2017/01/16

「サルタビコは、伊勢の古い太陽神か性神か」(松前健)

 松前健は、サルタビコについて、「伊勢・志摩地方の海人の奉じていた男性の太陽神であろう」としている(『日本神話99の謎―神々のパンテオンで何が起こったか』)。アメノウズメに連れられて五十鈴川に行くのも、ヒラブ貝に挟まれて海におぼれるのも、三種の海の海霊が出現するのも、みな伊勢との関係を示している。

 猿神としての性格も、太陽神と矛盾しない。道祖神、性神としての性格も。サルタビコの長大な鼻はリンガの変形だ。

 一方、裸身を露わにしたウズメの行為は、「実際の巫女たちの儀礼的行為の反映なのである」。

 松前によれば、ウズメの氏族は、「伊勢土着の古い太陽神・性神サルタビコを奉じ、その神妻として性的儀礼を演じる斎女を出す家であったことを示している」。

 ぼくたちはここで、もともとはウズメの方が主役だった。太陽の精霊は、女性であるウズメの貝から生み出されていた。サルタビコもその流れを汲んでいると理解していることになる。

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2017/01/15

『変魚路』(高嶺剛)

 映画を観終わると、「島ぷしゅー、ぷしゅー」と口にしていた。「ぷしゅー、ぷしゅー、島ぷしゅー」とつぶやき続けると、今の「世」に置かれた琉球弧の島人の気分と重なり合ってくる気がした。

 「島ぷしゅー」というのは、「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世から大和世」のような「世替わり」に起きた、苛烈な出来事のことだ。「ぷしゅーっ」は爆発音のことだと説明される。でも、音そのものは、缶ビールを開けた時を思い出させる。ただ、それほどにも威勢よくはなく、どちらかといえば、浮き輪の栓を抜いてぺしゃんこにしていくときの脱力的な気抜けた感じだ。「大主(うぷしゅう)」の語頭母音を脱落させた言葉にも聞こえてくる。もちろんこれは監督の造語で言葉遊びなのだが、それは単なる遊びではなく、もともとの意味を離れて身体性に引き寄せる琉球語感覚の本領なのだ。

 主人公のタルガニは琉球弧の古典的な名前だが、相棒のパパジョーは英語名ながら、琉球語でp音は頻出するし、ジョーも井泉の意味を持つのだから、パパジョーもありそうな琉球語っぽく聞こえてくる。

 実際、「島ぷしゅー」後の「世」は奇妙な世界だ。そこでは、人は脱皮をして再生するのに、石膏を肌に塗って身体模型を作ってもらいそれを爆破することですっきりするというややこしい手続きを踏まなければならない。石膏を剥がすときに皮膚ごとはがれてしまう場合もあるが、それが気持ちいいという人もいるところに脱皮の記憶はようやく保たれている。化身も整形をしなければできないし、それもせいぜい他人になることしかできない。

 あらぬ嫌疑をかけられて逃避行することになるタルガニとパパジョーは、トンネルをくぐって、いわば「あの世」へと抜けるのだが、「この世」も「ぷしゅー」だから、「あの世」も「ぷしゅー」な世界でしかない。「たいした必然性も感じないまま、パタイ村を脱出するのであった」とナレーションが入るように、「この世」と「あの世」の断絶感もない。しかもパタイ(死)村を脱出すると言っても近所をウロウロするような逃避行なのだ。いわば、「この世」と「あの世」は重なり合って、ことが前に進まない。ふたりが生活の糧にしている芝居も、同じところで止まってしまい、「忘れてはいないが、セリフが出てこない」。いわば「大主」不在の世界なのだ。

 けれど、そこで時は反復モードが優勢になってくる。そうやって映画が進行するなかで出てくるのが、琉球原人や蛇やトカゲやヤドカリ、渚やサンゴ石やサンゴ礁の岩場だ。反復する時間は過去に遡行して、島人を生んだ動植物や自然物と交感するところまで、ここは「ぷしゅーっ」とではなくすっと行ってしまう。三人で行動していつも濡れていないといけないビビジョーは、魚の群れにも見えるが、濡れてないと燃えてしまうところは貝の化身としての女性そのものだ。そして観ている方は、そんな解釈を抜きにしても、折り畳まれた無数の映像断片から次第に人の夢の世界に入りこんだような感覚に囚われていく。

 高嶺剛監督が、愛着を持った沖縄方言や沖縄芝居、そしてその方法を通じて、浮かび上がらせるのは、やはり琉球弧らしさというか、古層の琉球弧の空気や雰囲気だ。一方、観る者は、不思議な夢をみるように『変魚路』を愉しむことになる。

 夢の自立あるいは分離、あるいは夢自体という言葉が浮かぶ。また観る機会があれば、さらに愉しみを見つけ出せるだろうけれど、その機会があるか分からない。ただ、もっと夢を自立させて、脱皮も化身も自在な琉球弧のサンゴ礁の神話世界を観たいし作りたいという想いを膨らませることになった。 

 

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2017/01/14

「亜熱帯沖縄の冬の寒さと動物たち」(太田英利)

 この論考はとても面白い。琉球列島周辺の浅海は、「そこに生息する動物たちの顔ぶれをみる限り、明確に熱帯と位置づけられます」。マングローブはその象徴。

 黒潮の存在はこのように、亜熱帯沖縄の海とその周辺の生物相を、熱帯系の種が卓越するものにしているのです。

 サンゴ礁は、黒潮が運んだ熱帯ともいえるわけだ。

 琉球列島の有鱗爬虫類の多くは、冬になっても厳密な意味での冬眠はしない。なぜ、本土の仲間が冬眠するほどに温度が下がってもそうしないのか。太田は可能性として、「代謝を極限まで落とした仮死状態を維持できるほどには厳しくないことが考えられる」としている。

 一方で、陸生動物相は「亜熱帯系で固有性が高い」。

黒潮の流れる海域は冬でも比較的暖かく、そのため造礁サンゴをはじめ熱帯域と共通する動物が多く生息し、波打ち際にはマングローブが発達しています。これに対し陸域では冬季は結構寒くなり、そこに生息する動物には熱帯系のものは決して多くはなく、亜熱帯系で固有性の高いものが多数を占めています。

 琉球弧とは、熱帯に包まれた亜熱帯の島々なのだ。


『融解する境界―やわらかい南の学と思想2』


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2017/01/13

パラオのシャコ貝(『世界神話事典』)

 パラオの神話。

 原初に天の神ウヘル=ア=ヤングブがいたが、彼は風雨にのせて星を降らせ、これがガリヤップ島になった。その隣りに浅瀬ができた。彼はそこにア=キム(シャコ貝)を天から降ろした。このア=キムからラッツムギカイが生まれた。

 ラッツムギカイは海に棲んだが、妊娠していよいよ子供を産むときになっても女陰がないので子供を産むことができずに困った。そこでア=キムに相談すると外套膜を貸してくれたので、それを股間につけて子供を産んだ。

 それがオボハヅ神。オボハヅ神は人間の祖であり、虫魚草木を生じ、ハラマルル樹を擦って火をつくることを教えた(p.430)。

 パラオでも、シャコ貝-女性-火がむすびついている。とても面白い。

 

『世界神話事典』

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2017/01/12

「サンゴ礁の貝を利用し続けた沖縄の人々」(黒住耐二)

 貝塚時代後1期になると、大型貝が目立つ。黒住は書いている。

ゴホウラは水深一〇メートル程度のサンゴ礁の礁斜面に生息しており、潜水漁で得たのではなく、ヤドカリによって干瀬等の浅い場所に移動してきた殻を、イモガイ類はイノー内に生息しているものを得たと考えている。

 ぼくたちは、ゴホウラはわざわざ捕りに行ったと考えているが、ヤドカリが運ぶというのも楽しい。しかし、ゴホウラの殻はヤドカリが運べるのだろうか。

 黒住は、この時期の貝塚でシャコ貝等が散在している状況をみると、「貝類最終活動のすごさ、当時の活況を呈していた沖縄を実感できる」と書いている。貝類の「捕獲圧」は高かったが、シャコガイの小型化はあるものの、マガキガイで幼貝の比率が高くなるような状況はなく、ある種、「自然と調和」していたと言えるとしている。

 後2期後半では、貝類のみられる遺跡が激減する。

 


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2017/01/11

「琉球歌謡の植物をめぐる表現の研究」(佐々木和子)

 ジュズダマは、「し(ぃ)したま」、「ち(ぃ)だま」、「すだま」の表現が見られる。歌謡では、「ジュズダマはイネの豊かな稔りをたとえる物として登場している」。

 アワ なら石の花
 ムギ 壁葺き
 コメ ジュズダマの実
 キビ ウシの尾
 イモ ウシの角
 マメ 大和の刀の鞘

 佐々木は実際に、コメとジュズダマの実を写真で比較している。

ジュズダマの実の形状は、コメ粒よりかなり大きく、イネでも、ジュズダマの実ほどに大きくなることは一般的にはありえない。(中略)それは、イネの実りにおいて、少しでも大きく実入りしたコメ粒の収穫を希求する心情が、ジュズダマの実を比喩に選んだ理由と考えられるだろう。(佐々木和子「琉球歌謡の植物をめぐる表現の研究」「沖縄文化」118)

 柳田國男は「人とズズタマ」のなかで、ジュズダマがもとは数珠とは関係なく、ズズタマと呼ばれ、旧語はツシタマだったと書いている。ぼくは、これを「したま」、「ちたま」、「すだま」として定着させた琉球語感覚の方にひかれる。これは、霊力からみた霊魂、言い換えれば、霊力の発現として見ているように見える。

 だから、稲よ大きくなあれという心情はあるにしても、ここには、「稲」と「ジュズタマ」を霊力の現われとして見る視線が伏在しているのではないだろうか。

 面白いことに、「牧場で繁殖したウシ・ウマの行列が、ジュズダマの実が連なり揺れている様子に見立てられている」ことだ。

 狭い道に追ったなら、
 数珠玉のように揺れに揺れ
 大野に出て、
 追ったなら、
 先頭万頭も追い囲こと
 果報だと、
 こう唱えます、尊(「九場川村のまーゆんんがなしぃの神詞」)

 キビが「ウシの尾」、イモが「ウシの角」に喩えられるだけでなく、牛馬の行列までもがジュズダマに重ねられている。揺れらめくものに特異な視線が注がれている。「綾」という美称辞にも、霊力の発現という語感が宿っているのだろう。揺らめくというのは、霊力が発現する合図なのだ。

 ジュズダマは、首飾りにもなった。牛、稲など、グスク時代以降の文物に対する島人の視線をジュズダマは教えている。

 

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2017/01/10

トーテムと霊魂の段階

 素描に過ぎないが、琉球弧の精神史の各段階を霊魂やトーテムと対応させてみる。

 ― 約4500年前 定着期
   ・死者との共存

 ― 約4000年前 蝶形骨器
   ・霊魂の発生

 ― 約3500年前 風葬
   ・「あの世」の区別
   ・シャコ貝トーテム

 ― 約2500年前 交易期
   ・遺跡が低地立地
   ・蟹トーテム

 ― 約2400年前 蝶形骨器終了
   ・苧麻トーテム

 ― 約1000年前 グスク時代
   ・アマントーテム

 シャコ貝は、空間的な他界の発生を象徴している。交易期(貝塚時代後期)になると、遺跡は砂丘・沖積地という低地立地になることが知られている。浜辺近くに住むのだから、これを蟹トーテムの段階と考えてみる。蝶形骨器の終了は、苧麻がトーテムとなり、ジュゴンを素材に使わなくなった段階と想定する。アマンは、蟹と貝の合体だから、蟹トーテムの後にくる。これは、性交と子の認識の受容を象徴している。

 宮古を中心とした南琉球の場合、苧麻をトーテムとすることと、霊魂の発生とが近しい。トカゲは、蛇に比べて不完全な脱皮をするから、死の起源に対応していると想定してみる。

 蛇   不死
 トカゲ 死の起源
 蝶   死者の発生
 (蝶形骨器) 霊魂の発生
 蟹   浜辺への移住
 アマン 性交と妊娠の認識の受容

 

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2017/01/09

「琉球王国・王権思想の形成過程」(比嘉実)

 比嘉実は、若太陽思想と太陽子思想を区別すべきだとしている。

 『おもろさうし』を見る限り、按司は太陽と同一視されていて、そこに太陽子思想はみられない。比嘉によれば、それは尚清王の時代に成立するものだ。

日神を独占し、日神の末裔である王を論理化するために、尚清王の時、王朝の始祖伝承説話としての太陽子思想が受容され、そして、ほぼ同時期に「天の日子」という言葉が示すように、日光感精説話と天の思想を合一して、尚王朝の王権を正当化する論理が形成されたのではないだろうか。

 尚清王は16世紀の存在だから、ずいぶん遅いことになる。この真偽をまだ言えないので、比嘉の論に従って考えてみたい。

 比嘉も検証しているように、日光感精説話自体は相当の古さを持つ。ただし、琉球弧に受容されたのはグスク時代をさかのぼらないと考えられる。

 奄美でユタの祖を語る日光感精説話を下敷きにすれば、御嶽を建てたとき、根人は「太陽の妻の子」を任じることになる。根神も同様だが、根神は太陽を対幻想の対象にしている。内在的にいえば、この太陽の妻の子のなかから、太陽と同一視される按司が生まれてくることになる。

 按司は、男性である太陽と同一視された。しかし、比嘉によれば王権はそこに王を「天」と結びつけるために日光感精説話を招来したとしている。ぼくたちの文脈からいえば、ここは改めて招来したことになる。

 祝女にしても聞得大君にしても、太陽は対幻想の対象だった。それはつまり、祝女はアマテラスにはならなかったことを意味している。「太陽の妻であり続けたのだ」。

 琉球弧では、原ユタは女性である太陽を生み出す存在だった。それが、太陽が男性へ転換されることによって、ユタの祖は「太陽の妻」へという転落を余儀なくされる。この転落は外在的であったはずだ。
 

『古琉球の思想』

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2017/01/08

性の印

 ここで考えたいのは、動物の性はどこで確かめられるのかということだ。

Photo

 キシノウエトカゲは、名前からくる性も、精霊の系譜も男性を示している。が、「赤み」は女性精霊とのつながりも持っている。捕獲者はおそらく男性。この場合、「男性」であることにつながるのは、名前、精霊、捕獲者になる。

 ゴホウラは、名前と精霊は女性系列。捕獲者は男性。ゴホウラが男性動物の場合、捕獲者が性別を決めている。女性の場合は、精霊系列と名前が決めていることになる。

 ジュゴンは、名前は女性系列。精霊系列と捕獲者は男性。女性の場合、名前に示されている。男性の場合、精霊の系列と捕獲者が決めている。

 精霊の系列は、複数になる場合があるから、精霊系列は性を決定できない。捕獲者は、性を見る大きな指標だが、ゴホウラが男性の場合、精霊と名前に対して矛盾する。ジュゴンが男性の場合も、名前と精霊に矛盾する。

 ゴホウラが女性の場合、捕獲者に対して矛盾する。ジュゴンが女性の場合も捕獲者に対してのみ矛盾する。

 「名前」がもっとも矛盾が少ない。性は名前を見れば、それに由来する精霊を確かめられれば、分かるということだ。名前から分からない場合は、捕獲者の性を参照すればいいことになる。

 たとえば、ヤシガニは、マクガン(アンマフ)と呼ばれ、その名からは性別を決めにくい。しかし、捕獲者は男性であり、木に登るなど蛇精霊とのつながりもあるので、男性と見なせる。マクガンは、マラガンに由来する名称かもしれない。

 イモガイは、貝や赤みとしては貝精霊だが、ブトンニャという名前は男性であることを示している。捕獲者はおそらく女性だが、イモガイの性は男性だと考えられる。
 

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2017/01/07

「サンゴ礁の神話空間」PVイメージ

 機会があったので、「サンゴ礁の神話空間」をPVイメージで書いみた。CGを交えなければ実現できないだろうけれど、誰か一緒に取り組んでくれる人がいたら嬉しい。


(夜のサンゴ礁)
1. 津波がサンゴ礁の海を覆い横切り、そして引いてゆく
2. 静まったサンゴ礁に月が輝いている。サンゴ礁の縁が怪しく揺らめき輝く
3. 次第に夜明けになる。サンゴ礁の海に朝日が輝く

(サンゴ礁から生まれたように太陽が空低く輝いている)
4. 太陽から浜辺に視線を落とすと、ユウナが黄色い花を咲かせて、気持ちよさそうに風に揺れている。
5. その下に目を移すと、ユウナの木の木陰でキシノウエトカゲが海辺を睨んでいる
6. 大潮で引いた浜辺の岩場に蟹の群れが見える。キシノウエトカゲは食べようと這っていく。
7. トカゲに気づいた蟹はサンゴ岩に化身。
8. トカゲは、引き返さずそのまま海に入ってカタカスへ化身。髭を浜につきながら泳ぐ。
9. そのうえをイラブチャー(ブダイ)が泳ぎサンゴ岩をつついてから沖の方へ。
10. 沖の方からスクが陽に照らされて輝きながら群れをなして泳いでくる。
11. その向こうには、ボラが同じように群れをなして泳ぐ。そのなかの何尾かが水面を破って踊る。

(そこで目線か水面上に出る。沖の方で鯨が潮を吹き、背面からはねる)
12. すると、リーフの向こうからカンムリブダイ(グーザ)の群れがやってくる。
13. 陸亀が海に入って海亀になって泳ぐ。
14. ヤモリが海に入って鮫になり、沖へ向かう。
15. マングローブのシレナシジミが海へ転がってシャコ貝になる。サンゴ礁の縁が震え、少し輝く。

(再び浜辺。陽が傾いている)
16. ユウナの花がオレンジ色になっている。風を受けて散る。満ちてきた潮に洗われて海へ入る。すると、オレンジ色の熱帯魚になって泳ぎ出す。
17. サンゴ礁に靄がかかったように霞んだかと思うと、リーフから何かが入ってくる。ジュゴンがゆっくりその姿をあらわす。
18. 浜辺に目を移すと、渚に赤ん坊が生まれている。

(翌朝)
19. 子供が成長していく。手を中心に描く。
20. 両手首の内側真ん中にウマレバン。その後、手の成長とともにあちこちに刺青が刻まれてゆく。
21. すべてが描かれる。
22. 右手首の尺骨頭部の文様が蝶になって飛び立つ。
23. 左手の尺骨頭部から、アマンが、次に蟹が、そしてブー、貝が浮き出して淡い霊としてサンゴ礁に入っていく。
24. 最後に指の背の文様が蛇になり、空をめぐって外海へ溶けていく。
25. サンゴ礁の縁が怪しく揺らめいてわずかに輝く。
26. The myth world of coral reef –Ryukyu Arc-

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2017/01/06

種子島広田人の精神の位相

 種子島の広田人の精神の位相を推理してみる。

 貝符を着装する女性(イモガイ製)。腕輪を着装する男女(オオツタノハ製からゴホウラ製へ)。

 この通りだとしたらとして。

 イモガイは、男性名の女性貝だから、貝符を装着した女性は、蛇と貝をトーテムとしていることを暗示している。

 腕輪の素材がオオツタノハからゴホウラへ移行したということは、全く意味が異なるか、同位相にあることになる。ゴホウラは、女性名の男性貝。オオツタノハは女性名だと想定できるが、「オオツタノハは著しく波当たりの強い岩礁域に限って生息しているようである」(黒住耐二「オオツタノハの供給地」)ことからすれば、男性貝と考えられる。

 つまり、オオツタノハとゴホウラは同位相にある。

 ゴホウラ-オオツタノハの象徴は「女性-太陽」と「男性」。これを男女ともに装着しているのであれば、「貝(太陽)の子」であるという位相を示すのではないだろうか。

 この点では、広田人は、琉球弧の島人の精神と同位相になる。しかし、女性と男性の両方の組み合わせを求めたのだとすれば、このとき広田人には、男女の性交と妊娠の認識があったのかもしれない。

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2017/01/05

蝶形骨器の「赤」

 蝶形骨器は、朱に塗られていた。そのものから確認できたのは、八重島貝塚、室川貝塚、城間古墳群9号墓だ。

 島袋春美は書いている(「いわゆ「蝶形骨器」について」)。

何れも凹文のへりに僅かに確認されているだけであるが、本製品における形、文様の保守性から推測すると出土した他の製品についても塗朱が施された可能性が高い。
 塗朱の例としては荻堂貝塚のサメの脊椎有孔製品、清水貝塚のシラナミガイ(自然貝)、貝符、坪型土器がある。前者は本品に出土する時期と同時期の貝塚時代前Ⅳ期で、後者は後期に位置づけられる。

 どれが前者で、どれが後者なのだろうか。分からない。八重島から出土したものは鯨の骨なので、ジュゴンだから赤ということはない。もちろんこの赤は、「太陽―貝―女性」から採られたものだ。より厳密にいえば、太陽の赤であり、祖先を意味する。死の領域に移行しているという意味で、蝶は赤に染められたということもできる。

 それがジュゴンに塗られることも矛盾していない。ジュゴンは、胞衣でもあるわけだから、女性動物なのだ。

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2017/01/04

『呪術世界と考古学』(佐野大和)

 佐野大和は未知の人だけれど、『呪術世界と考古学』は読み応えがあった。「狩猟生活に満足している人たちにとって、稲作農耕の生活は驚くほど苦痛で、かつ興味のないものであったはずである」と書く人なのだ。気が合いそうではないか。

 イザナギが黄泉の国から脱出して禊する際に、左右の手の手纏(たまぎ)から現われた神は、
 「沖サカル、辺サカル、沖っ汀彦、辺っ汀彦、沖っ貝片、辺っ貝片」であり、神話を成立させた人々の意識の底に、手纏の霊質は、「本来海からとれる貝に通ずるのだ」という観念がはっきり遺っている。こういう指摘だ。

 折口信夫は貝について書いている。

 かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。此がなるの本義である。
 なるを果物にのみ考へる様になつたのは、意義の限定である。併し果物がなると言うたのも、其中にものが這入つて来るのだと考へたからで、原の形を変へないで成長するのが、熟するである。熟するといふ語には、大きく成長すると言ふ意も含んで居るのである。
 かやうに日本人は、ものゝ発生する姿には、原則として三段の順序があると考へた。外からやつて来るものがあつて、其が或期間ものゝ中に這入つて居り、やがて出現して此世の形をとる。此三段の順序を考へたのである。

 二枚貝は、「密閉して穴のあいてないのがよかった」。

 ここで「貝交易」と呼ばれているものを考えてみる。

 ゴホウラ製は男性が装着し、イモガイ製は女性が装着した。ゴホウラは女性貝であり、イモガイは男性貝である。南島の島人にとって、「貝交易」とは、大和から訪れるまれびとへの豊かな男の霊力と女の霊力の贈与」だったことになる。


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2017/01/03

「奄美・秋名ショッチョガマの儀礼構造」(福島義光)

 ぼくはまだ農耕儀礼について云々するところに到ってないので、儀礼のなかの縄文的思考の痕跡を見るという目線になる。(福島義光「奄美・秋名ショッチョガマの儀礼構造」「日本民俗学」159号)

 ショッチガマは、「山腹にしつらえた片屋根の祭小屋のこと」。小屋は、丸太が支え、インドマラと呼ぶ搗き棒で深く埋めて搗き固める」。「初踏ませ」の儀礼をやる。

 秋名では、「小屋が倒れたときに東から太陽が昇ってこなければならない」と考えられている。満潮時に行なう。

 サンゴ礁期の思考の痕跡をみるとすれば、洞窟の塞がった満潮時に、蛇で貝を射ることにより(小屋を倒す)、太陽を出現させるという行為だ。

 ヒラセマンカイ。カミヒラセとメラベヒラセ。ここでも「初踏ませ」の儀礼をやる。

 「今年はいつもの年と代わっている年で不思議なほどであります。磯のアヤスビ(美しい貝)が陸に上がってしまいました」、「今年はいつもの年と代わっている年で不思議なほどであります。磯の岩石に花が咲いてしまいました」。

 前者は、貝の人間(あるいは他の動植物)への化身、後者は岩の貝への化身のことだ。


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2017/01/02

「対馬・仁位の祭祀と村落空間」(鈴木正崇)

 豊玉町の森(シゲ)、川(フチ)、山(タケ)について(鈴木正崇「対馬・仁位の祭祀と村落空間」「日本民俗学」151号)。

 シゲとは、集落内にあるコンモリ茂った森。伐ってはならない夫婦杉という古木がある。シゲの神へは盆踊りの奉納もあった。フチの神への奉納も意図している。森を神聖視する「霊地」としての性格。

 フチは、川の湾曲している所や、木の淀んでいるところ。神霊が宿り雨乞いの祈願場とされる。一方、河童が人に悪さをするというイメージもある。タケやシゲに比べると霊地の性格は弱い。

 タケは、高い峰のこと。ヤマより高いとされ、神聖な霊地として崇拝される。盆踊りの奉納のときは、天神嶽が意識される。タケは通常、麓から拝する。

 シゲ(森)、フチ(川)、タケ(岳)という同心円的聖地構造。シゲは、それ自体が神聖視されるとともに境界のカミの意味合いがある。集落内外に、シゲとタケを設定し、その間の干渉地帯にフチを配する。神社は浜辺ないし山腹にある。シゲ地のある少し外側の外縁部にあるのが神社。

 この記述からみれば、シゲは山(陸)の動植物の精霊、フチは水の精霊が宿っている。シゲには、人間の精霊も含まれている。シゲは、かつての「あの世」でもあるのだ。

 タケは、遠隔化された他界。フチは、その境界部にもなったのではないだろうか。

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