「Kisses on the Bottom」(『キス・オン・ザ・ボトム』)
まず、これを書いているのはアルバムの発売前であることにぼく自身ですら驚く。音楽関係者でない一個人でもそれができるのは、全曲を視聴できるサイトがあるからだ。
First Listen: Paul McCartney, 'Kisses On The Bottom'
Exclusive Songs and Timeless Melodies
これらのサイトも特定のファン向けに限定されたものではなく万人に公開されている。ぼく自身もこれらのサイトの存在をソーシャルメディアで教えてもらったのだが、有料の前に共有されるのがソーシャル的で新鮮だ。これが嚆矢なのかぼくは知らないし、Lady Gagaは既にやっているのかもしれないけれど、評価が経済に先立つ時代の波頭にこれは位置するのではないだろうか。
ただ、ここに収められた14曲は、2曲の新譜を除き、スタンダード・ナンバーのカバーだ。古い曲を新しい装いのもとリリースしたということだ。けれど、ただみんなに知られた曲をカバーしたというのとは少し違っている。選曲に当たってポールは、完全に分かりやすい曲は避けたり、あまり知られていない少し変わった曲も入れたりしたという。それはよく知られた曲にしてもその扱い方の中にも表れている。
たとえば、ぼくでも知っている「It's Only a Paper Moon」、「Bye Bye Blackbird」でも、出だしはそれとは分からないけれど曲が始まってみると、それと分かる、そうしたアレンジを施している。それがここでの温故知新の中身に当たっている。
ポール・マッカートニーはこのアルバムのモチーフをどこに取っているのか。「僕の親の世代が正月に歌っていたような古い曲を以前からずっとやりたくてね」と、と彼は語っている。
僕ら子供たちが到着し、絨毯は丸めて片付けられ、女性たちがラムやジンの入ったカクテルあらベビーチャムやらを座って飲むなか、誰かがピアノを弾くんだ。大抵は父さんだった。で、みんなで"赤い駒鳥がやってくる"や"キャロライナの月"なんかの古い曲を一晩中歌うのさ。僕はそれを全て吸収した。そのうち、『これをやらないとダメだ。じゃないとこのアイデアを捨てることになって、自分を責めることになるだろう』(「ロッキング・オン」MARCH2012)
そう思った、というのだ。もう自分のオリジナリティばかりに頼るわけにもいかない年齢になった時、自分たちの母胎に養分を求めるのはまっとうな方向性だと思う。もっとも、ポールは新曲だけのアルバムを今年中にリリースすると予告しているのだから、これは創造性が枯渇した結果なのではない。また、このアルバムでも、ジョンの思い出は欠かせない。ポールがジョンと初めて会った時、ジョンが好きだと言った曲のなかには、ここに収められた時代のスタンダード・ナンバーがあり、「それで彼に惹かれたんだ」。変わらないポールの率直な述懐から、ぼくたちはロックン・ロールではないもうひとつのビートルズの淵源を見るのだ。
実際、これはいいアルバムだ。リンダを失った失意の最中にロックのスタンダードを中心に編まれた「Run Devil Run」よりはるかに心に響いてくる。ロックン・ロールはポールに向いていないということではない。ヨーコとの別居中、荒れて酒にまみれた中で製作されたジョンのアルバム「ROCK 'N' ROLL」
は、自意識をまるまるロックのスタンダード・ナンバーの海に溶解させようとした迫真が、無意識の荒れの解放にまで手を届かせていて聴く者をぞくっとさせるのだが、「Run Devil Run」はそこまで行くことはなかった。もっともポールはジョンほどの荒れを抱え込んでいるわけではないから、そこまで行く必然性がないと言ったらいいのかもしれない。ポールはやはり肯定感を表現する方に本領を持っている。
僕はこれをリラックスするアルバムとして楽しんでいるよ。仕事先から家に帰って、靴を脱いで、ホット・ココアでもワインでも紅茶でもいいけど、お気に入りの飲み物を飲んで、くつろぐのが想像できる。そういうアルバムなんだ。素敵なムードだよ。それが押し寄せてくるのを受け入れるんだ。(「ロッキング・オン」MARCH2012)
暖炉の前で聴くという素敵な評をした方がいるけれど、その通りのアルバムだと思う。聴く多くの人がそう感じるだろうけれど、ポールは今、幸せなのだと思う。それが最初の印象としてやってくる。エリック・クラプトンがアコースティック・ギターを聴かせてくれる「My Valentine」は、現在の妻であるナンシーとモロッコで休暇を過ごしたバレンタインの日にできたのだという。もちろん、その幸福感はポールひとりのものではなく、こうしてアルバムとして編まれて世に放たれることで、ぼくたちの手元に届けられる。人には幸せな瞬間があっていいし、それが訪れたらいつくしむように抱きしめればいい。このアルバムからぼくに響いてくるのはそんなメッセージだ。
ポールはスタンダード・ナンバーもオリジナル曲もゆっくり歌っている。ツイッターで散見するように「疲れた」「眠い」などの身体性ですら言葉に記すことを、ぼくたちは覚えた。時間は小刻みに刻まれる。それは進化なのか分からない。でも一方、時間の高速化に身体を馴染ませながら、ぼくたちは深い思考、長い文章の読み書きなど、いわば深呼吸ができなくなっている。あるいはその時間を奪われている。そこに少し速度を落とした声が響いてくると、いまのぼくたちに必要とされている贈り物のように思えてくる。地面が揺れ、骨まで貫通する線が降っていても何食わぬ顔で日常をやり過ごしている極東の島国ではより一層、これは切実であるかもしれない。
アルバムの最後は、オリジナル曲「Only Our Hearts」だ。ナット・キング・コールにモチーフを採ったような出だしから、途中ハーモニカが入り、スティービー・ワンダーみたいだと思ったら実際にそうで驚いた。またぞろ、スティービー・ワンダーに曲を渡して、間奏と終わりにハーモニカを入れといてと気楽に頼んだのではないかと思ったが、それは邪推というもので、メイキング映像ではちゃんと二人が並んで映っていた。曲「Isn't she lovely」もそうだけれど、彼は昂揚する切なさをハーモニカに乗せるのがうまい。ジョン・レノンならどう奏でただろうとぼくは思う。あるいはポールもそう思う瞬間があったのではないかと。
スタンダード・ナンバーと並べてもオリジナルの曲の方がいいでしょう?というポールの声が聞こえるかのような力の入ったいい作品が最後に届けられて、ぼくたちは幸福な余韻に浸ることができる。このアルバムで何かが更新される。少なくとも、ぼくも三年ぶりにこのブログを更新する気になった(笑)。
1."I'm Gonna Sit Right Down and Write Myself a Letter"
2."Home (When Shadows Fall)"
3."It's Only a Paper Moon"
4."More I Cannot Wish You"
5."The Glory of Love"
6."We Three (My Echo, My Shadow and Me)"
7."Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive"
8."My Valentine"
9."Always"
10."My Very Good Friend the Milkman"
11."Bye Bye Blackbird"
12."Get Yourself Another Fool"
13."The Inch Worm"
14."Only Our Hearts"
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