2017/11/23

「南海の竜」(後藤明『「物言う魚」たち』

 ニュージーランドには大型のトカゲが実際に生息していた。メラネシア方面から伝わった鰐の伝承はトカゲのイメージに重なり、竜の観念ができあがったのだろうと、後藤は書いている。

 マニニが航海をして見知らぬ土地にたどりつく。老婆と娘が人食い竜に苦しんでいる。土地の人は火を知らず、生のものしか食べたことがなかった。竜を倒したら娘をもらえる約束をし、穴に隠れながら、マニニは竜の腕や指を切り取り、とうとう竜は死ぬ。その腹を割くと、たくさんの死骸が出てきた。

 マニニは娘を得て妊娠するが、土地の女たちは腹を割いて出産させるという。マニニは止めるが、いないあいだに腹を割いて出産し、娘は死んでしまう。

 新しい生命が生まれるたびに母親が死ぬ運命にあったという状態は、脱皮型神話に出てくる永遠の命をもつ状態の対局である。しかし両者とも、異常な生命の状態を表す点では共通する。それは無秩序な社会ということだ。子供が生まれるかわりに母親が死ぬのなら、家族というものは成り立たない。逆に誰も死なず、老いることがなかったなら、(中略)近親相姦の危険も起こりやすくなる。また祖先を敬うなどという観念は生まれず、人口も増えすぎ、支離滅裂な世の中になるだろう。(後藤明『「物言う魚」たち』)

 このような神話に、竜蛇が登場するのは、「創生以前の未分化な状態を象徴するかたであろう」と、後藤は書いている。

 出産の方法を知らず、子を産むと母が死ぬのは、出産が脱皮とみなされているということだ。つまり、不死の段階の思考である。トカゲは死をもたらす。だから、トカゲ(竜)の腹のなかからは、財宝ではなく死骸が出てくるのだ。

 
『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

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2017/11/22

「オキナワトカゲの系統地理学および集団遺伝学」(栗田和紀)

 南琉球のトカゲ・トーテムがキシノウエ・トカゲなら、北琉球では、オキナワトカゲではないか。という当たりをつけてみる。

オキナワトカゲは琉球列島に固有で,島嶼に生息するトカゲであり,沖縄諸島のほとんどの島と奄美諸島とトカラ列島の一部の島に分布している.本種の特徴は,とても小さな島にまで生息していることが挙げられ,植生に覆われた実質的な生息面積がわずかサッカーコートの半分しかないようなコマカ島(0.02 km2)やエージナ島(0.01 km2)でも生息が確認されている。(「オキナワトカゲの系統地理学および集団遺伝学」(栗田和紀、2014) )

 DNAの分析は、このトカゲが島の形成時から生息してることを明らかにしている。

多くの島のオキナワトカゲ集団は現在の島々が形成されて以降,孤立した集団として維持されてきたと思われる.琉球列島は大規模な津波や台風に時折襲われてきており,小さな島のトカゲ集団でさえ長期間存続してきたのは驚くべきことである。

 琉球弧で普遍的な存在であるということは、トーテムを満たす条件ではありうると思う。遊動する島人がどこへ行っても出会うわけだから。

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2017/11/21

トーテム編年

 貝塚時代の「前1期」「後1期」などという呼称の「前」「後」は、もともと本土の「縄文」「弥生以降」への対応をつけるためにつけたものだ。だから、内在的に見たら、何の前で何の後か、分からない。

 しかも、「物質文化」は別だとして、南琉球は、「下田原期」「無土器期」と呼ばれている。かつ、編年は定まっていない。

 これではとても障害が大きい。島でサンゴ礁環境が形成された時間を共有している二地域として、共通の眼差しを持てるようにしたい。そもそも現在の、まったく別の扱いはとても不思議にも見える。

 ふつうの人にも身近に感じられるとしたら、トーテム編年はどうだろう。トーテムにした身近な動植物で、編年を組むのだ。 

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 そうすると、北琉球と南琉球で、蛇、トカゲ、貝、蟹、ヤドカリという大きくは5つの段階で語ることができる(はずだ)。

 サンゴ礁形成期の琉球弧は、

 蛇期
 トカゲ期
 貝期
 蟹期
 ヤドカリ期

 琉球弧っぽくいえば、

 蛇世
 トカゲ世
 貝世
 蟹世
 ヤドカリ世

 この呼称で、両者の差異を表すこともできるかもしれない。

 蛇世:ハブ世
 トカゲ世:北琉球?、南琉球・バギラ世(石垣島)
 貝世:ギラ世
 蟹世:カン世
 ヤドカリ世:アマン世

 両者で明らかに異なると思えるのは、南琉球のキシノウエトカゲに対して、北琉球のトカゲの主は何かということだ。


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2017/11/20

「鹿児島県大島郡伊仙町面縄 面縄貝塚総括報告書」

 面縄貝塚でも、前3期にフォーカスしてみる。

洞穴内Ⅶ層からは貝塚時代前3期の面縄前庭式土器と鎌状に加工された刻画貝製品が出土し、少なからず人骨片の出土も見られたため、Ⅶ層中には埋葬跡が包蔵されている可能性がある。

 前3期を含む第4貝塚で、優勢なのは、イソハマグリ、シラナミ類、パイプウニ、チョウセンサザエだ。

少なくとも魚類については貝塚時代前3期~後2期を通じて類似の様相が継続していた可能性が強い。すなわち、ハタ科、フエフキダイ科、ブダイ科、ニザダイ科、ベラ科、アイゴ属、ウツボ科などのサンゴ礁域やその周辺に生息する種類が圧倒的多数を占めており、また組成の多様性が強く突出した優占種がない。こうした特徴は、トマチン遺跡をはじめ、奄美諸島の貝塚時代の特徴と合致しており、ブダイ科またはフエフキダイ科・ベラ科など、特定の種類が卓越する沖縄諸島とは傾向が明確に異なる。このことは、奄美諸島南部において、貝塚時代前3期~後2期を通じて沖縄諸島とは異なった漁労文化圏が継続していた可能性を強く示すものといえる。

 このことは、沖縄に比して奄美は、トーテム系譜の魚の優先度が低かったか、多様に捉えていたということになるだろうか。

貝塚時代前2期はサンゴ礁岸側潮間帯の貝類が多く、淡水産貝類も一定量占め、貝塚時代前3期から4期にかけて徐々にイノー内の貝類の比重が高まる傾向が捉えられた。また、イノーにおける大形種と干瀬、礁斜面の貝類の積極的獲得が沖縄諸島よりも古い貝塚時代前4期に遡り、こうした状況が貝塚時代後1期まで継続することは本遺跡の大きな特徴で、こうした推移を明らかにできたのは大きな成果であったと言える。

 「イノーにおける大形種と干瀬、礁斜面の貝類の積極的獲得が沖縄諸島よりも古い貝塚時代前4期に遡」るのは、サンゴ礁=貝の思考がはやいことを意味するように思える。これはイノーの規模の差を反映しているのではないだろうか。

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 前3期の貝塚は、洞穴部を軸に展開されている。

 前3期から離れるが、貝について。

貝塚時代後2期においては、以前の時代と大きく異なりリュウキュウヒバリ、ミドリアオリが優占する状況が確認された。このような傾向は同時代の奄美大島や沖縄諸島の遺跡でも認められている。

 リュウキュウヒバリ、ミドリアオリは、潮間帯下部の岩礁や岩礫にいる。「岩」は「蟹」の化身体だから、これはつまり、ヤドカリ「貝」ということではないだろうか。

 リュウキュウヒバリは、「ペンガントゥレー節」でも歌われている(参照:「南島歌謡に謡われたサンゴ礁の地形と海洋生物」(渡久地健)」


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2017/11/19

「沖縄県伊是名村 具志川島遺跡群発掘調査概要報告書」

 具志川島遺跡では、前3期のものとして、「重層的な炉跡・焼石遺構・サザエの蓋集中遺構・貝塚」が確認されている。

 多数の炉跡や焼石遺構・サザエの蓋集中遺構。

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 この岩陰は、「短期的に繰り返し利用されていた」。「このような状況は隣の岩立遺跡でも確認されており、複数の集団が同時に利用したのか、同じ集団が時期を変えて利用したのか、両者の関係についてはさらなる検討が必要である」。

前Ⅲ期は面縄前庭様式に代表され、島北側の4箇所で確認されている。この内、岩立遺跡と岩立遺跡西区では岩陰から煮炊きをおこなったと考えられる炉跡や石蒸料理を行ったと考えられる焼石遺構、チョウセンサザエの蓋集中遺構、小規模な貝塚等が確認されており、岩陰で生活を行っていたことが明確である。チョウセンサザエの蓋のみが集められた遺構は例がなく、類似したものとしては、渡嘉敷島の阿波連浦貝塚で確認されたヤコウガイの蓋集積遺構のみである。

 前3期以降は「定着期」と呼ばれているが、前3期に相当するところで、岩陰は「短期的な利用」であるということだ。「岩陰」という立地は、「貝」に住むことを意味したと思える。


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2017/11/18

長墓遺跡の他界

 宮古島の長墓遺跡の雰囲気はここでなんとなく分かる。(参照:「3a. 恐怖!謎の白骨洞穴発見!!宮古島の密林に古代人の墓は実在した!!」)。

 マーク・ハドソンによると、ここから「人骨」も出土している。年代は、Cal BP年代で、3350-3175 のものがある。この段階では、他界が発生していても不思議ではない。まだ、未出土のものもあるはずだ(「先島諸島における先史時代のヒトと生態史-宮古島長墓遺跡を中心に」)。

 他界発生以降、長墓の島人がみた「あの世」は大神島ということになる。

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『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』

 


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2017/11/17

「放射性炭素年代から見た琉球列島における考古学的時期区分の現状と課題」(名島弥生)

 手づくりしなくても、良質な論考があった「放射性炭素年代から見た琉球列島における考古学的時期区分の現状と課題」(名島弥生)。

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 やはり無土器期は、宮古から八重山への流れを見ることができる。

 この段階の宮古の遺跡は、「海岸砂丘に立地するのが一般的であるのに対し、本遺跡は丘陵上に位置しており、極めて異例である」と、名島は書いている。

 この遺跡は、長墓遺跡のことだ。

 この立地は、北琉球において、前3期の貝塚が、台地上や崖下に位置するのと同位相だと思える。つまり、サンゴ礁=貝の意味を持つ前段の、「貝」トーテムの位相にあると思える。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究研究論文集 第1集 琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化』


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2017/11/16

キシノウエトカゲと土器

 山極海嗣は、下田原貝塚の土器について、書いている。(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

下田原式土器における装飾や紋様は台湾や沖縄諸島に比べると施文面積は僅かで、有紋の個体自体が少ない。更に、器表面の痕跡から見て煮沸用途に繰り返し利用されたとは考え難い。現時点の出土資料からは、下田原式土器の明確な使用用途は判然としないが、少なくとも交易交換材や威信材、煮炊きの為の調理器具としての機能や、副葬品としての用途は読み取れない。

 下田原貝塚の土器は、ふつうぼくたちが考えるような"土器"ではなかったわけだ。

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(「古我地原貝塚・下田原貝塚出土品展」)

 ぼくにはこれはキシノウエトカゲに見える。というより、当時の島人は、トーテム像としてこれを造形しているのではないだろうか。このページの画像をみると、どういうシーンを捉えているか、分かると思う(参照:「沖縄こどもの国公式ブログ」)。

 台湾などの似た土器を見る機会のあった島人は、トーテムであるキシノウエトカゲに似ていると思う。これは、バカギサだ、と。そこで、一種のトーテムセンターである名蔵湾沿いの土を使った、トーテム像を拵えたのではないだろうか。

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2017/11/15

先島の螺旋運動 4

 先島の螺旋運動について、別の表現の仕方をしてみる。

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 トーテムの動きとしてみれば、「トカゲ」は、「貝」になり、戻って「蟹」になったのだ。

 北琉球でも、トーテムの追加による居住域の変化は起きている。南琉球で、それは島間で起こった。ただ、北と異なるのは、その間、南では遊動が続いたということだ。


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2017/11/14

無土器期の貝塚分布例

 雑だが、勘所をつかむためにグラフにしてみる(『石垣島市史考古ビジュアル版』のデータから作成)。

 数値は放射性炭素年代から得られたもの。各貝塚のうち、値の古いものを取り上げている。


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 こうみると、多良間・宮古に始まり、石垣、西表に分布が移っているのが分かる。


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2017/11/13

「石垣島で観察された鳥類2種とヘビ類1種によるキシノウエトカゲ(有鱗目:トカゲ科)の捕食」

 キシノウエトカゲは、宮古、八重山の固有種。

本種は平地の比較的開けた環境に多く生息し、海岸近くの砂地、二次林から耕作地、または集落周辺の石垣や草むらなど、1980年代の初めの頃までは、概してごく普通に見られるトカゲと認識されてきた。(「石垣島で観察された鳥類2種とヘビ類1種によるキシノウエトカゲ(有鱗目:トカゲ科)の捕食」木寺法子、下瀬環、新盛基史、「沖縄生物学会誌」2016.3)。

 ここのところ、生息域をもう少し詳しくいりたい。とくに赤土層との相性。

 この論考では、サキシママダラ、ムラサキサギ、カンムリワシによる捕食が観察されている。蛇はトカゲを捕食する。

 「キシノウエトカゲは俊敏かつ力の強いトカゲ」。「冬季の活動性が春季-秋季のそれよりも低いものの、冬季でも天気の良い日には活動しているものと見られる」。

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2017/11/12

北琉球のトーテムの時間

 こんどは北琉球の編年から、各トーテムの時間を見てみる。

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 前1期:1000年
 これ以前もあると想定すれば、「蛇」の時代は1000年以上。

 前2期:1500年
 ぼくたちは、「トカゲ」を「不死の綻び」という以上に掘り下げられていない。あるいは、人間が手と脚を意識化した段階だとはいえる。不死の綻びの1500年とみなすと憂鬱な感じがしてくるので、後者の理解を採るのがいいのかもしれない。

 前3期:1000年
 「貝」の段階。死を受容し、他界は未発生。死者との共存は長かったということだ。

 前4期:500年
 引き続き「貝」の段階。ただし、他界、霊魂の発生と画期が集中する。

 前5期:500年
 ここでも、大きくみれば「貝」の段階。ただし、サンゴ礁=貝という同定が生まれる。地母神的な考えもここで生まれた。貝の時代は2000年、続いたことになる。

 後1期:1200年
 「蟹」の段階。1200年も長い。母系社会の持続性。

 後2期:300年
 「アマン」の段階。300年。これは、「アマン」が短かったということではなく、性交と出産の認識を得ることは先史時代の終わりの幕開けであることを示唆するように思える。


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2017/11/11

北琉球と南琉球の照応 4

 先島で得られた編年に北琉球の編年と画期を対応させてみる。

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 こうしてみると、トーテム変化の時間差は1000年を越えないように見える。違いといえば、前3期には定着に入った北琉球に対して、南ではそれがみられないということだ。あるいは、南琉球では、宮古、八重山の範囲に定着したという言い方になる。

 南琉球での遊動は、死者の発生を含むと想定することができるが、ここにトーテムの変化も加えることができる。トーテムの変化によっても島人は居住域を変えた。ここからは、それを島間でも行っているのが南琉球だと想定することができる。

 そう考えれば、下田原期の波照間島、多良間島、与那国島の遺跡には、貝トーテムの段階のものが含まれる可能性があることになる。

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2017/11/10

「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明」(山極海嗣) 7

 山極海嗣は、トゥグル浜遺跡を媒介に考えている(「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」山極海嗣、2016.03)。

下田原期は、少なくとも BP3,600 年以降まで継続した可能性が高い。

 この時期、石器・貝製品・イノシシ骨牙製品にそれまでの遺跡には見られない特異な器種が確認できる。これらと非常に類似しているのが、与那国島のトゥグル浜遺跡だ。トゥグル浜遺跡は土器が一切出土していないが、人工遺物の属性は下田原貝塚と類似している点が多いことが指摘されている。無土器期の遺跡と比較すると、八重山列島の無土器期遺跡の属性とは異なる点が多く、反対に宮古島の浦底遺跡と共通する属性が見られる。

 トゥグル浜遺跡では遺物包含層から出土した貝類から下田原期よりも古い年代が示されているが、貝類は海水のリザーバー効果1や、資料となる貝類自体が土中に埋没する時点で化石化している可能性など、土層本来の年代よりも古い値を示している可能性が高い。リザーバー効果の年代的な誤差も踏まえて考えると、トゥグル浜遺跡は下田原期から無土器期の最初期までに属する可能性を有している。

 安里嗣淳は、トゥグル浜遺跡を下田原期と無土器期の繋ぐ架け橋のような存在と位置づけているが、トゥグル浜遺跡はまさに下田原期の新段階と、宮古島における無土器期の最初期の間に位置づけることができる。

 宮古島の浦底遺跡Ⅳ層や、アラフ遺跡Ⅳ層では、磨製刃を有する石斧や研磨面を有する変成岩石器が出土する。これは、無土器期の比較的古い段階で「宮古島以外の島の石材利用」と「変成岩を石斧に利用する」という資源利用が宮古島の人々にも認識されていたことを示している。

 浦底遺跡Ⅳ層で出土した石斧は扁平で平坦面を有し、基端は磨滅し、刃部は平面形が蛤刃、刃部断面形が弧状を呈する。同じⅣ層では石斧に共通するような胴部を研磨して平坦面を作り出し、基端が磨滅する貝斧が出土していることから、石斧と貝斧が無関係ではないと考えられる。

 また、多良間島の西高嶺遺跡で出土した火成岩も、比較的古い時期に宮古島の近くまで石材を運ぶ人の動きが存在したことを示している。そして、この様な石材を利用した道具製作は、アラフ遺跡の上層や長墓遺跡、友利元島遺跡のような比較的新しい段階では確認することができない。

 浦底遺跡では多量の貝斧と、研磨面を有した石皿の出土が他の遺跡に比べて目立っている。これは宮古島における無土器期の初期から、研磨して刃を付ける製品の製作が非常に重視されていたことを示すが、与那国島のトゥグル浜遺跡でも同様の状況を確認することができる。

 トゥグル浜遺跡では下田原期・無土器期を通じても最多の石斧が出土しており、磨面を有した石皿の出土も見られる。その反面、二つの遺跡ではサンゴ島という環境が類似しているものの資源利用が異なっている。浦底遺跡では、宮古島で獲得できる貝殻を主な道具材料として利用していたのに対し、トゥグル浜遺跡では与那国島では獲得できない緑色片岩を利用しており、二つの島の遺跡では環境に対する資源利用の戦略が異なっていたことが読み取れる。

 トゥグル浜遺跡は、下田原期の新階と無土器期の最初期の間に位置づけられる可能性が高い。しかし、無土器期の古い年代の遺跡は宮古島に位置していることから与那国島とは距離が離れており、同じサンゴ島環境でありながら資源利用の戦略が異なっている。このことから、トゥグル浜遺跡から宮古島の浦底遺跡へと単純に変遷するのではなく、むしろ無土器期の最初期に、宮古島と与那国島の両地域で無土器の遺跡が形成された可能性を考えることができる。

 山極の整理に対して、ここでようやく口をはさむことになるが、サンゴ島への適応により、土器を焼失したのではなく、トカゲに代わって貝がトーテムの主になったことで、自分たちを土に由来させる動機が消失したと考えることができる。

 山極の整理を引き続き、追ってみる。

 下田原期の波照間島や多良間島の遺跡では、敲石などの石器においてサンゴ島で獲得できる材料への材質置換が行われており、サンゴ島環境への技術適応が見られる。無土器期になると、トゥグル浜遺跡では斧状製品には石材を利用するものの敲打用途には貝類を用い、宮古島の遺跡では斧状製品自体をサンゴ島で獲得できる貝で製作するようになるなど、サンゴ島環境への技術適応を読み取ることができる。

 土器を利用しなくなることは、火山島地質の粘土への資源的依存度を必然的に低下させることにも繋がる。土器利用の消失はサンゴ島環境への進出と継続的な生活という点ではメリットでもあり、材質置換を行いながら活動域を拡大させていった先史時代の人々に有利に働く現象でったとも捉えることができる。

 無土器期の文化集団は下田原期の文化集団をベースとしつつ、サンゴ島環境を含む宮古・八重山諸島への技術的適応の一つとして土器を消失し、無土器期へ移行したと解釈する方が妥当性を有しているものと筆者(山極)は結論する。そして、土器を持たない文化として成立した無土器期の文化集団は、その後約 2000 年の時間の中で宮古島と八重山列島という地域差を形成し、11 世紀後半頃まで継続することとなる。

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2017/11/09

先島の螺旋運動 3

 先島の螺旋運動に編年を加えてみる。

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(山極海嗣「宮古・八重山諸島先史時代における文化形成の解明 遺跡属性と生態資源利用の地域間比較を通した文化形成の考察」、小林竜太、山口徹、 山野博哉「リモートセンシングによる石垣島サンゴ礁形成史の地域差推定 先史資源利用研究に向けて」)

 このなかに編年の定まらない与那国島のトゥグル浜遺跡は含まれていないと思われる。

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