.罫線で区切ります。

メリハリをつけるには、記号の他に罫線を使って、視線を引き込む方法があります。
 結論のメッセージの上下に罫線を引くと、目立たせることができます。

 ------------------------------------------------
       明日は、大掃除の日です
 ------------------------------------------------

 メールマガジンでは各記事ごとの区切り、コーナーを表すのに罫線はよく使われます。
 また、簡単な表のように見せるのに罫線を使えます。

  用語     意味
-------------------------------------------
 ・ヘッダー   冒頭の部分を指す
 ・フッター   署名を指すことが多い

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『進化しすぎた脳』のクオリア注

 『進化しすぎた脳』から、クオリアに関わる個所だけピックアップ。

 ここでせっかくだからちょっとカッコいい言葉を覚えておこう。これは使える言葉。「覚醒感覚」。つまり、音楽を聴いて、すごく美しいと思ったり、悲しい気分になったり、リンゴを食べておいしいとか、甘酸っぱいとか、そういう生々しい感覚のことを「クオリア」と言うんだ。「クオリア」というのは多分ラテン語で「質」という意味だと思うんだけど、英語ではクオリティ(quality)の語源になっている。
 ここでいう「質」というのは、物質の<質>という意味ではなくて、ものの本質に存在するような質感の<質>。実体ではない<質>。美しいとか悲しいとか、おいしいとかまずいとか、そういうのをひっくるめて「クオリア」と言おう。つまり、僕らが世界を体験しているという実感、その感覚がクオリアだ。
 いまの話の流れからすると、「クオリア」というのは表現を選択できない。リンゴが甘酸っぱいのはもうしょうがない。「脳」がそういうふうに解釈して、「私」にそう教えているから、もう、これは仕方がない。(p.49)

 クオリア(qualia)は、クオリティ(quality)の語源であり、定性(qualitative)につながる。

「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」というクオリアが生まれるんだ。あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。だって、体を自分の意識でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うんだから。つまり、自由意志というのはじつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。
 こんな事実から、クオリアというのは脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にはかならないことがわかる。「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識で神経が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「ボタンを押す」という行動を生み出すとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているってわけだ。(p.171)

 クオリアに対して人は受動的であること。クオリアも無意識に対して後続すること。

 その意味では、ちょっと話は飛躍するけれども、ジェームズーランゲが言った「悲しいから涙が出るんじゃない。涙が出るから悲しいんだ」という発音は半分は正しいと思う。
 〈悲しい〉というのはクオリア、つまり、ありありと感覚されるものだね。しかし〈悲しい〉というクオリアは、おそらくは単に脳の副産物、脳の活動の結果にすぎない。クオリアは僕たちの生活や心にいろどりを与えてくれているものであることは間違いないけれども、神経活動から生まれたクオリアがまた神経に作用するということはない。クオリアそのものは脳が生んだ最終産物である、という結論に行き着いた。ここら辺は抽象的な話でちょっとむずかしかったかもしれない。(p.319)

 クオリアは、ありありとした実感であるが、十全に言葉として表現されるのは難しい。


Sinkasisugitanou_2

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Q16.メリハリをつけたい時はどうすればいい?(1)

A.項目別に記号をつけます。

 eメールの読みやすさには、文章の読みやすさの他に「見やすさ」の要素があります。「見やすさ」から入っていきましょう。

 eメールを書くときに、ポイントがいくつかあって、それらを並列したいときは、●、○などの記号を使うと、見やすくなりメリハリがつきます。

 □タイトル
 ・本文で最も伝えたいエッセンスを書きます。文字数は20文字以内に押さえて、重要なキーワードは左に寄せます。
 □結論
 ・eメールの冒頭20行を目安に本文の結論や要約を書きます。罫線や記号を使って強調すると、よりメッセージ性が高まります。

 記号は、面積が大きく塗りつぶしてあるものが目立ちます。用件に応じて強弱をつける工夫ができます。
 ■●◆★◎□○◇☆・(左側がより目立つ)


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Q15.使えない文字や記号はありますか?

A.半角カタカナ、①、㈱(機種依存文字)は使いません。

 eメールは、パソコン同士のやりとりになりますが、パソコンの種類によって、識別できない文字があります。これらを使うと、意味不明な文字列になって届く場合があります。いわゆる文字化けです。本人は確かに送ったつもりでも、相手は全く読めないという現象が起きるのです。こうした文字化けを起こす可能性のある文字を機種依存文字といいます。

 ですから、eメールでは、機種依存文字は使わないようにします。
 いまでも時々見かける機種依存文字は、3つあります。

 1.アイウエオ(半角カタカナ)
 2.①、②・・・(丸囲い数字)
 3.㈱ (一文字で作ってある括弧と株)
 
 この他にも、ギリシャ数値の「Ⅰ」なども機種依存文字です。全体を知りたい時は、インターネットで検索しましょう。一覧表を簡単に閲覧することができます。

 (たとえば、「機種依存文字について」


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「自分へのご褒美」備忘録

 とてもハードなを書いた後は、楽しいだけの本を書きたくなった。そうして思いつくのは、「自分へのご褒美」である。「自分へのご褒美」、ここ一年くらい気に合っているキーワードで、このキーワードをめぐってどんなブログが書かれているのかウォッチングしている。

 そんなことを思って見ると、そのもの、『自分へのごほうび』(住吉美紀)という本が出ていて、すぐに買ってみた。読者層は、著者と同世代の三十代の女性だろうから、思い切りそれから外れて入るし、ぼくも探究する目的が無ければ決して手に取ることのない類のものではあるけれど、これも縁である。

 実際に読んでみると、「自分へのご褒美」というのは、とどのつまり、自分へのケアのことなのだということがよく分かった。

 歳だけは取っていくのに、生き方に確信が持てないまま、焦る気持ちに押しっぷされそうになることが時折ある。漠然とした不安に襲われ、希望とやる気を失い号つなときもある。一度きりの人生、これでいいのだろうか……?白黒はっきりした答えなんて出るはずもない。
 そんなときは、今もやっぱり、周りに目をやってみる。
 すると、意外なものごとや出来事が、思わぬ気づきや励ましをくれる。日常に潜む喜びや発見が、力を与えてくれる。見ようとする気持ちさえあれば、身の周りにはごほうびが溢れているのだ。
 そう、自分へのごほうび。
 人生とは、自分探しの旅である。よく聞く言葉だが、そろそろ、その本当の意味を実感できるお年頃になったのかもしれない。生きていると山あり谷ありだけれど、自分へのごほうびをギユッと愛おしく抱きながら歩けば、旅を続けていけると思うのだ。
 そんな、わたしの「ごほうび」たちを、この本にパンパンに詰めてみた。

 この本のモチーフは、「はじめに」で明瞭に語られる。「自分へのご褒美」が、消費という以前に、自分の身の周りの事物との関係の気づきのことを指していることも語られている。そして、「自分へのご褒美」が、似て非なる「自分探し」と接点を持っていることも。

 で、最初のエッセイは「朝ごはんは重要だ」で始まる「黄金の朝ごはん」なのだが、それがなんとスイーツなのである。朝ごはんというのは、ご飯かパンで、お酒を飲むわけでもないし、こってりしたものを食べるわけでもない、どちらかといえば、まじめな食事?という先入観があるので、朝ごはんにスイーツは驚いてしまう。しかり、驚くのはまだはやくて、

 いよいよ、口に運ぶ。ちなみに食べるのは、台所で立ったままと決めている。構えずに食べたいからだ。お祭りの屋台の前で立ったまま食べるウィンナーやりんご飴は美味しいのに、買って帰り、食卓で食べるといまいち美味しく感じないのと同じである。立ったままの機動力を活用して、軽快に、朝の時間を楽しむ。目が覚める音楽をかけたりして、ちょっとオシリを振りながら食べるのも上々。その数分問は己を解放して、一日のやる気を盛り上げる。

 と、来る。オシリ振りふりスイーツの朝食なのだ。
 自分が元気になるには、食べるべきものという枠に囚われずに食べればいい、しかも食べ方だって好きにすればいい。そうか、ここで言う「自分へのご褒美」というのは、朝ごはんとの関係の仕方を自分で自由にアレンジすることなのだ合点する。

 「手帖」は「一緒に険しき日常を徒行してきた、相棒」。「さけるチーズ」、「身近にいる強い味方」。単焦系レンズの「デジカメ」は、「自分にとって必要不可欠なひとつの機能を持つ」もの。のほほんとする「シンプルな瞬間こそ、人生のシアワセがたんまりと詰まっている気がする」。

 この人はわたしが生まれる前からうちにいる。そして、二歳か三歳のとき、わたしはこの扇風機に向かって顔から転けたという。羽根の周りの金属の留め金で頬を切り、けっこう出血したらしい。一応女の子だし、傷が残ってはよくないと、両親は急いで病院に連れていった。しかし、結局その傷は今も残っていて、ある意味、わたしの顔の個性になっている(と自分では思っている)。
 つまり、扇風機さんは、わたしの顔を作った人のひとりなのだ。そんな歴史まで共有しちゃってるんだから、緑が深いと言うしかない。

 「この人」というのは扇風機のことだ。自分が扇風機を動かし、扇風機に傷つけられることもあったという関係を通じて扇風機は擬人化される。その擬人化のなかで、不器用で愛嬌のあるところに人っぽさを見ているわけだ。

 本『Frog and Toad』に純粋な人間関係を見る。「鼻うがいポット」を通じては、新しい身体との関係。必要なものを減らすことに価値を見いだす「小荷物」主義。「あまり考えすぎず、とりあえず前進」すると、求めるものは返って得られる、その象徴のような「金木犀の香り」。

 それに、それなりに何かをこなしたとしても、今さら若い頃のように誰も褒めてほくれない。褒めてくれるのは自分だけ! だからこそ、その己の自信が崩れたときには、どうしようもない虚しさと脱力感に襲われるのだ。ああ、こわい、こういう朝は。

 褒められるということは、それ無くしては社会的生活に障害が生まれるほど必須なものと思われている。そういえば、「さんまのからくりテレビ」でも、演歌好きの大江君は、叱られたとき、「褒めて伸ばされたいです」とすっとんきょうなことを言っていた。

 橙色の空を見ながら思う。いいではないか、小さな失敗を繰り返してしまっても、ほかの人がすごく見えても。いびつだからこそ、少しでもがんばれた日は、自分を思いきり褒めてあげればいい。

 褒めてくれるのは自分だけ。だからこそ、自分で褒める。ここに「自分へのご褒美」の駆動源もある。つまり、「自分へのご褒美」が顕在化してくる背景には、「ひとり」という状態がある。

 「ひとりカラオケ」だって「自分へのご褒美」である。

 そうよね、自分が好きなところに行って、道で人に踏まれるかもとか恐れずにゴロゴロ寝て、他人がどう思おうと気にせず、何かを期待されても応えず、そこに居たいだけ居て、晴れれば太陽を味わって、雨が降れば雨粒を眺めlて、自分なりに生きていければ、それでいいのよね。

 「ネコと逢う」ことで、余計なことに気を遣い未来を思い患い「ありもしないしがらみに勝手に縛られ」て、忙しくなyている自分自身との関係を結び直す。「洗濯物」を眺めて「心の奥から平穏を感じる」。

 読書に没頭している間は、電車の中に居ようが、自分の部屋に居ようが、カフェに居ようが、周りの環境は全て消え去り、本の世界の中に確かに居るのだ。飲んでいる紅茶や座っている椅子のクッション、吸っている空気までもがなにやら違う質感を帯びてくる、不思議な感覚だ。

 と、読書の本来の楽しみ方を押さえ、ライブで「心身に必要な栄養分」を得る。

 また、「自分へのご褒美」の代表のひとつは「お取り寄せ」である。

 食べることが、日々の悦楽の大きな部分を占めているので、その楽しみをちゃんと確保したいと思う。きょうは何ひとつ楽しみがない、いや、むしろ気が重くなるような仕事がいっぱい溜まっていて、はぁ……という日でも、大好きなものが食べられると確約されていれば、それだけで、じゃあ、その前にイッチョがんばるかな、なんて思えたりする。単純だが、美味しさの確保が大差を生む。自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜くという感じである。

 でもって、「自分へのご褒美」を生きる技術としてみたときの意味がここに書かれる。その原理は、「自分で用意したニンジンを前にぶら下げて、山あり谷ありの日々を生き抜く」、である。

 ヨガで自分の身体の「進化」を感じる。「ひとりコーヒー」で「大人のオンナ」を実感する。「新しい自分への脱皮が成功すれば、引っ越しも、自分への大きなごほうびとなる」。引っ越しによる自分自身の更新が「自分へのご褒美」だということ。

 「皮膚の下、深度の深いところの渇きまでをも癒してくれそうな気配」の「わたしアロマ」。「邪念なく、体力の限りまでがんばり通すというのは、自分の「生」への炎を確かめるようなもの」というカラオケ部活。「飾らない、素の自分を、かつて心から受け入れてくれたことのある」モト彼の存在は嬉しい。

 それがないと「息苦しくて倒れてしまいそうと感じることがある」からたまに吸う「海外の空気」。その海外では、

 ニューヨークも、ガツガツと何にでも手を出すのではなく、自分だけのキーワードでググる感覚が必要な街だ。そんな旅は難しそうと尻込みすることなかれ。「自分が今求めているものは何か」ということを基準にすればいいのだ。世間の流行や話題のスポットなんてチェックしなくていいし、お決まりの観光エリアを全て網羅する必要もない。逆に、人がどう思おうと、自分にとって大事な場所には絶対に行く。そうすれば、他の街では絶対に得られない、ごはうびが見つかる場所でもあるのだから。

 自分の欲求(wants)をよく分かっていれば、「自分へのご褒美」と出会える。「自分へのご褒美」を見つけるには、自分の欲求(wants)を知っているのがいい。

倉庫の片隅に座り込み、こうして文章を読んだり、本を手に取ったりしながら六歳の少女と会話をしているうちに、まるで恐竜が目覚めるかのように、忘れていた感覚や感情がたくさん、たくさん蘇ってきた。
「自己」を意識する前の自分。自意識に邪魔されずに周囲の世界と関わっていた頃。その少女が、現在のわたしに、鮮烈な存在感を持って迫ってきた。

 六歳のときの自分との対話による自分の見つめ直し。自己更新。
 恰好いい先輩への恋。ラーメンをパスタのようにクルクル巻いて食べると変わるように、ほんの少しで変わる日常。濃い付き合いをしてみると分かる植物に励まされていること。

 こんな風に人に限らず、モノやコトと新しい関係を結んだり、関係を見直したり結び直したりすることのなかに、著者の住吉は、「自分へのご褒美」を見つけている。

◇◆◇

 「自分へのご褒美」をニーズと見なし、このニーズはいつ顕在化したのかと問うと、1996年、アトランタ・オリンピックのマラソンのゴール直後、有森裕子が「自分で自分をほめたい」と語ったときだと思う。それ以降、「自分へのご褒美」は口にしてもいい言葉になった。

 本の世界では、有森裕子の発言の一年前に、作詞家の麻生圭子が『じぶんにごほうび』という書名で先駆けている。見られる限りでは、これは「自分へのご褒美」本の嚆矢であり、その翌年の1996年、有森発言と同じ年には、落合恵子が『自分にごほうび』というエッセイを出している。まさに1995年から96年にかけて、「自分へのご褒美」は人々の意識に上ってきたのだ。

 ただ、この二冊は「自分へのご褒美」を意識化した言葉として嚆矢であるとはいっても、その中身は住吉とはずいぶん違って見える。

 たとえば、麻生の『じぶんにごほうび』は、本文の前に「この本を手にしたあなたへ。」という文章が置かれる。

つぶやく夜はないですか。
「どうしてわたしがひとりなの?」
悔しくて、泣きたくなる夜はないですか。
「こんなにがんばっているのに、
どうして、誰もわかってくれないの?」
まじめで、演がよくて、凡帳面で、
才能があって、がんばってる人ほど、
そんなツラい思いをするようです。
これは、そんなあなたに代わって、
わたしが書いた、甘いつぶやき、
エッセイ詩集です。

 このメッセージを読むと、懸命に頑張っているけれど報われず傷ついている痛ましい姿がやってくる。ここからやってくる印象と住吉の『自分へのごほうび』とは懸命さは同じだけれど、報われていないという痛ましさは、ない。そしてもっとも違うのは、麻生は「どうしてわたしがひとりなの?」と問うのに対して、住吉の場合、「ひとり」は前提であり、しかもやむを得ない前提ではなく、大切な前提としてつかまれているようにみなされていることだ。ここに長く引用した「自分へのご褒美」の種は、一つひとつが、ひとりであることを欠かせない要素として生みだされている。

 住吉の「自分へのご褒美」は、落合のそれとも違う。

まえがき
前略
元気ですか?元気でいてください。元気なあなたは
素敵です。
でも、いっつも元気、なんて嘘。
時々、大声で叫びたくなります。
生きてるってことは
どうして こうも疲れることなのだろう、と。
そう。疲れたあなたも、あなたの大事な一部です。
あなたの怒りが、かけがえのないあなたの一部であるように。
どうか、心に蓋をしないでください。
あなたは あなただから 素敵なのですから。
この本を
目覚める朝ごと「元気であろう」と 自分に呼びかける
あなたに
けれども 時には心の奥に降り積もらせた疲れのために
人知れずため息をもらしているあなたに 贈ります。
一日の終わりに 好きなCf)でも流しながら
頁を繰っていただけたら幸いです。
男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが
使っている意味とは全く別の意味で、この言葉をあなたに。
いい女だよ、あなたは!

 ここからも懸命さと痛ましさの印象はやってくる。
 たとえば、「女子の決断」というエッセイで、住吉は、「最近、周りで決断する女子が増えている」としてこう書く。

 つまり、一度きりの人生、「わたしの存在意義をかけてもいい!」と感じるような、予定外に強烈なものに出逢いたいと思っているのだ。
 コポリの場合、それはイギリスの土地と人で、トモちゃんの場合、それは教育の仕事というライフワーク。
 いわゆる自由が、必ずしも本当に自由なわけじゃない。選択肢が多すぎる今の世の中は、「きりがない」という不自由だってある。だとすると、自分の心を縛って離さない召命と呼べるくらいの強烈なものに出逢えば、縛られているほうがずっと自由かもしれない。
 だから、予定外の素敵なハプニングが起こったら、人生の舵はいつだってきれる。生活の激動だって厭わない。
「うわ、この人と人生をともに歩まねば!」と強烈に感じる男子と出逢ってしまったら、自分の仕事や住む場所などを大幅に変える覚悟だってある。あるいは、予定外に子どもを授かるとか、強く惹かれる仕事の分野や人生のテーマを見つけちゃうとか……そんなことが突如起こっても、ちゃんと引き受けられる。
 ひょんなご緑に人生を委ね、そこで自分なりの何かを育てようと決心できること。もしかして、それこそが女子の持つ母性なのかもしれない。
   決断するのは女子であっても、それは「男子」の対立項として言うのではない。それが、「男社会にしっかりと登録してしまったおおかたの男たちが使っている意味とは全く別の意味で」と断る落合の女性像と変わっているところだと思う。しかも、住吉の場合、「男」ではなく「男子」であり、「女」ではなく「女子」である。

 また、別のところでは、

「男は胃袋でつかみなさい」とよく聞くけれど、わたしは逆だね。つかまれるほうだ。そして、つかまれてしまうという男子の気持ちもよくわかる。だって、美味しいものを毎日いただけるというのは、幸せなことだ。

 として、「料理好き男子」を重宝している。ここにいる男女は、対立構図のなかにない。むしろ、草食系と呼ばれ、それがときには物足りなさとして言われることもある、けれどその分、自由も手にしている女性の、生きる技術が「自分へのご褒美」である。

◇◆◇

 ブログで「自分へのご褒美」のキーワードを追ってゆくと、今年は1月23日、原宿にオープンした「ゴディバ ショコイスト原宿」も出てくる。このショップのコンセプトはそれこそ「自分へのご褒美」だが、それは「セルフトリート」と呼ばれるものだ。

 そう言われてみれば、住吉美紀の『自分へのごほうび』も、「How to treat myself」と、ある。「自分へのご褒美」は、自己へ配慮するための技術なのだ。

 ここまで来ると、「自分へのご褒美」は、顕在化した新たなニーズというに止まらず、絵を描いたり読書したり文章を書いたりなど、人それぞれに行ってきた自己慰安につながってゆくのが分かる。そういう気づきに向かうのに、住吉の『自分へのごほうび』は、よいガイドになってくれた。こういう読まれ方は著者の本意ではないだろうが、感謝である。


 最後に、ブログを追っていると、「自分へのご褒美」は女性のみのキーワードではない。男性もあからさまに使って、自分へのご褒美消費をしている。普遍的なニーズだと思う。しかし、ここまで辿ると、楽しいだけの内容には、やっぱりならないですね。それは悪いことじゃないけれど。

   『自分へのごほうび』(住吉美紀)

Zibunhenogohoubi

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2009年バレンタインデイの「自分へのご褒美」チョコは昨年の7割!?

 「クチコミ@係長」によると、2009年のバレンタイン・デイに「自分へのご褒美」が書かれているブログの記事数は、301で、昨年の423に対して約7割に止まった。

2_3

 この減少を景気の影響と見ることもできるが、バレンタインデイ以外の日の出現数が、やや低調に止まっているのをみると、そのまま景気の規模と見るのではなく、イベント当日の気分としてみたほうがいい気がする。

 301の出現数は、去年の7割に止まるとはいえ、2009年に入って以降の最大数であるには違いなく、また、2008年の年間を通した推移のなかでも、年末に次ぐ数だ。バレンタイン・デイが「自分へのご褒美」ニーズのピークという仮説は妥当性があるように思う。


 ※「2009バレンタインは、「自分へのご褒美」のピークになるか」



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2009バレンタインは、「自分へのご褒美」のピークになるか

 「自分へのご褒美」がキーワードとしてブログに書かれる数が年間で最も多く書かれる月は何月だろうか? それは予想に違わず12月、だ。なんといってもクリスマスがあり、冬のボーナスもあり年末年始も控えている。

 では、「自分へのご褒美」がキーワードとしてブログに書かれる数が年間で最も多く書かれる日は何月何日だろうか?

 ぼくはびっくりしたのだが、「クチコミ@係長」で調べると、2008年は2月14日、なのである。そう、バレンタイン・デイなのだ。

 どうしてバレンタイン・デイに「自分へのご褒美」が最も多く書かれるのだろうか。そもそもその日は、女性が男性に告白する日ではないのか。と、思うとしたら、その感じ方はもはや古典的かもしれない。

 その日は、何といっても「自分へのご褒美」チョコの日、なのである。

Photo_5


 これを見ると、バレンタイン・デイはクリスマスより群を抜いて高いのが分かる。

 個々のブログを見ても、企業キャンペーンの影響で数が多くなっているわけではない。企業キャンペーンも見られるが、それが数を一番にするほどの影響を与えていない。「自分へのご褒美」チョコのニュース報道を受けた記事が散見されるとはいえ、消費者が自発的に書いたキーワードが「自分へのご褒美」だった。

 ブログの声から読み取ると、

・義理チョコ廃れて、自分へのご褒美チョコ台頭
・高いチョコは自分に
・前からやってた
・VDは、好きなだけチョコを食べていい特別な日
・月に一回、自分へのご褒美

 こんなポイントが浮かび上がってくる。

 さて、2008年に続き、2009年の今年も、バレンタイン・デイが「自分へのご褒美」のピークを形成するか、興味深いところだ。ちなみに、2月に入り7日までの「自分へのご褒美」数は、2008年1049だったのに対して、今年は857とやや低調だ。この推移がどうなっていくか、追ってゆこう。


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マーケティングをひと言でいうと

 マーケティングをしている、と言うと、ときどき胡散臭そうに見られることがある。心外である(苦笑)。

 その理由の核にあるのは、売れないモノまで売れるようにする、というような消費者操作の雰囲気ではないだろうか。でもそれは、易きに流れたときに見せる一面であり、しかもいまのマーケティングは、消費者操作の無効性を組み込むようになりつつある。

 胡散臭さのもうひとつの理由は、マーケティングに該当する日本語が見当たらないからだと思う。マーケティングは広い。広告も販売促進も市場調査も商品開発もチャネル開拓も、そのどれもマーケティングであり、そのどれかのみではマーケティングの全体観に届かない。ひと言でいうことはできるだろうか。

 マーケティングは分解すると、market ing だから、市場を活性化することと言うことができる。市場活性化、だ。結局は、消費者の理解からすべては始まる、と捉えれば、消費者理解と言うこともできるかもしれない。しかし、市場活性化には、消費者不在の不安が生じるし、消費者理解には、消費者への提案というニュアンスが削がれる。

 ぼくがマーケティングの定義で、最も適切だと思っているのは、BMRだ。

マーケティングとは、環境(E)を考慮しつつ消費者のウォンツ(W)と製品・サービスのベネフィット(B)を結びつける創造的かつ総合的活動をいう。(『10年商品をつくるBMR』

 この定義は、マーケティングに欠かせない主役の二者を登場させているのが魅力だ。これに添って言えないだろうか。

 マーケティングとは何か。消費者の欲求と製品の価値を結ぶこと。
 もっとつづめると、欲求と価値を結ぶこと。欲求と価値の連繋。

 欲求価値連繋。こんな熟語じゃ分からない。消商連繋も無理がある。
 やっぱり、欲求と価値の連繋、だろうか。

 マーケティングって何?
 欲求と価値を結ぶこと。

 仮の回答としておきます。



 

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「お客さま学」のゆうべ

 昨日、MCEIで話をさせてもらった。テーマは、「顧客接点の進化と深化」。

 何を話そうと考えていくうち、インターネットが登場してからの十数年間を見返せば、近い未来の見通しが得られやすいのではないかと思い、1996年から2008年までの企業-消費者のコミュニケーションを一気に辿ってみた。勢い抽象的な話を含まざるを得ないのが場違いにならないか、気になったが、参加者に得るものがあったことを願うのみだ。

 本当は水口さんに聞いてほしい場だった。水口さんの思考や態度を引き継ぐことも恩返しになるだろうと思い直して、これからも恩返しを続けていこうと思う。

 最後には感謝状もいただき、びっくり。マーケターの集えるいい場だった。

Mcei


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«顧客接点の進化と購入、と聞かれて