「トーテムとメタモルフォーゼ」第5回:ヤドカリ人の抵抗とアマミキヨの出現

 月に一回の告知板みたいになってしまっているが、「トーテムとメタモルフォーゼ」の第5回分も資料が整ってきた。おおかかに何をお話しするか、書いておく。

「野生会議99 つながるゼミナール④ 「トーテムとメタモルフォーゼ(サンゴ礁の夢の時間)」

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 まず、瀬底島の「アンチの上貝塚」から入る。ここは、最初のヤドカリ・トーテムの貝塚として重要だ。重要だというのは、全面発掘されて詳細が知れるという点で、「具志川島の岩立遺跡西区」と並んでたった二つの貝塚・遺跡のひとつだということも含まれる。人の異動はもとより、可能な限り彼らのこころに肉迫する。それは、よく知られた「兄妹始祖神話」の意味を明かす。

 ・カニからヤドカリトーテムがなるというのはどういうことか。

 ・「兄妹始祖神話」は何を語っているのか。

 ・彼らは、ヤドカリとして訪れた危機にどう抵抗し、乗り越えようとしたのか。

 こうした足跡をたどって舞台を奄美大島に移す。実は、奄美は沖縄島よりもはやくヤドカリ段階へ移行している。奄美では、いまのところ、ミナミオカガニ、スナガニまでの貝塚は見つかっているが、それ以降がない。つまり、沖縄島周辺がシオマネキに移行した頃に、奄美はヤドカリになる。これがなぜかは具体的には分からないが、その後の推移はおおよそ追える。

 面白いのは、沖縄島周辺でカニ最後のオウギガニの段階で、奄美ではサンゴヤドカリの段階に移ることだ。どちらもイノー(礁池)に普遍的なカニとヤドカリで、トーテムは異なるけれど、培った思考は共通していた。「胞衣」の発見だ。

 ここから、トーテムはオカヤドカリへと移行する。最初はナキオカヤドカリだと思う。なぜオカヤドカリという陸のヤドカリに移行するのか分からなかったが、今回の発表準備でようやく解けてきた。それを笠利の安良川遺跡から読み解いていく。

 そして、今回で参加を最後に、奄美大島に帰島する方がいるので、その方の出身地の小湊フワガネク遺跡にフォーカスする予定。

 ・兼久式土器の表すもの

 にも触れて、「日本書紀」に記されることにあった「海見」の意味を経て、アマミキヨの出現まで辿る。

 今回も重厚になってしまったが、ながい「アマン世」のお話し。よろしければ、足をお運びください。

【場所】大岡山タンディガタンディ (東京都大田区北千束1-52-6-2F./ 大岡山駅から徒歩2分)
【日時】9月21日(土)16:00~
【参加費】1000円、懇親会:1000円(持ち込み歓迎)

 

 

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2019/08/06

「トーテムとメタモルフォーゼ」第4回:カニの切断と浜降りの発生

 「野生会議99」のつながるゼミナール、「トーテムとメタモルフォーゼ」の第4回はカニ・トーテム。

 カニ・トーテムは、サンゴ礁トーテムを「母」とし、自らは「子」トーテムに転移する。そこに何があったのか。なぜ、そうしなければならなかったのか。そのこころに迫る。それは、現在まで続く「をなり神信仰」の発端となったものだった。

 カニ・トーテムでは、残された習俗に直接つながるものも見えてくる。「浜降り」はその代表的なものだ。奄美大島の平瀬マンカイとショッチョガマの原像もここで立ち現れてくる。

 ミナミオカガニ、スナガニ、シオマネキ、オウギガニと続くトーテムの推移のなかで、トーテム人が掴んでいった人間理解の深化はどのようなものだったのか。その道すがらで、考古学が「貝交易」と呼ぶものは島人にとっては何だったのか。そこから何が見えてくるのか。触れていくことになる。

 暑いさなかですが、ご都合つきましたら足をお運びいただけると嬉しいです。

 第4回「カニの切断と浜降りの発生」(野生会議99)

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2019/06/30

「トーテムとメタモルフォーゼ」第3回:苧麻・琉球芭蕉・アダンからサンゴ礁へ

  白熱してしゃべってしまった2回目の振り返りを、「野生会議99」の「あとのまつり」に書いた(「蝶になる時とイザイホーの原像」喜山荘一(第2回『トーテムとメタモルフォーゼ』・野生会議99企画つながるゼミナール④))。

 考えることを続けていると、発表の終わった後に気づくこともある。

 

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 具志川島岩立遺跡西区5Bの端にある「焼土3」は、「スデル(メタモルフォーゼ)場」だが、当日はこれを「ノカラムシの葉」と説明したものの、もしかしたらアカタテハの幼虫の食痕かもしれない。ここには貝が置かれていないので、何人のスデルが思考されたのか、不明だが、スデル場なのは間違いない。ただ、「葉」の形にしては雑なのが気になっていたが、別の貝塚で幼虫の食痕とはっきり分かる場を見つけた。もっともそこは「この世に現れる場」なのだが、「スデル場」にあっても不思議はない。

 次回、食痕と分かる貝塚には触れることができるが、それを含めて、2回目で説明した「植物トーテム―蝶」以外の対を挙げてゆく。その数は十前後になる。ただ、それでも貝塚で分かった範囲だから、琉球弧全体でみれば、さらにあるのは間違いない。気になる植物も蝶もまだまだあるのだ。

 考えてみれば、植物トーテムと蝶の結びつきがあるのは自然なことだ。蝶は、植物で育つのだから。

 そして次には「サンゴ礁トーテム」に入る。シャコガイ・トーテムで時空の起点を意識化したトーテム人は、時間のベクトルを意識化して植物人となり、その空間的な媒介として「あの世」を、時間的な媒介として「霊魂」を思考する。その次にくる「サンゴ礁トーテム」は、空間的な広がりを持つ場の意識化のことかもしれない。

 島人気質に決定的な影響を持ったサンゴ礁トーテムはどう考えられたのか、そのあまりにもダイレクトなさまを次回はお披露目できると思う。サンゴ礁に見とれることを始めた島人の物語だ。

 つながるゼミナール④ 「トーテムとメタモルフォーゼ(サンゴ礁の夢の時間)」第3回「苧麻・琉球芭蕉・アダンからサンゴ礁へ」

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2019/06/16

「トーテムとメタモルフォーゼ」第2回:蝶になる時とイザイホーの原像

 「トーテムとメタモルフォーゼ」(「野生会議99」つながるゼミナール)の第二回は、植物トーテムを扱う。なかでも、具志川島岩立遺跡西区にフォーカスすることになる。

 貝塚からトーテムだけではなく、貝塚を築いた集団の人数やその異動を割り出すには、詳細な貝のデータが必要だが、岩立遺跡西区は、それを得られる数少ない貝塚だからだ。ただ、充分というわけにはいかない。工事により削り取られた面があるし、発掘面が限られた層もあり、詳細化されていない場もある。

 しかし、いくつかの制約はあるものの、現状これ以上のデータを望める報告書は、ここ以外では「アンチの上貝塚」しかないから、貴重なのだ。

 具志川島の岩立遺跡西区から、植物トーテムの段階での、「あの世」と「霊魂」の発生を追う。なぜ植物トーテムのときなのか。植物を通じて、「あの世」はどう思考されたのか。同じく、「霊魂」はどんな植物を媒介にどのように考えられたのか。

 驚くことに、言い伝えに色濃い「蝶」をそこでは目撃することになる。イベントまで、あと一週間あるので、もう少し詰めていくつもりだ。

【場所】大岡山タンディガタンディ (東京都大田区北千束1-52-6-2F./ 大岡山駅から徒歩2分)
【日時】6月22日(土)16:00~
【参加費】1000円、懇親会:1000円(持ち込み歓迎)

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2019/06/02

『子どもではなく類縁関係をつくろう』(ダナ・ハラウェイ)の装丁図

 この本("Staying with the trouble")の装丁に目が行く。手と骨盤と背骨と思しき人骨が組み合されていて、糸巻きのぐるぐるで節がつくられている。そして上に乗せられているのは「蝶」だ。

Staying With the Trouble: Making Kin in the Chthulucene (Experimental Futures: Technologocal Lives, Scientific Arts, Anthropological Voices)

 これはぼくたちが貝塚のなかに目を凝らして見ようとしているものに似ている。もっとも、貝塚の場合、人骨は稀で、琉球弧では貝が主役を張る。「蝶」が象られた「製品」もあるが、稀なことだ。そして、装丁のなかでも人でないものが想像されているけれど、貝塚で表現されているのはトーテムだ。

 しかし、祖先とみなした特定の動植物や自然物が描かれているというだけではない。貝や土器や石器や、稀に人骨を含めて象られているのはトーテムなのだが、それは同時に貝塚を形成した人集団のひとりひとりを指している。それはトーテムであり、人なのだ。トーテム(霊)とつながるトーテム人である。

 貝塚人は、トーテムと類縁を感じる貝を食べる。貝はそのとき食べた人へとメタモルフォーゼする。だから、貝は人の元の姿である。貝は、人の分身だ。貝塚には、人、ではなく、主に貝が置かれる。人の元の姿は貝であり、その貝もまたトーテムへと還る存在である。ここには、人―貝―トーテムという関係がある。人とトーテムを結ぶ中間に貝があるから、貝塚に貝を置くことで、常にトーテムとつながることができる。それが貝塚の思考だと思える。

 人はトーテムの化身(メタモルフォーゼ)態だが、その中間には貝(や動物骨や石器、土器等)があるから、トーテム人は、人の向こうにトーテム霊を見るとはいえ、その手前に、貝で構成された身体を見ている(たとえば、カンギクは、チンシガイ(膝頭貝)と呼ばれる)。貝身体としての人だ。それが、ハジチ(ヤポネシアン・リュウキュウ・トライバル・タトゥー)でもある。貝塚に目を凝らしていると、どうもそのように考えられているように見えてくる。

 ダナ・ハラウェイの作品をまだ読んでいないが、「サイボーグ」や「伴侶種」は、ここでいう貝身体や分身というメタモルフォーゼ思考に近しいものを感じる。「子どもではなく類縁関係をつくろう」という宣言にしても、そもそもトーテムが類縁関係のなかで見出されているものだし、そこに「子ども」は排除されているのではなく、類縁関係の環のなかに「子ども」も入っている。

 「堆肥体」も分かる気がするが、「土」とともにあるだけではなく「石」でもあるから、メタモルフォーゼ思考のなかでいえば、やはりメタモルフォーゼ(化身)態と呼ぶものに近しさがある。

ところで、ラステンが朝食の席で発案したひとつのジョークなんですけどね、僕たちにあるのは人間性(human-ities)ではなく、腐植性(humus-ities)だね、って。(子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る 」

 

 「人間性」の向こうの「腐植性」への着目は、「死の起源」以前へと視線を向かわせる。メタモルフォーゼ思考のなかでは、「腐植」もまたメタモルフォーゼ(脱皮、変態、スデル)の一過程のなかにある。

 何かここに近しきものがあるという感触がやってくる。

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2019/06/01

「トーテム-メタモルフォーゼ仮説の全体観とシャコガイからの出現」を終えて

 少し過ぎてしまったが、「トーテムとメタモルフォーゼ」の第一回を終えた(5/25)。

 当日は、トーテムとメタモルフォーゼ仮説の全体観、その法則性のようなものを話してから、シャコガイ段階に入った。宝島大池遺跡の遺構にはシャコガイが記されているので、その観方が入り口になる。

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 ただ、大池遺跡は、遺物の詳細が報告されていないので、部分的には分かる多良間島添道遺跡で、これが人を示すこと、きれいに分配されていることをお伝えした。同様のことは、宮古島の長墓遺跡6層でも行える。

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 ここでは、分配された貝によってその人が示されていることに興味を持ってもらえたのにほっとする。資料を拵えながら、シャコガイからの化身が、二枚貝はシャコガイの殻の基体、巻貝は放射肋の化身態であるのが分かったのは収穫だった。

 また、蝶、人、蛙の関係から、メタモルフォーゼ思考の考え方にも触れることができた。

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 「食べる-食べられる」関係は、弱肉強食でも食物連鎖でもなく、メタモルフォーゼという関係で結ばれる。この三者関係は、三すくみと言われたりするが、それぞれは身動きが取れないのではなく、元の姿へ戻りながらやがてシャコガイ・トーテムへ還るものとして捉えられていたのだ。

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(当日、説明に使ってヒメジャコ、キクザル、そしてトーテムの主、トガリシラナミの幼体)

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2019/05/02

糸芭蕉祖先の嘉徳遺跡 - 嘉徳海岸護岸工事計画に端を発して考えること

 お馴染みのと言っていいくらいの護岸工事計画だが、これは「砂」の問題と言い換えることもできる。砂浜の砂が削り取られて海岸浸食が起き、生活圏へ影響が生じる。嘉徳の場合、海岸近くに墓地があるのが切実さを増している。

 海岸浸食は、台風によるものに間違いはないが、別の要因もあるという指摘はなされている。(「高波浪が侵食の引き金になったことは事実であるが,侵食には別の要因が関与していると考えなければならない」「奄美大島の嘉徳海岸の侵食とその対策に関する提案(宇多高明)」)。「海砂採取」もそのひとつという指摘もなされている(「奄美大島の“ジュラシック・パーク”が破壊の危機」)。

 現在、鹿児島県知事を相手に、「嘉徳浜弁護団」により、縮小されてはいても護岸工事は必要性を欠く上に、「生物環境・自然環境」に影響を与えるもので、「環境影響の少ない代替案」の具体的な検討・採用もないままの公金支出は差し止めるべきという内容の訴状が提出されるところまで来ている。(奄美のジュラシック・ビーチを守れ!住民訴訟に力を貸して下さい 」

 しかしいつものように島の人の声は聞こえてこない。2年前(2017年)の聞き取りはあるが、予定調和的なまとめで肉声というものとは遠い印象を受ける(「嘉徳地区住民からの海岸保全に関する聞き取りについて」(2017))。「第 1 回 嘉徳海岸侵食対策事業検討委員会(概要)」(2017)は、議事録風で生々しさはあるが、住民の声というわけではない。「嘉徳海岸護岸工事に関する住民監査請求(奄美新聞掲載。2019/02/01)」 で薗博明さんの声は聞けたが、この背後にも語られない島の人の声はある。

 鹿児島県 奄美大島 嘉徳海岸の自然文化的価値と保全の方向性(速報)では、「海岸の景観の保全は、嘉徳集落の精神性の保全」という指摘がされているが、ここでは「海岸」に限らず、そして「保全」というにとどまらず、嘉徳はすごい場所だいうことを書いておきたい。

 嘉徳の自然の野生力の豊かさは、この映像からでも察せられるが、嘉徳が素敵なのは、この野生のなかに建てられた嘉徳遺跡にある。

 嘉徳遺跡は、鼎さんが映像で紹介している。

 縄文相当期の貝塚時代、島人は動植物や自然物を祖先(トーテム)としていた。なかでも植物トーテムの段階は創造性に溢れるが、嘉徳遺跡は、植物のなかでもリュウキュウイトバショウ(琉球糸芭蕉)を祖先(トーテム)とした島人の聖域だ。それは土器や遺構に示されている。

 嘉徳遺跡からは、特異な土器が見つかっている。

(『嘉徳遺跡』1974年)

 この土器は、糸芭蕉の花である。糸芭蕉の花はこんな姿をしている。

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 花は垂れ下がることが多いので、これを逆向きにしてイメージしてほしい。土器の胴部は膨らんでいるが、これは上図では四方に広がる葉(苞)に当たる。葉の根元からもしゃもしゃと伸びているのは雄花だ。この先端は左右に細かく分かれているが、これが土器では口縁部の籠目文になっている。

 この土器が特異なのは、断面図で分かるように、口縁が二重化されていることだ。二重口縁という形態の土器は、琉球弧では他に類例がない(ぼくが気づいた範囲では)。この二重口縁の内側の口縁が、糸芭蕉で言えば、雄花の先に伸びている茎の先端(花茎)に当たる。土器から糸芭蕉が見えるだろうか。

 これが糸芭蕉であることは、土器の見つかった場所を見ると、より分かる。

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 土器はこんな風に浅く掘られた曲線の囲いのなかにあった。この囲いを見れば、これが、広々と茂る糸芭蕉の葉だということが分かる。

 糸芭蕉は、いまでもその樹皮から糸を採り、奄美から沖縄島北部で盛んなように、芭蕉布が織られることで知られる。そこから衣服をつくる植物は、もともとは、そこから人間が生まれると考えられた祖先(トーテム)だったのだ。

 こんどは土器の断面図を見ると、土器の上下に計四個、孔が空けられている。調査では、「特別な意味があったと思われるが、他に例を見ないので何とも言えない」、「先づ呪術的な使用を考えるのが事実に近いのではないだろうか」として当惑も伝わってくる。しかし、これが糸芭蕉土器と分かれば、ここに通したのは、糸芭蕉から得られる繊維だったと推測することができる。

 土器の形態では、沈線文、籠目文、点刻線文と呼ばれ、植物トーテム土器は多く知られているが、これはそのなかで糸芭蕉祖先(トーテム)を表現したものに当たる。糸芭蕉土器は、きっと他にもあるのだが(野国貝塚では、石器の並びで糸芭蕉が再現できる。cf.野国貝塚Ⅲ層の芭蕉トーテム 」)、特異なのは、土器という形態を破ってまで、糸芭蕉の花そのものに肉迫しようとしていることだ。ここには、嘉徳人たちの並々ならない想いが込められている。

 貝塚や遺跡には構造があり、それは四つの場によって構成される。

 1.スデル(メタモルフォーゼ)場。何をトーテムとするのかを示すとともに、この世に現れるべき人数を予祝する。
 2.現れる場。この世に現れた人を示す(生誕と年齢階梯の上昇)。
 3.還る場。あの世に還った人を示す(死者数)。
 4.いる場。遺跡を建てた際に、この世にいた人数を示す。

 遺跡は全面発掘されているものの、南側は採砂されていて既に破壊されており、報告書も詳細に欠けるので、「糸芭蕉の葉と花」の遺構がどれに該当するのか判断しにくい。土器上面が焼けているので、「あの世に還る場」を示しているように見えるが、ふつうは貝や他の遺物によって、その人数が示されるが、ここにはそれがない。あるいは、集団のリーダーだった原ユタを示すのかもしれない。この囲い自体は深さ8.6cmと浅い。そして3層を掘り込んでいることを踏まえると、あるいはスデル(メタモルフォーゼ)場であったとも考えられる。

 判断できる材料に乏しいが、嘉徳遺跡は、糸芭蕉の葉と土器の遺構だけでも、植物トーテムのあり方を生き生きと伝える重要な遺跡なのだ。

 動植物や自然物を祖先(トーテム)とした人々は、貝塚や遺跡をトーテムの地に建てる。地勢や地形もトーテムの化身態と見なされるから、トーテムを感じさせる地に貝塚や遺跡を建てるのだ。嘉徳海岸付近の植生では、リュウキュウイトバショウは見られないが、内陸の方には生えているのではないだろうか。そしてトーテムの地ということについても察しがつく。

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1946年の空撮写真をもとにする。嘉徳では、小川が流れており、それが嘉徳川の下流で合流する。その合流の川上側に嘉徳遺跡は建てられている。その小川から、現在のシマ(集落)を包み込んだ砂浜(砂丘)全体の形態が、花茎に似ている。遺跡は、糸芭蕉の大地に川を隔てて建てられたのではないだろうか。そうなら、嘉徳の砂浜には、数千年前の島人も魅入ったのだ

 琉球弧では、神話、伝承、そして貝塚や遺跡から祖先(トーテム)の系譜を辿ることができる。嘉徳は、詳細のデータが不足しているのでハードルが高いが、貝塚、遺跡の貝や遺物からは、その集団の人数や思考のあり方に接近していくことができる。世界遺産を言うなら、琉球弧は、とうに忘れられた野生の思考をおぼろげにでも再現できることに価値はある。なかでも琉球糸芭蕉は、芭蕉布が織られるというだけでなく、尊ばれてきた植物だ。その糸芭蕉を祖先(トーテム)とした遺跡があるのだから、約4000年前の頃、嘉徳は重要な聖地だったのだ。嘉徳の糸芭蕉人のこころを立ち上がらせるように「嘉徳」を価値化できれば、島人の精神性を尊重しながら島人も生きていくことができる、そういう経済的な方途も立てられるのではないだろうか。

 

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2019/04/21

『現代説経集』(姜信子)

 言葉が身体に染み入るようだった。「八百比丘尼の話」はyoutubeで流しながら台詞を追ってみた。お気に入りのフレーズは声に出して読んでみた。

 このところ、論考めいた言説の文体からの剥離感が強い。さりとて新しい文体がやすやすと出てくるわけでもないのだから、さてどのように書いたものかと戸惑いある者には、この声、この語りが、身体に入ってくると気づかされる。だから、作品のことを書く代わりに、心に留まるいくつかを引用しておこう。

 

 

「だから、私は、命をはぐくむ水だけを信じて、国家の内も外も境もなく脈々とのびてゆく命の流れをたどってゆく者です、この世をめぐる水の声に耳傾けて、水とともに流れて生きてゆく者です(後略)」

「(前略)歌は水のように変幻自在にこの世をめぐり、生きることの渇きを癒し、命をつないでゆく、それは私の祈りであり、私の旅である、歌を盗み、物語を盗み、記憶を盗み、この世の中心はただひとつとうそぶいて、水を澱ませる者たちへの、それは私の闘いである、と水のアナーキストは小声で呟いている(後略)」

「そもそも、基本的に、私のうちの九十九パーセントは死者たちの記憶や言葉や声でできあがっております、そして私のうちの私固有の領分は残りほんの一パーセントにすぎません、しかもこの一パーセントは空白、過去の無数の死者たちと未来の無数の生者たちとのつなぎ目となる空白です、かけがえのないものです、私は空白で、空っぽで、果てしない穴で、すべてを受け容れる水路で、同時に私はそこを流れる水で、それゆえにかけがえのない私は、私の中の死者たちの記憶を盗む者や死者たちの声を封じる者たちに、おのずとひそかに静かに抗するひとりの生者なのです、私は過去の無数の死者たちであり、未来のひとりの死者であり、未来の無数の生者なのです。」

「この世には旅をしなければわからぬことが無数にある。本当に大切なことは、旅の先に待っている、長い旅をして、ようやく出会って、つながったときに、そのつながりは未来へと延びてゆくだけでなく、かつてはつながりそこねた過去にものびてゆくものなのでしょう。」

「さて、「旅するカタリ」、と私はたったいま語りだしたばかりの物語を名づけているのですが、「カタリ」は「語り」でもあれば「騙り」でもある、私たちの生きる場所はいつでも嘘と真の間、善と悪の間、正と邪の間、記憶と忘却の間、あらゆる間を揺れ動くその揺らぎの中にあるものだから、何を語ろうともそれは騙りであろうし、その騙りのうちには実もあろうし、なので何事も黒だの白だの断じて畏れも恥も知らぬ輩とこの私をどうか一緒くたにしないでください、私が語るは、有象無象そんなこんなのすべてをのみこんだ「カタリ」。私自身が「カタリ」なのです、私は旅するカタリなのです。」

「物語とは旅する体が運ぶもの、道ゆく声が語るもの、という思いが私にはある。」

「すべての道に小さき神々。すべての道に人々のひそかな物語。物語は旅するカタリたちによって結ばれ、生きることより生まれいずる呪詛も祈りにかえて、祈りとともに増殖する。」

「あらためて。私は旅するカタリです。旅するカタリの声は無数の小さな中心をこの世に立ち上げる。語りとは声のアナーキズムなのだ。と、これは勢い余った私のひそやかな宣言。」

「旅するカタリはこう考える、植民地とは記憶を盗まれた者たちのいる場所、そんなところでは人間は生きているんだか生殺しなんだか・・・、そう、植民地とは、自身の記憶を自身の物語として自身の声で語る場を失くした者たちの場所、根も葉も芯もない宙ぶらりんの空虚な場所。」

「(前略)道をゆく、呼び合う声を結び合わせる、行く先々で人々が地声で自由に物語する治外法権の場を拓いてゆく、それが旅するカタリなのですよ(後略)」

 

『現代説経教集』

 

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2019/04/20

「トーテムとメタモルフォーゼ」第1回:その全体観とシャコガイから出現する貝人

 これから「トーテムとメタモルフォーゼ」の話をしていこうと思う。トーテムは、祖先である動植物や自然物のこと。琉球語では「大主(ウフスー、ウフシュ、ウパルズ)」という言葉の語感にその面影が残っている。メタモルフォーゼは変態、変容だが、ここでは脱皮の意味も含ませる。これは、「若返る」という意味のスデル、シヂュンという言葉として残ってきた。

 「トーテムとメタモルフォーゼ」は、動植物や自然物を生命の源泉とし、その化身(メタモルフォーゼ)態として人や自然を捉えていた世界のことをテーマとしている。

 琉球弧では、トーテムの系譜を辿ることができる。

 [蛇・トカゲ・シャコガイ・植物・サンゴ礁・カニ・ヤドカリ]

 それぞれのトーテムには、そのときの生命観・宇宙観が宿されている。だからこの推移にもこころの必然史とも言うべき重要な変化が刻まれている。それは人の感じ方や考え方の元になっているから、忘れてしまっていても、いまのわたしたちも腑に落ちてくる。むしろ、ものの感じ方や捉え方のなかに、トーテム段階の思考は色濃く残っていると言ってもいい。蛇の終わり頃からヤドカリまでだけでも、1万年はかけているのだから、それは不思議なことではない。

 第1回は、先史時代を伝承や習俗、そして貝塚から読み取る「トーテム・メタモルフォーゼ仮説」の全体観をお伝えして、シャコガイの段階から入り、蛇やトカゲのことは、それ以降を辿ったあとに、触れることにしようと思っている。時代が古くなればなるほど情報量は少なくなるので、トーテムの仕舞いまで行ってからの方が、推理が働く面があるのだ。

 とは言うものの、シャコガイの段階も見つかっている貝塚は多くない。いくつかある理由のなかでも重要なのは、シャコガイをトーテムとした時間がどうも短いのだ。しかしそれはシャコガイが重要ではなかったことを全く意味しない。むしろ、シャコガイから次の植物トーテム以降になっても、シャコガイは起点であり軸として忘れられずに重視されている。

 なにしろ、シャコガイ段階になって初めてトーテムは性を持ち、終わりのヤドカリまで、トーテムの主は女性(あるいは女性性が強)かったのだ。シャコガイ・トーテムは女性の時代のはじまりを意味している。

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 トカゲの終わりは、人は死に気づいたことを意味している。世界中に「死の起源」の神話があるが、琉球弧ではそれはシャコガイ段階に当たることになる。死の発見という心の危機を、人はどのように乗り越えようとしたのか。貝塚を手がかりにしながら、貝塚人の思考のありようにできるだけ迫っていきたい。

 ※取り上げる主な貝塚・遺跡:宝島大池遺跡、屋我地島大堂原貝塚、徳之島面縄第3貝塚

【場所】大岡山タンディガタンディ(東京都大田区北千束1-52-6-2F./ 大岡山駅から徒歩2分)
【日時】第1回:5月25日(土)16:00~
【参加費】1000円、懇親会:1000円

 第2回以降の情報は、下記にあります。

 「野生会議99」つながるゼミナール④ トーテムとメタモルフォーゼ(サンゴ礁の夢の時間)喜山荘一

 

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2019/04/16

「貝塚後期文化の貝交易(藤尾慎一郎)」『ここが変わる! 日本の考古学: 先史・古代史研究の最前線』

 琉球弧の精神史の探究は、思いがけず考古学に踏み入ることになったので、学ぶことが多いのだが、ここは琉球弧についての言及にのみ触れることにする。「貝塚後期文化の貝交易」というコラムだ。

 藤尾は、九州の土器文化の影響は見られるが、としたうえで次のように書いている。

貝塚前期文化は、縄文文化の琉球類型でるという考え方もあるが、のちに琉球王国が成立するという日本国とは別の国家が成立するという意味で、北海道とは異なる歴史的変遷をたどる点を重視して、筆者は貝塚前期文化や貝塚後期文化を縄文文化や弥生文化と並立する独立した文化という立場をとる。

 ぼくも先史琉球弧を「縄文文化の琉球類型」とするのは自文化を著しく見損なうと思うので共感するが、それを琉球王国の成立をもってするというのとは少し筋がちがう。琉球弧の先史時代のトーテムの系譜とその時間的推移が独立しているから、傘下に入るような形が安易に見えてしまう、ということだ。そもそも本土の弥生化にもかかわらず、先史時代を継続したところにも独自性は現れているわけだ。

 しかし問いはその先にあって、琉球弧でトーテムの推移が辿るように、本土でも辿ったら、それぞれの地域ブロックごとに同様の文化圏が見えてくるのではないだろうか。それはおそらく土器形式の圏とほぼ重なるように思えるが、そうだとしたら、縄文文化というくくりそのものがいったんは解体されて見直されるところまで行ったほうがいいと思える。

 ここから先は主に木下尚子の説を引く形でコラムは展開されている。

遺跡が森の高台から砂丘に移るのである。木下は、これまで依存してきた森から遠くなることをおいてもなお、サンゴ礁に面する前面に居を移した方がよいという決断を、人々が行った点を重視している。

 トーテムの視点からいえば、トーテムがオカガニからスナガニへ移ったところで、貝塚人たちは砂丘へ貝塚を築くようになる。貝塚人は、トーテムの地を目指すからだ。

 弥生土器の影響を受けた土器の出土から、九州北部との強い結びつきをもった「貝塚後期文化」というイメージが作られるが、しかしその後いっこうに、琉球弧で「稲作」が形成された形跡が見つからない。そこで登場するのが、貝交易を行う「貝塚後期文化」像だ。

 しかしこれについても、貝塚人は「交易」という経済活動を行っていたのではない。それとおぼしきははやくにヤドカリ段階に入った奄美の貝塚人がその可能性を持っている程度だ。貝塚人がしていたのは贈与だと思える。「沖縄の遺跡でゴホウラ類とイモガイ類の貝殻だけを集めた集積や、腕輪のために粗く加工された未製品(粗加工品)が見つかることから明らかである」と、貝は「交易のストック品」と見なされるのだが、貝塚人には交換の概念を持たないのだから、これはストック品ではない。考古学が「貝集積」と呼んでいるものは、貝塚人の分身である貝や土器や石器によって構築されたトーテム像である。貝や土器は分身なのだから、自分の分身をストック品として放置するはずもない。貝塚にストック品という構図は、御嶽や神社に商品在庫の箱が積まれたようなものと言えば、ありえないことが分かるだろう。

 贈与は貝塚や遺跡に残された貝とは別にプレゼントされたと考えるしかない。そして、交易ではないからこそ、本土からの貝の需要が途絶えたとき、貝塚人からの継続要請もなく、そのまま終焉を迎えることになるのだ。交易「貝塚後期文化」像もこの点は見直されなければならないと思える。

 

『ここが変わる! 日本の考古学: 先史・古代史研究の最前線』

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2019/04/14

ミナミオカガニ段階の奄美大島住用・サモト遺跡

 住用のサモト遺跡の遺構は、オカガニ段階に見える。出土している土器が、サンゴ礁トーテム土器(カヤウチバンタ式、宇宿上層式、面縄西洞式)であることも、このことに矛盾しない。土器は前段階であることは多々ある。

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 遺構のデータは詳細が不足しているので、北側にある「6号遺構」に注目してみる。

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 「6号遺構」は「隅丸長方形」で、「他の部分より皿状に低くなっている」。この掘り込みの薄さは、ここがカニ人へのメタモルフォーゼーゼ(スデル)場であることを示唆している。そして、これはカニを表現しているのではないだろうか。カニの姿勢を分かるように置き直してみる。

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 土器片は茶、円形の「明赤褐色の焼砂」は薄く色をつけた。囲いのなかにカニがいるのが見えるだろうか。番号を振ったのは左右の脚だ。眼柄が伸びているので、ミナミオカガニだと思える。サモト遺跡Ⅲ層は、ミナミオカガニ段階にある。

 オカガニ段階では、海の岩礁が出現の母体になる。サモト遺跡の場合、それは近くの湖のような静けさの内海だ。「6号遺構」の囲いはこの内海を示している。

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2019/04/13

ウフタⅢ遺跡のベニワモンヤドカリ 2

 ベニワモンヤドカリ段階にあるウフタⅢ遺跡の貝を見てみる。「破片」はカウントされていないので、人数推定はあきらめて、貝のベニワモンヤドカリらしさを確かめる。

 宿貝は、シラナミ。ヤドカリ腹部では、チョウエンサザエ(2197)を除くと、イシダタミが多い(333)。イシダタミは層の膨らみが厚く、巻きがはっきりしている。赤や黄も混じる。それが、ベニワモンの黄と赤のストライプと似ているところだ。

 ヤドカリ鋏では、オハグロガイ(1158)。殻口の開き具合が、ベニワモン風だ。

 「胞衣」貝ではヒレジャコが多い。ヒレジャコは砂地にいる。ヒレが横の線を強調する。カニ腹部では、チョウセンサザの蓋(7098)を別にすれば、イソハマグリが多い(5442)。ベニワモンヤドカリの甲の白に対応している。笠利にはいないヤエヤマヒルギシジミ(8)があるのは、幼貝の段階で黄緑色になる、その色の類似が重視されたのだと考えられる。カニ鋏ではアマオブネが筆頭(2111)。殻口の黄と白が大事だったのではないだろうか。

 男性貝のマダライモ(52)は、よく分からないが、格子の並びがストライプ風なのかもしれない。また、「破片」がカウントされていれば、様相はまた違ってくると思える。

 チョウセンサザの蓋(7098)とヤコウガイの蓋(74)の違いからすると、をなり集団はアンチの上のように、集団を分割するには至っておらず、小さな他のをなり集団を抱えた状態だ。

 ベニワモンヤドカリ段階の貝は、報告が少ないので、詳細ではないものの、これは貴重なデータになる。(cf.「ウフタⅢ遺跡のベニワモンヤドカリ」

 

 

 

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2019/04/12

ウフタⅢ遺跡のベニワモンヤドカリ

 ウフタⅢ遺跡では、「石積み石囲い竪穴住居跡」が発掘されている。

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『ウフタⅢ遺跡1』龍郷町教育委員会埋蔵文化財発掘調査報告書2 )

 しかし、トーテムの眼でみれば、これは住居跡ではなくトーテム像である。それはどうやら、サウチ遺跡と同じ、ベニワモンヤドカリだ。住居跡の遺構は思わずミナミオカガニ・トーテム段階と見たくなるが、阿波連浦下層式の土器も出ていて、すでにスナガニ段階も過ぎている。これがヤドカリであることに矛盾はない。

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(『ヤドカリのグラビア』)

 「石積み石囲い竪穴住居跡」は、ベニワモンヤドカリの甲に当たる。しかも、デフォルメされている。甲を1~4の個所に分けると、遺構ではそれが下図のようにデフォルメされている。「母屋」には、南北に「扁平な円礫2個(砂岩と珊瑚塊)」が検出されているが、それは甲上部に二つある斑点を指している(1)。「ベッド状遺構」は、母屋の床面より約50cm高くなっていて、甲2の盛り上がりを示す。「石積み楕円形遺構」は、甲下部(4)の赤い斑点がよく捉えられている。

 遺構全体をみれば、ベニワモンヤドカリの形姿イメージもつかめる。

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 5号土坑 右ハサミ
 1号土坑 左ハサミ
 4号土坑 腹部
 3号土坑 腹部2
 2号土坑 尾部

 つまり、ベニワモンヤドカリは、東側に顔を向け、西側に伸ばした腹部を曲げて東側へ尾を向けている。東から西に向けて伸びている「貝溜り」は宿貝を示している。ヤドカリ遺構は、宿貝が重視されるが、ベニワモンヤドカリの場合、宿貝はイモガイが多く、男性性が強いので、「土坑」や「住居」形態は採らずに、貝で示されているのではないだろうか。

 甲部はなぜデフォルメされているのか分からないが、個々のパーツの形状はとてもリアルにできている。「石積み石囲い竪穴住居跡」の東側にはふたつ伸びる眼柄まであるのだ。「住居跡」の壁は、「砂岩、珊瑚塊、ビーチロック」で積み上げられている。これは、ベニワモンヤドカリ・トーテムがサンゴ礁が生まれたことを暗示している。このトーテムの出現母体はサンゴ礁なのだ。このとき、母体としてのサンゴ礁が角の丸い四角形という形態の認識まで至っていれば、それがデフォルメの理由になる。言い換えれば、「胞衣」の形態である。

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2019/04/11

「宮古島と宮古馬を学ぼう&何が出来るかミーティング」(宮国優子、梅崎晴光)

 つよく心に残ったのは、何世代か前までの島人には「馬は友達」だったという宮国さんのひと言だった。

 20世紀の初頭、フランス人の宣教師モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアのカナク人について、驚きつつこう書いている(『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』 )。

 それから半世紀後、あるとき私が畑仕事をしている生徒たちの様子を見に行くと、彼らは座りこんでいて、そのかたわらで二匹の牛が鋤の上に鼻面を乗せて寝そべっていた。
「歩きたがらないので、その気になるのを待っているんです」と少年たちは説明した。
 彼らは少しも悪びれずに、自分たちの意欲と、二匹の牛、つまり人物(カモ)としての牛の意欲がうまく揃わなければ、牛に鋤をつなぐことはできないと本気で思いこんでいるのでそういったのである。
 このように、学校の生徒たちが家畜と人間との区別がなかなかつけられないということは示唆的なことである。こういう少年に物語を語らせてみると、話のなかにはカモが登場する。カモは飛び、泳ぎ、地下に姿を消したりする。しかしそのつどそれが鳥であり、魚であり、故人であるとわざわざ断ったりはしない。語り手は、さまざまのお話にしたがって主人公の人物がとる姿を追いかけていくが、その人物は目に見える相は変えてもカモとしての身分は変えない。ちょうどいろいろな衣装を取り揃えてもっている舞台の登場人物のようにに、絶えず扮装を変え、変身していくのである。

  「馬は友達」というとき、単に仲がいいというだけでは足りない。心を通じ合わせているのはその通りだとしても、それでも少し物足りない。どちらかといえば、このエピソードの少年たちのように、牛を人に連なるものとして見ているというのが近しい。だたそれは、「家畜と人間との区別がなかなかつけられない」というより「あまり区別をしない」と言ったほうがより近い。

 レーナルトは少年たちの牛への接し方から、物語のなかで変身を自在に遂げていく存在(カモ)のことにつなげていくように、牛を擬人化してみるということには、それが他の存在へと変身することもあるという視線が伏在している。「馬は友達」にも、同じことは言える。与路島では、ハチジョウダカラガイを「ウシ」と呼び、与論島では大きなタカラガイを「ウマ・シビ(貝)」と呼ぶ。沖縄島ではスイジガイを「モーモー」と呼んだりもする。似ているからだが、こういう名づけの奥には、もともと人や自然を貝の化身態として見ていたこころの動きが宿されている。

 宮古島に馬が入ってきたのは14世紀とされている。だから、動植物や自然物を「祖(ウヤ・オヤ)」としていた先史時代からは数百年が経過している。けれど、動植物や自然物をトーテムとした段階は過ぎていても、人と自然を連なるものとして見る視線は、心のどこかで生き続けてきた。トーテムの段階の終わった後に、トーテムに匹敵するような驚嘆で見つめられたのが馬や牛だったことが、これらの貝の呼称に刻まれているのだ。

 歌謡のなかでは、砂糖キビの稔りが、牛や馬の「尾」のようと表現される。ススキに似た砂糖キビの葉がゆらゆらと揺れる様に、牛や馬の尾が重ねられている。牛や馬の尾ばかりではない。牛馬の動きもそうだった。

 狭い道に追ったなら、
 数珠玉のように揺れに揺れ
 大野に出て、
 追ったなら、
 千頭万頭も追い囲こと  果報だと、
 こう唱えます。「久場川村のまーゆんがなしいの神詞<上の村>」

 数珠玉(ジュズダマ)という植物は、「稲の稔り」にも重ねられるように、ゆらゆら揺れるものを表すときに取り上げられる。牛や馬の尾ばかりではない。その行列も、ゆらゆら揺らめくものとして見つめられていた。

 島ではゆらゆら揺らめくさまに、霊力の発現を見る。そこに心を奪われるとき、島人は「綾」という美称辞を添える。ミーティングの4月7日、島では浜降りだった。浜の向こうにはサンゴ礁の海がある。沖の方で白波が立つ。宮古島では、リーフに砕けて立つ白波は「糸の綾」だ。可視と不可視をまたぐ糸の揺らめく様に、宮古の島人はことのほか想いを寄せている。馬のたてがみや尾も「糸の綾」のひとつだ。

 ミーティングから遠く離れすぎたことを書いてしまったけれど、「馬は友達」を肌身に知っている島人から、宮古馬のどこに惹かれたか、聞いてみたい想いが喚起されるひと言だったのだ。

 

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2019/04/03

『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島』(斎藤憲・樫本喜一)

 逞しいもんだね、奄美の島人は。滅多に味わうことのない誇らしさだが、そういえば「ありがとう」を表すオボコリ(御誇り)、プクラシャ(誇らしゃ)は、こういう感覚を言うのかもしれない。奄美にオボコリ。そんな言葉がやってくるこの本は、奄美大島の宇検での「石油基地」建設への反対運動と徳之島へ「核のゴミ」の受け入れを拒否した「MA-T計画」反対運動を軸に、復帰後の学校統合へ反発した「同盟休校」と、地元の産物に適った企業誘致を行うも失敗した瀬戸内の事例をもうひとつの軸にして、奄美の住民運動の推移が丹念に辿られている。

 宇検の枝手久島の「石油基地」建設計画は、1973年にことが持ち上がり、1984年に断念される。「MA-T計画」も1973年に表面化し、1984年に下北半島の六ケ所村に建設候補地が絞られたことでひと段落している。どちらも11年の歳月を要したわけだ。この間、島は分断されながらも反対を持続し、企業や政府の狙いを断念させている。「MA-T」って何だ?と思うが、これはコードネームで、「Masterplan Atomic 徳之島」、「Mitsubishi Atomic 徳之島」の略だという説があるが確実な証拠はないという。そのことに驚くが、その実態は六ケ所村を見ればわかるように、放射性廃棄物の再処理工場だ。あの六ケ所村は、強い反対がなければ見ることになったかもしれない島の姿なのだ。

 ここで安堵といっしょに嫌な気持ちもやってくる。候補地から外された直後、徳之島の伊仙町議会の議長が、「しかしむなしさが残る。なぜなら闘いが下北に移っただけだからである」と言うように。

 他方で、瀬戸内の企業誘致が、島の産物を元にしているのに失敗しているのは、大規模な工場に対して、生産地は山と海に囲まれた狭隘な集落の集合であることがミスマッチを起こしている。生産量の増加がそれほど見込めず、増加しても集荷手段が乏しい、というような。事例から学ぶのは、島の環境に高負荷をかけない企業を誘致するにしても、島の実状に即さなければうまくいかないということだ。当然のことのように思えるが、こうなる背景もある。

 それは、「石油賛成」だった島人が村長選への落選後、態度を転じて、「産業基盤が非常に遅れていた」ので工業化や自由貿易を推し進めようとしてきたが、「本土並みの所得ということにまやかされているのではないか」、「とくに遠隔地である奄美の場合、自給自足の体制をある程度とりながら、”換金行政”、商品に向かった考え方を持つようにすべきだとしみじみ考える」、という語りのなかに表れている。

 こうしたことは終わった問題ではない。進出は常に向こう側からやって来る。そこに急激な人口減少が伴えば、追い詰められて「反対」から「賛成」への態度変容も起きる。現在の人口減少は急激ではないにせよ、奄美のそれは進行中である。どのような企業をどのような形で誘致するのかが焦点であるにしても、ことが起きたときに先人たちはどのように処したのか、それを学ぶのにこれは格好の一冊だと思う。

 そして「誘致」ということで言えば、ここでは「大学」も言及されている。長期に名瀬市長の立場にあった人も、ゴルフ場の誘致には熱心でも大学にはそうでもなかった。しかし、大学があれば「群島からの人口流出は多少は押しとどめる効果もあっただろう」、と。わたしはこのところではっとした。人口の観点から大学を捉えたことはなかったからだ。というより、大学という視点自体がなかった。

 もともと大学に職を求めることを想像したことがない。生活は別の方法で立てながら、その余白で考えることは進めるしかないと当たり前のように思ってきた。だが、それは身近な大学がないので身に着けた、ある意味できわめて奄美的な態度の少数類型なのかもしれない。

しかし奄美には大学がないために、歴史研究に専念できる人は少なく、研究者のよりどころとなる機関が十分でない。

 著者のひとり斎藤がこう書くところで、うかつなことだけれど、初めて大学があることの価値に気づかされるようだった。それは斎藤のこういう指摘にも重なってくる。

 筆者は、半ば冗談だが、戦後に奄美がなしとげた最高の成果は復帰であり、最悪の失敗は鹿児島県に復帰したことではないかと思うことがある。大島県が一九五三(昭和二十八)年に成立していれば、現在の奄美には大学があり、名瀬測候所もとっくに気象台に昇格していたはずである。

 ここで、「名瀬測候所」が取り上げられているのは、しばしば気象台昇格が陳情されながら実現していないからであり、「県」であれば当然ある施設の例だからだ。それはとりもなおさず、「群島全体の産業流出と人口減少は、今よりはゆるやかであっただろう」ことにつながる。

 しかしそのこと以上に、最高の成果が復帰であり、最悪の失敗は鹿児島県復帰であるという指摘にどきりとさせられる。言われてみれば、まっとうな判断なのに、今まで島人からこの言葉を聞くことはなかったからだ。それはもちろん、奄美の北へ行けば行くほど、鹿児島との関係は日常的な人間関係に重なり、何より行政にかかわってくるから口に出せないということがのしかかっている実状がある。わたしにしても、十年前の『奄美自立論』でもそこまでは書けなかった。奄美が「県」になったとして、そこでは大きい島の小さな島への差別が露わになると考えたことと、与論の地勢的心情が沖縄に傾くために、こういう文脈で「奄美」を主語に立てることはわたしにはできないという心も働いた。そこで展開されている、鹿児島に顔を向ければ島であることによって疎外(差別)され、沖縄に顔を向ければ県が違うことによって疎外されるという「二重の疎外」が述べられている。それは、三十年近く前に個人的に辿り着いた考えが、後に奄美の人々にも共有された悩みだと気づくことがあり、そこでなら、「奄美」を主語にして書くことができると考えたためだった。

 本書では、補足的に、「与論空港建設反対運動」や喜山康三が主導した与論島の「与論島百合が浜港建設反対運動」も取り上げられている。これまたうかつなことだが、こうした住民運動の共通性を通じて、「奄美」への連帯を感じることともなった。そして、本書を通じて、自分の何気ない判断や行動が「奄美」的であるのに気づかされたという場に立てば、斎藤の言を、自分に引き寄せて考えることができる。

 斎藤は、「はじめに」でも書いている。

 つまり奄美は、かつての薩摩の圧政を記憶したまま、薩摩がその成立に大きく関与した近代日本を祖国と規定して、「祖国日本」への復帰を求めたのである。これは実に複雑な事態である。そして、この事態の本当の複雑さは、復帰関係の資料や語りに、この事態を問題や矛盾として指摘するものがほとんど見当たらないことである。

 一方では求め、他方では拒絶するという二つの態度を、斎藤は、stateとしての日本を求め、nationとしての日本(ヤマト)には属することはしないと整理している。「二重の疎外」論から言えば、近代理念の「自由、平等、博愛」のうち、「博愛」は実感にそぐわないので「相互扶助」と言い換えれば、それはもともと島にあるので省くと、「stateとしての日本」とは、「二重の疎外」からの脱出として、「自由、平等」を求めたということになる。

 それでも、「現在、警察官や教員の鹿児島弁を聞くたびに複雑な気分になり、奄美が独立した一県でないことを嘆く人々も、鹿児島復帰を当然のこととしてとらえていて、それを復帰運動の失策とは見ていない」という疑問に答えるには不十分だ。あっさりは答えられないし、また答えてもいけない気がするが、少なくともここには島人の心性が横たわっている。

 約3000年前、九州北部を起点に本土は弥生化していったが、奄美や沖縄が本土の言葉でいえば縄文期を終えたのは約1000年前だ。この2000年の懸隔は、仏教や文字や鉄器といった文物の時間差という以上に、大きな意味を持っている。琉球弧ではっきり分かるのは、縄文相当期とそれ以降では心の構造に断絶のようなものがある。グスク時代以降には、一神教の神ではないにしても、人間とは非対称的な神が存在しているが、縄文相当期、神はカミと書くのがよいような人とそう隔たっていない精霊的な存在だ。そこでは、「あの世」は死者の行くところだけではなく、それ以上に生命の源泉と捉えられている。生命は「あの世」からやってくる。いわば、向こう側からやってくる。奄美でも沖縄でも、復帰運動は「親子」関係で語られることが多かったが、復帰元は「親」という以上に「祖」なのだ。この心性は、自分を主体に立てようとしない。それが向こう側からやってくるものの自明視になり、そこに選択という思考が働かない。沖縄では復帰運動のさなかから、主体化の動きが始まったが、奄美の場合、それが顕在化するのが、ここで取り上げられている復帰後の住民運動なのではないだろうか。それでも、わたしはしばしば思うのだが、奄美も沖縄も、自分のことを含めて、心底には近代に直面していないのではないだろうか。書名の「日本を求め、ヤマトに抗う」というのは、近代以前どころか縄文相当期の古層のこころを持ったまま、自由・平等を求めると言い換えてもいい。

 本書では取り上げられていないが、同じ住民運動の系譜に「アマミノクロウサギ訴訟」がある。ゴルフ場建設の反対をめぐって、こともあろうに、島人はアマミノクロウサギ等の動物を原告主体に立てた。わたしは、この島人の仕草には自分に大いに連なるものを感じる。『奄美自立論』以降は、斎藤が投げかける疑問の根にもかかわる島人のこころを言葉にしたくて、古層の探究へと向かうことになった。その途中は、『珊瑚礁の思考』としてひと段落つけたが、それで終わらない。古層のこころは想像以上に深くかつ魅力的だ。特定の動植物や自然物が生命の源泉(トーテム)である世界は、夢見がちな島人をよく照らすもので、「アマミノクロウサギ訴訟」にもそれが露出している。

 わたしは目下、神話や伝承だけではなく貝塚や遺跡を報告書を通じて、この世界にどっぷり浸っている。そうしていると、既存の人類学や民俗学の文脈からの剥離感がやってくる。それは脱皮のように心地いいのだが、ここからどのように言葉を紡げばいいのか戸惑いものあるので、本書が読後感を書かずにいられない気持ちを喚起するのがよいリハビリになる気がしてくる。別の言い方をすれば、こうした島人の心性があらかじめよく分かっていれば、本書の取り組みは『奄美自立論』以降に、取り組んだかもしれないテーマとして共感を覚えるのだ。

 そしてこうした労作が出るたびに、これは本来島人がしなければいけないことではないかという情けなさも過ぎるが、けれども指摘されないと分からないことがあるのも確かだ。斎藤は、奄美の住民運動にある意味で魅了されるが、このことが忘却の淵に沈みつつあるのに気づく。

 これが忘れられてよいはずがない、起こったことを調査し、将来へ記憶をつながなくてはならない。筆者は頼まれたわけでもない使命感を感じてしまった。

 この「頼まれたわけでもない」ところから生まれた本書は、島人への大きなギフトだ。「奄美」というマイナーなテーマを地域研究や戦後史の専門家ではない人が取り上げる労力を思えばいい(著者のひとりの斎藤は「古代ギリシャ数学史」の専門家だ)。住民運動の記事を追い、資料を読み、関係者への取材を経るという丁寧な取り組みがなければ(樫本が担当している「MA-T計画」は原子力にまつわる国家の動きを追わなければ把握できない問題でもある)、復帰後の住民運動は、事実としては忘却され、島では名物の人を軸に語られる伝承と化していくだろうことは容易に想像できる。それはそれで島らしくて面白いのだが、ことはまだまだ続くことを思えば、そして奄美でも文字化することでしか共有できなくなっていることも多いことを踏まえれば、頼みにできるものをプレゼントされたのだ。

 斎藤と樫本の取材は、手柄取りのための過去暴きになっていない。過去を隠蔽することをしていないが、記述のそばに島人への気遣いがある。それは特筆されてよいことだと島人として思う。

 

『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島―復帰後奄美の住民運動―』

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