2017/04/25

「女性の霊性に関する考察 女神たちのイメージから」(藤澤佳澄.)

 著者のモチーフからは離れてしまうのだが、地母神のイメ―ジを掴んでおきたい。

 「大母神」「地母神」は旧石器時代から始まっている。狩猟・採集中心の社会では、その後継者として「動物の女主人」「山の(女)神」が崇拝される。

 たとえば、アルテミスは「野生の獣を中心としてあらゆる生命の死と誕生、成長を司る、古い地母神の性格を持つ女神であった」。

 アルテミスは人間の住む都市にはやってこない。「人間の方が女神に会うために自然の中に出かけていく」。その神話的表現は「産婆」。

 へステアは「炉もしくは竈の女神」であり、「永遠の処女神」と目されていた。

 藤澤は書いている。

 地母神が司るのが「死と再生」という変容の過程であるとするなら、処女神が司るのは「異界に繋ぐ」という「状態の魔力」ではないか。このように、考えると、処女神の霊性というものについて一つの仮説を成立させられる。異界に道を開くことで非現実的な力を現実において身につけさせてくれる、それが処女神の霊性であるという仮説である。

 この場合、「異界に繋ぐ」というのは、共同幻想と対の関係にある位相と捉えればいいのだと思う。

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2017/04/24

『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク)

 以前、ビートルズの魅力をレノン-マッカートニーという創作クレジットに求めたことがある。ビートルズの魅力の核心は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーというふたりの稀有な才を持ち合わせた個人にあるのではない。ふたりとも音楽の才に恵まれていたにはちがいないが、もしふたりが出会わなければ、それぞれの輝きは半減していただろう。ふたりの個人というわけではない、彼らの曲をあれだけのものにしたのは、レノン-マッカートニーという創作クレジットがもたらす場の力にあるのではないかと、そう考えた。

 それはとても不思議なことだ。だってそれは、ふたりが今後どちらが曲をつくっても作詞作曲「レノン-マッカートニー」とクレジットしようという合意に過ぎないのだから。たったそれだけの取り決めなのだ。しかし、そこには不思議としかいいようのない場の力が働く。実際、レノン-マッカートニー・ナンバーでのふたりの融合の度合いに分ければ、harmony型, collaborate型, help型, spice型, advice型とでもいうような五つの類型が見い出せる。(参照:『ビートルズ:二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』

 協力の仕方には、ふたりの色合いが溶け込んで、もはや一方のみの要素を取り出すことができないharmony型から、あきらかに一方が作っていて、他方はadviceを加えたに過ぎないものまで幅は広い。にもかかわらず、ここにはレノン-マッカートニーというクレジットの力はどれにも生き生きと作用しているのだ。ある意味でそれをもっとも示すのは、cover型と言うのも変だけど、誰かが作った曲をカバーしたものを見るのがいい。カバーしたものにすら、レノン-マッカートニーという場の力はありありとしている。それはアレンジのどこかにレノン-マッカートニーの作用が働いているからだし、カバーにしても二人の声のハーモニーはどこかで入っている。たったそれだけでも、カバー曲というより、レノン-マッカートニー・ナンバーとして聴く者の耳に響いてくる。

 そして、次々に新しい曲を生み出していく推進力になったのは、曲づくりの応答にある。たとえば、ポールが「私を愛して(love me do)」といえば、ジョンは、「俺を喜ばせろ(please please me)」と応えるわけだ。それはまるで、相聞歌だ。そしていちどそう聴いてしまうと、彼らの曲はそのようにしか聴こえなくなる。この応答こそが、タフなスケジュールと環境のなかでも、絶えることなく曲を産み出す力になっていった。

 ところで、12年前はこうしたレノン-マッカートニーという創作クレジットを滅多に起きることのないものとして捉えていたが、そうではないという手応えがやってくるのが、この本『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』だ。偉大な業績は「孤高の天才」がもたらすと思われているが、それは神話にすぎない。それは、「クリエイティブ・ペア(創造的な2人組)」が行うものだ。とまで言い切ろうとする勢いでこの本は書かれている。

 そこには何があるのか。著者は、魅力的なフレーズをいくつも書き出している。

真のクリエイティブ・ペアは、2人そろえば、どちらか1人で創造できることを超えて文化に貢献する。

クリエイティブな人間関係には典型的なストーリーがあることがわかった。創造的な関係には1本の弧を描き、2人が進む道を照らすテーマがある。

私たちは人生を変える人に出会うときがある。この瞬間から人生が変わるのではないかという可能性を感じる。地球上にいながら、自分たちだけが新しい軌道に飛び込むような感覚だ。

多くのペアは、自分たちにしかわからない「私的言語を持っている。(中略)2人だけに通じる言葉は、絶え間ないやり取りから有機的に生まれる。

偉大なペアは大きく違う2人であり、かなり似ている2人でもある。

ペアを組む2人が似ていることは(中略)、共通の関心と感覚が、未来のパートナーとの出会いを演出するからだ。

将来のペアの1人が磁石になり、もう1人を引き寄せるときもある。

クリエイティブ・ペアになる2人は、不思議なくらい似ていることが多い。そのような相手に出会うと、類似点が心に強く刻まれる。

果てしのない会話が続くことも、最初の出会いを象徴する。

クリエイティブ・ペアに発展する2人は、自ら創造に挑む。

 クリエイティブ・ペアの特徴には、「創造的な習慣の基礎」があって、著者はそれを「儀式」と呼んでいる。決まった時間に会う、決まった場所でつくるなどだ。そうして距離が縮まると、二人は自分たち以外の世界から切り離される。そして、レノン-マッカートニーのような2人(だけ)の約束が生まれる。

 こうした「ペアの創造的な活動と深い愛情は、区別できない場合も多い」。「創造的なペアは、創造的な活動を追求する」。著者が引用しているキュリー夫妻の言葉もいい。「私たちは夢を見ているように完全に没頭している」。

 レノン-マッカートニーについての言及も多い。というか、終始、主要な参照先になっている。著者によれば、ポールは、「ジョンが自分に差し出した挑戦的で大胆な素材を、ときにはさりげなく、ときには凝った技法で、ポピュラー音楽の言葉に乗せた」。一方、「退屈になりそうな歌をジョンが複雑な趣で生き返らせると、ポールには手も足も出なかった」。そして、ジョンとポールがそうであったように、ペアの関係は「役割の交代を通じて発展するときもある」。

 さらに「創造的な前進と同じくらい重要なのが感情のマネジメント」だ。あるアーティストと作家の組み合せでは、「どちらか一方の感情が悪化すると、もう1人の決断力が強まる」。意思しているわけではない。2人同時に落ち込まないように意識しているわけではない。単にできないのだ。

 著者のジョシュア・ウルフ・シェンクは、クリエイティブ・ペアの道程を六つのステージで捉えている。

 1.邂逅
 2.融合
 3.弁証
 4.距離
 5.絶頂
 6.中断

 興味深かったのは、6番目が終焉ではないことだ。著者は書いている。「ジョンとポールが明確に決別した時期を特定できない理由は、明確な決別がなかったからだ」。「クリエイティブなパートナーシップの場合、2人の関係から抜け出す決定的な方法がないからだ」。幕切れはある。しかし火花は消えていない。「たいていは周囲の状況に決定的な変化が起こり、バランスが失われるだけだ」。

 ただ、ジョンとポールの成り行きを追ったことのあるぼくには、著者の掘り下げに追加したくなることもある。ビートルズは少年の友情の物語のようなものだから、成熟した異性愛の場を持つようになれば、恋愛の準備としての友情は終わる。そうした成長の物語として見ることができる。しかし、よく考えてみると、恋愛したからといって、友情を終わらせる必要はないわけだ。

 それならなぜ、レノン-マッカートニーというクレジットは終わらざるを得なかったのか。それはやはりジョンが、ポールとのパートナーシップよりもオノ・ヨーコとのパートナーシップを選んだということだ。それはポールの立場からすれば残酷ですらあった。けれど、恋愛はしても友情は終わらなくていいということからすれば、やはりジョンとポールの友情にも終わりはなかった。だから、レノン-マッカートニーは終焉がなかったというだけではなく、再開へと開かれていたといっていい。

 それでもそれはなかった。その可能性は点滅しながらも、火花を散らすことがなかったのは、レノン-マッカートニーがどれだけ偉大だったとしても、ビートルズはジョージ・ハリスンとリンゴ・スターを加えて四人で成立するものだったからではないだろうか。ビートルズは、レノン-マッカートニーというクリエイティブ・ペアを軸にした共同体だったからだ。レノン-マッカートニーは、二人揃えば成り立つが、ビートルズは四人いなければならない。そこにはさらに複雑な要因がからむことになる。それに、いつも夢見がちに前を向いていたジョンは、そうそうに死者と化してしまった。

 また、著者が提示する六つのステージは、「邂逅」「融合」などの状況の他に、「弁証」や「時間」などの方法にかかわるものが混ざっていて混乱しないでもない。そこで、別のものを対置したくなる。

 1.火花
 2.融合
 3.方法化
 4.継続
 5.受容

 説明は要らないだろう。5の「受容」については、「中断」にせよ再スタートにせよ、それまでとは異なるものを受容することを指している。生き証人であるポール・マッカートニーの足跡をみれば、彼のなかでレノン-マッカートニーは終わっていないが、そこでは、ビートルズの解散、つぎにジョンの死という深刻な受容を経なければならなかった。そしてここ数年のことで言えば、これまであくまでパートナーとして向こう側に置いてきたジョンについて、「ジョンになる」という受容をし始めているというのがぼくの見立てだ。

 12年前、ただただ仰ぎ見るように羨ましく憧れたレノン-マッカートニー・クレジットは、この本を通じて、誰にでも開かれた、起こり得る関係として見えてくる。そしてもし自分にそのチャンスが訪れたなら、それにはきっと乗らずにはいられない。
 

『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』

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2017/04/23

『言霊と他界』(川村湊)

 川村湊の『言霊と他界』をガイドに「言霊」をめぐる議論を一瞥する。

 「言霊信仰」はふつう、このように捉えられている。

 言霊の信仰とは、我々が発する言語には精霊があって、その霊の力によってその表現の如くに事が実現すると信ずることである。「雨降る」といへば、これを言ふことによって「雨降る」といふ事実が実現すると考へる。不吉な言を発すれば、そこに不吉な事が現はれるのである。(時枝誠記『国語学史』)

 しかし考え方はそれぞれのようで、平田篤胤に源流を持つ「音義言霊派」もあれば、「言語によって表現されない思いの部分こそが、言霊によって語らずして通じなければならない」という富士谷御杖の考えもある。

 音議論でいえば、「是人の声の霊なり、夫人は各七十五声毎に義理備る。其義を号けて言霊といふ」(中村孝一道)のが、「模範回答」と紹介されている。

 折口信夫は、言語に付着する「たましい」こそ「ことだま(言霊)」に他ならないと考えた。しかし単語ではない。

どんな語の断片にも言語精霊が潜んでいたのではない。完全な言語の一続きでなければならなかった。その外には嘗て一続きの形であった言語の断片化して残ったもの、即ちいまは断片化してゐるが本来の意味をその使用法によつて感ずることのできる詞、これ以外には、言霊が内在すると見たとはいへぬ。それは咒文に潜んでいる霊魂で、単語にあるものではなかったのである。(『国史大辞典』)

 ぼくたちがサンゴ礁の神話的世界で目撃しているのは、メタモルフォースする動植物は、その呼称もメタモルフォ―スしているということだ。しかも、一音いちおん変態している。それは、折口説よりは音義説に近く、単語そのものに精霊が宿る。あるいは、単語そのものを精霊と見なしていたことを意味するのではないだろうか。

 ところで川村湊は、渡来した「文字」が聖なるものとして優位であった状況下で「言霊信仰」は生まれたと見なしている。それが「言霊」を考えるうえで「手離すことのできない条件である」、と。しかし、サンゴ礁の神話世界は、そうではないことを示している。
 

『言霊と他界』

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2017/04/22

サンゴ礁の神話モデル

 貝と胞衣について、ぼくたちには何に感銘を受けていると言えばいいだろう。

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 島人が、サンゴ礁を「貝」と見なしたとき、シャコ貝と同じものをそこに見たはずだ。しかし、「サンゴ礁は貝」と言えば、ぼくたちにはそれはメタファーに聞こえる。また、礁池は胞衣、しかも動植物がメタモルフォースを行う不思議な胞衣空間と見なした。それもぼくたちにはメタファーに聞こえる。

 こうしたメタファーに見える関係を、島人はメタモルフォースによって神話的な世界をつくっている。それが感銘の由来のひとつの理由になる。

 もうひとつ感銘を受けることがあるとすれば、このサンゴ礁の思考は、ひょっとしたら、現在の科学的思考が捉えるサンゴ礁理解よりも深いのではないかと思わせることもあるだろう。

 さらに言えば、このサンゴ礁空間は、ひとつの自然モデルとして、他の、たとえば都市空間などの構想に生かせるのではないかと思えること。それも、感銘をもたらす一端になっている。

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2017/04/21

メタモルフォースした言葉の相互関係

 貝(gira)のメタモルフォースから生み出された言葉相互の関係を見てみる。

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 貝(gira)に対して、太陽(tida)、胞衣(iya)、ジュゴン(zan)は隠喩的関係にある。また、貝(gira)に対して、岩場(pida)、干瀬(pisi)、そして、砂州(yuna)、礁池(ino:)から澪(nu:)にかけては、貝の部分をなすので換喩的関係だと言える。

 同じように、胞衣空間(yuna)も貝(gira)の一部であり、貝(gira)に対して換喩的関係にある。

 名前は、同じ言葉をメタモルフォースさせながら、相互の関係は、隠喩的にと換喩的にと無意識に分けて考えられたのだと思える。


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2017/04/20

メタモルフォースを軸にした生命の循環

 メタモルフォースを軸にした生命の循環の図を更新しておく。

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 いくらか落ち着きがよくなっただろうか。生命は「あの世」からもたらされ、「あの世」へ返っていく。

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2017/04/19

「自然の構築」(フィリップ・デスコラ)

 咀嚼しきれないのだが、なんとなくヨーロッパ人は大変だなと思う。デスコラは相対主義は採りたくない。「自らの自然の定義を他のすべての文化をはかる暗黙の物差しとする唯一の文化であるという特権的な立場から逃れる道は絶たれる」からだ。

 デスコラは、「非人間の社会的な客体化を組織する精神モデルを、文化を跨いで存在する有限の組み合わせとして扱うことができる」と信じる。

 デスコラにそれはどのように捉えられているのか。

 自他を区別する様式には、「トーテミズム的なシステム」と「アニミズム的なシステム」がある。

トーテミズム的な分類が、自然種の間にある経験的に観察可能な非連続性を用いて、社会的単位の境界を定める分類秩序を概念的に組織するのに対して、アニミズムは自然の存在物に人間的な性向と社会的な属性を授ける。アニミズム的なシステムはそのためトーテミズム的な分類の対称的な反転なのである。

 だから、非人間は、「トーテミズム的なシステム」では「記号」として扱われ、「アニミズム的なシステム」では「関係の項」として扱われる。

 アニミズムでは、「ナチュラリズムが隠喩的にしかつくりだせないような人間と非人間の連続性を、儀礼によって生みだされる象徴的なメタモルフォーゼにおいて概念化する」。

 これをサンゴ礁の思考に引き寄せて言い直してみると、人間と非人間の連続性は、儀礼だけではなく習慣的な行動のなかで思考されるメタモルフォーゼにおいて身体化される。それは、現代人には隠喩的にしかつくれないものである。

 関係の様式には、「互酬性」、「捕食」、「保護」がある。

 互酬性において、

内的な交換は、エネルギーの一部が非人間に返礼されるように組織されなければならない。他にも様々な方法があるが、「動物たちの主」への人間の魂の返還と、その帰結として起こる被狩猟動物への転身によって、エネルギーのフィードバックは確実に行われるものになっている。人間と非人間は一方が他方の代わりとなるものであり、両者は共に、互酬的交換によって、宇宙の一般的均衡に貢献している。

 これはサンゴ礁の思考にも見られる。人間は貝を食べるけれど、死では人間は貝に食べられる。そう言ってもいい。
 
 捕食では、人間は栽培植物と血族的な、森の動物たちとは姻族的な紐帯でつながっている。しかし非人間は、人間との交換のネットワークに入っておらず、非人間は、植物の場合、女性や子供の血を吸うことで、被狩猟動物は、過剰な狩猟者たちを蛇が咬むことを、「動物たちの主」に委託することで報復しようとする。

 この互酬的な捕食は、人間同士の関係も統制する。ここで挙げられているのは、首狩りと不断の争いだ。ぼくはこのところは、霊力思考に霊魂思考が混融したときに起きる一態様として理解してきた。

 保護は相互に利益をもたらすだけでなく、しばしば非対称的な関係の反復によって異なる存在論的なレベルを繋ぐ、増幅する依存の連鎖である。
カミは、時にローカルな経済で特に重要な動植物の化身となり、人間が利用し保護する非人間の究極的提供者として-時には直接の生みの親として-捉えられているだけではなく、人間の始祖や守護者として捉えられている。

 つづいてカテゴリーの様式。

 動植物の民俗分類は、多くの場合に類似性の原理、つまり隠喩的な図式に従って組織されるが、命名の意味論的な側面では、亜属の分類群のレベルでは、名づけを決定するのはしばしば換喩的な図式だ。

 これもサンゴ礁の思考に引き寄せてみると、サンゴ礁と胞衣の命名は隠喩的だが、サンゴ礁内の自然物の命名は換喩的だ。ただ、どちらもメタモルフォーゼを基底において、同じものの別の形という同一性を保持している。

 トーテムである非人間との関係は、互酬でも捕食でもない。

トーテム種は社会の分節の単なるシニフィエである以上、人間との互酬的な関係に参入することができないからである。

 しかし、オーストラリア外では、「純粋なトーテミズムのシステムは例外的」であり、アニミズム的なシステムと組み合わさっていて、それによって互酬的な関係を表すことが可能になっている。

 この文脈に添えば、琉球弧も「トーテミズム的なシステム」と「アニミズム的なシステム」の組み合わせだと言える。

 こうした理解が人類学に一般的なら、サンゴ礁の思考は、「トーテム」という言葉を使いこそすれ、「トーテミズム」とは言えないことになる。しかし、トーテミズムを「記号」として扱うのは、「人間の性向や行動の原因が植物や動物に由来する」という「人類学の最も古い難題」を、難題にし続けるのに寄与してしまうのではないだろうか。

 むしろ、オーストラリアのトーテミズムを、トーテミズムのアニミズムとの組み合せによる一態様として位置づけるのがいいのではないだろうか。これは、レヴィ・ストロースの後遺症のようにも見える。

 デスコラは「多次元的人類学」の地平を念頭に置いている。

そこでは、石斧やクォーク、栽培植物やゲノムマップ、狩猟儀礼や石油産業を、人間だけでなく非人間をも含みこむ諸関係の単一セット内の多様なヴァリエーションとして理解することが可能になるだろう。

 ここは共感すると言っていいのかもしれない。ぼくに見えているのは、それを可能にするのは、比喩の力であり、その基底にはメタモルフォーゼがあるということになる。そこまでの射程を持つかは分からないけれど。デスコラの「自然の構築」に対置させれば、「自然の編集」になるだろうか。 
 


『現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集=人類学の時代』

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2017/04/18

二重のメタファー

 「サンゴ礁の夢の時間」でもっとも根本的な認識は、下図で表せる。

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 この「貝」はサンゴ礁のことだ。サンゴ礁を比喩的に「貝」と見なしたのではない。それは文字通り、島人の捉えた巨大な「貝」なのだ。そしてサンゴ礁としての「貝」が内側に抱えるイノー(礁池)は、「胞衣」だった。

 しかもその「胞衣」は、いまのぼくたちが思う羊水や胎盤のこと、そのままではない。無から有がメタモルフォースを繰り返して現出する不思議な「胞衣空間」とでも言うべきものだ。この「胞衣空間」では、無から有のベクトルではなくて、元の精霊へ戻るベクトルも存在している。

 しかも、言語から見る限り、「胞衣空間(yuna)」は、「貝(gira)」のメタモルフォース形なのだ。

 「貝は胞衣」、こういうとぼくたちには、メタファーに見える。しかも、ぼくたちの眼には「サンゴ礁は貝」と言ってるように見えるから、これもメタファーに見える。「サンゴ礁は貝」、「礁池は胞衣」、そしてそのうえに島人の認識を重ねれば、「貝は胞衣」なのである。

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 だから、島人の認識は、ぼくたちには二重のメタファーとなって響いてくる。

 とても不思議だ。

 これは、なんというか、現在に生かせる世界のつなぎ方に示唆を与えていないだろうか。ぼくたちがここで受ける感銘に似た心の動きは何ごとかを語っているのではないだろうか。

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2017/04/17

メタモルフォースは言語精霊の不思議な業

 動植物のメタモルフォースについて、ぼくたちは何を見ていることになるのだろうか。いまそれを敢えて数式に表現すれば、こうなる。

 1.A→B
 2.f(A)→f(B), f(A)=a1a2・・・an(anは一音)
 3.a1→b1, a2→b2,・・・,an→bn

 A,B:動植物・自然物
 →:メタモルフォース
 f(A)=a1a2・・・an :Aの名称

 典型例をあげれば、バカギサ(キシノウエトカゲ)からカタカス(オジサン)へのメタモルフォース(変態)である。

 動植物のメタモルフォースを追うと、その呼称のメタモルフォースに行き当たる。そして、呼称のメタモルフォースは、それを構成する言語のメタモルフォースが支えている。やはり、言語もメタモルフォースするのだ。

 これは言うところの「言霊」のことではないだろうか。折口信夫は書いている。

所謂「言霊の幸サキハふ国」とは、言語の精霊が不思議な作用を表す、と言ふ事です。つまり、言葉の持つて居る意義通りの結果が、そこへ現れて来ると言ふ事が、言霊の幸ふと言ふ事です。つまり、さう言ふ事を考へて来るのは、やはり根本に、言葉の物を考へさせる力を考へ、更にそれからまう一歩、その言語の精霊の働きと言ふものを、考へて来たのです。つまり、我々の周囲にある物が、皆魂を持つてゐるやうに、我々の手に掴む事が出来ない、目に見る事も出来ないけれど、而も自己の口を働かしてゐる言葉に、精霊が潜んでゐるのだ、と言ふ風に考へた訣です。(『国語と民俗学』)

 ここでいう言語精霊のことだ。ぼくたちが目撃しているのは、「魂」というより「霊力」なのだが。

この、言霊の幸ふと言ふやうな事を言ひ出した時代は、日本の国でもさう古い時代とは思はれません。それに似た信仰は、古くからあつたに違ひないのですけれども、言霊の幸ふと言ふ言葉は、言葉の形から見れば新しい形です。少くとも、万葉集などゝ言ふ書物に書かれてゐる歌が、世間で歌はれて居た時代です。だから少くとも、奈良朝を溯る事そんなに古い時代に、起つた言葉だとは思はれません。けれども、それと同時に、言霊が不思議な働きをすると言ふ信仰は、それではそれ以前はなかつたかと言ふと、全然なかつたとは言ひ切る事は出来ません。

 ここが、ぼくたちの引き取る個所だろう。「奈良朝」以前の言語精霊の祖型。その作用は、言語自体のメタモルフォースに見ることができるのではないだろうか。

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2017/04/16

宮古島漲水御嶽伝承(真下厚)

 真下厚は、「神婚神話伝承の形成」のなかで、1970年代に漲水御嶽伝承について昔話調査を行い、27話を採録している。

 真下によればそれは、「娘が出産し子を連れて蛇と再会する、出産再開型とでも呼ぶべき型と、子を流産させる、流産型とでも呼ぶべき型」に分類している。

 そして、『宮古史伝』の伝承を従来のものと比較したうえで、「浜下り出産のモチーフの入り込んだ漲水御嶽伝承は『御嶽由来記』などに拠ったのではなく、当時の口承資料に拠ったものと思われる」としている。また、「浜下り由来となるいわゆる流産型の宮古島への伝搬は新し」いとしている。

 その流産型においても、おりた蛇の子が「神々、あるいはその使い」となることに真下は、「浜下り由来の話が沖縄本島から伝搬してきたとき、その蛇の子を神として崇めずにはいられなかった宮古島の人々の神への崇高の高さを示していると思われる」、と書いている。

 一方、大城御嶽の由来伝承では、女神は若い男とみあいする夢をみて懐妊し、男女二児を生む。父が分からないので、初めて行き会う者を父と定めようと、子供を抱いていくと、山の前の大岩に大蛇が這いかかっている。子供をみると、首をあげ尾をふってよろこび躍るような風情にみえたので、これを父となした。これより狩俣邑はじまり子孫栄える。

 真下は、ここには苧環型のモチーフもみられず、古型に当たるだろうとしている。

ところが漲水御嶽が平良という一大政治勢力の拠点で文化的に開かれた地にあったため、伝搬してきた「蛇聟入〈苧環型〉」の話型によって大きく変容し、新たなる伝承として定着し、さらには近代にいたって村芝居という新し刺激を受けて成長・展開をとげたと考えられるのである。

 真下が採録した27話のうち世間話として除外された1例を除く26話の分布を整理してみると、

 出産再会型 4
 流産型 22
 ・浜下りの由来 15
 ・おりた蛇の子が近在の御嶽の神となる 3
 ・片目の蛇を語る 4

 となっている。つまり、42%は神が蛇由来のものであることを語っている。とくに、「流産型」であっても、蛇との縁を切っていないのは、22話中7話(32%)になる。 

 これを真下は、「その蛇の子を神として崇めずにはいられなかった宮古島の人々の神への崇高の高さ」と書く。そうには違いないが、もっとも重要なのは、神が蛇由来のものであることを消さなかった点にある。そこに心動かされる。 
 

『声の神話―奄美・沖縄の島じまから』

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2017/04/15

「宮古島の二つの壺」(居駒永幸)

 居駒永幸は、ふたつの「壺」に着目している(「海の宮」12号)。ひとつはティダガガマ(太陽の洞窟)の「壺」であり、もうひとつはンナフカ祭の「壺」である。

 前者の万古山の祭祀は、西側の「ヤマトドマイ(泊浜)」と北東のクーラ浜で潔斎してから行ったということが書き留められている。洞窟の前に、その本源であるサンゴ礁とのつながりを保ったということだ。

 ンナフカ祭の「壺」は「瓶」のことで、イーヌカミ(エイの瓶)と呼ばれている。この壺は、神女が躍る際、「ユーザスが白いカンパニ(神衣)の懐にイーヌカミを隠し持ち、ツカサたちと一緒にユークイをうたい踊る」。この場面が印象的だ。

 居駒は、「一つは天界から太陽神が与えたユーと生命の壺。もう一つは海の彼方の竜宮からもたらされた豊穣・富貴自在の壺」と整理している。

 ぼくたちはここに、「壺」の原型がサンゴ礁としての貝であるのを付け加えることができる。ティダガガマの壺も、ンナフカ祭のイーヌカミも、もとはこの大きな「貝」に発祥していた。

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2017/04/14

二様のメタモルフォーゼ

 いま、ぼくたちは二様のメタモルフォーゼを考えていることになる。(参照:「「カーラヌ バタサヌ アブダーマ ユングトゥ」(西表島)」「キシノウエトカゲとジュゴン」

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 1のメタモルフォーゼは、形態や色合いや動作の類似から考えられたもの。その思考に添って、「カタカス」という言葉も、「バカギサ」から生まれた。

 2のメタモルフォーゼは、「ザン」が「バカギサ」の言葉の変態でありうるという言語の類似(一致)から考えられた。「ザン」は、「バカギサ」という言葉から生まれたわけではないが、できていた言葉は、バカギサからも辿れることから、メタモルフォーゼが思考された。

 2もありえたと考えられるためには、やはり動植物の変態と言葉の変態とが、等価と見なされる必要がある。言葉は霊力の表現の大事なひとつに他ならなかった。

 ぼくは少し胸躍るのを抑えられない。動植物間のメタモルフォーゼについて、伝承や古謡に依るしかないことに心もとなさを覚えていた。しかし、言葉も変態するのであれば、呼称から動植物のメタモルフォーゼにアクセスできる可能性を手にすることができるのだ。もちろん、形態や生態の類似を大事にして。

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2017/04/13

キシノウエトカゲとジュゴン

 キシノウエトカゲは、宮古では、バカギサ、パリィズィと呼ばれ、八重山ではバギラと呼ばれる(「琉球新報」)。新城島ではヤマフダチミ、西表島祖内ではボーナチだ。(「西表島・鳩間島及び新城島における 動植物の方言名について」「西表島総合調査報告書」2001)

 バカギサとバギラはともかく、これらは全部、異なる言葉に見える。しかし、琉球語の音韻グラフをみれば、どれも同じなのだ。こういう場合、どれがもとになった言葉を探るには、意味が分かるものを頼りにする方法がひとつある。

 宮古では、バカギサ系が「若い父親」の意味もあると聞き取りされているのが例になる(「ハイヌ(畑の)グルクン」久貝勝盛)。興味深いことに、フダチミは、ヤモリだけでなく、キシノウエトカゲにもその名がついている。フダチミはぼくの考えでは、「まあいを詰めるもの」の意味だ。キシノウエトカゲは、「若い父親」であるとともに「まあいを詰める者」なのだ。

 これだけ音韻がばらけるのに、どれもひとつの言葉から発していると言えるのは、変わりうる音韻の幅が広いことに依っている。音韻グラフをもとにすれば、たとえばア行音は、ハ、ワ、ラ、タ、ナ行音と6行の可能性を持てることになる。この融通無碍な自在さが、音韻グラフが本当は何の意味も持たないと考えさせる点でもある。

 しかし一方、意味があるとしたら、琉球語が島(シマ)によってまったく違って聞こえる一因にもなっている。

 ここに立ち止まるのは、キシノウエトカゲがジュゴンに化身するという詞に出会ったからだ(参照:「「カーラヌ バタサヌ アブダーマ ユングトゥ」(西表島)」)。そしてここでも音韻からいえば、「ボナチェーマ」は「ザノ」になれてしまうのである。

 音韻グラフが教える重要なことは、動植物が別の動植物にメタモルフォーゼするとき、言葉が伴っていたことだった。変態する動植物を言い表すとき、言葉そのものを変態させることで対応させていた。ここでは、動植物のメタモルフォ―ゼと言葉のメタモルフォーゼは同じ意味を持っている。それだけではない、ラがダに変わるように、音そのものにもメタモルフォーゼが考えられているのだ。

 それは何を物語っているだろう。仮に、キシノウエトカゲの元の音をバカギサに置いてみる。するとそれは、「まあいを詰めるもの」である「フダチミ」になりうる。「ザノ」にもなりうる。「ザン」についていえば、ジュゴンのもともとの言葉は、「ユナヌイュ(サンゴ礁の魚)」を起点に置くのが根本的だと思える。にもかかわらず、「バカギサ」のメタモルフォーゼによっても「ザノ」にたどり着ける。こういう場合、言葉の一致によっても、メタモルフォーゼが考えられたということではないだろうか。

 ユナヌイュ→ザン

 というメタモルフォーゼが先にあり、バカギサ→ザノというメタモルフォーゼに後で気づく。そこで、バカギサはザノになりうるという思考が生まれる。

 ユナヌイュ→ザン←バカギサ

 という流れだ。


 

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2017/04/12

トーテムの系譜と島人の思考 2

 蟹トーテムに対する認識を加えて、「トーテムの系譜と島人の思考」を更新しておく。

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 これが伝承や考古学的事実と符合するか、確かめていこう。動植物たちの謎かけ。


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2017/04/11

「カーラヌ バタサヌ アブダーマ ユングトゥ」(西表島)

 これは、『八重山古謡』で見知っている詞とは異なっている箇所があって、とても関心をそそられる。

 井戸 端にいる 蛙に 羽が生えて 飛ぶまでも
 屋戸の 桟にいる ヤモリが 大海に下って フカになるまでも
 森森の セマルハコガメが 大海に下って ウミガメになるまでも
 ヒルギの 下にいる ヒルギ貝が 珊瑚礁に下りて シャコガイになるまでも
 家の まわりにいる キシノウエトカゲが 大海に下って ジュゴンになるまでも
 石垣の 隙間にいる カタツムリが 大海に下って 夜光貝になるまでも
 我々の 命も 島と 共に あらしてください
 このようなお願いであります

 重要なのは、もともとの音だ。

 カーラヌ バタサヌ アブダーマ バニバムイ トゥブケ
 ヤドゥヌ サンヌ フダチメマ ウブトゥウリ サバナルケ
 ムリムリヌ ヤマメーマ ウブトゥウリ カミナルケ
 ブシキヌ シタラヌ キゾガマ ビーニニウリ ギラナルケ
 ヤーヌ マールヌ ボナチェーマ ウブトゥウリ ザノナルケ
 グシクヌ ミイヌ キザメーマ ウブトゥウリ ヤクナルケ
 バカケラヌ イヌテ シマトゥ トゥミ アラショリ
 カシユゥ ンザリ

 『八重山古謡』のユングトゥと異なるのは、キシノウエトカゲが、なんとジュゴンになることだ。もうひとつは、カタツムリがヤコウガイになる詞が付加されている。

 キシノウエトカゲがジュゴンになる。「ボナチェーマ」が「ザノ」。ぼくたちは音韻の変化について、法則的なものを仮説していrから、それに従うと、「ボナ」→「ザノ」はありうる。

 ありうると仮定すると、なぜキシノウエトカゲがジュゴン、なのだろうか。

 ・両者とも、貝と蛇の精霊の化身態である。
 ・砂地を這う(這うように泳ぐ)

 しかし、前者はトーテムであり、後者は胞衣魚だ。これ以上は、いまのところ進めない。

 カタツムリがヤコウガイというのは分かる気がする。「キザ」が「ヤク」になるのもありえる。

 石垣に詰めるカツムリ。おそらくヤコウガイは、サンゴの石垣に詰めているように見えるのだ。殻の様子も似てないこともない。

 直観だけれど、これは『八重山古謡』の詞よりも新しいのではないだろうか。

 子蛙が、翅をはやして化身するのは「蝶」だと、ぼくたちは仮説している。そして、「アブダーマ」は、音韻からも「ハビラ」になりうる。でき過ぎで戸惑ってしまう。

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